―― 血風 壱 ――
 
 

 ”逃げろ、早く逃げろ。逃げろよ。さもなきゃ捕まえちまうぜ?”

 頭に響くシグナルはそれを嘲弄しつづけていた。
 唸る空気を掻き分けるようにそれは疾走を続けた。強靭な肉体のあちこちが悲鳴をあげつづけていた。根元からない左腕のせいで、スピードを上げようにもうまくバランスを取れない。低く轟く響きとと水の匂いから、行く手が切れているのを察して方向を転じる。下山する方向へ。

 ”そっちは行き止まり”

 それはビクリと急停止し、あたりを見回す。巨大な熊かと見紛うそれは慌てたように身を翻した。

「悪いが、こっちも行き止まりなんだ」

 木々の間から人の声が聞こえた。
 それにはその言葉の意味を理解することはできなかった。
 だが、その声が意味するのが目の前に迫った自らの死だということは、それにも理解できた。
 

               §
 

 ”また一人減りました”

「随分せっかちだな」

 この手の報告は今日に入ってもう三人目だった。敵も残るはもう二人のみとなる計算だ。
 柳川は彼らを気の毒にすら思った。いわば、彼らは耕一の八つ当たりを受けているのだ。いずれにせよ彼らの居場所を用意してやる気は柳川にもなかったが、それでも同情を禁じえない。

 耕一の怒りはもうその矛先を見失ってしまっているだろう、と柳川は思った。空しさに駆られて、目に付くもの全てに当り散らしている耕一の姿が目に浮かぶようだった。

 耕一は鬼たちとの戦いの中に斃れることを望んでいたのではないか?
 ……かつての自分のように。

 一人で先の見えない戦いを続ける耕一に、柳川は人事でない哀れみを感じた。
 

「今、登山道は封鎖されている。連山に通じる全ての登山道が立ち入りを禁じられている。ここまで大掛りに警察が動くということは、県警の範疇を超えているわけだ。どういうことか判るか?」

 柳川の車では初音を除く三人を乗せることが出来ないので、彼らは柏木の車で移動していた。後部座席に三人を乗せ、柳川はナビの必要もなくすいすいと車を走らせる。

「……なんだかよくわからないよ、叔父貴」
「大雑把に言えば、誰かお偉いさんがこの事件にご執心だって事」

 多分考えもしていない梓に、楓が答える。

「柏木に関する事件、そして隆山で起きる遭難事件の類に割り当てられる捜査官には、いくつかの共通点があったようだな。端的に言えば窓際のやる気のない刑事だったり、あるいは新人だったりな」

 柳川の言葉に千鶴が沈黙している。心当たりがあるのだろう。

「今回はそういう圧力が効いていないらしい。本腰を入れた警察は、かなり厄介だぞ……身内びいきじゃないがな。隠滅には使えるだけのモノを使う必要がありそうだ」

 柳川は奇しくも耕一がたどったのと同じ場所を目指す。
 雨月連山の麓に通じる、ダムの水門近く。かつて、柳川が耕一と千鶴に倒された場所だ。

「ここから山に入る。仕度を済ませておけ」

 柳川は車を出て、湖面を見下ろす斜面に出た。
 夏の強い光を照り返して、湖面は輝いていた。町が見渡せる。柳川は、母の故郷である此処隆山が美しい場所であることを始めて知った。
 登山用に着替えをおえた彼女らが出て来ると、柳川は車を目立たぬ場所に止め、先を示した。柳川はヨークからのナビを受け、山道に分け入った。
 

 ”遭難していた人たちが全員、女性も含めて遺体で見つかったと知らせがはいっています。場所的にはあなた方のいる反対側です”
 ”そうか。捜査員達の目がそちらに向くか?”
 ”どうでしょう。やはり、猛獣に襲われたという表現がされていましたから……”

 山狩りの口実として、人食い熊が出たという発表がされるのは間違いないだろう。なんにせよ被害者が全員見つかったからには、警察は今山にいるものを全て捕獲の対象とする指示を出すだろう。人だろうが動物だろうが。

 ”耕一の位置は掴めないのか?”
 ”恐らく山頂付近に。そこに生き残りのえるくぅがいますから”

