――Santa Claus is coming to…――

〜聖なる夜の四つの物語〜

 

  もろびとこぞりて  

 

 鶴来屋新本館最上階――
 地上15階、眼下に隆山の海と街並みを一望する最高のロケーションを有するその場所は、隆山の経済を実質的に支配する鶴来屋グループの会長室である。

 今から約11年前、初代会長柏木耕平が当時の本館を旧館とし新本館を設立させたおり、本館上二階をグループのオフィス、最上階を会長室と定めて以来、そこは悲喜こもごも様々のドラマの舞台となってきた。
 そしてその部屋はまた、主の入れ替わりの激しい部屋としても有名である。
 地方経済の雄であった柏木耕平が本館落成後に死去して以来、わずか11年のあいだに三回もその部屋は新しい主を迎えてきた。しかもただ代替わりするだけならまだしも、二代目三代目と続けて会長(三代目柏木賢治は会長代理)が横死したためとなれば、口さがない者達の格好の噂のネタになるのも仕方のないことかも知れない。

 「相次ぐ会長急死 呪われた柏木家」
 「財産分与で確執か? ”事故死”発表に疑問急浮上」
 「深夜酩酊暴走……あまりに「出来過ぎた」死因」 

 ――去年の夏、三代目会長(代理)柏木賢治が突然の死を遂げた際、連日スポーツ誌や週刊誌を賑わせた記事は、しかしどれひとつとして真実を伝えてはいなかった。……たとえ真実を知ったとしても、彼らがそれを本当の意味で理解することなど決してなかったであろうけれども。
 真実を知る者は皆、口を固く閉ざしている。
 しかしそれは「言っても信じてもらえない」からと言う理由ではなく、現会長とその家族が長い長い苦しみと悲しみの果てに獲得した、現在の幸福の価値を知るゆえである。

 今日は12月24日。日本中が一晩だけ宗旨替えするこの聖なる夜。
 クリスマスはこの鶴来屋にもやってきて、四代目会長柏木千鶴を疲れ果てさせていた。

 

「あーーっもう疲れたわ……!!」

 クッションの効いた会長席に身を投げ出すように座り、大きなためいきをひとつ。
 着慣れないフォーマルドレスが息苦しくて、早く脱いでしまいたいなどと千鶴が考えていると、千鶴のコートをクローゼットに掛けてきた秘書の藤原志乃が苦笑気味に言った。

「会長。気持ちは分かりますけれど、もうちょっと威厳のある姿勢を」
「志乃さんしかいないからいいじゃないの……このドレス苦しいんですよ?」
「誰がいなくても、会長たる者毅然としてなければいけません。――それにそのドレス、春の叙勲式の時には余裕がおありだったようですけど?」
「……良く覚えてますね」

 隙のない志乃の言葉に千鶴は子供みたいに唇をとがらせ、上目遣いにちょっと恨めしそうに睨む。でもちっとも怖くなどなく、むしろ可愛いものである。
 当然志乃は平然とそれを受け流し、モバイルノートでスケジュールを確認しながら応えた。

「ええ、よく覚えてますよ。私が会長の下で働くようになって最初の大きなイベントでしたから」
「そうだったかしら。……そうね、新調したときに志乃さんに似合うか聞いたわね。でもなんだか不思議」
「なにがです?」
「志乃さんってもうずっと昔からいたような気がして。まだ一年になってないのねぇ」
「それは暗に態度がでかいとおっしゃってるんですか?」

 そう言うと、志乃は目を細めて小さく笑った。
 笑うと、化粧っけの少ない理性的な顔が意外なほど柔らかくなった。

 藤原志乃は今年の二月、会長専属の秘書として中途採用された。千鶴の3才年上の独身女性である。
 それまでは東京のさる企業でやはり重役秘書を勤めていたらしく、仕事は的確で迅速。事あるごとに千鶴に会長の心得を教えることまでしており、いまや千鶴の片腕とみなされている。もう片腕は言うまでもなく、社長である足立である。
 合気道三段、語学も堪能で、コンピュータも自分の手足のように使いこなすそんな有能ぶりを

「あれで色気さえあれば」

 完璧なのに、と遠回しな表現で賞賛される彼女だが、素材的には決して不美人ではない。むしろ下手な女優より美人だと千鶴などは思っている。しかしなにしろその男を寄せ付けない固いイメージと、物事に動じない沈着冷静な物腰、そして何より衣服やメイクなどの飾り気が極端に薄いため、男性社員には「女」として認識されていない節がある。
 志乃の方も現状を改善する姿勢を見せるどころか、自ら好んでそのイメージを作り出しているようで、千鶴などはお節介だとわかっていても、「もったいない」と思わずにはいられないのだった。
 あるいは、志乃の語りたがらない過去にその原因があるのかも知れない。千鶴はそう思いながら、なかなか聞き出せないまま今日に至っている。

 モバイルの小さなキーを器用に叩き、画面を呼び出した志乃が千鶴に言った。

「……次の外出まで一時間ほどありますから、お召し替えなさいますか?」
「ありがたいわ――次は何だったかしら?」
「10時半より料亭「松風」で会食です。10時には迎えの車が参ります」

 淀みなく答える志乃。千鶴はその会食とやらに現れるであろう面々を思いだしてうんざりした。

「それって確か若手議員で作るなんとか研究会の慰労会よね? ああもう、家に帰りたい……」
「なんとかではなく、地域産業振興開発研究会です。会長は現業者からの相談役として参加されてます」
「一度も相談なんかされたこと無いのにどうして出席しないといけないのかしら」
「ご帰宅はその会食の終了後になります。――私もお供しますわ」

