〜聖なる夜の四つの物語〜
いとしこのよる
ぷるるるっ、ぷるるるっ
ぷるるるっ、ぷるるるっ
電話の音で目が覚めた。
テレビを見ているうちにいつの間にか寝ていたらしい。
起きあがって出ようとした途端、台所からエプロン姿でやってきた初音ちゃんが受話器を取った。
「はい、柏木です。――あ、楓お姉ちゃん」
電話はどうやら楓ちゃんからのようだった。
今年受験の彼女は、終業式からまっすぐ街の塾に行っているらしい。
世間はイブだ年末だ忘年会だとお祭り騒ぎだが、楓ちゃんたちは遊んでる場合じゃないのだ。
――しかし、どうでもいいけど初音ちゃん、片手におたま持ったまま電話に出るのは……
「えっ、本当? お財布は? ……家に忘れちゃったんだ」
何かハプニングが起きたらしい。
俺は初音ちゃんのエプロンの裾をちょいちょいと引っ張って、どうしたのと聞いた。
すると初音ちゃんは受話器をおさえながら
「楓お姉ちゃん、バスの定期券を落としちゃったんだって」
と心配そうな顔で言った。
……なるほど。そしてついでに財布も忘れていたのか。
そう言えば今朝は、生徒会の仕事で早く行かなきゃいけないとかいって、ばたばたしてたからな。
楓ちゃんが通う塾は鶴来屋のさらに向こう、隆山中央病院のそばにある。
電車でもふた駅。歩いて帰るには遠い距離だ。
よし、ここはひとつ……
「俺が迎えに行ってやるよ」
そう言うと、初音ちゃんに電話を変わってもらった。
「もしもし、あ、楓ちゃん?」
『――あ、耕一さん』
公衆電話からの声らしく、車の走る音やクラクションが声に混じっている。
近くに店でもあるのか、かすかにクリスマスキャロルが聞こえるのが少しおかしかった。
こんなとこまでクリスマスが忍び込んでくるなんて。
「定期券なくしちゃったって? 大切なものは入ってなかった?」
『……定期券だけですから……来るときはありましたから、こっちのどこかで落としたんだと思います』
「そっか。じゃあ、もしかすると警察に届いてるかもね。とりあえず、いまから俺行くから」
『行くって……耕一さん?』
「迎えに行って上げるよ。イブに待ち合わせなんてロマンチックでしょ? あはは、俺みたいのですまないけど」
楓ちゃんみたいな超美少女と待ち合わせなんて、俺は光栄の極みだけれど。
俺が照れ隠しに笑うと、電話の奥で小さく
『……そんなこと……ないです』
と楓ちゃんが言うのが聞こえた。
俺はゆるむ頬を何とか引っ張り、楓ちゃんと待ち合わせ場所を決めた。
隆山の地理に不案内な俺でもわかるように、場所は鶴来屋の近くの児童公園にした。
小さな噴水があるそこは、鶴来屋に近いため人通りも多く、照明も明るいため待ち合わせによく使われる。
「じゃあ、急いで行くからちょっと待っててね」
『……はい』
俺は受話器を置いた。
すると初音ちゃんが、エプロンの結び目に手をやりながら
「私が行くから、お兄ちゃんゆっくりしてて」
と言った。
俺は手を伸ばしその手を押さえて言った。
「初音ちゃんが行っちゃったら、お料理誰がするの。 梓は風邪だし、俺が行くよ」
「でも……」
「この寒いのに楓ちゃんは外で待ってるんだ。早く迎えに行ってあげなきゃ」
「うん、そうだね。……じゃあ、お願い。お兄ちゃん」
「アイアイサー」
俺はおどけて水兵風の敬礼をした。
初音ちゃんも笑って、おたまを後ろ手にして敬礼を返してきた。
「じんぐるべーじんぐるべー……っと」
初音ちゃんから教えてもらった路線のバスに乗り、揺られること約20分。
バス賃240円也を運賃箱に放り込みステップから降りた俺は、でたらめなキャロルを口ずさんで肩をすくめた。
時計を見るともうすぐ七時、あたりはもうすでに真っ暗で、木々に渡されたイルミネーションがきらびやかに夜道を飾っているのがみえた。行き交う人の装いも、いつになくファッショナブルで、相も変わらぬジーンズと革ジャンといういでたちの我が身を振り返っては、もうちょっとおしゃれしてくれば良かったかなと思うのだった。
建物が多いせいか風はさほど無いが、やはり陽が落ちると気温自体が下がる。
