mission4 初音の願い
楓ちゃんを部屋に連れていって座敷に戻っても、初音ちゃんの姿はまだ見えなかった。
多分、まだお風呂だろう。
もうかれこれ一時間ぐらい立つけれど、初音ちゃんの長い髪を思い出してそんなものかもしれないと思う。良くは知らないけれど、女の子のお風呂ってのはそんなものだと思った。
それに、なんにせよ初音ちゃんがまだあがっていないのは好都合だ。
庭の笹の所に行って、初音ちゃんのお願い事を見なければいけない。食事が始まる少し前に初音ちゃんが自分の黄色い短冊を笹に結びに行ったのを確認してある。
だいぶ酒を飲んではいるが、梓みたいに無茶な飲み方をしてないので意識も足取りもしっかりしている・・・はずだ。まあ、自分でそう言ってる奴が一番あてにならないんだけど。
俺は濡れ縁からサンダルを引っかけ、宵闇に薄く月明かりに浮かび上がる笹の許に忍び寄った。
さらさらさら……
夜風が笹を奏でる音が、夜の静寂に優しく響いていた。
金や銀の折り紙で作ったお飾りが星の光をうけて、まるで本物の金や銀のように美しく輝いている。
見上げると、月はもう高いところに懸かっていた。朝の予想どおり、雲一つない澄み切った夜空だった。
「きれいだな……」
思わずそうつぶやいていた。
詩人もない俺に気の利いた言葉が出てこないが、それは俺の心の素直な動きだった。
俺はしばし夜の庭に立ちつくし、織姫と彦星が一年に一度の逢瀬を果たしているであろう天の川を眺めながら、今日の出来事を思いだした。
今朝、七夕の話をしたときのみんなの沈んだ雰囲気。そして八年ぶりに七夕をしようと言ったときの、みんなの笑顔。俺は何よりも、あの笑顔に満たされた。
倉庫から引っぱり出した古い鋸をもって裏山に行き笹を切っていたら、山菜を摘みにやってきた近所の爺さんが手伝ってくれた事も思い出した。
俺が事情を説明してお礼を言うと、その爺さんは俺の親父の事を知っていた。そして切った笹を家まで運ぶのを加勢してくれ、そのうえ取ったばかりの山菜をいくつか分けてくれたのだった。ひょっとすると、その時の山菜の一部が今夜の千鶴さんの料理に使用されたのかも知れない。……いったい何が生えてるんだ。うちの裏山は。
帰ってから少し昼寝をして、いい加減な昼食を取りながら作業をした。笹の余分な枝を打って揃え、少しぐらついていた杭を補強した。そうこうしていると、初音ちゃんが帰ってきた。両手に下げた紙袋には作りかけのお飾りと、その材料がたくさん入っていた。
そのうち夕食の買い物を一緒に済ませて梓が帰ってきて、ほとんど同時に千鶴さんが帰ってきた。あきれたことに千鶴さんは会社を早引けしていた。梓が先に帰ってきているのを知って、千鶴さん悔しそうな顔をしてたけど、何故だったんだろう?
最後に楓ちゃんが、走ってきたのか息を切らせて帰ってくると、みんなで飾り付けを始めた。
さすがに楓ちゃんは手並み鮮やかで、初音ちゃんも千鶴さんもなかなかに上手だった。梓は……まあ、料理とは別の才能なのだろう。ちなみにこよりは市販のものを使った。
梓と二人で笹を立てつけたとき、なぜか拍手がおこった。暮色たなびく夕空にすっと背を伸ばす青笹の姿は、不思議な感動を呼び覚ます力をもっていた。こんなに良いものを八年間も失ってきたという千鶴さん達はなんて可哀想だったんだろう。夕風に揺れる笹を見ながらそう思ったのを思い出した。
そして、千鶴さんの笑顔、梓の笑顔、楓ちゃんの笑顔――
俺は目を閉じて、大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐きながら目を開けた。
……最後は、初音ちゃんだ。
持ってきた懐中電灯で笹を照らし、初音ちゃんの短冊を探す。
さっきまで月明かりと星明かりで明るい位だったのに、ライトをつけた途端急にあたりが暗くなったように感じた。足下がおぼつかなくなって、俺はすり足で移動しながら笹の葉を探った。
初音ちゃんの黄色い短冊は、ほどなく見つかった。
俺は懐中電灯を頭の横に構えて、短冊の文字を追った。
そこには、こんな意外な言葉が書かれていた。
「ありがとう」
……俺はその短冊を手にもったまま考え込んでしまった。
ありがとう。
それは感謝の言葉だ。
しかし……
一体誰に、また何に。初音ちゃんは感謝しているのだろう。
――自分の願い事もせずに……
「……誰?」