「……山頂ですね」

 楓が言う。彼女にも聞こえていたらしい。
 いや。彼女にも聞かせたのだ。ヨークはチャンネルを合わせるように特定の相手だけに信号を送り、仲介できる。殆ど力を失いかけたヨークがそういう無理をするからには何らかの理由があるのだろう。
 柳川は楓を見た。柳川・千鶴・梓に混じると、楓は身体的なハンデが大きい。彼女が足を引っ張ることを彼女自身が自覚している。

「行きましょう」

 荷物を背負いなおし、先頭に立とうとする楓。
 柳川は楓の横に立つと話し掛けた。

「耕一を見つけられるか?」
「近づけば、多分」
「ならそちらは任す。荷物は俺が預かろう。足手まといになられては困る」

 楓はきっと柳川を睨む。柳川は平然とその荷物を奪うと、楓の先に立って道を掻き分け始める。山頂まで少なくとも2時間は掛かるだろうというペースだった。柳川には彼女達に語るべきことが幾つかあった。それは耕一との対決の前に必ず為されねばならない。

 何時それを切り出すか、柳川はずっと考え続けていた。
 
 

―― 血風 弐 ――
 
 

 血の味に耕一は憑かれていた。
 命の火が散る様に魅入られた。
 敵を食らう度に恍惚とした。
 狂ったように戦いに身を投じた。
 わが身を省みる事無く、ただひたすらに殺戮にふけった。
 しかし、胸にあいた穴はまったく埋まろうとはしなかった。

 ならば享楽に溺れ理性を失い、鬼と化してしまおうと思った。
 しかし一時の快楽はあっという間に消え去り、ただ空しさだけが残った。

 怒りを感じていたのも何時までだったのだろう?
 復讐に燃えていたのは何人目までだったろう?
 

               §
 

 無線は捜索隊が山頂へ向かっていることを教えてくれた。
 柳川は舌打ちして電波を切ると後続を振り返る。かなりのペースで登ってきてはいた。しかし、やはり楓の足に限界がきていた。
 柳川は手ごろな空地を見つけ手斧で邪魔な蔓草をなぎ払った。

「此処で少し休憩をとる」

 柳川は指示を下した。手近な切り株の一つに腰をおろすと、柳川はふうと一息ついた。
 

 ――このあたりが頃合だな。
 

 表情が厳しくなってきた姉妹三人をみて、柳川はそう思う。
 休憩を取ったのは、楓の足を気遣ってのことだけではなかった。耕一と対峙する前に、どうしても伝えておかねばならないこと。耕一の抱える虚無の正体。
 もうこれ以上は後延ばしにはできない。柳川は皆の息が整ってきた頃を見計らって切り出した。
 

「梓、この間言ったことを覚えているか?」
「こ、この間……?」

 梓は吃って、上目遣いに柳川を見る。

「俺はお前に義務に対する心構えがあるか、と聞いた。義務を全てに優先させる、その覚悟があるかと聞いたはずだ」

 ああ、と梓。

「思い出したな? では今回、俺達は何をすべきかわかるか?」
「敵を倒すんだろ?」

 梓らしいストレートな意見だった。
 俺が桃太郎なら、さしずめお前はお供のサルといったところか。
 表情も変えず、柳川は思う。

「そうだ、と言いたいところだが、それでは足りない。たしかに我々は外来の鬼を始末するためにここに来た。だが実際、殆どの敵は既に耕一によって倒されている。そして恐らく、俺達がつく頃には事はもう終わっているだろう」
「……じゃ、あたしたちゃ何しにきてるんだ?」

 その質問が梓だけのものでないことは、全員の表情を見れば明らかだった。しかし柳川はすぐにはその質問には答えなかった。

「柏木家には代々伝わる”掟”があるんだったな。柏木の血を守り、秘密を守るという掟だ。鬼という異質の存在が人の社会で共存していこうとするなら、不可欠な義務だ」

 改めて考えれば、彼女達にとってこの掟がどれほどの意味を持つのだろう。耕一と天秤にかけてまで守るべきものだと考えるだろうか。

「お前達姉妹が生きて行く為にも不可欠な義務だ……だが、今回、お前達の負う義務は違う」

 柳川は思った。
 義務と言う言葉がこんなに空しく響くのは何故だろう、と。

「これから俺達は耕一とまみえる事になる。……お前達はそこで、これからの道を選ばなければならない。どんな選択肢であっても、自分達一人一人でだ」
「悪いんだけど言ってる意味がよく解らないよ、叔父貴」

