次項へ進む
―― 姉日誌 序段 ――
「もしかして、初音ちゃん?」
学校からの帰り道。
初音は後ろから呼び止められて振り返る。「琴音先生? うわーー、御久し振りですーー」
「ほんとにお久し振りねーー」二人は手を取って子どものようにはしゃぐ。
30の半ばほどを過ぎた風采(ふう)の、物腰の柔らかい女性。
彼女は初音が小学低学年の時に担任してもらった恩師だった。
初音が一番尊敬し、懐いていた先生でもあり、8年余り経った今でもまだ年賀状や折々の挨拶状が途切れずに行き来していた。「何時帰ってこられたんですかー? 連絡戴ければ迎えに出ましたのに」
「ほんのついさっきなのよ。ほら」言われて初めて、大きな旅行用の鞄が目に入る。
数泊分の荷物といったところだろうか。「先生、またこっちに戻っていらっしゃるとか?」
「ううん、残念だけど。今日から何日か近くで用があってね。懐かしいから寄っちゃったのよ」
「そうなんですかー。宿のほうはどちらに?」彼女は苦笑いする。
初音の家が営む鶴来屋のことは彼女も知っている。
なかなか手が出ないお値段であることも。「残念ながら近場のビジネスホテルをとってるわ」
「うーーん、そうか。そうだよねーー」今度は初音が腕を組んで苦笑い。
二人して並んで首を捻ってしまう。「何時までいらっしゃるんですか?」
「用そのものは金曜までなんだけど、どうしようかな」
「だったら週末までいらっしゃいませんか? えとその、無理にとは言いませんけど」勢い込んで言ってから、ぼそぼそと語尾を霞ませる初音。
そんな初音を、穏やかな女教師は一歩下がって、ためすがめつ見る。
そうしようかしらねぇ、と初音を安心させ、そして莞爾(にっこり)と笑いかける。「うーーん。やっぱり初音ちゃん、可愛らしいお嬢さんになったわねぇ」
それは今日はいい天気ですね、とでも言うような自然さ。
初音も照れて見せたりすることなく笑って、ぼすっと彼女の胸に身を埋めた。
「今日はお時間あったら、私の家に寄っていかれませんか?」
「ごめんなさいね。そこまでは時間ないと思うのよ。ところで、楓ちゃんも元気?」本当に申し訳無さそうに、そして残念そうに断りを入れる。
彼女は楓を担任した後、学年を変わり初音の担任となった。
柏木の娘たちはこの先生のお気に入りであったらしい。
成績のわりに教師の覚えが微妙な楓も、彼女とはとても仲がよかった。「元気ですよ。最近は特に」
「それはよかった。でもそれは初音ちゃんも一緒みたいよ? 随分、雰囲気が明るくなったわ」
「私、暗かったですか?」
「そんなことはないけど、初音ちゃんがあんまり大人すぎてたから」大人?
初音は心底驚く。
『案外……』と耕一に言われたことはあったが、裏を返せばそれは子どもっぽいということなのだ。
余りに思いがけない言葉に、初音はどうしていいか判らない。「人はね。素直に生まれて、意地を張ることを覚えて、今度は意地を忘れて素直に戻ろうとするものなのよ。でもねぇ」
中年というにはまだまだ早い女性教師は近くのベンチに腰掛け、初音を手招く。
ぴょこんと足を前に投げ出すようにしてベンチに座る初音。「初音ちゃんは張るべき所と譲るべきところを始めから知ってるみたいだったわ」
「そうですか?」初音は、言葉そのものの意味を考えるより先に、発言者の人となりを直感で見抜いていた。
発言や行動の意図を見て、判断する性質だった。言葉によらず。
利害によらず。初音が人に好かれるのは、目に見える結果でなくその真意そのものを汲むからだった。
そんな様子は、良心と欲心の狭間で惑う世の人々の目にはどこまでも眩しく映るだろう。「うん、背伸びしてるって風じゃなくて、悟ってる感じだった。なんて言うのかな、廻りより一段目線が高い感じかな……」
すこし考え込むように。
子供たちの無茶な質問にも、彼女は常に生真面目な、それでいてどこかユーモアに溢れた回答を返したものだった。「その分、蔭があるというか一歩退いてると言うかそんな感じがしたのね。周りから好かれ慕われてるのに、どこか遠慮してる感じがしたの。イイコ過ぎる子って、手がかからない分あんまり熱心になれないんだなぁ…… あ、これはオフレコでお願いね。でも初音ちゃんはどこか”ただのイイコ”じゃなかったのよね」
「うーーん……自分じゃちょっと解らないなあ……」少し悪戯っぽく微笑んで、彼女は初音を眺める。
8年経って、初音も年頃の一歩手前というところに来ていた。まだ花開くのは少し先といった感じではあるし、ほかの子と比べるとやや遅咲きかもしれない。
琴音は脳裏に描く。
一瞬に止まらない、長く続く輝きを放つだろう初音の栄えの時を。「それにしても、今の初音ちゃん、綺麗だわよ。何かあったのかな?」
少々悪戯っぽく。
それを初音は真っ直ぐな笑顔で。「あはは、微妙なところです」
「また、ほんとに微妙な回答ね。まぁいっか」そして、二人してくすくすと笑いあう。
琴音の最近生まれた二人目の子どもの話。それに長男の手のかかりよう。
今の任地における子供たちと学校の様子。
長い空白を一気に埋めようとするように、話題は後から後からとめどなく沸いて出る。
初音も最近の隆山の状況、クラスメイトたちの近況、新たな家族としての従兄弟、そして姉たちの様子を語る。
そこに至って、再び話題は楓のことに戻っていた。「楓ちゃんもね、こちらはまたキッチリと線引きのできた子で……どこであんなハッキリした物事の分け方を覚えたのかなぁ?右と左と、白と黒ともうそれはぴしゃりと」
「ですよね。昔っからそういう印象あります」
「物の見方がもう完成してて。と思えば、これが……」くすくすと楽しそうに笑う琴音。何か、思い出し笑いするような何かが目に浮かんでいるらしい。
「……たまに、傑作なものを見せてくれるのよね」
§
「ただいまーー。お姉ちゃん?」
初音は寄り道して遅くなった分を走って帰ってきたのだが。
どうやらまだ誰も帰ってきていないようだ。だったら今日は夕食、私が準備しようかな。
最近は料理の当番という概念が薄くなってきていた。
梓の進学、一人暮らしが現実味を帯びてくるにつれ、楓と初音は自発的に家事へ手を出すようになってきていた。
……出遅れるととんでもない事になりかねないという別の理由もあったが。お互いへの競争意識も手伝って、最近の二人の料理の腕前は梓のお墨付きの一歩手前というところまで来ていた。
そして、初音にはその実感が何より嬉しかった。初音が部屋に戻って着替えをすませ、買い物に出ようと茶の間へと向かう途中。
どさどさ!!