 千鶴のぼやきに直接答えず、モバイルを終了させながら志乃が言った。
 政治の世界で若手といえば、30代後半から40代の議員の事を指す。市議会や有力な基盤を持つ二代目議員などを探せば二十代の議員もいないこともないが、ごく少数であり発言力は極めて弱い。
 そんなオジサンたちの中にうら若き美人経営者が一人。
 会食とやらがどんな展開を見せるか、嫌な想像ばかりが生々しく膨らんで行く。

「はあ……世間じゃイブだっていうのに、私こんなとこで何をしてるのかしら」

 志乃に着替えの手伝いをして貰いながら、ためいき混じりに千鶴は言った。
 背中のファスナーを降ろし細い肩を露わにする。袖から腕を抜き大きく深呼吸をした。ようやく圧迫から解放された体がしなやかに反り、新鮮な空気を全身で吸収する。
 暖房の効いたこの部屋では体が冷えてしまうこともないが、下着一枚ではだれが来るかわからない。
 志乃の差し出した締め付けの少ないスーツを受け取り身に着ける。

「先ほどご出席のパーティはりっぱにクリスマスの行事でしたが」

 千鶴のぼやきに答えて志乃が言ったのは、ついさっきまでこのドレスを着て出席していた隆山ロータリークラブのクリスマス会の事である。地元経済界のトップ企業の会長とはいえ新顔の千鶴は、会場が鶴来屋のコンベンションホールだったと言うこともあり参加を余儀なくされていたのだ。
 こちらは次の会食よりもさらに参加者の平均年齢が上で、千鶴から見ればもはや百鬼夜行の世界である。
 たかだか一時間半のパーティのあいだに持ちかけられた縁談は、直接間接あわせて両手の指を越える。

「志乃さん、わかってるんでしょう? 私が言ってるのはあんなお爺さんたちと過ごすイブじゃなくて――」
「耕一さんと……ですか?」

 千鶴の本心を見抜いたように志乃が言い挟む。
 口をぱくぱくとさせる千鶴と一瞬目を合わせた志乃が、片頬でいたずらそうに笑った。

「……志乃さんっ。もう……」
「耕一さん、帰って見えてるんでしょ?」
「――どうしてあなたがそれを知ってるのかしら」

 怒ったふりをして千鶴が言うと、今度こそ志乃は小さく吹き出して笑った。

「ご自分でおっしゃったんですよ、会長。昨日の夜耕一さんが帰ってきたって」
「……言ったかしら。覚えてないわ」
「確かにおっしゃいました。それに昨日の帰りも今朝も昼も――お気付きでは無かったかも知れませんが、そのお名前をつぶやいておいででした」
「…………」

 覚えていなかった。無意識につぶやいていたに違いない。
 千鶴は赤くなった頬を隠すようにうつむいた。

 無意識に唇からこぼれ出ていた名前。
 それはまるで、心という器に日常や仕事といったいろんな事象を流し込んで作ったカクテルの上澄み――濁りも曇りもない、一番純粋な想いそのものなのだろう。

 耕一の事を想うと、千鶴は心が温かくなる。どこまでも広く、そして優しくなれるような気がする。
 鶴来屋の仕事も最近はやりがいを感じるようになったとはいえ、辛いことも多々ある。時には泣きたくなることだってある。しかし、そんなときに耕一のことを思い出すと、千鶴は涙を堪え困難に立ち向かう勇気が湧くのだった。
 耕一さんに、情けない姿を見せたくない。――その想いが、彼女を強くするのだった。
 だから普段は、仕事で一緒にいられなくても千鶴は頑張っている。

 ――でも、今夜は……。

「……会長」

 すっと身を翻し、隆山の街を見渡す大きな窓に歩み寄る。
 呼びかける志乃の声に千鶴は振り向かなかった。
 宵闇の向こうの空は薄く曇り、背後の月に照らされて雲自体が発光しているような、そんな不思議な眺めだった。
 子供のように手をついて覗き込んだ窓の外は、水晶のように澄んだ夜気の奥に街の灯をきらめかせている。

 今夜この街で、一体どれだけの家族が団欒のひとときを過ごすのだろう。
 今夜この街で、一体どれだけの恋人達が寄り添い愛を語り合うのだろう。

 千鶴は、今の自分を不幸だとは思わない。
 耕一が生きていて元気で笑っている。そのことだけで、不安におびえて暮らしたあの頃に比べれば遙かに、比較にならないほど自分たちは幸せだと、千鶴は本気でそう思っている。

 ――でも、今夜は……。
 千鶴はこぼれ落ちてしまいそうな想いをせき止めるかのように、小さく唇を噛んだ。
 言葉にしたら、きっとたまらなくなってしまうから。

   ”耕一さんの側に居たい……”

 窓に薄く映った自分の顔は、まるで泣いているように見えた。きらきらと無数の涙が流れている――。
 しかし、涙に見えたのは、遠くに揺れる小さな街の光だった。
(会長たるもの、涙を見せてはいけない――よね、志乃さん)

 窓に向かい、唇を引いて無理矢理に微笑もうとする千鶴の姿を、志乃は複雑な表情で見つめていた。

 とんとん

 ノックの音がした。
 振り向いたその先で一足先にドアに向かった志乃が、入ってきた初老の男性に腰を折って挨拶をしている。

「やあ、ちーちゃん。頑張ってるね」

 足立だった。
 初代会長とともにこの鶴来屋を発展させ、厚い人望と揺るぎ無い実績で今も鶴来屋をしっかりと支え続けているグループの大黒柱である。
 もうずいぶんの年齢のはずだが、眼光も物腰もまったく衰えをうかがわせない。
 会長の相次ぐ変死というスキャンダルを乗り切り、今も鶴来屋が柏木家の手を離れず隆山のトップ企業であり続けているのは、一見好々爺然としたこの男の経営手腕の老獪さを、疑いの余地無く証明する事実である。