 梓がきまり悪げに口を挟んだ。

「今の耕一は、普通じゃない。ある意味、お前達の知っている耕一じゃない。……梓。お前の言った倒すべき敵とは、その耕一の事かもしれない」
「そんな!」

 皆が息を呑む。

「そう。掟に従うなら。お前達がこれからも人間社会で生きてゆくのなら、耕一はお前達にとって除かねばならない敵だ」

 情にそわぬ理屈を聞かされるときの人の表情は概ね似通ってくるものだ。内を過る屈辱、葛藤、拒絶。しかし、常ならその定型化された表情を見るにつけ覚えていた優越感は、今柳川の中には湧かない。

「しかし、お前達には選ぶ権利があると俺は思った。だからここに連れてきた。お前達同士でその選択が対立するとしても、お前達にはそれを選ぶ権利があり、それに伴う義務がある。だから俺はお前達に問う。
 ――義務を果たす心構えはできているか?」
 

 耕一と引き換えるもの。
 家族との日常に引き換えるもの。
 その両方と引き換えるもの。
 

 何かを失わずして、何かを手に入れる事はできない。
 全員が自らのうちにある意思を確かめるのを、柳川は黙って見守っていた。
 
 

 少し風が出てきていた。木々の合間を縫って吹く風が下生えを波立たせ、木の葉を巻き上げる。
 

「楓。最近、夢は見るか? ……500年前の」

 見る間に楓の顔色が変わる。

「同じく、千鶴。お前はまだ夢の中で耕一を耕ちゃんと呼ぶのか? そして梓。なぜお前はあの小さな、古びた靴を捨てなかった?」

 全員が驚きと羞恥と怒りを込めた視線を投げつけてくる。
 そんな視線にはもう慣れているといばかりに、柳川は平然とそれを受け流した。

「まだ、俺達の血の出自について語っていなかったな。今、それを教える」

 そして柳川は語った。
 ヨークのこと。
 星々に流れ着く”えるくぅ”達のこと。
 ヨークの使命――ヨークがいかなる手段を用いても鬼の血脈を維持、存続させてきたこと。
 次郎衛門と鬼達の確執――いまだ次郎衛門が鬼を殲滅しようと恨みを持っていること。

 次郎衛門。その言葉に楓の瞳が輝くのに、柳川は気付いてしまう。
 

「確認する。ヨークの使命とは何だ?」
「柏木の血の維持とあなたは言いましたが……」
「そうだ。柏木の血を維持し、管理してきたのがヨークだ」
「柏木の血の、管理?」

 千鶴が聞き返し、柳川は小さく頷いた。

「ヨークは血を広く拡散させる一方で、逆に純血の一族も保持しようとした。それが柏木の一族だ。柏木には色濃く鬼の血が流れている。代々にわたって、力の強いもの同士のかけ合わせで子孫をのこしてきたんだ。自然、近親婚が横行したため、狂気の因子を持つものも多く出た……鬼の血の暴走と言うのは実のところこれの事だ」

 確かに鬼の血の暴走は、”えるくぅ”の覚醒の事ではない。柳川はつい口にしてしまったのだが、この事はこの際重大な事柄ではなかった。柳川はこの言い訳じみた発言に対する軽い自己嫌悪を覚えつつ、より噛み砕いた説明にはいる。

「柏木の血は強い。そして、それは俺達のこの意思伝達能力が強いことも意味する」

 楓がこくんと頷いた。彼女はこの中では最強のテレパシストだった。そして、それが故に彼女に白羽の矢が立てられた……次郎衛門の怒りを鎮めるための『贄』として。

「この伝達方法には、実はほぼ全てヨークが介在する。ヨークが受け取り、増幅し、発信するんだ。楓くらいになれば近い距離ならヨークの介在も必要ないが、俺や千鶴、梓だとそうは行かない。全てヨークの仲介あってこそ可能になる」

 皆、黙って聞いていた。

「話がそれた。純血を保つ話だったな。確認しよう。
 ヨークは血を管理してきた。
 一族の純血をできるだけ保つために、ヨークは濃く、強い力を持つもの同士を引き合わせ、より強い力と血を残そうとしてきた。判るな?」

