星 に 願 い を ☆.。.:*・゚ その3

 

mission 2  梓の願い

 千鶴さんを寝かしつけて居間に戻ったのとほとんど同時に、梓が部屋に入ってきた。
 手に持たれたお盆の上には、みんなが食べたのと同じ梓の手によるまともな料理が載っている。
 挽肉と茄子のピリ辛炒めとネギを散らした納豆。そして瓶ビールの姿が見える。 

「お、梓気が利くな」
「これで貸し2だからな」

 悪ぶって言ったすぐ後に、へへっと自分で笑ってしまうあたりがこいつの憎めない所だったりする。
 それにしても安心できる食事というのがこんなにありがたいものだとは、いままで考えもしなかった。
 千鶴さんの作った料理を食べているときの、あのロシアンルーレットのような恐怖のかわりに、くつろぎと安心感がある。そう、これが食事というものだよなぁ……

 そこで俺は思いだした。
 今夜の梓の願い。

 「家内安全 無病息災」

 高校卒業したての女子大生の願い事ではない。
 もっと、ほら、他にあるだろ? とつっこみたくなったが、考えてみれば梓はそんな奴だ。

 誰よりも家族想い。まめに食事を作ってみんなの健康管理をし、ぶっきらぼうだけど面倒見がいい。
 この願い事は、梓のモットーなのかも知れない。
 みんなが元気に、そして健康に暮らしていけるのも、梓のおいしい料理と、なんだかんだいいながらも世話を焼くそんなまめな性格のおかげなのかも知れない。縁の下の力持ちというやつだろう。
 梓の願い事は、すでに梓が自分でかなえている。
 じゃあ、俺はせめてそんな梓の労をねぎらってやろう。
 「家内安全 無病息災」の守り手である梓が元気なら、みんなも元気でいれるはずだろうから。

 俺はビール瓶を手にとって言った。

「梓、コップもってこいよ」
「へ? そこにあるじゃん」
「バーカ、お前のだよ。……飲もうぜ」

 俺は、にやっと笑って瓶の口を軽く振った。

「千鶴さんには、内緒にしといてやるよ」
「やりっ! 話せるじゃん、耕一!」

 予想通り、梓は相好を崩して立ち上がり風の早さでジョッキを取ってきた。
 ついでにビールを二、三本掴んで来ているあたりがさすがだ。小脇にはさきいかの袋まで挟まれている。

「……それ大きすぎないか?」

 梓が俺の前に突きだしたジョッキは、まさにビアガーデンなんかで見かける大ジョッキそのものだ。
 なんでこんなものがこの家にあるんだろう?

「気にしない気にしない、はやく注いでよ」
「へいへい」

 じれたように体を揺さぶる梓が妙に可愛くて、俺は苦笑しながら瓶を傾けた。
 汗を掻いた濃茶の瓶から注ぎ出る、黄金色の液体と膨れ上がる白い泡を梓はまるで子供みたいにじっと見つめている。喉がごくり、と鳴っているのが梓らしい素直な反応だ。
 結局、梓に注ぎ終わったときには大瓶を一本空けてしまった。

「じゃあ、えーと、何に乾杯しようか」
「やっぱ七夕なんでないの、今夜は」
「あ、お兄ちゃん達乾杯するの? 私もしたいなぁ」

 初音ちゃんが自分のジュースの入ったコップを両手で持ち上げている。
 ふと見ると、楓ちゃんも胸元に自分のグラスを持って、上目遣いにこちらを見ていた。
 俺は梓と一瞬目を合わせ、ふっと苦笑した。

「いいよ。じゃあ、千鶴さんいないけど……八年ぶりの七夕に!」
「「かんぱ〜〜い!!」」

 四つのグラスがテーブルの上を交差して、涼やかな音を立てた。

 