「足立さん……」
「たいした用じゃないんだ、ちょっとちーちゃんの顔を見にね――あ、お茶はいいよ。すぐ帰るから」

 後半は志乃に向けた言葉だった。
 失礼します、と頭を下げて退出する志乃を見送り、足立はいまだ窓際にいる千鶴に呼びかけた。

「街を見てたのかい? ――まあ、立ち話もなんだ。ここに座ろうよ」

 足立は応接用のソファにゆっくりと腰を下ろした。
 千鶴は向かいに腰を下ろしながら、

「足立さん、別館の方はどんな風でした?」

 と尋ねた。
 別館とは鶴来屋別館の略で、中規模までの宴会、式典、パーティを廉価で催せるため、この時期は予約で一杯である。しかし全体としては経常利益が減少しているため、足立が役所での会議からの帰りに視察に寄って帰ることを千鶴は本人から聞いていた。

「いやあ、さすがに今日は一杯だったよ。玄関前のイベントも大好評だった」
「そうですか! ありがとうございます」

 千鶴の顔がぱっと輝いた。そのアイデアは千鶴の発案によるものだったからだ。
 鶴来屋別館前にある大きな一本杉をもみの木に見立て、光の神木さながらにイルミネーションでドレスアップさせる。あたりの照明を強くし、クリスマスメロディを絶え間なく流すなどして特別な雰囲気を醸し出す。一方でゴミ箱を増設したりトイレの場所を表示したり、ベンチや広場の清掃を徹底させるなど、現実的な面でもサービスの充実と
向上を図っていた。それを広告やCMで宣伝周知し、実際にイブの数日前から実施していた。

 千鶴の狙いは「鶴来屋別館前」を、待ち合わせの新しいブランドにすることだった。
 今日だけのスペシャルサービスとして、サンタクロースの格好をした従業員が、先に来て一人で待っている人に
紙コップの熱くて甘いコーヒーをプレゼントしている。紙コップにはさりげなく別館の広告を刷り込んでおき、玄関前の企画と連動して別館一階の喫茶店やレストランにも、クリスマスの特別セットを用意させた。
 「すぐに売り上げの向上に結びつくとは思いません」 千鶴は企画会議の席上でそう言った。
 しかし、友達や恋人との待ち合わせ場所として別館前が有名になり人が集まるようになれば、それは百万の広告に優るのである。 「知名度の向上、そして鶴来屋ファンの掘り起こし」 を狙った千鶴の案は、実験的に試行され、そしてどうやら今夜の所は成功したようである。

「あの企画は、わたしたち老いぼれがいくら考えても出てこないものだよ。ちーちゃんのその若い感性が、別館を蘇らせるかも知れないね。――そうなったら私も隠居するかな、ははは」
「そんな……足立さんのサポートがなかったら、実現できたかも怪しい企画でした。まだまだ、お元気でいて貰わないと」
「ありがとう、ちーちゃん。まあ、耕一くんが一人前になるまでは私も老け込んではいられないな」

 足立はそう言うと、快活に笑った。
 千鶴も一緒に微笑みながら、足立の口から出た「耕一」の名に心が揺れた。

 耕一さんは、どうするつもりなんだろう。
 鶴来屋に来てくれるんだろうか。それとも……
 気になりながらも、言葉にしては確かめられずにいた事だった。

「ちーちゃん、どうしたの」
「えっ……いえ、ちょっと考え事を」

 いつの間にか物思いに沈んでいたらしい。
 千鶴は気分を入れ替えようと小さく背伸びをして、首の関節を回した。
 こきり、と凝った音がして、目があった足立に苦笑され千鶴は頬を染めた。

「だいぶお疲れのようだね」
「いえあのその……」
「ちーちゃん、ちゃんと休んでるかい? 健康管理も仕事のうちだよ」
「夜はしっかり眠るようにはしているんですが……仕事が溜まらないように全部片づけていると、どうしても帰宅が遅くなってしまいます。志乃さんや妹たちにも迷惑を掛けっぱなしで……」

 千鶴はすこし落ち込んだ表情でためいきをついた。

「……実際、自分のいたらなさを痛感しています」
「ちーちゃんはよくやってると思うけどね」
「でも……」

 足立の言葉に、小さく首を振る千鶴だった。

「……今この立場になってようやくわかります。叔父様がどんなに凄い方だったか。私は……とても……」
「賢治君かい? どうしてそう思うのかな」

 急に出てきた前会長の名を意外に思い、足立は千鶴に話を促した。
 千鶴は、すぐに答えなかった。
 静かに首を巡らし、肩越しに大きな窓から聖夜の夜空を見やった。
 その視線を追うように足立が夜の窓に目をやったとき、小さな声で千鶴が話しだした。
 穏やかで、懐かしむような、抑えられた声だった。

「叔父様は、毎年わたしたちと一緒にクリスマスを祝って下さいました」

 千鶴にとって、それは神聖な思い出である。
 両親を一時に亡くし、突然幼い妹たちと世間に放り出された千鶴達にとって、賢治の存在は「優しい叔父様」以上のものである。それは時に父であり、兄であり、そして憧れの人であった。
 千鶴たち柏木四姉妹の男性観は賢治の姿をもとに形作られている。
 常に自分の愛する者の幸せを願い、そのためならば自己を犠牲にする事を微塵も厭わない、大きな、包み込むような愛。――柏木の血の秘密を姉妹の中で唯一人知っていた千鶴にとって、賢治の姿はいかなる聖人のそれよりも崇高で神聖なものである。

「子供だったときは、わからなかった。体のことは知ってましたからそれだけは心配でしたけれど、叔父様はいつでも元気で明るくて……、あるいは、いえ、きっとわたしたちの前では弱い姿を見せなかったのでしょうね」

