―― 姉日誌 壱 ――
 

「出かけるときは戸締りよろしくね」
「ん、そっちも粗相のないように気をつけなよ」
「はいはい。気をつけますとも」

 玄関口でそんな会話をする千鶴と梓。
 靴をはきながら、千鶴はちらりと自分のスカートに目を落とす。

「大丈夫だって。私が言うのもなんだけど、今日の千鶴姉、綺麗だぜ」
「そうかな……ありがとう」

 からからと笑いながらいう梓に、千鶴も安心したような表情を浮かべる。
 今日千鶴はいつぞやかすっぽかしてしまった雑誌の取材を受けることになっていた。
 お蔭で朝からずっと自分のお召し物が気になってしょうがない様子なのだ。

「いいから早く行った行った。また足立さんに怒られるよ?」
「はいはい。それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 門の向こうから車の去る気配。
 高級車らしく排気音も殆どないのにどうして柏木のお嬢さんたちはこの車の発着を知れるのか。長く運転手を務めている初老の紳士は何時も訝しがっていた。
 なぜだろうか。あえて言うなら、それが長年の勘というものなのだろう。

 梓は車の出発を確認すると、自室へと戻る。
 そそっかしい姉妹たちがとんぼ返りに戻ってくることも少なからずあるのだ。
 

 週末の土曜日だった。

 楓と初音は小学校時代の恩師が久方ぶりに来ているということで、朝も早くから嬉々として仲良くお出かけしていた。
 千鶴は先のような理由でやはり家を空ける。

 梓はひとり簀縁の廊下をてくてくと歩いて、窓から差すぽかぽかした日の光を楽しんだ。
 窓の外には既に布団が布団かけにかかり、その隣には整然と洗濯物が干されている。
 姉妹全員を駆り出しての、それは週末の定例作業だった。

 梓のいる中庭に面した廊下も、丁寧に磨き上げられた木の板特有の色艶を誇らかに晒している。
 障子にも破れ一つ、桟に浮いた和紙の切れ端すらなく整然と輝いている。
 梓は思わず鴨居の上に手を伸ばして、指でついっと。
 さすがに、埃がついた。
 広い家だった。四人の姉妹、それは父母子二人の一家族と同じ。
 一世代で住まうような家では元からないのだ。
 専業の主婦がいる訳でもなく、家政婦がいるわけでもなく。
 それでこの状態を保てているだけでも大したものだといえる。

「いっちょ、やりますか」

 が、梓はそうは思わなかったらしい。
 指についた埃をふっと吹き払い、梓は掃除の準備にとりかかった。
 

               §
 

 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......

「はいはい、柏木です! って、千鶴姉? どうしたの?」

 掃除機の音に邪魔されて反応の遅れた梓はすっ飛んで電話に出る。
 スリッパの先をとんとんと床に叩いて。受話器を持たない手は腰に。

「……はぁ? 全く、しょうがないな……え? トメさん? いいよいいよ、自転車でひとっ走りの距離だろ。そんなことさせる為に給料だしてるわけじゃないんだから……うん。うん。机の上にね? 全く、服のことばっかり気にしてるからそんな物忘れるんだよ。解った。すぐ届けるよ」

 梓は受話器を置くと頭の三角巾をとり、上に着る物を物色し始める。
 ふと、梓は何か思いついたようにした。
 そして、自分を見下ろす。
 梓は手に取ったコートをクロゼットに戻すと、真剣に服を選び始めた。
 何かの拍子に、誰かの目にとまらないとも限らないから。
 

 千鶴の忘れた書類は解りやすく机の上に置いてあった。
 梓はそのタイトルを見、封筒の中身をざっと確かめる。
 少なくとも空封筒でないことだけを確認して、梓は踵を返した。

「あ、やば」

 梓の着ていた厚手のフィッシャーマンズセーターが机の隅に置かれていた何かを引っ掛けた。
 可愛らしい路線を諦めたあずさは、お気に入りのセーターとパンツですっきりとシックなイメージを整えていた。用意したニット帽を被ると、美少年風の装いにもなる。
 かつて彼女の後輩の一人が見ただけで倒れたという、本人の預かり知らぬところで伝説を残していたファッションだった。
 くわんと音を立てて床に落ち、その中身を撒くクッキー箱。
 梓は慌てて身を屈め、それを拾う。
 そのとき柱時計がなり、時間を告げた。

「やばい、急がないと!!」

 少々着替えに時間を食いすぎていた。
 梓はざっと小物を拾って箱に仕舞い、ノートや紙類は揃えて上に重ねるに止める。

 残りは帰ってきてからやろう。取り敢えず、急いで届けないと。

 梓は箱を机に戻し、ばたばたと走り去る。
 玄関があき、閉まり、ついで鍵が落とされる音。
 そして、柏木家には誰もいなくなった。
 

 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......
 Trrrrrrrr.......
 Trrrr.
 