吸い込んだ空気の冷たさに小さく咳き込むと、その呼気全てが真っ白い霧になった。
こんなのが集まって雲になり、雪を降らせるのだとしたら、雪の半分は人間の後悔で出来ているのかな。
そんな馬鹿なことを考えながら脚を動かし、待ち合わせの場所に急ぐ。
「鶴来屋正門前」で降りたから、児童公園まではすぐだ。
ひとつ角を曲がり、信号を渡ったところに公園はある。
入り口に着いた俺は、楓ちゃんどこにいるかな〜っと思って公園を見渡した。
楓ちゃんはすぐに見つかった。
しかし……一人ではなかった。
三人の若い男が、噴水を背にした楓ちゃんの逃げ道をふさぐように立って話しかけている。
俗に言うナンパという奴だろうか。高校生か大学生、俺とそう違わない歳に見える。
しかしそれにしても柄の悪い連中だ。いまさら茶髪やピアスをうんぬん言う気はないが、仕草や表情、雰囲気から伝わる物がある。今は女の子をコマすために優しいふりをしているが、化けの皮一枚はがれると何をしでかすかわからない連中であることを見て取るのに、さほど観察力を要しない。
楓ちゃんはすっかりおびえた表情で、鞄を胸に抱いてあたりを見渡している。
きっと、俺を捜しているんだ。
俺は後悔した。ちゃんとどこかの喫茶店ででも待ち合わせれば良かったんだ。
楓ちゃんみたいな可愛い子をこんな所に一人で立たせてたら、ろくでもない連中に声を掛けて下さいと言っている
ようなもの……
おれは馬鹿だ!
走り寄る俺に、楓ちゃんが気が付いた。
おびえていた顔がぱっと輝くように開いて、男達の間をすり抜けて俺の下に駆け寄ってくる。
「耕一さんっ!」
「ごめん、待たせたね楓ちゃん」
「……いいえ」
さしのべた俺の腕を掴んで、楓ちゃんは小さく頭を振った。
しかし、俺を見つめてくる大きな瞳は潤み、今にも泣き出しそうなのを必死で堪えているのが傍目にも解った。
よっぽど怖い思いをしていたんだろう。……ごめん、楓ちゃん。
俺は心の中でもう一度謝った。
「行こう、楓ちゃん」
「ちょっとまてやコラ」
その時、取り残された男達が俺達の前に立ちふさがり街灯の光を遮った。
じゃりっと砂を踏む音がして目を上げると、男達はさっきまでの不自然な笑顔を脱ぎ捨て、粗暴さと下品さを露わにした表情でこちらを睨み付けていた。おそらくこちらが素の顔なんだろう。
「いきなり来て女連れて行って、挨拶もなしかよ」
「………」
リーダー格らしいピアスの男がポケットに手を突っ込んだまま、妙な角度に体を傾けてそう言うのが滑稽だった。
はっきり言ってただの人間にすぎないこいつらなど、鬼の力を秘めた俺から見れば、所詮狩られるだけのひ弱な獲物にすぎない。だが、ここは他にも人がいる。騒ぎを起こすのはまずい。それになにより楓ちゃんがいる……。
俺はとりあえず、男の目をにらみ返したまま楓ちゃんを背後にかくまう。
「その子は今夜は俺達と遊ぶんだ。お兄さんはおうちに帰りな」
「エロ本でも読んでろよ、一人で」
何がおかしいのか、男達はげらげらと下品そうに笑った。
楓ちゃんがぎゅっと腰にしがみついてくる。
俺はその肩に手を回し、安心させるようにかるく叩いた。
大丈夫だよ、と目で言うと、楓ちゃんはこくんと頷いた。
「てめえっ、聞いてんのかよ!」
「……っ!」
突然、ピアスの男が怒鳴った。
楓ちゃんがびくっとして、さらに体を押しつけてくる。
ちょっと、カチンと来た。
すこし痛い目に遭わせてやろうか……。
いや、ダメだ。俺は自制心を振り絞った。ここで騒ぎを起こしちゃダメだ。
隙を見て楓ちゃんを引っ張り逃げるとしよう。
「怖くて声もでねーのかよ。オラなんとか言えよコラ!」
「スカしてんじゃねーよ!」
自分が優位にいるという思いこみのためか、男はにやにやしながら俺の胸ぐらを掴みあげた。
ヤニ臭い息が黄色い歯の間から漏れて、俺の顔にかかった。その生臭さに、俺は思わず顔をしかめる。
弱いものをいたぶる下司な喜びを満面に浮かべ、ピアス男が何かを言おうと口を開けた。
――その瞬間。
ドゲシッ!
