巻一/言えないチカラ


その日も長瀬祐介は惰性で学校にやってきた。
そもそも確たる目的があって学校に来る奴などいるのか?
甲子園とかその手のモノを目指している変わり者だけに違いない。
運動部の掛け声、なぜああやっていちいち声を揃えるのだろう、が飛び交うグランドをゆっくりと昇降口の方へ移動する。

どこかで見たことのある白黒フィルム。
そうだよ、これどこかで見たことがあるよ。
62点、あのリップいいよねー、大事に使えよ、リングに梶原が乱入してきてさー、薬子の変、あのハゲチャビン何考えてんのよ、逆転スリーラン、起きろ、ミトコンドリア。
それ前に聞いたことあるよ、そのシーン前に見たことある。
くだんない、くだんない、くだんない。
その中でも一番くだらないのが自分だと気づいたときの自分、これが一番くだらない。
あーあこんな世界壊れてしまえばいいのに。

そうだよ、壊れちゃえばいいんだ。
例えば地球が崩壊する時に起きる狂気の渦はどんなのだろう。
少しずつ少しずつ安全な地面が綻んでいく。
人々は周囲を押しのけて自分だけは助かろうとあがく。
醜い。
しかし生き延びようとする行為は常に醜いんだよ。
誰だって醜態を晒しながら今も生きている。
醜さがわかりやすくなっただけ健全、ってもんじゃないか。
最も結局誰一人生き残れないのだけれど。

祐介がいつもの教室での妄想の世界に突入しようとするその時、後ろから肩に手が置かれた。
ビクン
なにかとても恥ずかしい姿をじっと見られていた事に気づいた、そんな風に祐介は文字どおり、ほんの少しだけど、飛び上がった。

「おはよう」
そこにはにこやかな笑顔の上級生がいた。
祐介が顔を知ってる数少ない上級生の一人、生徒会長の月島拓也だった。
もっとも知っているだけで話した事はない。
去年のクラスメートである月島瑠璃子の兄でなかったら顔も名も知らなかっただろう。

だから今拓也が話し掛けてくる理由も祐介には分からない。
急に振り返ったせいなのか頭が少しチリチリ痛い。
それに驚きがまだ体の中に残っていて”は”とか”えっ”とかの音の断片を発することしかできないのだ。
「おはよう、僕は三年の月島拓也というんだ」
もう一度朝の挨拶をしてから拓也は、君は?、とでもいうふうに首を傾ける。
しかし拓也の意図は祐介には伝わらなかった。
「知ってます」
自分の声がとても素っ気無いように聞こえたので慌てて付け加える。
「えーっと、生徒会長さんですよね」
拓也は肯いてから、今度は言葉で祐介の名前を聞く。
「うん、ところで君は?」

「あっ、はい、長瀬祐介といいます」
「そうか長瀬君か」
拓也は軽く肯いた。祐介の頭の中でまた何かがチリチリと騒ぎ出した。
それを払うかのように祐介は右手で頭を掻く。
その姿を拓也はじっと見ていた。

「あの、その、ちょっと頭が痒くて」
「感じるんだ」
祐介の言い訳をポツリとした言葉で遮った。
「えっ」
聞きかえそうとした祐介に「それではまたね」とだけ拓也は言い残し背を向けた。

”何の用なんですか”という問いを祐介が発する間もなく悠然と立ち去っていく。
その後ろ姿を見ながらも、軽く手を置かれただけの肩がいまだにどこか熱を持っているように感じられた。


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