丁度千鶴の部屋の前を通りかかったときだった。千鶴の部屋から、何かが崩れ落ちるような音がした。
最近、千鶴は窓を開け放したまま出かけてしまうことが目立つ。初音は誰もいない戸を礼儀正しくノックし、ノブを廻す。
ひゅおーーーーう。
風が吹き込み、シックなカーテンがはためいている。
その端が机の上のものを弾き落としたらしく、床になにやら散乱していた。「はいるね」
やはり誰もいないのだが、初音は断って入る。
年季の入ったあちこち凹み、傷のついたステンレスのクッキー箱が、落ちた際にその蓋を飛ばして中身を露にしていた。床に散らばっているのも、随分と古そうだった。
懐かしい、小豆入りのお手玉が幾つか。
何故だか、男の子の遊ぶ大粒のビー球。
色あせた写真、何かの寄せ書き。
数冊のノートや、何通もの手紙。初音はそれが千鶴の大事なものなのだろうと思い、大事にかつ余り見ないように手早く仕舞い直して行く。
平たく積み込んで最後に紙の類、ノートと手紙が残る。
手紙の多くは固いイメージの便箋に、角張った文字が並んでいる。
ちらと見ただけで、どの字も別人のものだとわかる。さすがお姉ちゃん……。
時期的に見て、中学の頃のものだろう。
ここにあるものが選別されたものであるのは明らかだった。
実際に彼女の元に届けられた懸想文の類はこの数十倍に上る。
初音は、手紙を纏めてしまうとノートの類を重ねて束ね、手に取ってトントンと角をそろえる。それは懐かしい、表紙に大きく動物の写真がプリントされたあのコクヨの学習ノート群。
タイトルには一文字びしっと大きく。
『 姉 』
そのとき。
「ふーー、ただいまーーー。今日は疲れたわーー」
あ、千鶴お姉ちゃんが帰ってきた!!
初音はノートを箱の一番上に重ね、蓋をする。
のんびりしてると、千鶴が家事に手をつけ始めるのだ。
初音は箱を机の上にきちんと置いて部屋を飛び出す。とたとたとたとた……
そんな軽い音が玄関へ向かって。
「おねーーちゃーーん、お帰りーー!! 一緒に買い物行こうよーー」
「ええーー、今帰ってきたばっかりなのに……」
「えー、いいじゃない、一緒に行こうよーー」
「うーー、仕方ないわねーー」そして、二人の和やかな笑い声がしばらく響いていたかと思うと。
からからと玄関を潜り、二人は仲良く買い物へと出かけてゆく。
そして、再び静寂。飄。
閉め忘れた千鶴の部屋の窓からまた風が吹き込む。
カーテンがはためき、バタバタと音を立てている。
そのカーテンの届く範囲を僅かに外れて。
古いクッキー箱は静かに佇んでいた。
§
11月も半ばを過ぎていた。
つい先日、楓が姉妹では年内最後の誕生日を迎えたばかりだ。隆山にも例年よりやや遅めの冬が訪れて始めていた。
連なる雨月の頂きにはようやく冠雪が見られるようになり、海からの風は刺すような冷たさを帯びてきた。道行く人々の装いもそれに応じて移り変わる。
秋の残滓に未練を残す女性たちが、一人また一人と冬の到来を受け入れ、新たな観点に楽しみを見出すように、世の事物は日々刻々と来るべき季節に向けてうつろってゆく。
柏木の一族にとって、この一年は激動の一年と言えた。
晩夏、柏木の娘たちは8年の長きにわたって父代わりだった叔父を失った。
その衝撃は決して小さいものではなかった。
彼女達に刻まれた痕は深く、俄には癒し難いものに思えた。そこに、正にその穴を埋めるように現れた従兄弟、柏木耕一。
その青年の朴訥と人の好い振る舞いと気遣いは、彼女たちを安心させた。
そして、時は流れ。
彼女たちの喪失の痛手は少しずつ、しかし確実に癒えつつあった。日々の営みに笑いを取り戻した彼女たちはまた、過去と失われたものへと据えられていた目を少しずつ、未来へと向け始める。
そしてこれは、再び始まった穏やかな日々の中のお話。
それでは、ごゆるりと。
―― 序段 了 ――