 驚いたことに、梓は乾杯の音頭と同時にジョッキを急角度に傾け一気に飲み干してしまった。
 飲み干した後大きな息をついてうめき声を上げた梓に、初音ちゃんが心配して「大丈夫?」などと言って俺と梓を苦笑させた。 いつか分かるよ、と言いながら、初音ちゃんがこんな親父な飲み方をするところは見たくないと思ってしまう俺なのである。
 持ってきていたビールを全部空けてしまうと、梓は今度は日本酒にチェンジした。
 親父が愛用していたという酒器になみなみとついで、くいくいとやり始める。
 そのうち、楓ちゃんと初音ちゃんは毎週見てると言うテレビドラマに集中しだした。
 二人が並んで時々おしゃべりしながらテレビを見ている後ろ姿を見ながら、俺と梓は晩酌の盃を重ねていった。

 梓の料理はお世辞抜きで旨かった。
 唐辛子がしみこんだ汁気たっぷりの挽肉と歯触りが良い茄子が御飯を、というより酒をすすませる。

「梓ぁ、これ旨いなぁ。最高だよこれ」
「アレのあとじゃ何食べても美味しいさ」

 まったく素直じゃないんだから。俺は相変わらずな梓の言葉に苦笑した。
 しかし、言った直後にくいっと盃を傾けるあたりが照れ隠しのようで可愛らしい。

「でも、本当、お前がいなきゃみんなどうやって御飯食べてたんだろうなぁ」

 納豆を口に運びながら俺がそう言うと、梓は一瞬思案顔になった。

「それなりに何か作って食べてたんじゃないの? 仮にも女兄弟なんだし」
「それでも、いまみたいには行かなかったと思うぞ。やっぱり梓のおかげだよな」
「どうしたんだよ耕一。やけに誉めてくれるじゃない」
「誉めてるんだよ」

 頬杖をついて少し焦点の合ってない潤んだ目で俺を見る梓に、俺は優しく言った。

「誉めてるんだよ、梓。お前は偉いよ。お前がいるからみんな元気に暮らしていられるんだよな。本当に、感謝してる」

 そんなことを言う俺を梓は不思議そうにじっと見ていた。

「酔っぱらっちゃったの? 耕一」
「酔うほど飲んでない。酔ってるのはそっちだろ」

 真面目に話してたのをスカされたような気がして、ちょっとぶっきらぼうにそう言った。
 何か言い返してくるかと思ったが、梓は暑い日の犬みたいに組んだ両腕に顎を載せ小さく息をついた。視線はテーブルの上に斜めに落ちている。上気した頬を自分の腕にすりつけながら梓は言った。

「……うん。酔ってる。ピッチ早すぎたかなぁ」
「無茶するからだ。ま、お前らしいけどな」

 俺がそう言うと、梓は目だけを動かして俺を見た。

「あたしらしいって、どこが?」
「すぐ無茶するとことか」

 即答してやると、梓は首を傾けて腕の上に頭を横たえた。

「あたし、無茶してるかな」
「無茶って言い方が悪かったとしたら、頑張りすぎてしまう、と言うのかな。それって梓の良いところかも知れないけど、欠点でもあるよな。後先考えないで突進していくのって」
「…………」
「さっきも言ったと思うけど、梓のおかげなんだよ。梓が誰よりも美味しい御飯を作ってくれるから、みんな食卓に顔をそろえるんじゃないか。俺だって、ここに帰ってくる楽しみの半分はお前の料理なんだからな」

 言うと照れる。でも、本当のことだ。
 梓は聞こえているのかいないのか、すました表情のままじっとしている。
 俺は続けた。

「だから、あんまり無茶しないでくれ。お前に何かあったら、みんなどうなるんだ? いろんな事があったけど、これから俺達が家族になって、幸せになっていこうって決めたよな。いつまでもみんな仲良く、元気に……これは梓にかかってると、俺は思う」

 みんな仲良く、元気に過ごせますように。
 ――梓の願い事だ。

「俺達も頑張るけど、梓は一番大切なことを任されてる。梓にしか出来ないことなんだ。――だから、俺達のためにも頑張りすぎないでくれ、梓」

 言い終えると俺は手元にあった盃を傾けて、入っていた酒を一口に飲んだ。
 喉を灼く酒精と鼻を突き抜ける酒匂が、五感の全てを一瞬麻痺させる。
 それが去ったとき、俺は梓の小さな声を聞いた。