不意に屋敷から声がかかり、俺はびくっとして短冊をあわてて手から離した。
懐中電灯がつけっぱなしだった事に気が付いて、背中にあわてて隠す。
考えてみればなにもおびえる必要はないのだが、不意をつかれたことと、短冊を盗み見ていたという後暗さが俺をひどく動揺させた。
「誰!?」
こんどは少し強い語調で誰何の声がする。向こうも少なからずおびえているようだ。
その声に俺はようやく緊張を解いた。この声は、初音ちゃんだ。
俺は深呼吸をし、落ち着きを取り戻してから言った。
「初音ちゃん。俺、オレ」
「お兄ちゃん?」
俺が両手をあげながら月明かりの当たるところまで出ると、初音ちゃんのまだ緊張した声が俺を呼んだ。
両手でタオルを握りしめ、肩をすくませて初音ちゃんが立っているのが見えた。
「どろぼーさんだと思った?」
緊張をほぐそうと砕けた感じでそう言うと、初音ちゃんは体全体でためいきをついた。
「はあぁ〜〜〜〜っ、怖かったぁ……」
「あはは、ごめんごめん。びっくりさせちゃったみたいだね」
「だって、お兄ちゃん返事してくれないんだもん。まだ胸がどきどきしてる」
心臓の上に手を当てて、ようやく安心した目をしながら初音ちゃんが言った。
俺は笑って謝りながら、初音ちゃんが立っている濡れ縁の端に腰を下ろした。夕方に俺が風呂上がりに初音ちゃんを見かけたのと同じ場所だ。
俺の隣に女の子座りでぺたりと座りながら、初音ちゃんが俺に尋ねてきた。
「……何してたの、お兄ちゃん」
う。
答えづらい事を……
「……星が綺麗だったからさ、ちょっと空を見にね」
「懐中電灯つけて? ふふっ、へんなお兄ちゃん」
俺の下手な言い訳はあっさり論破されてしまった。
……しかたがない。本当のことを言おう。
「みんなの書いた短冊をみてた。初音ちゃん……君のも」
俺は向き直って頭を下げた。
「ごめん。勝手に」
「あっ、えっ……そんな。謝らなくていいよお兄ちゃん……」
「いや、謝る。初音ちゃん、悪かった」
優しい初音ちゃんが俺をいともあっさり許してしまうだろうことは分かっていた。
だから俺はしっかりと頭を下げてお詫びをし、そして目を上げた。
「その上で、聞きたいことがあるんだ」
俺はちらと七夕の笹が立っているあたりに目をやって、そして初音ちゃんの顔を見やった。
「初音ちゃん……どうして「ありがとう」なんだい?」
「……」
「もしかして、その、俺が読むことを知ってたの?」
それは俺が真っ先に思い付いた可能性だった。
初音ちゃんは俺がみんなの短冊を読んでいるのを知って、それでそのことへの感謝を書いたのではないかという考えだった。つまり、あの「ありがとう」は俺へ向けたものだったという可能性……
しかし、初音ちゃんはわずかに目を伏せたまま首を振った。
「ううん、ちがうよ」
「じゃあ、あれは一体?」
「あれはね……」
俺の言葉を遮るようにそう言って、初音ちゃんは夜空を見上げた。
つられて空を見上げた俺の横で、初音ちゃんは言った。
「七夕様にお礼を言ってたの。有り難うございましたって」
「七夕様に?」
「耕一お兄ちゃん、初音のお願い事はね」
そっと横を見ると、初音ちゃんは星明かりに目を細めて微笑んでいた。
そして続いた言葉は、俺から言葉を奪った。
「……八年前の七夕に、もうかなえてもらったんだよ」
八年前の七夕の日、小学校に入ったばかりの初音ちゃんは七夕様にお願い事をしたという。
「おにいちゃんをください」
子供ならではの無邪気な、でも、かないそうにない願い。
しかしその願いは叶ったのだ。
その夏初めて親父の実家に遊びに行った俺を、初音ちゃんは七夕様がくれたお兄ちゃんだと思ったらしい。
いや、いまでもそう思っているのかも知れない。この子は今でも俺のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。
一人っ子だった俺もまた、俺を兄と慕ってひっついてくる初音ちゃんを妹のように思い可愛がったものだ。
でもその「お兄ちゃん」はたったひと夏で姿を消した。柏木の宿命ゆえのある事件が起きたため俺は夏が終わる前に隆山を去り、そしてそのまま二度と訪れることはなかった。去年、親父が急死するまで八年間も……
たったひと夏の、幻みたいな「お兄ちゃん」。
それが、初音ちゃんにとっての俺なのだ。
なのに、この子は……