「ぐあっ!!」
鈍い音がして、男の顔が苦痛に歪んだ。
俺の襟首を掴み挙げていた手を離し、男はすねを抱えてその場にしゃがみ込んだ。
な、なんだ? 俺は何もしてないぞ。
解放された俺に、楓ちゃんが顔を寄せてきた。
「耕一さんっ、大丈夫ですか!」
「う、うん……」
大丈夫、と言いかけて気が付いた。
「もしかしてこれ……楓ちゃん?」
「は、はい……耕一さんが苦しそうだったから……」
足下でうずくまる男を指さして聞くと、楓ちゃんはすこし目を伏せながら答えた。
言いつつ後ろ手に隠したのは参考書の詰まった通学鞄だった。
……あれですねを打ったのか。そりゃ痛いわなぁ……。
少し同情してしまう。まあ、いい気味だけれど。
「苦しかったというか、むしろ口が臭かったから……」
「っざけんなコラァ!!」
怒りの形相もすさまじく男が立ち上がった。
まだ痛むのか、耳まで真っ赤だ。やせ我慢は体に良くないぞ、という忠告も聞く余裕はなさそうである。
さて、どうこの場を収めたものか……
「このアマ……ぶっ殺してやる……!」
「きゃっ!」
ゆらり、と楓ちゃんに伸ばした男の手を俺は寸前で捕まえた。
怒りに濁った目をぎろりとこちらに向ける男に俺は言った。
「この子のしたことは、俺が謝る。どうか勘弁して欲しい」
「……耕一さん」
俺の後ろに隠れた楓ちゃんが、小さくつぶやくのが聞こえた。
俺は開いているもう片方の手で楓ちゃんの手を取り、安心させるようにきゅっきゅっと小さく握った。
「俺の方にも、君たちに失礼があったかも知れない。でも、俺だって突然胸ぐらを捕まれたりしたんだ。あいこと言う
ことで、ここはもう行かせてくれないかな」
「ざけんな! 謝って済みゃ警察はいらねえんだよ」
出来るだけ温厚に言ったつもりなのだが、俺の誠意は通じなかったらしい。
しかし、こんな輩の台詞ってのはどうしてこう独創性がないんだ。
俺は肩をすくめてためいきをついて、しかたがないといった風に言った。
「……いくらだ。いくら欲しいんだ」
「耕一さん!!」
「楓ちゃん、ここは俺に任せて」
「でも――!!」
小声でやりとりする俺達の前で、ピアスの男は下卑た笑いを浮かべた。
「へっ、兄さん物わかりがいいじゃんか」
「ありがとう、よくそう言われるよ」
「調子に乗んな……まあ、このくらいありゃ今日のことは忘れてやってもいいぜ」
ニタニタと薄く笑いながら男は片手を差し出した。
指を全部開いている。つまりじゃんけんで言うとパーだ。
俺は尻のポケットから財布を取り出しながら言った。
「……わかった。大きいのがないから細かくなるけどそれでもいいか」
「なんだってかまわねーよ」
「良かった。じゃあ、受け取ってくれ――500円」
百円硬貨を5枚、人差し指と親指の間にはさんで男の目の前に突きだした。
男達は一瞬目を寄せてそれを見、ついで怒りだした。心の狭い奴らだ。
「ふざけんのもいい加減にしろよ……」
「自分の立場わかってんだろうなぁ!!」
「――まあ、そう言うなよ」
精一杯恐ろしげにそう言う男達に、俺は逆に顔を近づけてにやりと微笑んでやった。
慎重にちからを解放し、指先に力を入れる。
「俺の気持ちだ、受け取ってくれよ。――ちっとばっかし曲がってるけどな」
俺はそう言って、男達の目の前で百円硬貨を5枚まとめて指先で折り曲げた。
もちろん表情はバイトで鍛えた営業スマイルを浮かべたままだ。
「………!!」
「今日のことは、もう一度謝るよ。だから、これで無かったことにしてくれないか」
ボトリ
言葉を失った男達の手に、くの字に曲がって繋がってしまった百年玉の固まりを落とした。
男はそれを自分の指で押し、おもちゃではなく本物の硬貨であることに気が付いた途端無音の悲鳴を上げた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!」
