―― 道饗祭(みちあえのまつり) ――
 
 

 夢。
 夢を見ている。

 親父がいた。
 母さんもいる。
 優しい従姉妹達が笑っていた。
 そして、とてもとても、とても厳しい叔父がいた。

 俺は親父に怒鳴られていた。
 母さんにも叱られていた。
 優しい従姉妹達でさえ、俺を非難していた。
 しかし、誰よりも厳しい叔父だけが。
 俺の頭に手を置いてよしよしと言ってくれた。
 

 そして、みんなが笑っていた。
 親父も。
 母さんも。
 従姉妹達も。
 そして、あの叔父でさえもが、笑っていた。
 笑っていた。
 

               §
 

 目覚めた耕一は覚えのある天井を見上げた。
 柏木邸の客間。
 記憶はしっかりしていた。
 昨日までの悪夢。
 そして叔父との戦い……否。叔父との対話。
 それは親父とは交わせなかった、男同士の深い対話だった。
 戦いの最中で、共有する苦痛とともに耕一は柳川の半生を自らに重ね見た。同情すら撥ね付けるような信じ難い誇り高さと不屈の意思の存在を耕一は知った。そして自らの未熟を恥じ入るだけの魂を耕一は有していた。
 

 俺達を逃がすために警察を引きつけてくれた叔父さんは、どうなったのだろう。
 動けない自分を千鶴が背負っていた事を、おぼろげながらも耕一は覚えていた。そして逃げる自分達の耳に何度も響いた銃声も。
 首を回そうとした瞬間、全身を貫く激痛に耕一は思わずぎゃあと悲鳴をあげた。見れば体のあちこちが包帯でぐるぐる巻きの、ミイラ状態だった。叔父の「教え」は思いのほかキツかった。何とか死なないでいる程度の手加減しかしてくれてなかったようだ。
 それでも、耕一は生きていた。生きて、またここに帰ってきていた。
 耕一が心の底から帰りたかったところに。もう二度と戻ってきてはいけないと思っていたところに。
 

「……起きたか、耕一」

 障子の向こうから梓の声がした。

「ああ、目は覚めてるよ」

 梓はすっと障子を開けるとすたすたとやって来て枕もとに座った。左腕を三角巾で吊っている。梓の様子にふと違和感を覚えた耕一だが、その理由にはすぐ気付いた。梓は例のトレードマークのカチューシャをしていない。

「気分はどうだ?」
「すごくいい、とは言い難いな。あちこち痛いぞ」
「生きてるだけありがたいと思え」
「ああ。俺もそう思う」

 耕一は軽口をたたく。梓の口調が厳しいのを耕一は心底ありがたいと思う。

「…………」
「みんなは?」
「千鶴姉も、楓も、初音も元気だよ」
「叔父さんは……?」

 梓は天井を見上げた。

「それ……誰だ? 叔父さんなんて……あたし達にいたか?」

 梓の声は途切れがちで、掠れていた。

「梓」
「その様子じゃ……まだ、まともな食事は無理だな……あとで粥でも……もって……」
「梓。みんなは揃ってるか?」
「……ああ」

 耕一は全身に走る痛みを必死に堪えて体を起こした。それは痛みなどという生易しいものを超えていた。心臓が脈打つたびに体のあちこちの破裂するような衝撃が意識を揺らがせる。

「お、おい。まだ寝てろよ耕一!」

 寝てなどいられない。
 這うようにして――と言うより殆ど本当に這って――耕一は居間へ向かった。静まり返った居間の障子。初めて柏木の門構えを見たときに感じたあの圧力。似てはいるが、今耕一が感じているそれはそんなものとは比較にならぬほど大きかった。

 しかし。

 耕一は意を決して重い重い障子を開く。

「……お、おはようございます」

 耕一は自分の足元の敷居を食い入るように見つめていた。出てきた言葉は、そんな益体もないただの挨拶だった。
 従姉妹達に会わせる顔がなかった。自分がやったこと、かけた心配、彼女達が払った代償。考えれば考えるほど居たたまれない気分になった。
 何より、自分の自己陶酔と自己憐憫が余りにも情けなかった。
 誰もが背負うべき現実を放棄して、自分だけが不幸であるかのように荒れ狂って。その結果みんなを酷く傷つけ、そして……
 過去に囚われ、今なお痕を持つ従姉妹達。そんな彼女達を自分が守ると心に決めたのではなかったか? 過去を払拭し、始めからやり直そうと決めたばかりではなかったか?
 

