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―― 姉日誌 五 ――
「あら?」
「あ」
「あれ、千鶴お姉ちゃん?」柏木邸へ続く通りの、ある三叉の交差点で、仕事帰りの千鶴と琴音を送った後の二人はバッタリと顔を合わせた。
日ももう完全に落ち、街灯の明かりが道を照らしている。「二人とも今帰り?」
「お姉ちゃんこそ」
「車はどうしたの?」それぞれに経緯と事情を説明しながら三人は歩く。
週末で人通りの少ない道を仲良く並んで、彼女たちはのんびりと家路を辿る。「そう。二人とも、あの先生にはよくしてもらったものね」
「そうだねー。先生、相変わらず優しかったよ」
「うん。でも、小学校時代は優しいというよりなんだか姉さんみたいだった」
「そうだったの?」
「うん。何聞いても答えてくれたから。でも、あんまり何度も聞くから図書室に連れて行かれたこともあったな。『解らんことの調べ方を教えてあげよう』って」
「あ! 楓が始めて辞書買った時の?」
「うん」
「それって、いつの事?」初音が二人の間に入って。
こんな時間をこの三人で歩くのはかなり記憶にない。家まではもう少し距離があったが、三人の歩みは心持ちゆっくりと。「ええと? 小学の二年ぐらいのとき?」
「かな?」
「うわーー、早いよ。そのころ私は何してたんだろう」
「オムツしてた」
「わけないよっ! 私、お姉ちゃんの一つ下っ!」
「冗談」
「うううーー、最近その手の冗談、流せなくなってきてるよ……」
「初音、慌てないでいいから。子供の一人も産めば大丈夫って言うし」
「それ、今日先生にも言われたんだよーー」
「あ、そうなんだ」楓、黙って千鶴を見る。そしてそのまま表情一つ変えずについと目をそらす。
「……楓? 何を考えたの?」
「別に?」
「正直に言いなさいよ。怒らないから」
「姉さんが怒るようなこと私が考えてたと思ってるんだ? どんなこと?」
「聞いてるのは私!」むきになる千鶴を飄々と躱す楓。
その瞳は悪戯っぽさを湛え、口許にはふっくらと笑顔が浮かぶ。
街灯の明かりがちらちらと明滅する中、彼女たちは朗らかに笑いさざめいた。幾つかの角を曲がり、交差点を渡り。
彼女たちは家へと続く最後のたらたら下りの道を歩く。
「取材のほう、上手くいったんだ」話題は千鶴の取材。
経営の絡む付帯状況は省き、千鶴は取材の様子を要点簡明かつ失敗談を僅かに膨らませて話す。「多分ね。写りがどうだったかは出来を見ないとわからないんだけどね」
「きっと大丈夫だと思うよ」楓が言う。半身に開いた体勢、胸元で肘を抱き、右手は口許に。
評論家を気取って。
そして、静かにまた口を開く。「夜目と欲目を引いても、千鶴姉さんは綺麗」
薄暗がりの中でも明らかに、千鶴が赤くなる。
真顔で正面から誉められるのは、千鶴でも照れるものらしかった。
§
「……って、もうこんな時間!?」
梓は柱時計を見上げて慌てた声を出す。
すっくと立ち上がると上着を羽織り、外出の準備を始める。「どこ行くんだ?」
「夕食の買い物に行ってくる。耕一、留守は頼むな」
「ああ」梓は買い物篭を引っつかみ、ばたばたと駆け出して行く。
耕一は等閑な返事をして、目はまだ日誌へ落としたまま近くのお菓子を手探る。
梓が出てすぐに柱時計が一つ、ぼーんと打つ音が響いた。
1989 1月○日 晴れ
もうすぐ冬休みも終わる。
また学校にいくのは少しめんどうだけど、お母さんがいろいろ言わなくなるのはいいかもしれない。
いちにちじゅう家にいるのでなんでもうるさく言われる。今日もまたなんか言いそうだったので、梓お姉ちゃんと一緒に外に遊びに出た。
お姉ちゃんはスキーもスケートもできる。
今日はスキーを教えてもらった。
思ったほどむずかしくない。たのしい!梓お姉ちゃんは近所の子達と競争して全部勝っていた。
すごい。「女のくせに」
といった男の子が泣かされた。
―――
「梓らしいなぁ」
初めて会った頃からもうオトコマエだった梓を耕一は思い出した。
そしてそう言えば、と耕一は思う。
この頃まだ従姉妹たちの母親、耕一にとっての叔母はまだ存命だったのだ。
