―― 血風 四 ――
 
 

 まだ、充分に日は高かった。山頂に近づくにつれ木々は少しずつ疎らになってきていた。木漏れ日が敷き詰められた落ち葉のじゅうたんの上に落ち、美しいモザイク模様に染め上げる。
 鳥がさえずり、しばしば吹き渡る涼やかな風に木々が静かにざわめく。
 美しい一日だった。

 そこだけぽつんと開けたような、かつては巨木が聳えていたのであろう、小さな空地。
 耕一は切り株の一つに何気なく腰掛けていた。
 柳川がこの姿の耕一と会うのは二度目だ。一度目は長瀬と共に千鶴の聴取に来た時。あの時の耕一は温和で多少抜けた雰囲気のある、好感の持てる青年だった。
 そして、今の耕一は、あの時と変わらない温和な雰囲気を醸し出していた。以前とは比較にならない落ち着きを加え、大人びた表情がとても似合っていた。柳川はそんな耕一を美しいとさえ思った。

 そしてそれは彼だけの感覚ではなかったのだろう。千鶴も楓も、そして梓も呆けたように耕一を見つめていた。
 始めから耕一はこちらに気付いていた。耕一が一行に混じる柳川の姿を認め、もの問いたげな目を向けた。
 

「耕一さん……」

 耕一が頭をめぐらす。千鶴が、どこかぎこちない笑顔を浮かべて立っていた。

「嘘、ですよね? 耕一さん、言ってくれましたよね。私たちのこと、好きだって。この上なく大事だって……耕一さんが私たちを……嘘ですよね?」
「耕一さん、いえ、次郎衛門ッ!」

 千鶴の問いに対する耕一の答えを待たず、割りこんだ楓が叫ぶ。
 それは普段の控えめな彼女からは想像しにくい姿だった。

「私のこと、覚えていますかっ?! 私の名前、覚えていますかっ?! お願い、答えてください!! あれは、夢なんかじゃないですよね?! 嘘なんかじゃないですよね?!」

 それは、血を吐くような懇願だった。
 耕一は少し困ったように小さく笑うと、切り株から立ち上がり腰を手で払う。

「その口振りはもう、知ってるみたいだね。どこで聞いたのか知らないけど……久しいね、エディフェル。何年ぶりになるだろう」

 楓の顔が輝く。

「長いこと待たせたね……おいで」

 耕一が両手を差し伸べる。楓は待ちきれないというように駆け出し、その身を耕一の胸に投げ出した。耕一も楓をしっかりと受け止める。

「耕一さん、耕一さん、耕一さん……」

 楓は感極まり、ただただ耕一の名を繰り返した。

「楓ちゃん、俺の名前言えるかい? 500年前の俺の名前」

 耕一は楓を優しく抱きしめたままそう呟いた。
 楓は質問の意味が良くつかめなかったのか、訝しげな瞳で耕一を見返した。

「……次郎衛門?」

 その言葉を聞くと、耕一は楓を抱きしめていた腕を緩めた。不安に駆られた楓は耕一にしがみつこうとしたが果たせなかった。しっかりと肩を押さえられた楓は落ちつかなげに耕一を見上げる。耕一は先ほどの少し困ったような表情を浮かべて楓を見下ろしていた。その表情が、どこか貼り付けた、作り物の仮面のように楓には思えた。

「……違うんだなぁ、楓ちゃん。ホント、残念なんだけど、違うんだな」
「耕一さん?」
「俺が襲名したこの名、『次郎衛門』は魑魅魍魎の類を退治するお役目の名なんだ。そして鬼の血をもたらした初代の『次郎衛門』は天城四郎。……エディフェルはちゃんと『シロウ』と呼んでいたよ……ジローエモン、ではなくてね」
「……そんな……嘘……」
「じゃ、ないんだな。悪いけど」

 楓は顔色を失った。いつしか耕一は楓から離れ、ふらついた楓には支えの手はどこからも延べられなかった。

「……そんな……」
「気の毒だったな、楓ちゃん。どこの誰だか知らないが、騙すならもう少し完璧にやって欲しかったよな。それに、どうせならもっといい男を相手にしてあげられれば良かったのにな。こんなロクデナシに構わせちまって、我ながら悪いなって思うよ」
「耕一さん! 違います! 私は……私は……耕一さんのこと……」
「全てはただの夢だよ。どちらかといえば、最低の悪夢だ。早く忘れたほうがいい」
「耕一さんっ!!」
「俺は、全部忘れたよ」
「…………っ!!」