「あ、あんた……何者だ!」
「答える必要はないと思う。お互い出来ればもう二度と関わり合いたくないだろうしね」
これは俺の本心でもある。
こんなパフォーマンスをしたのもそのためなのだから。
「……というわけで、もう行っていいかな」
俺が楓ちゃんの肩を抱いてそう言うと、男達はびくっとしたように顔を上げ、強気を取り繕った顔と声で言った。
「今日は、か、勘弁してやる。……行けよっ!」
「ありがとう。君たちも良いクリスマスを」
にっこり笑ってそう言うと、俺は楓ちゃんの背を押した。
「――さ、行こうか。楓ちゃん」
「はい……」
街灯の光が届く端まで歩いて、公園の出口の所で振り返った。
三人の男達は、まだそこに呆然と立ったまま手のひらの中のものを見つめていた。
「はい、熱いよ」
「……いただきます」
自動販売機で買ったあつあつの缶コーヒーを手渡して、俺は楓ちゃんの風上に立った。
公園からしばらく歩いて移動し、土産物屋がならぶ商店街の近くで一休みすることにしたのだ。
商店街と言っても、駅前のアーケード街とは違う。
鶴来屋や他の旅館がこのあたりには軒を連ねているため、観光客相手のおしゃれな店が並んでいる。と思えば、創業100年とかいう老舗の看板を掲げた和菓子屋や地元の特産品を吊した土産物屋があったりと、なかなかに退屈しない場所である。
いつもから夜も賑やかな場所だけれど、今日は特に人が多い。街並みも飾り付けられていて、いかにもクリスマスといった雰囲気だ。
これも観光客のためか電話ボックスの横に置かれた木のベンチに並んで腰掛け、しばらく会話もないままコーヒーをすする。
もしかして、怒ってるのかな。
結果的には違うとは言え、お金で物事を解決しようとした俺を怒ってるんだろうか。
楓ちゃん、潔癖そうだからな……などと、しみじみ考えながらコーヒーを口に運んでいると、不意に楓ちゃんが横
でつぶやいた。
「耕一さん……」
「ん?」
「……ごめんなさい。私のせいで……」
謝られてしまった。
まあ、怒ってはいないようだからとりあえず安心。
でも、楓ちゃんの顔がすっかり曇ってしまっている。楓ちゃん、責任感も強いからなぁ。
俺は後ろ頭をこりこりと掻きながら、とぼけたように言った。
「なんのこと? 楓ちゃんが謝るようなことなにかしたっけ?」
「耕一さん……」
「もし、さっきのナンパ野郎とのいざこざを気にしてるんだったら、いらない心配だよ。あれは向こうが完全に悪いし、やり合ったのは俺だから楓ちゃんはなにも悪くない。――強いて言えば、楓ちゃんが可愛すぎる事ぐらいかな」
「………」
あ、赤くなった。面白い……なんて言ってる場合じゃないか。
飲み干したコーヒーの缶を両手で持ち、俺は楓ちゃんの方を向いて言った。
「俺の方こそ、ごめん。もっと待合い場所を考えるべきだったよ」
「そんな……耕一さんは悪くないです」
「ありがと。じゃあ、どっちも悪くないって事で、さっきのことはもう忘れようよ。――せっかくクリスマスなんだからさ」
楓ちゃんの視線を誘うように、顔を上げて辺りの景色を見渡す。
今、俺達二人を包む特別な夜のすべてを五感のすべてで感じ取る。
明滅するイルミネーション。夜空に滲むネオンサイン。雲から少しだけ顔を出した月。
どこからともなく聞こえてくるクリスマスキャロルとクラクション。シャンシャンと鳴る鈴の音に心が弾む。
冷えた夜気が体全体を包み、自分の輪郭がはっきりと定まってくるような感覚。ぬくもりが欲しい気持ち。
おしゃれをして互いの腕を抱き、楽しげに囁きながら行き過ぎる恋人達。一瞬の雲となり消えて行く白い吐息。
無数の足音と、ざわめきと、時折上がる笑い声と歌声と……
――落ち込んでなんかいられない。今日は楽しまなきゃ。だってクリスマスだもの!!
