巻序/雫


私は香奈子ちゃんにりんごをむいて差し出した。
「瑞穂、ありがと」
笑って香奈子ちゃんは楊枝に手を伸ばす。

「まったく、私としたことがドジを踏んじゃったわ」
香奈子ちゃんはめっきり春めいてきた窓の外を見る。
「こんなに気持ちのよさそうな暖かな春の日差しだというのに」
香奈子ちゃんはギブスで固めて吊ってある右足を恨めしそうに見る。

「ここから見るほど暖かいわけじゃないよ」
私もりんごをほおばりながら話す。
「まだまだ風は冷たいよ、桜も後半月後ぐらいのはずだし」

「桜ね」
香奈子ちゃんは再び窓をちらりと見た。
「今年はお花見ができるかしら?」

香奈子ちゃんと私は中学から私の一番の友達で高校、大学とずっと一緒だ。
二週間前に香奈子ちゃんはスキー旅行(私も誘われたが行けなかった)
から足を折って帰ってきた。それからずっとこの病院に入院している。
もう後三日で退院できるらしいが、その後もしばらく松葉杖が必要になるという。

「今年の花見は香奈子ちゃんの部屋ですればいいよ」
香奈子ちゃんの部屋からは隣の神社の桜がとても奇麗に見える。
今までに何度か香奈子ちゃんと二人だけでお花見したことがある。

私はちらりと時計を見た。それを見てて香奈子ちゃんが口を開く。
「瑞穂、そろそろバイトに行った方がいいんじゃないの?」
「そうね、今からゆっくり行くことにするわ」
私は腰掛けていた椅子から立ち上がった。

「じゃあ今度は香奈子ちゃんの家に行くね」
香奈子ちゃんはうなづく。
「瑞穂、ありがとね。何度もお見舞いに来てくれて」

私は笑顔を返して歩きはじめた。
大部屋の出口で再び香奈子ちゃんに手を上げ私は廊下に出た。

私は今居酒屋でアルバイトをしている。
最初は雰囲気に戸惑ったけど今ではずいぶん慣れた・・・と自分では思っている。
高校を出たら働く覚悟だったのだけどお母さんが進学することを勧めてくれた。
今は奨学金をもらってはいるけれどそれだけじゃ全然足りない。

だからと言ってバイトばかりしてると勉強ができなくなる。
私も香奈子ちゃんも学校の先生を目指しているのだ。
また前みたいに家庭教師のクチがあればいいのにな。
お給料もいいし、何よりも「教える」ということを体験できる。

そんな勝手なことを考えながらエレベーターを降りてホールに出た。
正面入り口に向かって歩いていくと見覚えのある女の子が自動ドアを開けて入ってくる。

あの頃のように色素の薄い髪が今は伸ばされている。
そういえば初めて見る私服姿。
月島瑠璃子さん。
お兄さんと区別する意味で私は”瑠璃子さん”と呼んでいた。

髪と服のせいかもしれない、あの頃よりも奇麗に、以前よりももっとお嬢さまっぽく見える。
私は全然変わらないのにみんなみんな奇麗になっていくのはなぜだろう。

瑠璃子さんは私に向かって微笑んだ。
それは私が初めて見る彼女の笑顔だった。


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巻一/言えないチカラ