 伝えるべき自分の気持ちも、耕一が応えてくれるという確信も。その全てが崩れ去った今、彼女はもはや語るべき言葉を持たなかった。楓は悄然と立ち尽くす。

「……もう、耕一さん」

 千鶴は耕一を真っ直ぐに見て微笑んだ。千鶴は楓を優しく抱きしめる。楓は千鶴にしがみつき、激しく泣き出した。

「忘れるなんて、冗談でもそんなこと仰らないで下さい。ほら、楓も泣いているじゃありませんか。私たちが耕一さんのことを忘れられるはずがないでしょう? 私たち、家族じゃありませんか」
「ごめんね、千鶴さん」

 ごめん。
 耕一のその言葉に千鶴の息は止まる。あの日、耕一が口にした言葉。

「私より楓に謝ってください」
「繰り返すけど、ごめん。千鶴さんにも悪いと思う」
「ですから……私に謝らないで下さい。さあ耕一さん、うちに帰りましょう。初音が待っています。楓も、きっとすぐに機嫌を直してくれます。梓が美味しい料理を作ってくれます……私にはとても無理なくらい美味しいのを」

 千鶴の声が震え、語尾が霞んだ。その頬を涙が伝っていた。それでも、千鶴は微笑んでいた。泣きながら、微笑んでいた。

「俺が前に言ったんだっけね。どうして殺すか殺されるかの選択しかないんだって。他に道はないのか、って。でもさ」
「耕一さん……帰りましょう? 私たち、耕一さんを待っているんです」

 耕一は千鶴を見た。その目は信じられぬほど優しかった。
 千鶴は口元を押さえる。もう、涙は止めようがなかった。

「悪いけど、他に選択肢はないらしいんだ」
「お願いです、耕一さん。帰ってきてください……帰ってきて欲しいんです、耕一さんに!」

 嗚咽を堪えながら千鶴は耕一の応えを待った。しかし耕一が言葉を取り消すことも、その表情を変えることも、ついになかった。

「俺は八代目の次郎衛門、柏木耕一。悪鬼調伏のお役目に従い――」

 耕一はあっさりと、恐ろしいほどにあっさりと、千鶴が恐れていた言葉を口に出した。

「――お前達を殺すよ」
 

               §
 

「耕一」 

 梓はゆっくりと歩みでる。泣きじゃくる楓と、同様に涙を流しつつ彼女を支える千鶴を梓は見ないようにした。真っ直ぐに、耕一だけをその視野に置く。

「お前、本当に……鬼になっちまったのか?」

 耕一も真っ直ぐ梓を見返した。

「……お前はもう……鬼なのか?」
「そうだ」

 はっとした梓の目に映った耕一は冷たい、酷薄な瞳で彼女を見下ろしていた。梓がいままで一度も見たことのないような、感情のない目。耕一が覆い隠してきた、楓にも千鶴にも見せなかった虚無がそこに表れていた。そしてもう一つ。梓が直感的に感じたそれは、絶望の縁に残っている、恐らくは最後の希望といえるものだった。

「俺は鬼だ。他の鬼すら素手で引き裂ける真の鬼だよ、梓。それでお前はどうする?」

 梓は暫くの間、黙っていた。そしてゆっくりと言葉を紡いだ。返事の一言一言に決意を込めるのに、時間がかかると言うように。

「賢治叔父さんは……お前の親父さんは、お前のことを頼むって言ってた……息子を頼む、って。あたしは何も考えないでわかった、って答えたよ」

 梓はゆっくりと顔を挙げた。その瞳は紅に染まり、縦にひび割れている。

「あたしがあんたを看取ってやるよ耕一。――覚悟しな」
 

 梓の鬼気が膨れ上がる。虫鳥の音がぴたりと止み、辺りの空気が圧迫感を伴って渦巻く。パキリと小さな音を立て、足元の小枝がはじけ飛んだ。
 誰もが固唾を飲んで見守っていた。千鶴と楓は貧血の時のような血の下がる感覚と耳鳴りを覚える。
 そんな中、耕一は顔色一つ変えずに梓を見ていた。

「こ・う・い・チ!!」

 瞬間、草葉を跳ね飛ばして梓が迫る。数メートルの距離を僅か一歩に近づくと、梓は耕一の目前で大地を蹴り上げた。枝葉が散弾のように飛び散り、砂塵が耕一の視界を奪う。
 梓の性格上、小細工無しの真っ向勝負を予想していた耕一は怯み、顔をそむけた。

 一瞬の隙。
 梓には、それで十分だった。

「ゴメン!」

 梓は砂埃の中に立つ影の首を狙って回し蹴りを叩き込んだ。岩を砕き、大木を爆ぜ折る一撃だった。無論、防御などできる筈がない。ずっしりした衝撃と骨の折れる感覚が梓の足に伝わる。間違い無い致命の手ごたえに、梓は目をぎゅっと瞑った。その罪悪感と喪失感は気を失いそうなほどだった。