まるで街中が声を揃えてそう言っているようだった。
楓ちゃんはまぶしそうにそれらを見やった後、言葉の替わりに、にこりと笑った。
思わずこっちまで笑みこぼれてしまうような、良い笑顔だった。
「……それにしても、楓ちゃんは強いなぁ」
「え? 何のことですか?」
「さっきの、ほら……」
俺はそう言って、鞄を振り回すゼスチュアをした。
ピアス男の脚を鞄で叩いた楓ちゃんのマネだ。
楓ちゃんは俺が何のことを言ってるのか解ってまた真っ赤になった。
「あっ、えっと……その……」
「おかげで助かったよ。はは、でも女の子に助けてもらうなんてちょっと格好悪いかな?」
「……すみません」
赤い頬のまましゅんとなってしまう楓ちゃん。
あれれ、俺の男の面子をつぶしたと思っちゃったのかな。
「あ、ごめん。そう言う意味じゃないんだ。ほら、楓ちゃんっておとなしいイメージだからちょっと意外でさ」
「あのときはもう必死で……」
「ありがとう、心配してくれて。――でも、無茶しちゃだめだよ」
「はい」
小さく頷く楓ちゃんの頭を軽くなでて、俺はベンチから立ち上がった。
楓ちゃんの缶を受け取ってそばのゴミ箱に入れ、楓ちゃんの鞄を取る。
「そろそろいこっか。遅くなるとみんな心配するよ」
「はい……あ、私持ちます」
「いいって。クリスマスに女の子に荷物持たせたら男がすたる! なぁんてね」
「耕一さん……」
嬉しそうに目を細める楓ちゃん。身に合わない台詞を言った俺は照れ隠しに少し笑った。
しかし、それにしても楓ちゃんの鞄はずっしりと重い。
まあ、重そうだなと思って俺が持つことにしたんだけれど、予想以上に重たかった。
これを振り回したら破壊力もさぞかし……っと、そうじゃなくて。
終業式の日もこんなにたくさん参考書を詰めて行かなきゃいけないくらい、楓ちゃん勉強してるんだな。他のみんなが恋人や家族や友人と楽しい時間を過ごしているイブの日に、こんな時間まで……。
七夕の時に掛けたおまじない、楓ちゃんはまだ覚えてるかな。俺はふっと半年前の七夕の事を思い出した。
あのとき俺は、「合格できますように」と願い事を書いた彼女のために、でたらめだけど心を込めておまじないを
掛けたんだ。 ――「楓ちゃんは出来る!」
誰よりも、俺がそう信じている。
こんなに頑張ってるんだから、きっと大丈夫だろう。来年の春には、楓ちゃんも俺と同じ大学生だな。
レベルが違いすぎるけど。
楓ちゃんを連れて、夜の街を歩く。
定期券が落ちていないか道路に目を落として、俺と楓ちゃんはゆっくり歩いた。
「通ったのは、この道だけ?」
「はい……」
答える楓ちゃんに目をやって、ふと他の視線に気が付いた。
周りの人たちがみんな俺の方を見ている――
……と思ったが、落ち着いて見ると視線の行き先は俺ではなかった。
街行く男達が皆、楓ちゃんの方を見ている。いや、女の子も振り向いている。
楓ちゃん本人が定期券を探すのに熱中して気付いていないのは幸か不幸か。
――やっぱり、目立っちゃう子なんだよな。
身内としての誇らしさと同時に、一抹の不安が胸をかすめた。
目立つということは、目を付けられやすいということだ。
さっきの事もそうだが、大学に行くとああいう手合いはもっと多くなる。
まあ、さっき見せたような勇敢さがあればきっと大丈夫だろうけれど、ちょっとだけ心配だな。
「どうしたんですか? 耕一さん」
「え? いや、なんでもない」
小さく首を振って楓ちゃんの横に並ぶ。
一瞬きょとんとした楓ちゃんだったけれど、くすっと笑って俺の腕に手を掛けてきた。
「楓ちゃん」
「みんなしてますから……嫌ですか?」
