名雪の笑顔は今でも俺と共にあった

 

 

 


もしも翼があったなら

−序章−

笑顔と共に

2000/10/07 久慈光樹

 

 

 

 秋子さんの事故から1ヶ月が経った。

 

「おはよう、香里」

「あら名雪、今日は早いのね」

「わたしだってたまには早起きくらいするよ」

「相沢君も大変ね」

「分かるか?」

「目に浮かぶようだわ」

「うー、もしかして二人ともヒドイこと言ってる?」

 

 一時は抜け殻のようだった名雪も、もういつも通りの名雪だ。

 名雪の笑顔は今でも俺と共にあった。

 

 事故から1ヶ月、秋子さんはまだ入院中だ。

 一時は命の危険すらあったが、事故による怪我はほぼ完治していた。

 ただ1箇所を除いて。

 

 いつもと変わらない日常を過ごす。

 それがどんなに幸せな事なのか、俺も名雪も、もう気付いていた。

 

 

「お母さん、調子はどう?」

「こんにちは秋子さん」

 

 今日も名雪と二人で学校帰り、秋子さんのお見舞いに行く。

 秋子さんの入院しているのはこの街でも一番大きな病院だ。

 施設もしっかりとした、さほど大きくないこの街にはいささか不釣合いとも思えるほどの総合病院。

 その302号室が秋子さんの病室だ。

 

「ちょうど良かったわ、これからリハビリの時間帯だから、あなた達も来る?」

「うん」

「はい」

 

 秋子さんは右足に後遺症が残った。

 医学的な事はよく分からないが、運動を司る神経がどうのとか言う話だった。

 体の傷がほぼ完治したにも関らず、未だ退院できないでいるのはこのリハビリの為だ。

 

「おっ、今日はお嬢ちゃんたちも一緒ですね」

「先生、今日もよろしくお願いします」

「先生は止めて下さいよ、まだ研修医なんですから」

 

 秋子さんの担当医の先生が、そのままリハビリも担当してくれている。

 確か、折原という名の医者だった。いや、本人の言う通りまだ研修医か。

 まだ若いが、なかなか面白い先生だった。

 

 リハビリは、見ているこっちの方が辛くなる。

 あの秋子さんが額に汗して歩行練習をしているのだから。

 

「今日はこの辺にしておきましょうか」

「はぁはぁ…… ありがとうございました」

「はい、また明日も頑張りましょう!」

 

 

「じゃあお母さん、明日もまたお見舞いにくるね」

「ええ、ありがとう名雪、それに祐一さんも」

「じゃあお大事に」

 

 俺と名雪はそのまま秋子さんの病室を後にした。

 

 

 帰り道、隣を歩く名雪の表情は冴えない。

 

「どうした名雪? なんか元気無いぞ」

「うん…… あのね、祐一……」

 

 言い淀む名雪。

 だが名雪の言いたい事は分かる。

 恐らくは俺の考えている事と同じだろうから。

 

 

 果たして秋子さんの右足は元に戻るのか?

 

 

 口に出して聞くのにはあまりにも重く、そして恐怖を伴う疑問。

 秋子さん本人には、医者から何らかの告知があったのかもしれない。だがリハビリを続けている秋子さんにそれを聞く事はできなかった。

 

「ううん、やっぱり何でもない」

「そうか……」

 

 結局無理に浮かべた笑顔で、その事を聞かない名雪。

 自分の無力さに歯噛みするのはこんなときだ。

 俺は自分一人で全てをしょいこもうとするほど責任感の強い人間ではないし、それほど傲慢でもない。

 だけど、名雪のあんな表情を見るのはもう嫌だった。秋子さんが事故に遭った時の、あのときの名雪の顔を見るのはもう嫌だった。

 ひょっとすると俺は自分が辛い思いをするのが嫌なだけかもしれない。

 でも、俺は名雪の側にいることを約束した。

 ずっと側にいて支えてやる事を誓った。

 だから俺は……

 

「どうしたの?」

 

 考え込んでしまった俺を不思議に思ったのだろう、名雪がやや心配そうな顔でそう聞いてきた。

 気持を切り替える。何でも無いような風で、俺はやや唐突に話題を変える。

 

「いや、何でも無いさ。ところで今日は晩御飯どうするんだ?」

「え? 今日もわたしが作るよ」

「今からか? 俺、腹へったんだけど。なあ、どこかで食ってこうぜ」

「だーめ、わたしが作るの」

「へいへい」

「祐一も手伝ってね♪」

「ぐぁ、やぶへびだったか」

「うふふふ」

「はははは」

 

 俺は。

 名雪の笑顔を見る事ができる今を大切にしようと思った。

 

 

「祐一、タマネギ刻んでくれない?」

「よっしゃ」

 

 トントントン

 

「ううっ、泣ける」

「あはははっ」

 

「おーい、名雪ぃー、この皿は何に使うんだぁー?」

「あ、それはサラダを盛るからそこに置いて」

「あいよーっと」

 

 ドン

 

「ダメだよ。もっと優しく置かないと割れちゃうよ」

「へいへい」

 

「祐一、ハンバーグ焼けたからお皿持ってきて」

「ほら」

「ありがと」

「大根おろし、持っていっておくぞ」

「お願い…… あっ!」

 

 べちゃ

 

「……」

「どうしたんだ? って、落としたな……」

「うー」

 

 

 秋子さんはいないけれど、名雪と二人でする夕飯の支度は楽しかった。

 なんか新婚さんみたいだな…… なんて恥ずかしい考えが脳裏をよぎる。

 

「どうしたの? 顔赤いよ?」

「な、何でも無い! 何でも無い!」

「?? へんなの」

「(危ない危ない)」

「うふふ、それにしてもさ、祐一」

「ん?」

「こうやって二人で夕飯の支度してると、なんか新婚さんみたいだね」

「! な、名雪、顔が赤いぞ」

「ゆ、祐一だって」

「……」

「……」

「さ、冷めないうちに食べようか」

「そ、そうだな」

 

「それにしても、祐一って和風ハンバーグ好きだよね」

「そうか?」

「そうだよ、先週も和風ハンバーグだったもん」

「まあいいじゃないか、名雪の作る和風ハンバーグ好きだぞ」

「ありがと。でも普通のハンバーグじゃダメなの?」

「ちっちっち、甘いな名雪。このしその葉と大根おろし、そして醤油の絶妙なハーモニーが……」

「祐一、口に物入れたまま喋ったらダメだよ」

「俺は小学生か!」

 

 お互いに軽口を言い合いながらの食事は楽しい。

 

 

 俺は今、幸せなんだろうか?

 そんな事をふと考える。

 

 多分幸せなんだろう。俺も、名雪も。

 秋子さんの足の事は心配だが、一時は命の危険すらあったのだ、それを考えれば今の状態は不幸中の幸いと言える。

 例え後遺症が残ったとしてもだ。

 

 俺は幸せなんだ。

 

 そう自覚するのは、悪い気分ではなかった。

 

 

 

 

<つづく>
 

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