そんなことはもちろん、日誌に触れられてはいない。
それはいて当然の存在であり、改めて語られるようなものではなかった。何気なく耕一は自分が父親のことを思い出そうとした。
そして驚いた。
もう忘れていたと思っていた父の姿が、奇妙な鮮明さをもって脳裏に蘇ってくる。
別居を始めてから先、耕一は父の事を考えないようにしてきた。
事情が知れ誤解が消えた後は、憎しみと嫉妬を凝り固めたような父への執着も同時に消え、自然と忘却へと繋がって行くのだと思っていた耕一にとって、その発見は意外だった。どれも、今まで思い出せなかったどんな情景においても、父ははっきりとした愛情の篭った目を自分に向けていた。
どうして忘れていたのだろう。
どうして思い出さなかったのだろう。それは思い出したくなかったからだ、と耕一は思う。
嫌われた、憎まれた。
そう思わなければ、そう思って自分も憎み返すことで発奮しなければ、少年だった耕一はその事実に耐えられなかったから。
少年から青年になると、耕一は父を思考からはじき出すことで、その存在そのものを無かった事にすることで心の安定を図ろうとしていた。そんな抑圧を無くした耕一の前に、ようやく父は帰ってきた――その本来の表情で。
「……皆はどんな風に叔母さんたちを思い出すんだろうな」
耕一は一人呟く。
そして仏間のほうを何気なく振りかえる。――はいはい、親父殿。心得ておりますよ。
耕一自身、穏やかな心持ちの中で生きることの大事さにようやく気付き始めたばかりだった。
これからも、まだまだ多くの問題が持ち上がるのは自明のこととして、ようはそれをどう乗り越えるか。
どう踏ん張ってゆくか。耕一は親父殿に皆の支えとしての覚悟を約束する。
それは恐らく本人が思うよりも難しく、本人が思うほど複雑ではない。
§
「うーー、間に合うかーーっ!!」
梓は轟然と自転車を飛ばす。
商店街はまだ閉まるような時間ではなかったが、それなりにいい食材を手にしようと思えば、早い者勝ちは世の習いである。
そして、姉妹たちが帰ってくる予定の時間は、もうすぐなのだ。
梓はいつもの3倍する速度で、馴染みの少々うらぶれた商店街に辿りつく。「あ……れ? しまった!!」
慌てて出てきたあまり、梓は財布を失念していた。
間の抜けた話である。梓は迷った。
今から取りに帰って、というのはどうにも癪だった。
既に時間も押している。――しかたない。もう人通りも少ないし、今日は久々にやるか!
梓は大きく息を吸いこんで。
『 マッさんタッさん、ノジさん、あやさん、かなめさん! 悪い、ツケ買いさせて! 』
梓一喝、雷鳴の如く。
それは商店街全体に轟き渡る声。道ゆく買い物客たちが何事かと見る中、一拍置いて。「おーー! 久々だねーー!」
「はいはい! 今日はなんだい梓ちゃん?!」
「今日はブリがええよ!!」梓は満足げに聞く。
商店街の店主とは随分古くからの馴染みで、かなり無茶も効く付き合いをしていた。
梓は頃合もよしと見て、自転車にまたがったまま商店店頭を霞め通って行く。「マッさん、それ頂戴!!」
小学校のときからの付き合いの、魚屋さん。
一番気心も知れていて、実はたまに一杯(店頭で)やったりする。「おうさ。明日の払いは弾んでもらうぜ」
「もう来なくていいんなら、いくらでも水増ししちゃるよ」
「むむ、そりゃ問題だ」通り過ぎる一瞬だけ僅かに足を止め、梓は居並ぶ食材を見定め、掻っ攫うように。
道で見ていたほかの買い物客も面白そうに見物に廻る。「これ二つね!」「あいよ、毎度ね」
「これ、五人前」「はいはい、梓ちゃん、今度はもっとゆっくりね」「ごめんね」
「これとそれ2個取って……サンキュ!」自転車を降りぬまま、あっという間にポンポンと買い物籠を埋めて行く梓。
端から一巡する間に必要な者全てを揃えてしまう。その間僅か2、3分。
「お代は明日ということで宜しく!! それじゃ!!」
元気にそう言い捨てて、梓はまた猛然と自転車を漕ぎだした。
「おいおい、そんなに急いじゃ危ないよ……って、もう行っちまったよ」
それこそ本当にすごいスピードで、あっという間に消えてしまう梓。