「い、いや。すごく嬉しいんだけど……」
周りの男達からの視線が妙に首筋に痛い。
結局、バス停までさかのぼって探したけれど定期券は落ちていなかった。
まあこんなに人が多いから、落ちていたとしたら誰かが拾っていると思ってはいたけど、すこしがっくりした。
「他にどこか寄ったりした?」
俺が聞くと、楓ちゃんはふるふると首を振った。
「来るときまではあったんだから、こっちのどこかにあるのは確かなんだけどなぁ」
「塾のまわりとかもだいぶ探したんですけど……」
「鞄の中は?」
「見ました」
「う〜〜〜ん……まあ、今日の所は帰ろうか」
はい、と頷く楓ちゃん。
時刻表を覗いて次のバスまでの待ち時間を確かめる。
次のバスは15分後だ。家で待ってる初音ちゃんに電話しようかと思ったけれど、料理の邪魔になっちゃいけないもんな。まっすぐ帰ろう。
俺と楓ちゃんはバス停の冷えたベンチに腰をおろした。
そこでちょっと気になることが浮かんだ。
――電話、だ。
「そういやさ、ひとつ気になったんだけど」
「?」
「財布もパスケースも無くて、どうやってうちに電話かけてきたの?」
塾から電話を借りたというのはない。
あれは公衆電話の音だった。外の音が聞こえてたし。
――しかし、謎はあっさり解けた。
「テレホンカードを生徒手帳に挟んでますから……」
「生徒手帳か、真面目だね〜。俺なんか所持品検査の時しか持ったこと無いよ」
馬鹿ばっかりやってた高校時代を思い出して、俺は少し笑った。
「ね、楓ちゃんの生徒手帳見せてくんない?」
「えっ……良いですけど……」
「生徒手帳なんかに貼る写真ってさ、みんななんだか変な顔なんだよね。免許証もそうなんだけどさ。俺なんかまる
で指名手配の犯人みたいな顔だってみんなに言われたよ」
「くすくす……でも、そういわれると恥ずかしいです。やっぱり見せないでおこうかな……」
「あ、見せて見せてお願い」
きっと楓ちゃんなら可愛く映ってるんだろうな。
制服の内ポケットに手を入れて楓ちゃんは生徒手帳を探している。
しかしどうやら奥に入っているらしく、楓ちゃんは制服の上から着ているコートのボタンを幾つか外した。
「見つかった?」
「はい、ちょっと奥に入って――……」
その時、楓ちゃんの動きが一瞬止まった。
どうしたんだろう。
「どうかした? 楓ちゃん」
「あっ、いえ! なな、なんでもないですっ。 ――はいどうぞ」
なんだかうろたえているような気がするけれど……まいいか。
俺は楓ちゃんが差し出した生徒手帳を受け取ってぱらりとめくった。
一ページ目のそこには、所属と生年月日、氏名が記載されていて、その横に楓ちゃんの顔写真があった。
やっぱり予想通り、文句無しの美少女に写っている。しかし、今より何となく幼く見えるな。
……いや、違うな。
俺は思い直した。――楓ちゃんが大人になっているんだ。
一年足らずの時間の間に、驚くほど成長しているんだ。彼女も。
緑のケースに収まった小さな生徒手帳は、指先にほんのりと暖かかった。
「あの……」
「あ、返すね。写真、可愛く写ってたよ。俺とは大違いだ」
そう言って笑いながらページを閉じて手渡すと、楓ちゃんは照れているのか顔を伏せて受け取った。
「は、はい、有り難うございます。……それで、その……」
「ん? なに?」
「………」
「……?」
何をもじもじしてるんだろう。
そんなに恥ずかしがるような写真じゃなかったけどなぁ……
「――あの!!」
「は、はいっ!?」
突然楓ちゃんが大きな声を出したので俺はびっくりした。
「ど、どうしたの?」
「……定期券、探してない場所を思い出したんです」