「おはようございます、耕一さん。動いても大丈夫なんですか?」

 俯いたままの耕一の耳に千鶴の声が聞こえた。以前と何も変わらない、暖かく柔らかい声。

「そうです、耕一さん。大丈夫なんですか?」

 そして楓の。表情を見ていない分、逆に込められた想いが伝わる。

「おはよう、お兄ちゃん」

 初音が明るく言う。彼女は今どんな表情を見せてくれているのだろう。

 耕一は顔を上げることが出来なかった。

 ごめん。ごめん。ごめん。
 みんな、本当にごめん。
 叔父さん、ゴメン……
 

「……もう、動けるのか? 俺は二日は動けなかったんだが」

 ……え?
 耕一は勢い込んで顔を振り上げ、

「ぐわぅうっ!!」

 痛みに倒れこんだ。それがまた死ぬほど痛い。声にならないうめき声を上げ、捩るに捩れない体を自ら抱くと、耕一は必死に苦痛に耐えた。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
「こ、耕一さん? 大丈夫ですかっ?」
「耕一さん!」

 千鶴と楓が慌てて駆け寄る。
 耕一は痛みを堪えて首を廻らすと、食卓を見た。

 それは間違いなく、柳川だった。
 耕一と同じく全身あちこちに包帯をまき、どこか情けなさそうな表情を浮かべている。その頭にはなぜか見覚えのあるカチューシャがあった。その隣には見知らぬ若い青年が一人座り、初音がその青年に料理を運んでいる途中のようだった。初音も倒れた耕一に駆け寄ったものかどうか迷っているような様子だった。
 

「どうした、耕一? 何をそんなところでひっくり返ってるんだ? え?」

 倒れた耕一をひょいと跨ぐようにして梓が現れる。先ほどの苦しげな様子など微塵も感じさせない軽快さだ。口元にはニヤニヤと笑いを浮かべている。

 さっきの思わせぶりな言い方は、なんなんだ、梓ぁぁ!!
 とつかみかかりたいところではあるが、耕一は痛みと混乱でまともに口が利けなかった。仕方なく口をパクパクさせながら目で訴える耕一に梓は冷たく一睨みして一言。

「ふん。あたし達を心配させた罰だよ」

 ぐ、と詰まる耕一。確かに返す言葉もない。では、あれが叔父さんへの罰なのか?
 耕一は改めて一度柳川の頭に鎮座したカチューシャを眺める。耕一の視線に気付いた柳川はとても嫌そうな顔をした。

「ところで耕一、あんたから貰った果し状だけど、あれ何時がいい? 今日やるかい?」

 先ほどの抗議を受けてか、梓が言った。その表情は余裕に溢れ、面白がっているのが明らかだ。耕一は再びぐっと詰まった。そして力なく視線を逸らすと、小さくスマンと呟く。そんな耕一をからからと笑いながら、梓は初音を伴って台所へと戻っていった。片手でも料理ができるのだろうか? と耕一は思う。
 

 梓が去った後にも、また一悶着があった。
 耕一を助け起こそうと駆け寄った千鶴と楓だが、二人とも我勝ちに耕一に手を掛けると奪い合うように引っ張り合った。そこには明確な競争意識があるようだったが、耕一にとってはたまらない。あまりの痛みに思わず悲鳴が上がり、目には涙が滲む。

「い、痛い痛い、痛いってば千鶴さん、楓ちゃん! ――大岡捌きじゃないんだから! 引っ張られると死ぬほど痛いんだよ!」

 その悲鳴に千鶴と楓は赤面し、すぐに耕一を解放した。
 騒ぎを聞いて出てきた梓はそれを見てまたも大笑いし、釣られて初音もくすくす笑いだす。情けなく涙目で苦痛に耐える耕一を見て、終いには張本人の二人までも笑い出した。

 とてもじゃないが耕一自身は笑えるような状況ではなかった。ここまでの苦痛の中、気を失わずにいるのが信じられない。耕一は憮然とした思いで笑い転げる従姉妹たちを睨んだ。
 しかし、全身包帯だらけの男が、床に転がったまま涙目で睨んだとてどうなろう?
 まるで逆効果に、従姉妹達の笑いは一層大きくなった。

 千鶴が身をくの字に折って笑っていた。
 楓も涙が出るくらい笑っているくせに、まだ笑うのを止めない。
 梓と初音はお互いに抱き合って、いやお互いを支えあわないと立っていられないほどに大笑いしていた。

 梓はともかく、千鶴や楓、あまつさえ初音にまでこれほど笑われるとは。
 まだ全員を代わる代わる睨んでいた耕一だったが、皆の笑いは一向に収まりそうな気配を見せない。

 はぁ。まぁ、いいか。

 ため息一つで現状を受け入れた耕一の目に、何気なく映ったその光景。

 口元を覆った手の影で僅かに頬が緩み、光を弾くレンズの下で心持ち目尻を下げて。
 それは小さく肩を震わせながら、柳川が笑っている姿だった。
 
 