 その気持ちは、今の千鶴にはよく理解できた。
 護るべき者がいる。愛する者がいる。そのことが人をどれほど強くするのか、千鶴は身をもって学んでいる。

「でも、私が今かなわないと思うのは、企業人としての叔父様です。おととしの業務記録を見てみたんです。驚きました。叔父様はおととし――つまり亡くなる前の最後のこの時期に、膨大な量の仕事をしておられます」

 千鶴が記録を見たのは偶然ではない。
 あまりの多忙さに驚いた千鶴がわざわざ志乃に頼んで調べて貰ったのである。

「おととしの12月一ヶ月だけを見てみても、一つの海外出張を含め七つの出張に無数の会議、グループすべての営業所の視察、監査。隆山湯の町再生計画を初めとする多くのプロジェクトの指揮を執り、翌年一月の参院選のための準備もされています。……私なら眠る暇も無いほどに働いて、それでもやり遂げることなど出来そうにない量と質です。それなのに叔父様は、心と体にあれほどのハンデを抱えながら全てをやり遂げ――」

 千鶴は小さく言葉を切った。
 手のひらを見つめ小さく笑んだ顔は、なぜか悲しそうに見えた。

「――なのに、クリスマスの日にはプレゼントを抱えて帰ってきてくれました」

 千鶴は今も忘れることが出来ない。おそらく妹たちもそうだろうと千鶴は思う。
 あれはもうずいぶん昔。賢治が隆山にやってきて二度目のクリスマスの時のことだった。
 みんなを驚かせようと思ったのか、サンタクロースの格好をして門をくぐろうとした賢治をパトロール中の警官が呼び止め、職務質問したのだ。
 古くからいる警官なら賢治を顔を知らないことは無かったが、あいにくその巡査は使命に燃える新人であった。
 この家の人間だといくら説明しても、とにかく交番まで来いと言い張る巡査に賢治が困り果てていたとき、帰りの遅い賢治を心配して様子を見に表に出た初音がそれを発見した。
 ――千鶴は、まるで昨日のことのように思い出すことができる。
 初音が家に慌てて戻ってきて「叔父ちゃんが捕まった!」と叫んだときの様子。
 雪が降っていたのに、みんな上を着ることも忘れて走り出て、賢治の所に行ったこと。
 大好きなおじちゃんを連れて行かせまいと、小さい両手を精一杯広げて警官の前に立ちはだかった初音の姿。
 賢治の腰にしがみついて、なかなか承知しない警官をきっと睨み付けていた楓のまなざし。
 交番に電話して顔なじみの交番長にきてもらおうかと千鶴が言ったので、ようやく引き上げた警官の後ろ姿に、力一杯握った雪玉を投げつけ、威勢良くあかんべーをした梓の仕草。
 安堵した途端襲ってきた寒さに小さく身震いした千鶴の肩に、そっと掛けられた赤いサンタの上着のぬくもり。
 振り仰いだ賢治の顔の、大きくて暖かい笑顔。そして周りに聞こえるんじゃないかと恥ずかしくなるくらいに大きな声で賢治が言った 「メリークリスマス!」 

 忘れることなど、できようはずがない。
 賢治と共に過ごしたクリスマスの思い出は、心の一番大事な部分に焼き付いている。
 思い出す度に、胸の奥が熱く、そしてかすかに痛くなる。
 賢治が亡くなった今。そして、賢治と同じ立場に立った今。
 千鶴は、柏木賢治という男の偉大さに、改めて気が付くのだった。

「それにひきかえ、私は……」
「………」

 足立は、千鶴の話を黙って聞いていた。
 その視線は、まるで出来の良い孫娘を見ているときのように穏やかな慈愛に満ちていた。
 生まれたときから知っているこの少女が、痛みを知り、悲しみを知り、生涯癒えぬほどの痕を背負うのを足立は目の当たりにしてきた。柏木の人間ではない足立には、どうあがいても助けてやることの出来ぬこのもどかしさを、足立は命を賭してでも鶴来屋を護る事で紛らわしてきた。
 その少女が今、これほどに美しく成長し、賢治の愛の深さを想う優しい娘になってくれた……。
 家族のいない足立にとって、これほど嬉しいことはなかった。

 しかし、足立には千鶴に言うべき事があった。
 言うか言わざるか、足立は一瞬だけ迷った。しかし――足立は微笑みと共に口を開いた。
 自分と賢治を比較して自信を喪失しかけている千鶴には、格好のクリスマスプレゼントになるであろう、と……

「そうか、ちーちゃんは知らないんだね」
「え?」
「賢治君は……クリスマスの夜も仕事をしていたんだよ」

 足立の突然の言葉に、千鶴は一瞬言葉を失った。
 ぱちぱちっとまばたきをして、足立の顔を見つめ直す。
 しかし足立は、微笑んではいるが、冗談を言っているようには見えなかった。

「……驚いたかい」
「ええ……わけが分かりませんわ。だって叔父様は毎年……」
「そう、ちーちゃん達の所に帰って一緒にクリスマスをしていた。それも事実だよ」

 足立は、千鶴の混乱を楽しむように、曰くありげな話し方をした。
 千鶴はしばし考え、そして頭を振った。

「――お願いです、教えて下さい。一体どういうことなんですか?」
「おや、もうお手上げかい? その日が何の日か考えればすぐにわかると思うんだけどね」
「何の日って、クリスマスですよね。……ああん、もう足立さん意地悪しないで教えて下さい」

 千鶴は顔の前で両手をあわせて拝むそぶりをする。
 そのようすを満足そうにみつめた足立は、頷いて言った。

「クリスマスの日に、賢治君は君たちにプレゼントをあげたね。クリスマスの日にプレゼントをあげる人と言えば?」
「サンタクロース、ですか?」
「そう、賢治君はその日サンタクロースだったわけだ。――さて、ちーちゃん。少し考えてご覧。良い子にプレゼントを渡すために家の中に入ったサンタクロースは、それからどうする?」
「どうするって……あっ!」