「……ありがと、耕一」

 そう言うと、梓はそっぽを向いて目を閉じた。
 そして、やがておだやかな寝息を立て始めた。

 

 梓の願いはきっとかなうだろう。
 なぜならそうなるように、梓は頑張っているからだ。

 だから、七夕の神様。お願いです。
 こいつが頑張りすぎて無茶をしたときに、護ってやって下さい。
 俺の隣で今、ひとしずくの涙を流し微笑みながら眠る、この意地っ張りな従姉妹を。

 

 

mission3  楓の願い

 

「あれ、梓お姉ちゃん寝ちゃったの?」

 どうやらドラマが終わったらしく、楓ちゃんと初音ちゃんが席に戻ってきた。

「飲み過ぎ。まあ、しばらく寝かせてやっとこう」
「ふふっ、でも気持ちよさそうに寝てる……あれ? でも涙の跡がある」
「あくびでもしたんじゃない?」

 おれは空とぼけてそう言って、手の中の酒を舐めるように呑んだ。

「あ、でもこのまんまだと風邪ひいちゃうかもね。何か掛けるのあるかな」

 七月とはいえ夜の空気は涼しい。梓は白いタンクトップ一枚の格好なので、肩が露出している。
 酒を飲んでると暑くさえ感じるが、このままだと体が冷えてさすがの梓も風邪を引いてしまうだろう。
 俺があたりを見渡していると、初音ちゃんが立ち上がった。

「タオルか何かでいいよね。わたし持ってくる」
「ごめん、初音ちゃん」

 俺が片手をあげて礼をすると初音ちゃんはにっこり微笑んで部屋を出ていった。
 部屋には俺と楓ちゃんが残された。
 視線に気が付いて振り向くと、楓ちゃんが俺の方を見ていた。視線を合わせるとあわてたように視線をそらしてうつむいてしまった。俺はそれに気が付かないふりをして、またちびりと酒を飲む。
 何気なくみた窓の向こうに、月明かりにぼんやりと浮かぶ七夕の笹の姿が見えた。

 そこで俺は思い出す。水色の短冊に、筆で書かれた綺麗な文字。 
 今夜の楓ちゃんの願い事。

 「大学に合格できますように」

 そっか、今年受験なんだっけ。そう思ったのを覚えている。
 忘れていたわけではないけれど、本人がとりたてて焦ってるふうでもないのでそれほど気にしてなかった。
 でも、お願い事に書くぐらいだから、やっぱりいろいろプレッシャーとかあるんだろうな。

 そんなことを考えていると、初音ちゃんが薄めのタオルケットをもって戻ってきた。
 梓の後ろから、そっと広げて肩に掛ける。一瞬梓がもぞっと動いたが目を覚ます気配はなかった。

「あんまり厚いのだと暑いかなと思って」
「優しいねぇ、初音ちゃんは」
「ううん、優しいのはお兄ちゃんだよ。梓お姉ちゃんのこと気が付いたのはお兄ちゃんだったし」

 面と向かってこういう照れることを言って、それでもわざとらしくならないのはこの子の持つ人徳だろう。
 初音ちゃんは立つとそのまま席に戻らず、部屋の出口にむかった。

「じゃあ、わたしお風呂入ってくるね」
「のぼせないようにね」

 子供だった頃、初音ちゃんと一緒にお風呂に入っておもちゃで遊んでいるうちにふたりともすっかりゆであがった思い出がある。泣きそうな顔で俺をうちわで扇いでいるお袋と、俺を見つけて真っ赤な顔して微笑んだ小さかった初音ちゃんの姿が瞼にのこっている。

「おもちゃで遊んだりしちゃだめだよ」
「もう! お兄ちゃんたらぁ。もう子供じゃないんだから……」

 初音ちゃんが真っ赤になってそう言う姿が可愛くて、ついついからかってしまう。
 こういうところは、八年前から全然変わってないんだな、俺。

 