店前に出て彼女を見送ろうとした店主たちの何人かが見損なうほどの勢いだった。スーパーに押されて寂れがちな地元の商店街。
買い物する側も、一箇所に全ての材料が集まっている楽なほうに楽なほうにと流れていきがちだった。
しかし、個人経営の店が軒を並べるこんな商店街には商店街なりの味、良さが明らかに存在する。
商売抜きでも、こんな下町の雰囲気が好きで店を構えつづけている店主も少なくなかった。
ここにわざわざ足を運ぶ主婦たちも同じ気持ちであったりする。彼らにとって、たまにはこんなイベントも大歓迎というところだ。
そんなご近所の後ろ盾を背に受けて。
柏木の姉妹は穏やかに、そして賑やかに日々を送る。
§
「うわーー、やっぱ間に合わないかなーーって、みんな?」
梓は追いぬいた集団が自分の姉妹たちだと気づいてキキーと急ブレーキ。
その派手なアクションに、話しに花咲かせていた彼女たちも目を向ける。「あれーー、梓お姉ちゃんだ」
「梓、今お買い物?」
「梓姉さん、あんまり飛ばすと危ないよ」梓は全員が揃っている事にはて、という表情を浮かべる。
少なくとも千鶴は別行動だったはずだ。「今日は何となく歩いてみたくて。そしたらそこでばったりね」
千鶴は梓の顔を読んで言う。
「そっか。ごめん、今日の夕食少し遅くなりそうだ」
「いいわよ、そんなに急がないし。ね?」
「うん、大丈夫だよ」
「うん」自転車から下りて、梓も並んで歩く。
もう辺りは完全に夜の帳が落ちていた。
新月に近いのか月は出ず、一気に冷え込んだ空には満天の星。
寒そうにする初音に千鶴はコートをかけて。
そのくせ自分でくしゃみをする千鶴に梓は自分の外套を渡す。
激しく運動した後の梓の熱が、そのまま千鶴を暖める。「今日、財布忘れて買い物に出ちゃってね」
「……コレ、どうしたの?」
「つけ」
「ええ? つけなんてきくの?」驚く千鶴。
「うん、私も時々お願いするよ」
「初音も?」楓が、意外そうに。
「もう長いこと顔なじみだからねー。ほら、お得意様は大事にしないと」
「な、何かご挨拶に伺ったほうがいいのかしら?」
「大丈夫だよお姉ちゃん。みんないい人たちだし、結構お互い様だし」
「そ、そうなの?」納得いってないふうの千鶴。
「私も、最近たまに顔出すけどそこまでは……」
「そのうち楓お姉ちゃんも気軽になるとおもうよ。実はお姉ちゃん人気者だし」
「え?」
「そうなんだよな。こないだの夏祭り以来、楓は楓は、言うぜ?」
「そ、そうなんだ?」
「ホントだよ。特にかなめさんとちせさんが楓のことお気に入りみたいだなぁ。ちせさん、『うちのモデルやってくれないかしら』とかいってたよ」
「ちせさん?」
「婦人服屋さんだよ」
「……みんな、ちゃんとご近所付き合いしてるのね。私、回覧版まわすくらいだわ」
「一家の主はどんと構えておけばいいの」
「…………」
「主って言うより、最近親父って感じだよな」梓の発言に吹き出す楓と初音。
「……なんですって?」
四人は誰も通らない道をゆっくりゆっくりと歩く。
どこか懐かしく、どこか微笑ましく。やがて、彼女たちの前に柏木の門が見えてくる。
彼女たちの夜の散策も終わりに近づいていた。そのとき。
誰もいない筈の柏木の家から、洩れ聞こえる、明るい大きな笑い声。
それは、もう皆に馴染みになった声。
新しい柏木の家族の声。「あ、そうだ、耕一来てたんだった」
本当にそのときになって始めて思い出した梓の呟き。
「どうしてもっと早く思い出さないの!」
「ゴメン、すっかり」笑い声はまだ続いていた。
彼女たちは、それを聞いてお互いに顔を見合わせる。
そして、こちらも誰からともなく笑い出す。「早く帰ろうよ、きっとお兄ちゃんお腹空かせてると思うよ」
「そうは聞こえなかったけど。でも、初音の言うとおりかもね」そして皆は門を潜り、玄関へ向う。
父母がいた昔のように、叔父がいた以前のように、安心して帰れる場所。
それは彼女たちを迎えてくれる誰かがいる家。
「ただいまーー!!」
期せずして彼女たちの声は和し、明かりの点った玄関は暖かい笑い声に満たされていた。
―― 姉日誌 五 了 ――