 千鶴の両目が、理解と驚きに見開かれる。

「――家を、出ていきます」
「その通り。サンタクロースは次の家に行かなければならないね」

 足立はにっこりと笑った。
 またしても、我が子をみるような慈愛に満ちたあのまなざしで。

「――おととしは選挙や県ぐるみのプロジェクトなんかが重なって、例年になく忙しい年の瀬だった。でもそれでなくてもこの商売、年末年始はフル回転だ。賢治君は毎日遅くまで仕事をして、それでもなかなか終わらなかったものだよ。今年のちーちゃんがそうしてるように、会議、会食、接待、出張、そして膨大なデスクワーク……端で見ていてこちらが心配になるくらいに賢治君は働いていたよ。まるで――眠ることを恐れているかのようだった」

 足立の言葉に、千鶴ははっとする。
 賢治が異常なほどの仕事を詰め込んでいた理由が少し解った気がしたのだ。
 言った足立本人も、それを意識して口にしたらしい。足立は柏木家の複雑な事情を知る希少な存在である。
 思わず視線を合わせた千鶴に、足立は目で頷いた。

「それはともかくとして――それほどに忙しい賢治君だったけれども、クリスマスの夜だけはスケジュールを空けて
いた。何のためかは、言わなくてもわかるね? ……賢治君が君たちと暮らし始めたときから、その時間には何よりも優先されるスケジュールが入っていたんだ」
「………」
「しかし仕事は山のようにあり、賢治君が決済しない限り減ることはない。それで賢治君は……」

 足立は薄い瞼を細めて、昔話を語る老人のような声で言った。

「……君たちが寝静まった頃、家をこっそり出て仕事をしていたんだよ」

 

 ――ある夜、足立は賢治に意見したことがある。
 そこまでせずとも良いのではないか?
 プレゼントは翌日にでも渡せばよい。どうして今夜にこだわるのか?
 明らかにオーバーワークの賢治の健康を思っての、足立の言葉だった。
 しかし、賢治は頭を掻きながら足立に言った。

「あの子達の家族は、自分しかいないんです。柏木の宿命に翻弄される可哀想な姪たちに、せめてこんな日だけでも人並みの喜びを味わってもらいたい……わがままは、十分承知です」

 そう言って賢治は足立に頭を下げた。
 それから、小さくつぶやくように続けた。

「あんなに良い子達なのに、私が行かないとプレゼントももらえないんです。――そんなのは、不公平です」

 賢治は真剣だった。
 大の大人がクリスマスごときで、と笑う人もいるだろう。
 しかし、足立は賢治を笑うことは出来なかった。そんなことは、許されない事に思えた。
 賢治の固い決意を知り、ためいきをついた足立だったが、ふといたずら心で訊いてみた。
 もし、本物のサンタクロースと鉢合わせしたらどうする?
 その問いに、賢治はきっぱりと答えた。

「叩き出します」

 夜中に娘の部屋に断りもなく入る奴は、サンタだろうがなんだろうがただじゃおかない……賢治は顔の前で指を鳴らし、極めて真剣にそう答えた。
 笑い出した足立を賢治は不思議そうに見つめ、やがて一緒に笑い出した……

「――本当は、この話をちーちゃんに聞かせる気はなかった。賢治君に口止めされていたんだよ。自分たちのせいで……と、君たちが気に病むことのないようにね。だから、ちーちゃんもそう言う風に思わないで欲しい。賢治君は自分がそうしたかったからそうしたんだ。賢治君も言ってたよ。プレゼントをやるつもりで、実は自分の方がたくさんのものをもらっている気がする、と。――きっとそれは、君たちの笑顔や笑い声……賢治君の元気の源だったんだろうね」

 足立の言葉に、うつむいたまま千鶴は頷いた。
 その目に、今にもこぼれ落ちそうな大きな涙の粒が宿っているのを見た足立は、片手を伸ばして千鶴の頭を子
供のようになでた。

「――ちーちゃん、さっき言っていたね。自分は賢治君にかなわないと。忙しさに負けて、クリスマスに家に帰ることもできない自分はいたらないと、そう言ってたね。……でも、それは違うんだよ」

 ゆっくりと顔をあげた千鶴から名残を惜しむように手を引いた足立は、その手をテーブルの上で組んだ。

「賢治君は、誰よりも速く仕事ができたわけじゃない。ちーちゃんと一緒……いや、もしかするとちーちゃんの方が速いくらいだ。……賢治君はパソコンが苦手だったからね」

 足立がそう言うと、千鶴は小さく笑って頷いた。
 それを見て、足立はさらに言葉を継いだ。

「賢治君との約束を破って、私がこの話をした理由はそれなんだよ。ちーちゃん……自分を賢治君、いや、他の誰とも比較してはいけない。ちーちゃんと賢治君では、立場も環境も能力も年齢も性別も何もかもが違う。その二つを同等に並べて論じること自体が不自然なんだ。それに、志乃くんもよく言うじゃないか。「会長の仕事をすると言うことは、人まねの仕事をするということじゃない」ってね。――賢治君の後ろ姿に縛られていてはいけない。ちーちゃんは、ちーちゃんのやりたいようにやって良いんだよ。もっと自信をもっていい、ちーちゃんは……」

 一呼吸おいて、足立は言った。

「……これまでの歴代の会長に引けを取らない、立派な会長だよ。――私が保障する」

 歴代の会長を補佐してきた足立だからこそ言える一言だった。
 説得力に満ちたその一言は、疲れて自信を失いかけていた千鶴の心に沁みた。
 ありがとうございます、と礼を言おうとして、千鶴は口元を抑えた。
 言葉よりも先に、涙が落ちていた。