 初音ちゃんが出てゆくと、今度こそ楓ちゃんと二人だけになってしまった。
 じつは梓もいるのだが、今のこいつは死体と同じだ。
 俺は意を決して、話を振ることにした。

「楓ちゃん、たしか今年受験だったよね」
「……はい」

 楓ちゃんはうつむいていた視線をあげて俺を見て応えた。

「志望校、決まったって言ってたよね。どこだったっけ」

 楓ちゃんは小さな声で、隣の市にある有名な大学名をあげた。
 最近とある大企業が出資してできた新しい大学だけれども、設備と講師の水準の高さがすでに話題になっている。良くは知らないがかなりの難関のはずだ。都内の有名私立大学と同じか、学部によってはそれ以上のレベルだったと記憶している。俺の大学とはお話にならないくらいランクが違う。

「あそこかぁ。すごくいいとこらしいね」

 こくり、と頷く楓ちゃん。

「でも、凄く難しくて……」
「大丈夫だよ、楓ちゃんなら」

 無責任な発言に聞こえるかも知れないけれど、実際楓ちゃんは成績優秀なのだ。
 楓ちゃんの通っている高校はこのあたりでも指折りの進学校だけれども、そのなかで楓ちゃんは常に上位10位に入っているらしい。
 それだけの成績を納めていても、やっぱり不安とかあるんだろうか。
 ……あるんだろうなぁ。

「やっぱり、不安?」

 俺がそう聞くと、楓ちゃんは小さく頷いた。
 経験者として、同情できる心理状態だ。
 こう言うのは成績の問題じゃない。どんなにいい点とってても、不安なものは不安なんだ。
 特に楓ちゃんは真面目でなんでも一人で背負い込んでしまうタイプだから、そんな不安をどう処理して良いか分からなくなってしまうんだろう。
 楓ちゃん、見るからに繊細な感じだからなぁ。

 ここはひとつ、楓ちゃんをリラックスさせてやることにしよう。
 リラックスといえばやはり……

「楓ちゃん、おいで」

 俺は自分のとなりの座布団をぽふぽふと叩いた。
 きょとんとした楓ちゃんに言う。

「お酒、つきあってくれないかな」
「えっ、あ……」

 案の定、楓ちゃんは戸惑ったようにそわそわしだす。
 でも、目はちらちらとこっちをうかがっている。もう一押しだ。

「一人で飲むの、つまんなくってさ。……となりに座ってくれるだけでもいいんだけど」

 ちょっとずるい言い方だけど、楓ちゃんには効果がある。
 俺が目で ね? と頷き掛けると、楓ちゃんは少し頬を赤くしながらゆっくりと立ち上がった。

「じゃ、じゃあ……はい……」
「よっしゃ〜〜〜っ!! ありがとう楓ちゃん!!! やっぱり七夕はいいなぁ」

 ちょっと大げさに俺は喜んだ。こういうのは雰囲気だ。
 楓ちゃんがはにかむような表情で、俺のとなりにやってきた。 

「あの……おじゃまします
「うんうん、おいでおいで」

 恥ずかしそうな細い声でそう言う楓ちゃんに、俺は横にずれて場所を空ける。
 楓ちゃんが腰を下ろすと、ふわっと髪が香った。振り向くと、そこに楓ちゃんの横顔があった。
 肩の手前で切りそろえられた艶やかな黒髪と、襟首から覗く白いうなじ。雛人形を思わせる端正な目鼻のつくりに俺はしばし見とれた。おもえばこんな至近距離で楓ちゃんを見たことはいままでなかった。
 俺は不意に、八年前にあったときの小さかった楓ちゃんの姿を思い出した。
 大きくなったな、楓ちゃん。そして、綺麗になった。

「耕一さん……あの」

 俺の露骨な視線に、ますます赤くなった頬を隠すように肩をすぼめる楓ちゃんを見て、俺は気を取り直した。
 いかんいかん、当初の目的を見失ってしまうところだった。 

「あ、ごめんごめん。じゃあ……はい」

 俺は自分の盃を差し出した、楓ちゃんがおそるおそるとそれに注いでくれる。
 盃に口を近づけるようにして、俺はそれを空けた。
 ・・・どうしてだろう。同じ酒なのに、梓と飲んでた時と味が違うのは。
 首を振って深い息をつく俺に、楓ちゃんがふふふと笑った。