 しかし、地面に叩きつけられるはずの耕一はびくともしなかった。
 それどころか梓は足を押し返され、よろめいて数歩下がる。渾身の梓の蹴りは耕一の右腕一本に止められていた。

「なかなかやるじゃないか、梓。少し驚いたぜ」
「……嘘だろ……」
「でも、悪いがそれじゃ俺は殺せないよ」

 耕一は折れた腕を押さえて少し苦痛に顔を顰めた。骨を接ぐ、がりっという音がした。

「大体、俺たちの力を考えれば拳より抜き手、重さより速度だ。当たればもともと耐えられやしないんだからな」
「ほざけ!」

 そういいながら平然としているのは誰あろう耕一本人なのだ。梓は矢継ぎ早に攻撃を仕掛けた。今まで熱や激情に浮かされた時にしか、梓は力を使った事がなかった。しかし今始めて、梓は自分の手足の重さに慄いた。まともに当たれば、梓の拳は耕一の頭を砕く。ただ薄く掠めるだけで、梓の爪は耕一の喉を引き裂く。攻撃を仕掛けるたびに、攻撃がかわされるたびに、梓の心には恐怖と安堵が交互に訪れた。迷う心と体を同時に御すことができず、梓の攻撃は次第に精彩を欠いていった。

「……これまでだな」

 耕一の一言で梓は我に返った。耕一の目に浮かぶ諦観と哀れみを見て、梓はようやく気がついた。さきほどの耕一の瞳に宿っていた微かな期待、それは先ほど柳川の目に宿っていたものと同じものだったのだ。
 空気の変化を感じ、梓はさっと血が引くのを感じた。全身の毛が逆立ち、胃が縮こまる。耕一が、鬼気を放ち始めていた。
 その余りにも圧倒的な気配に、梓は慄然とした。心の奥底からの、本能的な畏怖。
 耕一が力を押さえているのは明らかだった。目には冷たいが理性の光があり、表情もまだ人間らしい。しかし、その内にある力場は桁はずれだった。押し寄せる圧力に、梓は心臓を握りつぶされるような恐怖を覚えた。太陽を直視できないように、梓は耕一をまともに見ることすらできない。
 耕一は、梓の手による死を望んでいた。
 しかし、それはもう果たせそうになかった。
 

「お前とは随分喧嘩したが、これで最後だな、梓。俺は結構……」

 気づくと、耕一は梓の視野にいなかった。梓は慌てて深紅の瞳を左右に振り向ける。
 

 ――どこに!?
 

「……お前が気に入ってたよ」

 耕一が、梓に向けた手向けの言葉。それは優しく、梓の耳元で囁かれた。どうやってか、耕一は梓の背後を取っていた。

 鋭い風切りの音。そして、千鶴と楓の悲鳴。

 全てを切り裂く一閃、しかしそれが梓に触れることはなかった。突き飛ばされた梓がもんどりうって倒れる。梓の首を凪ぐはずだった手刀を受け止めたのは柳川だった。

「……誰かと思ったが、あのときの刑事さんか。どうして彼女達と一緒なんだ?」

 耕一は今はじめて気が付いた、というように柳川を見た。自分の攻撃を止めることのできた柳川に対して見せる、好戦的な笑い。既に耕一は狩猟者としての力に憑かれていた。対する柳川は青ざめ、呼吸を乱していた。

「これでもお前と彼女達の叔父にあたるんでな。そして、お前には一度殺された借りがある」

 食いしばった歯の奥から、不吉な調子で柳川は言った。捕らえた耕一の手首を締め付ける力はまるで万力のようだった。耕一の眉が苦痛に顰められる。

「――借りは返すぞ……全部まとめて」
 

               §
 

 目前の光景が、柳川にはどこか遥か遠いところから眺めてでもいるかのように映った。
 彼女達の悲嘆とそれを冷酷に見守る耕一の姿に、自分の中の何かが大きな、とても大きなショックを受けていた。
 物心ついてからずっと、心の底から望んできたものがそこにあった。望んでも決して手に入ることが無かったものを柳川は見た。しかし、それは柳川に向けられたものではない。

 耕一が背後に回りこんだ事に梓は気付けなかった。
 僅かに振りかぶられた耕一の手刀を、柳川は見ていた。
 そして気付けば、柳川は耕一の攻撃の下に身を躍らせていた。

 頭から全ての血が流れ出したような冷たさ。自分が何をしているか、まだ柳川は掴みきれていなかった。自分が今、青ざめているのを自覚する。掌が汗ばんでいるのに、恐ろしく冷たい。そして、心臓の音だけが不気味に耳に木霊していた。

 どくん。
 

 ――お前にはまだ、これだけお前のことを思ってくれる人がいるぞ、耕一。
 

 どくん。
 

 ――これほどまでに、愛してくれる人がいる。
 

 どくん。
 

 その鼓動は痛みを伴っていた。心の奥底の痕を引き裂き、血を迸らせながらも、その鼓動は止まるところなく強くなっていく。
 

 ――それを、いらないと。そう言うんだな?
 