 楓の瞳に理解の光とともに不安が宿りはじめていた。

「その手段として……この意思伝達能力は使われた」
「嘘よ!!」

 間髪いれずに楓が叫んだ。その目は恐怖に慄いていた。眉根を寄せ、唇が震える。認めたくない、認めるわけにはいかない事実が彼女を打ちのめしていた。
 楓の深い絶望と悲嘆は柳川をも飲み込む。しかし、彼は続けた。

「悪いが嘘じゃない。お前が見てきた『夢』もその一つ……ヨークが見せたものだ。楓。お前は、次郎衛門が覚醒したときの保険として――彼の怒りを鎮める人柱として――次郎衛門が唯一心を許す存在を心に植えられた。
 ……それはヨーク曰く、”えでぃふぇる”という名の娘だそうだ」
「嘘よ!! そんなの信じない!! 嘘よ!!!」

 楓は髪を振り乱し、泣き叫んだ。耳を抑え、目を閉じ、全てを拒絶するというように。

「そんな……まさか、そんなこと……」

 そして、取り乱す楓のそばで、千鶴も蒼白になっていた。

「な、何? どういうこと?」

 梓が二人の様子におろおろしながら聞いてくる。柳川は飲み込みの悪い梓を睨むと、吐き捨てるように言い放った。

「お前達は耕一を愛するように操作されてた、と言ったんだ。夢、古い記憶、こまごました微笑ましい出来事。全てがヨークの精神操作だ。千鶴も、楓も、初音も、そしてお前も、全員がだ。判ったか!?」
「…………!!」

 梓が嘘だろう、という風に目で訴える。

「事実だ。そして、これが耕一がお前達の元を去った理由なんだ。奴もこのことを知り、全てを信じられなくなっている。お前達も自分も、目に見えることも見えないことも、何もかも全てがだ。そして、過去の怨霊に憑かれてしまった。次郎衛門という鬼殺しの鬼に。……柏木耕一はもう、お前達の知る奴ではない。いまの奴は、全ての鬼を狩り尽くすまで止まらない鬼人だ」

 痛いほどの沈黙が落ちる。
 柳川はそして、表情一つ変えずにそのまま言葉を続けた。

「以上が、柏木耕一の出奔の理由だ。そして、もう一つ言っておくことがある。先の連続殺人事件、あれは柳川祐也、おれがやった事だ」
 

               §
 

「なん……だって?」

 一拍の間を置いて梓が言う。千鶴も蒼白の顔を振り向け、柳川を凝視した。

「あの事件は俺が犯人だった。そして、柏木耕一に俺は一度殺された。その場にお前もいたんだったな、千鶴。あの夜、あの水門での事だ。忘れてはいないだろう?」

 俯いた梓の表情は伺えないが、その両手は固く握り締められていた。楓はまだ呆然としていて柳川の言葉など耳に入っていない。千鶴は蒼白な顔のまま、どうにか柳川に注意を向けていた。

「日吉かおりと言ったか。彼女を拉致し、陵辱したのも俺だ」

 その名前がでた瞬間、梓の肩が震えた。
 

 ――彼女達は全てを知った上で、選択をするべきだ。
 

 柳川はここにくる前からそう結論付けていた。
 同時にそれが言い訳であることも、柳川は知っていた。柳川は、言葉を切った。再び沈黙が落ちる。誰も身動き一つしない。

 丁度お昼時、太陽は天頂にあった。まだ暑さが残る下界と違い山中はもう涼しく、秋の気配を感じさせる。見ればそこここで木々の葉は色づき始めていた。
 

 沈黙を破ったのはやはり、梓だった。

 俯いたまま、梓はつかつかと柳川の元へ歩み寄った。
 ぐい、と柳川の胸倉を掴んむと、梓はそのままぎりぎりと柳川を締め上げ、その体を持ち上げる。
 その間、柳川は腕を下げ、抵抗することなく彼女を見た。
 つい、と柳川を見上げた梓の目は、黒いままだった。何処までも吸い込まれそうなほどの深い、黒い瞳。