「どうしたの」
「耕一さん、おじさんみたい」

 この際のおじさんとは俺の親父のことではなく、一般大衆的イメージにおける「おじさん」のことだろう。
 飲むとおっさんくさいとは、大学の仲間からも言われるんだけれど、やっぱりそうなのか。
 何となく恥ずかしくなって指で頬を掻く。
 まだ少し笑ってる楓ちゃんの手に、俺は雫を切って盃を渡した。

「はい、ご返杯」

 いきなりのことにびっくりしている楓ちゃんに俺は言った。

「お酌した人は、ご返杯っていって一杯飲まなきゃいけないんだよ」

 初めからこれが狙いだった。
 楓ちゃんに少しでもお酒を飲ませて、リラックスしてもらおう。
 癖になってもらっては困るけど、不安で張りつめた楓ちゃんにすこしでも気分転換になればと思ったのだ。

 注ごうとしてふとみると、楓ちゃんが真っ赤な顔をしている。
 どうしたんだろう?

「どうしたの? 注ぐよ」
「は、はい……」

 声まで真っ赤にしながら楓ちゃんが盃を差し出した。
 不可思議に思いながら少なめに注いで、楓ちゃんがそれを口に運んだとき、俺は気が付いた。
 ……そう言えばご返杯って間接……

 ――気が付いた途端、俺まで顔が熱くなった。
 う〜〜〜ん。リラックスどころか、かえって緊張させてしまったんじゃないだろうか。

 

 楓ちゃんは一杯目をおそるおそると言った感じで、時間を掛けて飲み干した。
 最期の一口を飲んだ後、ふううっと熱い息をついた楓ちゃんを見てくすくす笑うと、楓ちゃんは可哀想なくらい真っ赤になってしまった。俺はただ訳もなく嬉しくて楽しくておかしくて、笑いはいつまでも後を引いた。
 自分が飲み終えると、楓ちゃんは盃を俺に返してきた。俺は注がれるままに飲み、そして楓ちゃんにもけして無理強いはせずに数杯をお酌した。
 三杯目を越えたあたりから、すこし効いてきたのか楓ちゃんの瞳がとろんと潤んできた。緊張してた体も随分とリラックスしてきたのが、隣にいて分かる。心持ち俺の右肩に寄りかかるような感じになった楓ちゃんの体を、俺はだまって支えてやった。
 お酒を飲みながら、俺と楓ちゃんはいろんな話をした。
 学校の話、友達の話。テレビの話。最近読んだ本の話。見ていたドラマの話。千鶴さんや梓、初音ちゃんたちのの話。昔の話、今の話、そして将来の話……
 思えば、楓ちゃんと二人でこんなに長く話したのは初めてのことだった。

 二人で何杯空けたかもう忘れかけた頃、話題は初めの大学受験の話に戻っていた。
 それまでの話で、楓ちゃんがいまどんな立場にいるかがだいぶ分かっていた。また、楓ちゃんの夢も、少しだけれど聞くことが出来た。
 楓ちゃんがやってみたい分野は、この日本ではその大学が権威なのだそうで、なんとしてでもその大学に入りたいという楓ちゃんの強い願いを俺は理解できた。
 しかし、そこの学部は全般的に難関であるその大学のなかでも一・二を争う難関で、楓ちゃんの今の成績でも気を抜けない所らしい。
 そのうえ楓ちゃんは、学校のテストなら平気なのに、改まった試験となると緊張とプレッシャーのため思うような力が出せないという、なんとも困った癖を持っていた。
 いまはまだ一学期。でも夏休みが終わって二学期に入ると、私立の早いところではやがて受験が始まるのだ。