「探してない場所……。ということはもしかするとそこにあるかも知れないってこと?」
「は…はい。それで……」
「――わかった。じゃあ、今からそこに行ってみよう。少し遅くなるけど」
俺はベンチから立ち上がって、ズボンを払った。
楓ちゃんの鞄を肩にからげて二、三歩歩くと、楓ちゃんがついてきてないのに気が付いた。
振り返ると、楓ちゃんはまだベンチに座っていた。
どことなく驚いたような顔で俺の方を見ている。
「――楓ちゃん?」
どうしたんだろう。
と思いながら、空いている右手をさしのべて俺は言った。
「おいで、楓ちゃん。――俺で良かったらつきあうからさ」
すると――
なぜかびっくりして無表情になっていた楓ちゃんの顔が、火に焙られたチョコレートのようにすばやく、柔らかい笑顔に変わっていった。
元からが綺麗な子だから、たまに見せるこんな笑顔はなおのことまぶしくうつる。
一年と少し前に親父が死んだとき、隆山にやってきた俺に楓ちゃんが見せた表情に笑顔はなかった。
沈んで、泣き疲れたような、未来におびえた表情。悲しみのどん底にいながら、俺が暴走するのではないかと心配し、張りつめた、思い詰めたような表情。世界中の不幸を一身に背負ったような、暗く陰った表情……。
あの時のことを、俺は忘れない。 一番辛かったあの時のことを、絶対に忘れない。
俺達が「家族」でいることを、みんなの笑顔が見られることを、あたりまえと思うことのないように。
だから今、楓ちゃんがこんなに素晴らしい笑顔を見せてくれたことを、俺は幸福だと感じた。
今日はクリスマス・イブ。世界中の誰もが愛と幸せを求める日。
――ありがとう、楓ちゃん。
俺は心の中で楓ちゃんに礼を言った。
今の笑顔は、最高のクリスマスプレゼントだ。
「はいっ!」
心とろかすような笑顔を浮かべて、楓ちゃんは元気よく立ち上がった。
たたたっ、と小走りでやってきた楓ちゃんを待って、またゆっくりと歩き出す。
すると、横に並んだ楓ちゃんはいきなり俺の腕を抱いた。
さっきみたいに手を掛けているのではなく、腕を抱いているのだ。
まるで、恋人同士のように。
「か、楓ちゃん?」
「………」
驚いて振り向いた楓ちゃんの顔は夜目にも真っ赤に染まっていて、それを俺の視線から隠すように楓ちゃんは深くうつむいて歩いていた。しかし、抱きよせたその腕を離そうとはしない。
その小さな頭を俺の腕に軽く預けて微笑む楓ちゃんは、何もしゃべらなかったけれど本当に嬉しそうで、俺は右腕を包むぬくもりとかすかな重みもまた今宵俺に与えられたプレゼントなんだろうと考えた。
……それにしても、楓ちゃんの定期券はどこに行ったんだろう?
何となく、楓ちゃんは何かを知っているような気がするけれど、俺は敢えて何も訊かないことにした。
受験生のクリスマス……こんな俺で良かったら、寄り道でもつき合ってあげるよ。楓ちゃん。
耕一さんの腕を抱いて街を歩く。
イブの夜を彷徨う人々の波をぬって、輝く街並みに二人の足音を響かせて歩く。
マネキンを照らすブティックのスポットライトが私たちを一瞬包み、長い影を道路に伸ばした。
二人なのに、一人分の影。ふと見たその映像に、私は胸がどきりとする。
周りの人たちには、私たち二人はどう映るんだろうか。
光の輪から外れて寄り添う影は消えたけれど、高まった胸の鼓動は納まりそうもなかった。
ふと見上げた耕一さんの横顔に見とれていると、気が付いて振り向いた耕一さんと目があってしまった。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
もう、楓! この意気地なし!