 どくん。
 

 ――結構なことだな、耕一。さぞやいい気分だろう? 悲劇の主人公は充分気取ったか?
 

 どくん。

 親に恵まれず、親類には蔑まれ、世間からは疎まれた。
 自らの心と体すら呪われ、意のままにならなかった。
 それでも俺たちは抗い、戦ってきた。
 俺たちはよく似てるよ、耕一。
 だが――

 柳川は今、はっきりと自覚した。
 心の奥底に沈殿した澱。淀み腐って、どろりと粘る闇。

 それは、嫉妬だった。
 

 ――甘ったれるなよ。柏木耕一。
 

 柳川は理性の制止を無視した。
 迸り出るままに、柳川は咆哮した。
 暗い怒りが体を駆け巡り、肉体が変化を始めていた。
 

「叔父貴?」

 柳川の激情が流れ込んできたのを梓は感じた。沈着冷静、自分の対極にいると思われた柳川の、圧倒的な感情の奔流に梓は驚いた。怒りや悲しみや、その他にもさまざまな感情が綯交ぜになった激情。

 柏木の姉妹が驚き見守る中で、柳川は変性を遂げていった。
 

 それは耕一も例外ではなかった。耕一は柳川に初めて畏怖を覚えた。

 地上に耕一の敵はもういないはずだった。地上で最強の存在は自分だと確信していた。しかし今、柳川の放つ気配は凄まじかった。これまでの敵とは比較にならないほど、そしてかつての柳川自身とも全く比較にならないほどに。
 余裕を見せられる状況ではないと悟り、耕一は間を取ると自らも変性を始めた。

 際限なく膨れ上がる鬼気に当てられ、柏木の姉妹はぐったりと崩折れる。

 この世のものとも思えぬ怪物たち。それらは、咆哮をあげながらお互いに掴みかかっていった。
 
 

―― 血風 五 ――
 
 

 全てが静まり返る。
 二つの圧倒的な存在に、光も音も、時すらも凍りついたようだった。凄まじい恐怖が柏木の姉妹を襲っていた。全身がすくみあがり、息すら出来ない。視野が狭窄し、耳が遠くなる。彼らが動くたび、心臓が跳ね上がり、胃が鷲づかみにされた。頭痛と吐き気がし、下半身に力が入らない。
 意識ごと刈り取られそうな恐怖に、三人は必死に耐えていた。
 

 耕一の腕が唸った。
 鉄塊をも引き裂く一撃を、耕一は続けざまに柳川の上に振り下ろした。

 速度も力も、耕一は圧倒的だった。

 柳川はそんな致死の攻撃の雨の中、瞬く間に刻まれる無数の傷を無視して耕一に突進した。
 その攻撃はあからさまな狂気を孕んでいた。鋭い爪、逞しい足ではなく、柳川は真っ先に自らの牙を用いて耕一の喉笛を狙った。
 咄嗟に耕一は身を捻る。柳川の牙は喉をそれて肩に突き立った。
 みりみりとおぞましい音が響く。柳川の顎が噛み合わされて行く。

 生きながら食われる鬼は苦痛の咆哮を上げた。

 耕一は強引に柳川を引き剥がした。離れた柳川の牙がこんどは顔面を襲った。
 仰け反ってそれを裂け、耕一は袈裟懸けに爪を振り下ろす。忽然と、柳川の姿が消えた。
 それは、脹脛の肉をごッぞりと噛み千切って行った。

 三度、耕一の爪は振るわれた。柳川の頭を砕く筈のそれは、前ほどの力を失っていた。柳川はそれをあっさりと受けとめる。
 動きの止まった鬼が明らかな恐怖の色を浮かべた。
 柳川の、大きく裂けた顎から覗く血塗られた牙がその腕に深深と沈められた。
 