「本命は、来年なんですけど……今から不安です」
「受験戦争はもう始まってるのかぁ」
「うちの学校は一年生の時からそう言われます」

 くすっと笑って楓ちゃんはそう言った。
 そうか、進学校だもんな。
 ぐうたらな高校生活しか送ってこなかった俺と比べてみると、なんだか可哀想な感じがする。
 じゃあせめて、行きたい大学にくらい行かせてやりたいと思う。でも、俺がかわりに試験を受けることは出来ない。受けられたとしても合格出来ないだろうけど……
 結局、楓ちゃんが頑張るしかない。俺には励ますことしか出来ないんだ。
 ――そう思ったとき、俺はこんな事を言っていた。

「楓ちゃん、おまじないをかけてあげる」
「おまじない……?」
「そう。試験の時にあがらない、自信が湧いてくるおまじない」

 もちろんそんな都合のいいおまじないなんて知らない。
 でも、おまじないというのは結局自己暗示みたいなもので、「これで大丈夫だ」と信じることが肝心だ。
 掛ける方には当然、相手に信じさせるだけの確信が無くてはいけない。
 俺は楓ちゃんに後ろを向かせ、背中から抱く形をとった。

「きゃっ」
「目を閉じて、楓ちゃん」

 俺はさもその道の達人のように確信を込めて言った。
 楓ちゃんは言われるままに目を閉じる。

「両手を胸に当てて……そして俺の声に耳を澄ませて」
「……はい」

 俺の開いた両膝のあいだで、楓ちゃんは祈りを捧げる敬虔なクリスチャンのような姿勢になる。
 なにをされると思っているのか、耳たぶが真っ赤だ。
 俺はその背中をゆっくりと引き寄せて、両手で包み込むように頭をなでた。
 そして、その耳に魔法の呪文のようにささやく。

「楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る楓ちゃんは出来る……楓ちゃんは、出来るッ!!」
「きゃっ!?」

 最後に、顔の前でぱんっと手を打った。
 驚いて目を開けた楓ちゃんに俺は告げた。

「これでもう大丈夫。いま目を開けたときに楓ちゃんは生まれ変わったんだ」
「本当……ですか?」

 体をねじって俺の方を向き、そう聞いてくる。
 俺は自信たっぷりに頷いてやった。

「大丈夫! これでもう試験なんて怖くない。……俺を信じて」

 ここが肝心な所だ。
 俺は楓ちゃんの目を至近距離から覗き込んだ。
 しばらく見つめ合った後、楓ちゃんは見たことがないくらい柔らかく微笑んだ。

「……はい」

 迷いのない、良い笑顔だと思った。

 しかし、楓ちゃんはすぐまたうつむいてしまった。
 あれ、成功したと思ったんだけどなぁ……

 すると、楓ちゃんがひどくもじもじしながら言った。

「あの……できれば、もう一回……」

 

 二回目のおまじないは、しかし最後までかけることができなかった。
 リクエストにお答えして前よりゆっくり長めに唱えた呪文の最中に、楓ちゃんが体の力を抜いて俺の胸に倒れかかるように身を預けてきたのだ。
 驚いて抱き留めて見てみると、楓ちゃんはすうすうと気持ちよさそうな寝息を立てていた。
 ……その小さいおもてに、微笑みを浮かべたまま。

 受験生に風邪なんかひかせるわけにはいかない。俺は楓ちゃんをそっと抱きかかえ、部屋のベッドの上に運んでいった。疲れていたのだろう、楓ちゃんはよく眠っていて起きる気配はなかった。
 抱きかかえてみて、そのあまりの軽さに驚いた。そして、その肩の、その腕の、その手の小ささに、俺は改めて驚いた。
 こんな華奢な体に、この子はたくさんのものを背負って頑張っている。
 周囲の期待、自分の夢、不安、希望、恐れ……
 俺にはせいぜいインチキなおまじないを使って励ますことくらいしか出来ない。
 ――でも、今夜は特別な夜だ。本物の奇跡を起こすことだって出来るかも知れない。

 だから俺は祈る。
 ――七夕様。どうか俺のおまじないが効いていますように。
 そして夢に向かうこの子の頑張りを、どうかお護り下さい……
 

その2

その4

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