「「おにいちゃんをください」だなんて、今考えるとなんて無理なお願い事だったんだろうって、私も思う。お父さんもお母さんも困った顔して「弟は出来てもお兄ちゃんは出来ないんだ」って言ってたけど、それでも私、お兄ちゃんが欲しかったの」
問わず語りにそう話す初音ちゃんは、ただ静かに微笑みながら楽しそうに夜の七夕を見つめている。
「そうしたら、本当にお兄ちゃんがやってきてくれた。私、本当にほんとうに嬉しかったんだよ。お星様は私のお願い事を聞いてくれたんだ、って。だから来年の七夕の時にはお星様にお礼を言おうと決めたの」
初音ちゃんは、しかしそこで夜空から視線を落とした。
「でも、来年の七夕は来なかった。七月七日は来たけれど、七夕は来なかったの。その次の年も、次の次の年も、ずっと……」
「初音ちゃん……」
「だからね、お兄ちゃん」
急に目を上げ、初音ちゃんは大きく微笑んで俺に言った。
「今夜七夕をしよう、ってお兄ちゃんが言ったとき、私本当に嬉しかったんだよ。だって、やっと七夕様にお礼が言えるんだもの。七夕さま、有り難うございました。初音に優しいお兄ちゃんをくれてって」
月明かりの下、純粋な感謝と歓喜のままにそう話す初音ちゃんは例えようもなく汚れのない存在だった。
――俺は何も言えず、ただ初音ちゃんの頭を静かに抱き寄せた。
初音ちゃんは驚いたように身を固くしたがそれは一瞬のことで、少し恥ずかしそうに笑んだまま俺の胸に頭を任せ、シャツの裾をきゅっと握ってきた。
俺は初音ちゃんの頭の重さとぬくもりを胸のあたりに感じながら目を閉じて、震えそうになる唇を噛んでいた。
八年前に一度だけ現れた、ひと夏限りの「お兄ちゃん」。
しかもその「お兄ちゃん」は、理想のお兄ちゃんとはほど遠い存在だった。
泣かせたり、困らせたり、心配させたり、意地悪をしたり……
なのに、にもかかわらず、この子は願いを叶えてくれた七夕様にずっとずっと感謝していたという。
――「ありがとう」
その一言に込められた思いに、俺は応えられるのだろうか。
「ねえ、初音ちゃん」
腕の中で静かに息ずく初音ちゃんはとても安らいだ表情をしていて、眠ってしまったのかと俺は思った。
しかし、初音ちゃんは寝てはいなかった。俺の胸に頭を預けたまま顔を巡らし、なあに、と言う目で俺の顔を見上げる。初音ちゃんの大きな瞳は月の白い光を受けて、まるで月を映す夜の湖のように深い輝きを帯びていた。
「お願い事は、しなくていいの?」
「お願い事?」
「そう、今年の初音ちゃんのお願い事」
俺がその目を見つめながらそう言うと、初音ちゃんは数回まばたきをして小さく微笑んだ。
「いいの。だって私のお願い事は、八年前に……」
「八年前に叶ったのは、八年前のお願い事だよ。初音ちゃんの今年のお願い事はまだ叶ってない」
そう言うだろうと思った通りの言葉を口にした初音ちゃんに、俺は諭すように言った。
そして初音ちゃんの小さな頭を優しくなでながら、俺はにこりと微笑んだ。
「七夕様は一生に一度しか願いを聞いてくれないわけじゃないよ。むしろ初音ちゃんの場合、八年の分だけ御利益があるかもね」
おどけてそう言うと、初音ちゃんはくすくすと笑った。
俺も笑った。初音ちゃんの笑う声が胸の中に直接しみこんできて、俺は心が温かくなるのを感じた。
そして、風が吹いて止むほどの時間が経ったころ、初音ちゃんがつぶやくように言った。
「じゃあ、お星様にお願い……」
俺にしがみつく手にきゅっと力を込めて、初音ちゃんは祈るように言った。
「……これからは、お兄ちゃんとずっと一緒にいれますように」
そう言うと、初音ちゃんは俺から顔を隠すようにうつむいてしまった。
俺は黙って、初音ちゃんを抱く手に力を込めた。そしてその可愛い小さな頭を愛おしくなでながら、俺は夜空を飾る星々を見上げた。
そして俺は声もなく祈る。
――八年前、この子に兄を与えた星々よ。
この子の八年に免じて、今一度だけこの子の為に奇跡を起こして下さい。
この子の願いが叶いますように。
もう二度と、離ればなれになることがありませんように。
この子が望む限り、側にいてやれますように・・・
今夜最後の俺の願いは、ささやくようにきらめく星々の中に静かに溶けていった。
八年ぶりの七夕の夜。奇跡が起こるこの夜。
この日俺が捧げた全ての願いが叶うことを知るのは……もう少し未来のことになる。
星に願いを 完
1999 七夕(ちょっと遅れました)
by
akira inui