「……あれあれ、泣かせてしまったな。どうしたものか……」

 慌てたようにそう言う足立がおかしくて、千鶴は泣きながらくすっと笑った。
 足立の差し出したハンカチを断って自分のハンカチで顔をふきながら、千鶴は少し考えた。

    いま、自分は何をすべきか。
    いま、自分に何が出来るか。
    そして今、自分は何をしたいか。

 千鶴にとって、仕事は大事なものである。
 千鶴の決断や行動如何によっては、500名を越える社員全員が路頭に迷うことになることすらあり得る。
 父や叔父たちが護り育ててきたこの鶴来屋の名に掛けても、いい加減な仕事は出来ない。
 これからもっと精進して、よりよい経営者にならねばと思っている。
 ――しかし、自分はすこし性急すぎたのではないだろうか。 そう思う千鶴であった。
 千鶴にとって今夜の足立の話は、自分と賢治の仕事の能力の差はない事を教えてくれただけではない。
 仕事と家族、そのどちらも大事にする、賢治のスタンスを知ることが出来た。
 それは、義務の前に自分のしたいことを押し殺す事ではない。我慢は必要だが、自分を殺してはいけない。
 なにより大事なものは仕事ではない。解っていたつもりなのに、いつの間にか自分がそのワナにはまりつつあっ
たことに千鶴は気が付いた。

(やっぱり、あなたは遠い目標です。叔父様)
 千鶴は心の中でそうつぶやいた。
 しかし、そのことでもう落ち込んだりはしない。千鶴は顔をあげた。
(あなたの立っておられた所まで、私は私のやり方で歩いていきます)
 涙は目元に残っていたが、心は晴れていた。

「……それで、どうする? ちーちゃん」

 足立が千鶴に訊いた。
 何のことか一瞬解らなかった千鶴だが、すぐに何のことを言っているのか悟った。
 甘えるように笑って、千鶴は足立に申し出る。

「今夜の会食……替わりに行っていただけますか?」
「いいとも。理由は上手く言っておく。――みんな喜ぶよ」
「すいません。――みんな、私は夜中になると思ってますから驚くでしょうね」

 くすくすと笑う千鶴に、足立も穏やかに笑って応えた。

「さっ、そうと決めたら早速行動だ! 私も一度用意をしないといけないしね」
「はい。明日からまた頑張ります!」

 年を感じさせない挙動で立ち上がった足立に続いて、千鶴も立ち上がった。

「志乃さん! 今夜は予定変更です」

 隣室に控えている志乃を呼びながら、さっさと帰り支度を始める千鶴だった。
 ノックの音がしてドアが開き、志乃がやってきた。

「予定変更って、どうされたんですか? 会長」
「今夜は帰ります。車を出して下さい」
「会食の方がございますが――」
「それは足立さんにお願いしたわ。……志乃さん、私のコートは?」
「……こちらです」

 一分一秒でもはやく家に帰りたいとばかりにばたばたと用意をする千鶴を、志乃は一瞬呆れ顔で、そしてやれやれと言いたげな苦笑で見やった。
 まるで退屈な授業が終わった後の子供みたい。でも、いい顔をしてる……。 
嬉しそうに帰り支度をする千鶴を手伝いながら、いつの間にか自分も微笑んでいることに志乃は気付かなかった。

「……じゃあ、あとはお願いします」
「ああ、いっといで。耕一くんたちによろしく」
「はい」
「失礼します」
「――ああ、そうそう。ちーちゃん」

 部屋を出て行きかけた千鶴を足立は呼び止めた。
 ドアノブに手を掛けて振り向いた千鶴に、足立はウインクをした。

「……メリークリスマス!」
「ふふっ……足立さんも、メリークリスマス!」

 負けじと千鶴もウインクを送った。
 千鶴と足立は、同時に笑った。
 ドアを閉めて部屋から出ても、千鶴は小さく笑い続けた。
 足立のウインクが、あまりにも下手くそだったからだ。

 千鶴が部屋を去った後、足立は二本の電話を掛けた。
 その相手先が誰であるかは今は言うまい。
 最後の仕掛けを終えた足立は、ウインクと同じくらい下手くそな歌を口ずさんで部屋を出ていった。
 足立が口ずさんだのは、有名なクリスマスキャロルだった。

 ――”もろびとこぞりて”――

 

 

 車窓から見るイブの街は、まるで知らない街のようだった。
 考えてみれば、わたし達はクリスマスにお出かけをした思い出がない。
 外食自体滅多にしなかったのだけれど、クリスマスは必ず自宅だった。
 今思えば、それは叔父様の都合もあったのかも知れないけれど、私はちっとも嫌じゃなかった。

 「クリスマスでも日本食」が我が家の伝統で、梓が腕を振るったお料理の数々がテーブルに運ばれてくる度に、叔父様は口を極めて梓を褒めちぎっていた。
  ジュースのシャンパンをあけ、ケーキを切る。初めはお店で買ってきたケーキだったけど、そのうち初音が本を見ながら作るようになった。お店の物のように豪華ではなかったけれど、初音の手によるケーキを食べた叔父様は顔中をほころばせて「初音は天才だ」と言っていた。

 「甘いのが苦手な俺でも、全部食べてしまえそうだ」

 ――と。

 お菓子をつまみながら、各自一つずつ用意した芸を披露する。
 初音はいつも歌だった。学校で習った歌やクリスマスソングが主だったけれど、一度は時代劇の主題歌を歌って全員の度肝を抜いたものだ。
 楓はその時いろいろだったけれど、手品や楽器など手先の器用さを活かしたものが多かった気がする。
 梓はいつもウケ狙いだった。人の物まねやパントマイム、一度調子に乗ってコーラ一気呑みなんて事を言い出して、さすがに叔父様に止められていた。 でも、そのかわりに初音を巻き込んで歌ったクリスマスキャロルはとても綺麗な歌声で、叔父様の惜しみない拍手をもらっていた。
 大トリは私。何をやったかはいつもすぐに忘れてしまうようにしてるので覚えていないけれど、毎回梓がからかってくれた事だけはしっかりと覚えている。