―― 祭の跡 ――
 
 

 あの日の夕方、隆山の地方紙には以下の記事が載った。

『 人食い熊逃走の末射殺

 ○月○日午後5時30分ごろ、雨月連山で登山客ら五名を殺害したと見られる熊が警官によって射殺された。
 昨日から雨月連山を封鎖して山狩りに入っていた警官隊とハンター達は山頂付近で一度熊を包囲したが熊は包囲を破って逃走。そのまま熊は逃走を続けていたが麓付近で発見され射殺された』
 

 そしてそれ以降事件は続くことなく、全てが曖昧なまま事態は収束へと向かっていた。

 自首すべきかどうかを柳川は悩んだが、それが周囲、特に柏木一族にもたらす結果を考えるとそれも出来なかった。心にしまっておくにはあまりに重い秘密を、柳川は生涯隠しとおすことになるだろう。
 いつか被害者の女性達が回復することがあっても、法ではなく柏木の「掟」の定めるところに従うことを、柳川は柏木の者達に告げていた。
 だが、今のところ彼女達の回復の目処は立たないままだ。

 そしてまた、柳川は自分が殺したものたちの遺族のために後の生涯を捧げることも決めていた。そしてそれには柏木も影ながらバックアップを約束している。

 阿部貴之はいまだに捜索の対象となっていたため、柳川が保護したという形で一度警察へと戻された。
 いろいろ説明のつかないことがあったが、貴之に犯行がでいたはずがないという証拠が次々と見つかっているから彼が放免されることは確実だと柳川はいう。

 貴之の中にあったヨークは既に去っていた。そのことを知るのは柳川と初音だけだ。
初音とヨークの間で話し合われたこと、取り決めについてはやはり初音と柳川だけの秘密だった。
 千鶴と楓が”たまたま”聞き耳を立てていたとき、彼女達は『前世』だの『三つの人格』だの『入れ物』だの、意味の掴めない事柄を喋っていた。
 そしてそれがなんなのかは、彼女達には遂にわからず終いだった。
 

 柳川は柏木家に居付いたのか? というとそんな事はなかった。柳川は貴之の実家と話し合い、貴之を引き取って暮らすことを決めた。事件の遺族との距離を考え、異動が行われることがない様に千鶴に工作を頼んだことが一度だけあったが、それ以外、柳川は自分からは滅多に柏木家に近づかなかった。

 柏木家においては、いくつかの問題が複雑な事情と共に残されていた。
 千鶴と楓の競争――抗争とも言う――が表面化し、しばしば耕一は居場所のない思いをさせられている。
 あらゆる内情が明るみに出て三人の立場が明確にされると、楓は現世における巻き返しを図る意思を固めたようだった。
 そんな楓の行動に耕一本人には一応思うところがあるようだった。植え込まれた記憶が消えることはなかったし、いったん生まれた感情が消えることもなかった。同時に既成の事実が消えることもないわけで、この事態の収束にはもう少し時間を掛けるべきだと考えたのかもしれない。

 しかし予想以上の面倒に閉口した耕一が「すこし距離をおいて時間に任せるべきだ」という叔父の意見を見直そうと思ったときには、既に手遅れになっていたようだ。
 彼女らの共通意見としては『決着がつくまでは帰さない』であり、そして『決着がついたら帰さない』心算だろう事も容易に予想できた。