「いいぞ。殺せばどうだ?」

 柳川は平静を装い、薄笑いを浮かべ、平板な声をもらす。柳川は自分の告白がもたらすこの結末を予測していた。
 冷たい眼差しと人を寄せつけぬ態度で、柳川は自らを世界から切り離してきた。誰も彼に触れるものはなかった。彼を気にかけるものも殆どいなかった。
 しかし、そんな触らば切れるような柳川の側に梓は平気で踏みこんで来た。……踏み込んでくれた。
 その冷たい表情の下で、柳川は梓に感謝している自分に気がついた。そして、柳川はその時を待った。

 だが、拳は来なかった。
 梓は手を離すと、踵を返して言った。

「……義務は全てに優先する、そうだったな」

 梓は噛み締めた歯の間から押し出すように言った。再び深く俯いた梓のその表情を柳川は見ることが出来ない。

「それまでは、生かしとく……そろそろ出発だ」

 梓は吐き出すように言った。踵を返すと打ちひしがれている姉妹のところへと戻っていく。

 まだ楽はさせてもらえないか。
 また死に損ねたな、と柳川は苦笑する。柳川に課せられた義務はまだ彼に死ぬことを許さなかった。かつて、貴之だけに示した柳川の甘え。一生に一度のはずだった甘え。

『俺を殺してくれないか?』

 千鶴と楓を支え、立ち上がる梓。
 そんな彼女の背中を見ながら、柳川は今度こそもう二度と、自分の重荷を誰かに押し付けるような真似はすまいと誓った。
 
 

―― 血風 参 ――
 
 

 初音が、一人歩いていた。
 彼女はある呼び声にしたがって、一度も通ったことのない道を歩いていた。
 知らないはずの暗証番号を迷いなく押し、オートロックの扉を通過する。
 エレベータで階を指定し、ある扉の前まで進む。
 初音はドアをノックする。

「開いてますよ」

 返事があり、初音はその部屋へ足を踏み入れた。

「お久し振りですね……覚えていますか?」

 ベッドから身を起こした貴之がそう声をかけた。
 

               §
 

 山頂は目の前に迫っているはずだった。標高がそれほど高くなく、指定保護区と扱われているため、山頂付近にもまだ自然林が生い茂っていた。
 耕一との距離は確実に狭まっていた。警察もまた少しずつ包囲の輪を狭めながら山頂へと向かってきている。だが、こちらのほうはまだ時間がありそうだ。

 黙りこくって後に続く三人を柳川はしばしば振り返っては、ついて来ていることを確認する。山を登り始めてからこちら、隊列が切れた事は一度もなかった。彼女達は無意識のうちにか、楓の足を庇ったペースを保っていたからだ。柳川はそれについて一言も口を挟まなかった。

 お互い、取って付けた希薄な関係だった。双方ともに無理に交流を深めようという気もない。それは目的の前の一時的な協力関係に過ぎない。
 柳川は彼女達をそれとなく観察する。楓は立ち直っただろうか。千鶴は。梓は。
 柳川は考える。結局のところ、自分たちに耕一を止め得るのだろうか。
 しかしそんな内心を柳川は表に現さない。表情。それは意思伝達のための一つの道具だが、伝えるべき相手を持たない、持つ必要のない彼にそれがどれほどの意味を持つのか? 一人で生きていくためには必要最小限だけを完全に備えることで事は足りた。

 しかし、今や柳川の目は今まで捉えることの無かったものを捉え始めていた。かつては気付かなかったことに気付くようになっていた。自分に直接影響することの無い、いわば柳川にとっては無駄な筈の情報が何かの意味を帯び始めていた。柳川は自分のうちに起こっているこれらの事柄――変化――に驚いた。

 新しい状況に対応できないからと言って、今までの自分を壊してまでする必要があるのか? 誇りを棄ててまで、阿(おもね)るべきなのか? 貫く信念にこそ美が存在するのではないか?

 誰にともなく投げつけつづけてきた疑問。肯定を求めて理論武装を固めつづけてきた考え。自我というモノを持たぬ連中を、柳川はひたすら軽蔑してきた。白黒ハッキリしない連中を馬鹿だと断じて来た。
 自分自身が価値あると認めるものだけが、他人にも認めてもらえる。柳川はずっとそう信じてきた。

 ならば、翻って。自分自身が認め得ないものは、他人も認めないのだろうか?