あわてて目を逸らす自分を叱咤するけれど、やっぱり言葉が出てこない。
しょうがない、私だもの。
私はそんな誰にもわかってはもらえないだろう理屈で自分を慰めて、せめてすこしでも想いを届けようと、その腕を強く抱いた。
――今夜、私の所にサンタクロースは来ないだろう。
なぜなら、私は悪い子だから。
サンタ様、私は今日嘘をつきました。
探している定期券は、ここにあるんです……!
初めから嘘をついてたわけじゃない。
ついさっきまで、定期券は本当に行方不明だったのだから。
気が付いたのはたった今。制服のポケットにしまい込んでいた生徒手帳を取り出した時だった。
ふとした弾みで肘がコートの上から右脇腹に当たった時、そこになにか薄くて固いものがある感触があった。
そこはコートの右内ポケット、その一番深いところだった。
耕一さんに生徒手帳を渡し、耕一さんがそれを見ている隙に手を入れて確かめてみた。
その大きさ、手触り、形。 間違いなく探しているはずの定期券入れそのものだった。
コートの右内ポケットなんて普通は使うことはないし、ちょっと手を入れたくらいではわからないくらい深い。
それに、落として無くしたと思いこんでいた私は道路の辺りばかりを探していた。
灯台もと暗し。どうしてこんな所に入れたのか自分でもわからないけれど、気が付かなかったのも迂闊だった。
でも、私が「嘘」というのはそこから先。そして今。
私は耕一さんに、定期券が見つかったことを言わなかった。
言おうと思って、やめたのだ。
――もう少し、耕一さんを独り占めしていたかったから。
――もう少し、耕一さんとイブの街を歩いていたかったから。
千鶴姉さんや初音たちにばれたら、きっとずるいって言われるだろうけど。
もしかすると、耕一さんも気が付いているのかも知れない。
今から行くところに、定期券なんて落ちていないと言うことに。
でも、何も言わずについてきてくれる――耕一さんのそんな優しさが、私は好き。
耕一さんは、いつも何も言わない。自分の優しさを自慢したりは決してしない。
そこが本当に格好良いと私は思う。
さっきの公園でのこともそうだった。
あんな人たちくらい、耕一さんの力をもってすれば力ずくで追い払う事くらい簡単だったはず。
なのに、耕一さんは悪くもないのに頭を下げて、穏便に解決しようとした。
それは、私のためなのだ。
力ずくで追い払って、逆恨みしたあの人たちが後で私に復讐したりすることのないように、耕一さんは頭を下げて許してくれるようにお願いしていたのだ。
端から見れば、格好悪いと思われるかも知れない。情けないと思われるかも知れない。
でも、私たちのために、耕一さんは自分を殺してそうしてくれた。
そして私に「気にしないでいいよ」と言ってくれた。
それが、耕一さんの優しさなのだ。
叔父様とよく似ている、と思った。叔父様もそんな風にさりげなく、深い思いやりと気遣いを私たちに与えてくれる
人だった。 優しくて、強くて、あたたかくて――私たちのために文字通り命を懸けてくれた、そんな叔父様が私は
大好きだった。
(――耕一さん)
私は心の中で呼びかけた。
気が付いてますか? 耕一さんと叔父様、本当にそっくりです。
優しさも、強さも、あたたかさも――その、本当の意味での格好良さも。
そして、そんな耕一さんを私はこころから愛おしく思う。
叔父様へのそれとは少し違うけれど、耕一さん――
(――大好きです)
……いつか。
いつか、言葉にして言えたなら……
「何か言った? 楓ちゃん」
不意に立ち止まった耕一さんが私の方を向いた。
あたしはびっくりして耕一さんの顔を見上げた。
もしかして、私何か声に出してしまったかしら……?
でも、たぶんそうではない。
きっと、伝わったんだ。
言葉を越えたもう一つの感覚で、抱きしめたこの腕から……。
私は微笑んで言った。
「いつか、言います」
不思議そうな顔をした耕一さんの腕を引っ張って、私は歩き出した。
光さざめく聖夜の街路へ、膨らむ想いを抱きながら……。