 獸そのものの獰猛さで、柳川は耕一からじわじわと戦力を殺いでいった。そして、いつしか戦いは一方的な嬲り殺しの様相を呈していた。

 柳川のその丸太のような腕は、とてもゆっくりと耕一の左腕を握りつぶした。
 踏みつけられた耕一の背骨が軋む音に、見ていた千鶴たちは顔色を変えた。
 鈍い音を立てた胴を蹴り付けられた耕一は口腔から血を撒き散らしながら、大地を撥ね、転がる。

 勝負はついた。かつて耕一だった鬼は地に倒れ、僅かに上下する胸を除いては動かなくなった。
 体表がひび割れ、湯気を立てる。
 維持できなくなった組織が老廃物として剥がれ落ち、耕一は人の姿を取り戻した。

 ただ一人屹立した鬼は勝利の雄叫びを上げた。そして倒れた耕一を悠然と見下ろすと致死の爪を振りかざした。
 

 息を詰めて戦いの行方を見守っていた三人は、ついに決着がついたのを知った。そして今、皆は柳川の鋭い爪が倒れた耕一の上に振り上げられるのを見た。それが致命の一撃になることは誰の目にも明らかだった。
 

               §
 

 耕一の死がそこにあった。耕一との永遠の別離が形を為していた。無限とも思えたその瞬間に、彼女達は自分達の未来を選んだ。恐怖の呪縛を振り払い、彼女達は飛び出した。

「耕一さん!!」

 耕一を守ろうと無謀な特攻をしかける千鶴を、柳川はその広い視界に捉えた。耕一を庇うように身を投げかける楓も。

 ただの一振りで、この腕は千鶴の命を消し飛ばし、楓ごと耕一の体を貫き通すことができる。柳川は彼女達の無駄な努力をあざ笑った。
 

 ――お望みどおり殺してやるよ。
 

「よせ、叔父貴!!」

 千鶴との交錯の瞬間、梓が割り込んだ。腕に飛びつかれ、千鶴の首を凪ぐはずだった一撃は脇へと逸れる。

「梓?! あなたっ!! ……あ、あず……さ?」

 震え、言葉を失う千鶴。そして見る見る血の気を失い、青ざめてゆく梓。その足下に急速に広がりつつある血溜り。

「また、殺すのか?! 今度は家族を殺すのかっ?! 叔父貴!!」

 柳川はびくりとその動きを止めた。深々と打ち込まれる梓の言葉。そして、柳川を射竦める梓の双眸。

「もう終わっただろ? 叔父貴は耕一を止めてくれた。あとは、あたし達の仕事だと思う。もういいよ。帰ろうよ、叔父貴」

 傷は左肩から腕にかけてざっくりと深い。我に帰った千鶴が応急手当に駆け寄ると、梓はふらりと血に膝をつく。楓も心配そうに身を寄せる。

「あ、梓っ!? ごめんなさい、ごめんなさい!」
「梓姉さん!」
「……ははっ、大丈夫大丈夫。ちっと貧血らしい。鉄分が足りないかな……なぁ、叔父貴。帰ろうぜ。ケイサツもそろそろヤバイんだろ?」

 みえみえの強がりを言いながら、梓は一時たりとも柳川から目を離さなかった。止血の処置を受けている間もずっと、梓は柳川を見据えていた。
 やがて鬼の両肩が僅かに持ち上がり、下がる。それが深い溜息だと解ったのは梓だけだった。ただそれだけのことが、梓にこの上ない安心を与える。それが現実を受け入れるときに柳川が見せる癖であることを、なぜか梓は知っていた。気が緩んで泣き出してしまいそうになるのを、梓は必死に堪える。
 

 鬼は倒れた耕一を見つめ、そして跪いた梓を見遣った。

「――お前達は耕一を連れてすぐ山を降りろ。無線の使い方は判るな」

 鬼化したままの柳川が言った。

「俺は警察の目をひきつける。これだけ騒げばさすがに気付かれた筈だ。俺が向かう側と反対側から山を出ろ。警察の動きは常に無線で確認するんだ。判ったか?」

 千鶴が呆然と頷くのを見て、柳川は笑った。鬼の姿のままで。

「耕一には、よく言い聞かせてある。あとはすぐにここを離れることだ」
「叔父貴?」
「――梓。悪かったな。帰ったら……一献酌み交わすとしようか」
「待てよ! 叔父貴!!」

 梓の声は届かなかった。

 柳川は飛び去った。
 

 逃げる彼女達の耳に、遥か遠くで木魂する幾多の銃声が聞こえた。
 それに被さるような、地を震わせる獣の咆哮。そしてまた銃声。どれほどの数の銃声が響いたのか、誰も数えることはできなかった。そしてそれはいつまでも遠く鳴り響いていたが、ある時を境にふっつりと聞こえなくなった。
 
 
 

血風 前編

道饗祭

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