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―― 姉日誌 弐 ――
「先生もう来てらっしゃるかな?」
「あ、あそこ」大きめのセータードレスを着た琴音が長閑に手を振っている。
「本当にお久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「はい、ご無沙汰でございました」楓と琴音は穏やかに挨拶を交わす。
彼女達が待ち合わせたのは在来線の駅の近く、アーケードの入り口だった。
週末だけあって人出も多い。好天も手伝ってか、街は何時になく賑やかだった。「やっぱり、二人とも大きくなったわねー。私も年を取るわけだー」
「そんな、まだまだお若いですよ」
「その心算だったんだけどね。さすがに君らを見てると寄る年波を感じてしまうわよ」
「はいはい、お婆さんごっこもそれくらいにして。さぁ立って立って」初音は琴音の腕を引っ張って立たせる。琴音もハイハイとばかりに立ちあがって、裾を払う。
琴音は二児の母である。長男がやっと4歳、まだ小学校にも上がっていないという年齢(とし)。
にもかかわらず、彼女が楓や初音を見る目はどこか孫に対するそれに近い。
彼女自身、それを意識しているからこその発言なのだ。「で、今日はどちらにお引き回し戴けるのかな?」
「温泉街だから、それなりに何でもあるんだけど。先生、なにかご希望は?」
「そうね、折角だからまずはのんびり温泉めぐりでもしましょうか?」
「そうですね」誰からともなく歩き出す三人。
足が動くと同時に、皆の口も滑らかになった。
それぞれが話したいように話し、聞きたいように聞く。
その間に挟まれた少しづつの気遣いが、それをとても心地よいものにする。「楓ちゃんも来年は受験生な訳だ。君のことだから、もう志望校は決まってるのかな?」
「ええ、一応幾つか決めてます」
「並べると凄いんだよ。偏差値高いったらないよ」
「初音ちゃんも頑張らないとねー。それともとっととお嫁に行っちゃうか?」
「先生!」
「微妙なところなんでしょ?」
「へぇ、そうなんだ、初音?」
「お姉ちゃんまで!」楓が率先して口を開くことは少ない。
だからと言って聞いていないわけでも興味がないわけでもないことはわかっていた。
だから二人は会話の中継に楓を挟み、楓も楓で言葉を発さずとも頷き、目を合わせ、そして笑う。
会話やコミュニケーションといったものに対して楓は誠実過ぎる、と琴音は思う。
楓が相手の言葉を一字一句聞き、しっかり考えた上でしか返事をしないということを琴音は早い時期から気がついていた。
いい加減な、心無い言葉を返すぐらいなら黙っていたほうがいいと考えているようだった。
無思考に言葉を投げる人間が増えてきた昨今、琴音はそんな楓を偉いと思うと同時に、疲れることをしているなぁととも思う。――この子達はどうにも不器用過ぎて、なかなか目が離せないね。
そんな風に、琴音は内心苦笑する。
「で、何処へ向っているのかな?」
「こっちって何かあったっけ」
「初音が知ってるんじゃないの?」三人が顔を見合わせる。
よくある展開だった。
§
梓はまだ、千鶴の部屋にいた。
それどころか、胸の下には愛用のクッション、手元にはスナック菓子と缶ジュース。
まったりと腰を据える準備すら整えられている様子だった。寝そべった彼女の目の前には例の日誌が。
既にそれは3冊目に差しかかっている。
1988 12月○日 おおあめ
すごい雨だった。かみなりも凄かった。
こわいのでこたつに隠れていたら、でんきが消えた。家中真っ暗で、すごくこわい。
お父さんもお母さんもまだ帰ってこない。「ただいま」
千鶴お姉ちゃんの声がしたので、飛んでむかえにいった。
かみなりがすごい音を立ててピカッと光った。
玄関に、ずぶぬれの、髪のながい女の人がうらめしそうに立っていた。
そしてこわい声で。「……かえで〜〜」
私はすごい悲鳴を上げて逃げ出した。
千鶴お姉ちゃんだ、と気付いてたんだけど。
――――
「……そりゃ確かに、怖いかも」
梓は8年前の楓と、背筋が寒くなる思いを共有した。
しかし、当時。
梓は思い出す。8年前。
彼女達の運命が流転をはじめる直前の、幸せな時期。