 楽しい時間はすぐに過ぎ、お休みの時間が近くなるといよいよプレゼントタイム。
 あの事件以来家の中で着替えるようになった叔父様が、サンタクロースの格好で袋を担いで現れると、わたしたちは年の順に横一列に正座したものだ。
 プレゼントは年少の初音から。私は最後に受け取って叔父様にわたしたちからのプレゼントを渡す係だった。
「サンタがプレゼントをもらうなんて」 と叔父様はいつも言っていたけれど、その顔は笑っていた。
 その場でみんなでプレゼントを開け、新たな歓声と感謝の声がわき上がる。
 叔父様からのプレゼントは高い物ではなかったけれどよく選ばれた物で、わたしたちが「欲しいな」と思っている物が丁度プレゼントされてくるのが、いつも不思議だった。その意味でも、叔父様はやはりサンタクロースだった。
 クリスマスの夜はちょっぴり夜更かし。プレゼントを抱いたままうつらうつらし始める初音達を寝床に連れてゆき、
後片づけをしてからわたしたちも布団に入り――

 ――叔父様は、それから出かけて行っていたのだ。

 懐かしい思い出を振り返ると、叔父様の笑顔がすぐによみがえってくる。
 私は柏木の秘密を知る者として叔父様に一番近い存在だったから、血の発作に苦しみ喘ぐ叔父様を何度と無く見てきた。服を引き破り、髪の毛を引っ張り、体中をかきむしり血を流しながら狂人のようにうめく叔父様を目の当たりにして、何度私は泣いたことだろう。
 わたしたちの生活は楽しいことばかりではなかった。むしろ悲しいことの方が多かったかも知れない。
 でも、いまこうして叔父様との思い出を振り返るとき、思い出されるのは、叔父様のあの優しい笑顔なのだ。

 わたしたちはどれだけ多くのものを、叔父様からいただいたんだろう。
 それは形のある物だけじゃない。お金で買える物だけじゃない。
 命、時間、気遣い、犠牲、愛……そしてなにより、耕一さんをこの世に残してくれた。
 叔父様は本当に、最高のサンタクロースだった。

 すでに市街地を抜け、車は閑静な住宅街を走っている。家までは後少しだ。
 窓から見える家々の明かりが、幸福の象徴のように輝いて見える。

 ――メリークリスマス!―― 

 心が微笑む魔法の呪文。私はその言葉を、目に映る全てのものに贈りたい。
 もうすぐだ。はやる心を抑えつつ、子供のように空を眺めていたその時。

 PPPPPP!
 PPPPPP! 

「――はい、藤原です」

 突然携帯の着信音が鳴り響き、私は驚いて振り向いた。
 志乃さんが電話を受けて応答している。
 ――ああ、びっくりした。
 ここまできて呼び出しなんてやめて欲しいわ。

 そう思って再び窓の外に目をやったとき、志乃さんの電話が終わった。
 シールドを下げて運転手の前田さんに何事かを耳打ちしている。
 何を話してるのかしら?

「志乃さん、どうかしたの」
「いえ、大したことではありません」

 相変わらずのポーカーフェイスで志乃さんは言った。
 何か言おうと思って口を開きかけたその瞬間、車が路肩に寄せて停車した。
 何が起こったのか解らないであたりを見渡していると、志乃さんが落ち着いた声音で言った。

「会長、大変申し訳ありませんが、お送りできるのはここまでです。緊急連絡で、すぐに私は戻らなくてはならなくなりました。申し訳ありません」
「緊急連絡? どうしたの、何が起こったの?」
「よく解りませんが、会長の今夜のスケジュールには影響の無いものであることは確かです」
「なんか矛盾してない? 志乃さん」
「ともかく、早く車からお降り下さい。ここから先は歩いてご帰宅願います」

 怪しい。
 絶対怪しい。
 そう思うんだけど、志乃さんのポーカーフェイスにはつけ込む隙がない。
 そうしているうちに、業を煮やした志乃さんにせかされて車から降ろされていた。

「ちょっと、志乃さん! 前田さん!」
「そこの角を曲がればご自宅の玄関前です」
「そんなことはわかってます! あと100メートルもないじゃないですか。それなのになんで――」
「会長」

 私の言葉を遮って、志乃さんが言った。
 思わず口をつぐんだ私に、志乃さんは意味深な微笑みを向け……

「Merry Christmas!」

 正確な発音でそう言った。
 呆気にとられる私の前でウィンドウが上がり、車はゆっくりと走り出した。
 二、三歩追いかけて立ち止まった。
 リアウィンドウから、志乃さんが手を振っているのが見える。

「んもうっ!」

 私はその場で大きくためいきを吐き捨てた。

 

 

「いま、車が走り出しました」

 耳を済ませていた楓ちゃんが言った。

「そっか。じゃあもうすぐだな」
「うふふっ。寒いけどなんだか楽しいね」
「あたしゃ一応風邪引いてるんだけどねぇ」

 寒気に頬を紅潮させながら初音ちゃんが天使の微笑を浮かべる横で、どてらにくるまった梓が寒そうに言った。

「もうすぐだから我慢しろって――来たぞっ!」

 

 

 ……まったく、志乃さんったら。
 私、一応は会長なのよ? どうしてこんな扱いを受けるのかしら。
 憤然と歩き出し、角を曲がる。
 あと50メートルほどで、確かにうちの屋敷前だ。
 でも、その間に何者かに襲われたりしたらどうするつもりなのかしら。
 ……まあ、普通の人間にやられたりはしないけど、それにしてもレディに対する思いやりとか配慮とかいろいろあるはずじゃない?
 いくら鬼でも、暗い夜道は怖いんですからね……!