 電話は鳴りつづけた。その音は無人の柏木邸に虚しく木霊する。
 しかしコールが十回をこえた辺りで、それも唐突に途絶えた。
 

               §
 

「んっふっふっふっふーーー。ただいまーーっと!」

 梓、かなり上機嫌のお帰り。
 それは誰もいない家に生気を与えるような元気な声だった。

「ふっふっふっふっふーーーー」

 なんだか良い事があったらしかった。
 鏡に向ってみたり、髪の毛を引っ張って灯りにすかしてみたり、くるりと廻ってみたり。
 結構大忙しだ。
 そして得意げかつ大事そうに取り出したのは、一枚の名刺。

『 月刊レディジョイ 編集部 相田響子 』

 どうやら思惑通りの展開がまっていたらしかった。

 そして、梓が浮かれ騒いでいたそのころ。
 
 

「はーーー。なんて言うか、美形な弟さんですねーー。うちのモデルにもあんな綺麗な子はいませんよ。モデルたのめないかなァ……」
「はい? 弟? 妹ですよ?」
「え? あ……」

 美人四姉妹という事前の情報をすっかり失念していた相田編集部員は少し極まり悪げだったというが、それはさておき。
 
 

 梓は再び着替えると、千鶴の部屋へと向う。
 先ほど床に落としてしまった物を元に戻しておかないと、と梓は思う。

「はいるよー」

 教育の賜物というか、条件反射というか。
 彼女達はお互いの部屋に対し、それなりの敬意を払うことを義務付けられているらしい。

 それは、古びたクッキー箱だった。恐らくはディズニーランドの物だろうと思われた。
 相当古い、8〜9年も前の物だろう。
 梓が落とした際に凹みができていたとしても、それがどれだかを判別することはできない。
 梓はもう一度床を確かめて、何か抜けたものがないかを調べる。
 その上で改めて中の物を取り出し、順繰りに仕舞っていった。
 そして最後に残ったのはやはり手紙類とノート群。

「……ニノ前? わ、高橋も?」

 梓は手紙の差出人を見て驚く。
 今、隆山で大きな企業活動を行っている名士の子弟の名。
 幾人かは既に親の跡を継いで経営者となっている。

「これ盾に交渉でもされた日にゃ、泣き寝入るしかないよなァ……」

 梓は苦笑いと共にそれを箱に仕舞う。
 ノート群の表紙に大書されたタイトル。それは梓の目にも止まった。

『 姉 』

 梓は、なんだろ? と思いながらもそれを手に取る。
 懐かしいノートの名前の欄、そこには柏木楓とあった。

 そして、何気なく梓の手はページを繰る。
 

               §
 

1988 12月○日 晴れ

 寒かったので、こたつにはいっていた。
 千鶴お姉ちゃんが走って帰ってきた。
 こたつにもぐっているとおこられるので、だまっていた。

 千鶴お姉ちゃんが、着替えながら歩いていた。
 走ってあつかったのか、色々脱ぎ散らしながら。
 どうして脱いだものをろうかに投げ出していくんだろう。

 見えなくなったので顔を出したらろうかから

「ちょっとだけよぉん」

 という千鶴お姉ちゃんの声がした。
 そのあとすぐ、どかんとすごい音がした。
 見に行ったら、くつしたをかたっぽだけ握ったお姉ちゃんが柱に頭をぶつけて伸びていた。
 

―――
 

 唖然。
 梓は目をノートから上げ、もう一度そのノートの表紙を見る。

『 姉 』 。

 なる程、これはどうやら楓から見た姉の観察日誌であるらしい。
 だが、しかし。

「……ぷッ……くっくっくっく……あーーははははははーー!!」

 梓は床を転げまわって笑う。
 かなり長いこと。
 あまりに笑いすぎ、息を吸うこともできずにひいひいと涙を流して、なおも笑う。

 梓は想像してみた。

 当時まだ中学生の千鶴がなんに影響されたのか知らないが、ストリップの真似事をやってしかも転んで頭を打ち、しかもそのザマを楓に目撃されているという。
 千鶴が。
 あの、千鶴がである。
 恐らく楓のこと、そんな情景にあっても慌てず騒がず

「ろうかでさわいじゃだめ」

 とかいったに違いない。

 梓は涙に滲む目を擦り、呼吸を必死に整えて、次のページを繰る。
 目撃されたときの千鶴の顔を想像すると、また笑いがこみ上げてくる梓だった。
 
 

1988 12月○日 晴れ

 今日の千鶴おねえちゃんは、どこかへんだった。
 どこがへんだかわからなかったので、じっとみてみた。

「なに? どうかした?」

 千鶴お姉ちゃんは優しい。
 わたしは顔がへん、といった。

 へんというか、こわくなった。
 逃げた。
 追いかけられた。
 

 後できづいた。
 片方だけ、まゆげが濃かった。
 

――――
 

「まさかね。あの千鶴姉が、あの見栄の権化がそんなミスを……まさかね」

 そう呟きつつも。
 梓の肩は小刻みに震えている。

 梓はまた思い出す。
 当時、まだ父母がいた。梓は幼く、妹たちはもっと幼かった。
 丁度そのころ現れたばかりの耕一も、梓からすれば年上という印象はなかった。
 そんな中で一人だけ大人びていたように思えた姉、千鶴。
 しかし、ここに見る千鶴は年相応の子供っぽさや可愛らしさを見せている。

――そうだよな。千鶴姉にも、こんな時期はあったんだよな。

 そして、くすくすと笑いながら、梓は次のページを繰る。
 一つ一つ、大切な思い出をそっと扱うように。
 
 

―― 姉日誌 壱  了  ――
 
 
 

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