 柳川は再び振り返り、柏木の姉妹たちを眺めた。彼女達は今ここに居る。耕一が彼女達を拒絶してなお。
 
 

「……耕一さん」

 心持ち俯き加減に楓がぼそりと呟いた。

「耕一さん……私たちに気づいてるんですね……」

 まるで祈るように楓は胸元で手を組み合わせる。

「耕一さんが待ってます。すぐそこで」

 千鶴がまだ青ざめた顔のまま頷く。
 先ほどから柳川と目を合わそうとしない梓はふぅっと息を吐く。

「ここから先は各自の判断に任せる。俺と、耕一と。どちらが鬼で、どちらが桃太郎なのかは俺にもわからない。だから各自判断でしてくれ」
「柳川さん……いえ、叔父さん」

 千鶴が控えめに口を開いた。

「……すみませんでした」

 千鶴の謝罪が何に対してのものなのか、柳川にはわからなかった。
 項垂れる千鶴の頭をすれ違いざまにぽんと叩くと、柳川は耕一の待つそこへと向かう。
 それは優しげとも言える仕草だった。そして、それは図らずも千鶴の叔父、そして耕一の父である賢治がよく見せたのと同じ仕草だった。
 驚いた千鶴と、そして楓の表情に柳川は気付かなかった。
 

               §
 

 ――思ったより早く片付いたな。
 

 耕一はもう自分に語り掛けることもなくなった次郎衛門達に向けて思索を向ける。いざ、一番必要とするときになって、奴らは姿を消してしまった。
 足元に横たわる鬼が小さく萎んでいくのを耕一は無感動に眺める。それが最後の一人だということを耕一は知っている。

 こんなにあっさり狩り出されるようじゃ狩猟者が聞いてあきれるぜ。
 耕一は川で血を洗い流すと、木の幹ほどもある大岩に死体をくくり付け、淵に放り込んだ。それはあっという間に沈み、見えなくなった。
 立ち上る泡沫が絶えてもまだ、耕一は自分が沈めた鬼の跡をずっと見つめていた。そして、ぼんやりと考えていた。
 

 早くに亡くした母のこと。
 父親のせいだと長く思っていた。
 その父親のこと。
 今では父親が耕一に積極的に関わらなかった理由も、家を離れた理由も理解している。だがそんな普通ではありえないような状況が何故自分に振りかからなければならなかったのかは、誰も教えてはくれない。
 親類のこと。
 自分の存在を知っているかどうかすら怪しい彼らには、耕一もいかなる感情も抱いていなかった。

 回りの全てが自分に対して攻撃的であるように思える中、従妹達だけはよくしてくれた。抱いていた屈折した劣等感を忘れるほど、彼女達は耕一に優しかった。そしていつしか、耕一も彼女達を大事にするようになった。自分が優しくなれた気がし、世界がそう悪いものじゃないと信じることが出来るようになった。
 

 それが、全てまやかしだと知ったとき。
 千鶴の耕一に向ける暖かい微笑みも、梓との間にあった楽しい掛け合いも。楓との宿命も、初音の優しい思い遣りも。その全てが仕組まれたものだった。
 耕一が見つけた守るべきものが、全て偽モノだったと理解したとき。

『ああ、やっぱりな』

 耕一はそう思った。
 確かに出来すぎだった。何の変哲もないぐうたら大学生には、過ぎた夢だった。

『ああ、やっぱりな』 

 耕一は確かにそう思った。そして、そう思おうとした。だが痛みはじわじわと忍び寄ってきた。必死に目をそむけようとしても、どうしようもないほどに。

 いつしか、彼女達は耕一の全ての拠り所になっていたのだ。
 

 怒ることもできないほどの、あの途方もない空しさ。
 今までの全てが、何もかも覆されてしまったあの脱力。
 他人はもちろん、自分の考えすらもあてにならないと知ったときのあの虚無。

 耕一自身、何処まで干渉されていたのか今となっては知るすべもない。それを誰がやったのかも、耕一には判らない。判るのは、これもまた鬼の血がもたらす呪いだということだけだった。

 耕一にはもうなにも残っていなかった。自分の意思すら定かではなかった。ただ残ったのは500年の長きにわたって受け継がれてきた鬼の血への怒り、果たすべき義務だけだ。

 耕一は元の姿に戻り、着替えを済ませる。
 

 ――よそ者は去っていくものだ。くだらない鬼の歴史も、今日で終わりだ。
 
 
 
 

前夜祭

血風 後編

目次