何一つ心配することもなく、穏やかな日々が続くことを疑うことのない、普通の暮らしをしていたころ。
運命や人間が、凶暴さを剥き出しにする前のころ。梓は頭を振って、暗い記憶を引き剥がすと、次のページをひらく。
1988 12月○日 雨
千鶴お姉ちゃんは中学生だ。
おかあさんもよく「千鶴はもう中学生なんだから!」
という。
そう言われると、たいてい千鶴お姉ちゃんは怒って、泣き出す。よく解らないけど、嬉しくない言葉なんだろう。
―――
「…………」
そういえば、そうだったっけ。
ぽりぽりとスナック菓子を齧りながら。
梓はページをめくる。それは梓にも覚えがある光景だった。長女として、千鶴にかけられた期待はやはり大きかった。
彼女に負わされた責任も、始めから重かった。「梓はお姉ちゃんでしょう?」
そんな言葉で言いくるめられたことが何度もあった。
そして今にして思えば、それを言ったのは父よりも母よりも、姉である千鶴であったように思う。
1988 12月○日 曇りのち雨
きのうも雨だった。
外であそべない。
いつも外にでなさいといわれるのは嫌だけど、あそびべないとたいくつだ。あと、梓お姉ちゃんが大変だ。
家の中でそとのあそびをはじめる。ゴキブリが出たといって追いかけていたので、つかまえて渡そうとしたら、今度はお姉ちゃんが逃げた。
あとでものすごくおこられたけど、おかしいと思う。
―――
「…………ッ!!」
梓は背筋に走った悪寒を堪えた。いまでも彼女はゴキブリは苦手だった。
子供の頃はまだもう少し平気だったらしいが……。「そ、そういや、そんなこともあったような……」
梓はなるべくゴキブリには触れないように記憶を辿る。
楓は結構怖いものしらずなところがあるが、実際どうなんだろう?楓の怖いもの。
梓はしばらく考えてみたが、思い当たりそうもなかったので止めた。また、次のページへ。
1988 12月○日 晴れ
子ねこをひろってきた。
近くにすててあった。昨日の雨に濡れていたから、すごく弱っていた。こたつであたためていたら、千鶴お姉ちゃんが来た。
すぐに見つかった。
またすごく怒られると思ったら、ドライヤーとタオルを持ってきてすぐにねこを乾かしてくれた。
ミルクもあたためてくれた。それでも弱っていてのめないようだったので、急いでじゅういさんにきてもらった。
お姉ちゃんはいそがしかったので、私がずっとねこをみていた。ねこが死んで、お姉ちゃんがじゅういさんにあやまったのがくやしかった。
どうしてお姉ちゃんがあやまるの、と聞いたら、お姉ちゃんは「ごめんなさい」
といった。
やわらかかった子ねこが固くなったので、お姉ちゃんがお庭にはかを立ててくれた。
―――
この巻の最後のページはそんな長編で締めくくられていた。
それは梓の知らないエピソードだった。あるいは忘れてしまったのかもしれない。子供の頃の楓はどんな子だったろうか。
自分がおぼえているのは、どんな楓だろうか。今の、どこか超然とした雰囲気が付き纏うようになったのはそんな昔からのことではない筈だ。
両親と、財産をめぐってのことがあってからだ。
なら、それ以前は?梓は、真剣に記憶を遡って行く。
中学の末頃の楓。
中学に入ったばかりの楓。
小学校の高学年。どこか、しっくり来ない。うまいこと思い出せない。
梓は楓にすまない気持ちも手伝って、もう一度ノートのほうに目を向ける。そのとき。
「あ・ず・さ・ちゃん?」
梓は跳びあがる。比喩的な表現じゃなく、実際に数センチ床から離れて。
心臓の撥ね方もまた記録的だった。「……なにを、してるのかなーーー?」
恐る恐る振りかえると。
「はははは。似てたか?」
そこにはドアにもたれた耕一が立っていた。
「電話してもだれも出ないからさーー。今日はもしかして旅行にでも出ちまったかと思ったよ。鍵あいてたから勝手に上がらせてもらったけど、無用心だぞ……って、おい? 梓、大丈夫か?」
梓、床に倒れて。魂が抜けかけてでもいるような表情。
「……驚いたなんてもんじゃないよ耕一……本当に心臓、止まった」
「わ、悪い、そんなにビックリするとは」
「何処から、声出してるんだお前……」
耕一が改めて来訪の挨拶を言い、土産を差し出す段になってもまだ梓は回復しなかった。
午前の爽やかな時間もそろそろ終わり、昼食の頃合に差しかかっていた。
―― 姉日誌 弐 了 ――