 ぶつぶつとつぶやきながら早足で歩く。
 あと少し。もう門が見えてきた。
 ほっと息をつきそうなった私は、その瞬間息を飲み込んだ。

 玄関前に誰かいる!!

「だれっ……!」

 まさか、まさか本当に?!
 全身を緊張が駆け抜けたその時――

「「「「メリークリスマス!!」」」」

「――えっ?」

 聞き覚えのある声がユニゾンになって、私を包み込んだ。
 緊張に思わず閉じていた目を開くと、そこには……

「こ、耕一さん? ……あなた達……」
「おかえり、千鶴さん」
「おかえりなさい、お姉ちゃん」
「姉さん、お帰りなさい」
「遅いじゃん、千鶴姉」

 梓だけが可愛くないことを言う。
 綿入れを着込んで、寒そうな顔にいたずらそうな笑みをかすかに浮かべている。
 そういえば風邪引いてたわね。
 でもわたしは同情しない。減らず口をたたけるうちは大丈夫でしょう。

 ……それにしても。

「どうしたんですか、耕一さん。みんなで……」
「千鶴さんを待ってたに決まってるじゃない」
「でも、どうして……」

 言いかけて、ぴーんとくるものがあった。
 さっきの志乃さんの携帯にかかってきた電話。
 その直後に降ろされた私。
 玄関に出て待っていたみんな。
 全てが一本に繋がった。
 その一本の糸をたぐっていくと、全ての仕掛け人の姿が見えた。

「……足立さんですね?」

 私がそう言うと、耕一さんはにやっと笑って頷いた。

「さっき、足立さんから電話があってね。――千鶴さんが歩いて帰ってくるから、驚かせてやってくれって」
「本当に足立さんがそう言ったんですか?」
「はは、驚かせてやってくれっていうのは俺だけど」
「もうっ。一瞬、賊かと思って本気でびっくりしたんですからね」

 怒ってる口調を作ろうとしても、なぜか声が笑ってしまう。
 耕一さんの飄然とした顔を見ていると、怒りを持続させることなんて出来ない。
 それに、わたしはもともと怒ってなどいないのだから。

「あはは、ゴメンゴメン千鶴さん。晩御飯はもう食べた?」
「いえ……パーティで少しつまみましたけど、お腹空きました」

 ちょっと甘えるように言ってみる。

「お姉ちゃん、こんやはおでんだよ」
「今夜は初音ちゃんが作ったんだよね」

 耕一さんが誉めると、初音は嬉しそうな顔で頷いた。

「姉さん、中に入りましょう」
「そうね、楓の言うとおりだわ。誰かさんみたいに風邪引いたりしたらたいへんだものね」

 梓に目配せしながら言うと、梓はふんっと横を向いた。
 あら、梓ったら鼻が真っ赤。ふふふ、まるでトナカイみたい。

「それにしても寒いなぁ」

 耕一さんが腕を組み、体を抱きしめるようにしてぼやいた。
 耕一さんは厚手のセーターを着ているけど、たしかに今夜の寒さはそれだけじゃしのげない。

「じゃ、じゃあ」

 私は自分のコートを開いて、耕一さんを包もうとした。
 一つのコートに二人でくるまって……うふふ。
 なーんて事を考えていると、同時に……

「お兄ちゃん」
「耕一」
「耕一さん……」

 みんな考えたことは一緒だったらしい。
 耕一さんの周りを取り囲むようにして、私たちは寄り添った。
 お互いの顔を見合わせて、思わず苦笑する私たち。
 その真ん中で、耕一さんが真っ赤な顔をしている。

 寒い夜だからこそ、人のぬくもりが愛おしい。
 メリー、メリークリスマス。
 頬を寄せた耕一さんの背中に、そっと呪文をささやきかける。
 振り向いた耕一さんと微笑み交わす。その笑顔が、叔父様のそれと重なって見えた。

 サンタクロースはどこにいる? お空の上? それとも煙突の中?
 今、誰かにそう訊かれたら、私ははっきり答えてあげよう。

 いいえ、サンタクロースはここにいます。私の腕の中にいます。
 凍り付いていた私の心を、お日様みたいな笑顔で溶かしてくれています。
 空を行くトナカイさん。白髭のサンタ様。……どうか今夜はご遠慮下さい。
 今抱きしめたこのサンタクロースは、偉大なサンタの最後の、そして最高のプレゼント。
 だから、無くさないようにしっかりと捕まえておこう。
 橇なんかに乗って、どこかに行ってしまわないように。

 初音が言った。

「みんなでいると暖かいね」
「……そうね」

 心の底から、暖まる。
 この気持ち。この時間。
 ついさっきまで、会長室で涙をこらえていたのが嘘みたい。
 足立さんと志乃さんのいたずらに、私は感謝した。

「くしゅん!」

 振り向くと、梓が鼻をすすっていた。

「大丈夫か、梓?」
「お姉ちゃん大丈夫?」
「……うん」

 梓はちいさくそう言うと、赤い顔をして耕一さんにぎゅっとしがみついた。
 ……あの子ったら。
 あの顔の赤さは、風邪のせいじゃないわね。

「とりあえず、家に入ろうか?」

 耕一さんがそう言って、みんで団子になって歩き出したとき、
 冷たいものが私の頬に触れた。
 冷たくて、軽くて、儚くて、白いもの……

「あっ!」

 初音が耕一さんの腕を抱いたまま空を見上げて言った。

「……雪」

 思わず立ち止まり、みんなで空を見上げた。
 音もなく舞い降りる純白の天使が、かすかに吹いてきた夜風とワルツを踊る。

 私はその風鳴りの奥に、走り去る橇馬車の鈴の音を聞いた気がした。

   

 

 

――Santa Claus is coming to…――
Fin

written by AKIRA INUI
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