 梓と初音はしばしば柳川宅を訪れた。
 新しい柏木家の親類はにわかに栄養面での充実が図られ、貴之の表情も少しずつ戻ってきつつある、と柳川は語っていた。

 騒がしい日々が穏やかに過ぎていった。
 そして、忙しい日常が続くうちに、それらは安穏な思い出になってゆく。
 

「見て見て、クララが、クララが歩いたよっ!」

 初音が貴之の手を取って歩く。

「誰が、クララだ……貴之は始めから歩けるぞ」

 柳川は梓と初音を伴って貴之を川原に連れ出していた。
 初音は貴之がお気に入りで、貴之も初音を気に入っているようだった。二人は川原で何かしゃがみ込んで遊んでいる。

「こないだ貴之の奴、俺の作った飯に文句いったんだ……不味いってさ」

 柳川は斜面に座って、そんな二人の様子を眺める。梓もそれに付き合った。

「何食べさせたのよ」
「何って、普通の飯だ」
「ふぅん?」

 梓は疑わしげだ。

「不味い……って、言ってくれたんだ」
「まぁ、そりゃ良かったね。あたしなら喜ばないけどさ」
「ふん。判ってもらおうとは思わんよ」

 柳川は不満げにそう言うと、両手を背後について背中を逸らすと、天を仰いだ。空が少し高い。夏がようやく終わろうとしている。秋はもうすぐそこに来ていた。

「ところでな、家のほうどうなったんだ?」

 柳川が何気なく聞くと梓は大げさにため息をついた。

「騒々しいったらないよ。あのままじゃ、二人とも愛想つかされるんじゃないの?」
「耕一も情けないな。とっとと決めればいいんだ」
「あたしもそう思うよ……あたしなら……うーん……やっぱり選べないかも」

 苦笑する梓。どうも、プラスよりマイナスを考えての発言に思えるのは気のせいだろうか。
 

 ――俺がこんなに安らいでいて許されるのだろか? 俺の罪はもっと責められるべきものだというのに。
 

「また、余計なこと考えてるな」

 梓が覗き込むようにして言う。

「しっかりしろよ叔父貴。これでもつけて元気出すか?」

 その手にはまたカチューシャが。

「……ああ、勘弁してくれ」

 柳川はなんとはなしに初音から聞いた話を思い出す。
 前世という奴は全くのところ出鱈目、と言うわけでもないらしい。初音も曖昧ないい方をしていたが、皆の中にある過去の記憶はヨークが植えたものだけでは無いということらしかった。なんでも、柳川は梓と貴之の前世とそれなりに因縁があったんだそうだ。人との共存をめぐって梓や貴之と争ったとかなんとか……事情を知らないものにはちんぷんかんぷんの話だ。
 初音は「いつか貴之お兄ちゃんが話してくれるかもよ」などといっていたが、彼女の記憶にしてもどれだけ当てにできるのか怪しいものだ。

 今となってはそんなことはもうどうでもいいのかもしれない。どちらかと言えば、楓たちに知られるのはあまりよろしくない。
 新しい一歩を踏み出した者達に、既に飛び越えた水溜りを教えてどうなると言うのだ?
 

 柳川は目を閉じた。
 常に柳川の人生の中心にあった義務。今もまだ、彼の前にそびえる義務。
 しかし、だからと言って苦しみながらやらねばならないということはない。
 義務に対して苦しんで見せることは、自分に対するパフォーマンス……自己満足に過ぎないのかもしれない。

 全てを受け入れ、其処から考え始めれば、どんなことでも物事を前向きに捉えることができる。義務もそれを進んで受け入れるものには誠実さを見せる、とはカナダの女流作家の言だっただろうか。
 

 ――俺はまだどこか、自分の義務に対して誠実ではなかったのか?
 

 柳川は初音と貴之を水場へと引っ張り込もうとしている梓を見た。

 明るく元気に家事全般を取り仕切り、場の盛り上げ役をも勤める梓。義務という言葉で自分をだまさない梓。時に悩みながらも、最後には心の命ずるままに行動する梓。
 

 ――なすべきことを素直に、直感的に捉えられる、お前が羨ましいよ。
 

 あのとき。柳川は理性も思考も無くただ怒りと狂気に任せて皆に襲いかかろうとした。梓の制止が無ければ、間違いなくそうしていただろう。力を御すことができても、自分を御せないようでは何にもならない。
 しかし。柳川は自分の中に柳川自身知らない自分があることを、不思議と快く受け入れた。自分の行動が理性と計算に基づくものだけではない。それは新たな、衝撃的な発見だった。自分はまだ、変わっていけるかもしれない。相当時間は掛かるかもしれないが……

 柳川はまた思考で結論を出している自分に苦笑すると、うーんと伸びをする。そしてそのまま後ろへばたんと、大の字に倒れこむ。
 重力に逆らわず大地に寝転がるのも、たまにはいい気分だった。
 

 そよそよと寄せる風が心地よかった。
 せせらぎの音が耳に優しかった。
 日に焼かれて、大地が香り立つ。
 

 柳川はいつしか眠りに落ちていた。

 その顔は安らかで、そして、見る夢は穏やかだった。
 
 

――― 了 ―――
 
 

* <道饗祭 みちあえのまつり> 
* 古代の祭りで、鬼や疫病神の侵入を防ぐために行われた呪術的祭儀。
* ヤチマタヒコ、ヤチマタヒメ、久那土(くなど)の三神を祭った。
* 神前に牛や猪、熊の皮などを供えたという。
* 今でも一部で「道切り」と呼ばれる習俗で伝わる。
 
 
 

血風 後編

あとがき

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