―― 前夜祭 ――
 
 

 柳川が戻った時、貴之はベッドに腰かけて外を眺めていた。
 ただいま、と声をかけて貴之の見ているものを見る。窓縁のすずめを貴之は一心に見つめていた。変化に興味を持つのはいい兆候なのかもしれない。貴之の肩を軽く叩いて、柳川は夕食の支度を始めた。
 母と二人、お互いを支えあった少年期と青年期、そして長い一人暮らしの中で、柳川は最低限という以上の家事技術を身に付けていた。その気になればたいていの料理を作ることができたし、掃除洗濯は勿論繕い物もお手の物だった。
 材料を一瞥して確認し、手際よく作業を進める。まな板の上で包丁が奏でる規則的な音、炊き上がるご飯の独特な香り。既に落ちかけていた日は完全に地平線の下へと没し、窓の外では赤い雲が美しく空を彩っていた。

「祐也。今日、同族たちの命の火が次々に散っていきました。残すところ五人ほどまで、次郎衛門は敵を狩り出しています」

 貴之がベッドに身を起こしていた。その目の光は強く、語勢もしっかりしていた。柳川は振り返らず、夕食の仕度を続ける。それは既に貴之であって貴之ではない。そして、その貴之は耕一をそう呼ばずに次郎衛門と呼ぶ。

「大したことないんだな、同族ってのも」

 柳川は同意を期待して軽口を叩いた。しかし期待したような返事は返ってこなかった。貴之はただ無言で否定の意を示した。

「あと五人、か。とっくに逃げ出してもよさそうなものだ」
「逃げられません。次郎衛門は真っ先に箱舟を破壊しましたから……それこそ跡形もなく」
「お前の話だと箱舟とやらは随分大きな物だったはずだが?」
「そうです。私より大きかった筈です。でも、もうありません」
「それはそれは恐れ入る。手の付けようがないんじゃないか?」

 自嘲気味に柳川は笑った。じゅうじゅう言う手元のフライパンを返すと、いくつかの野菜の細切れがガス台に零れ落ちた。

「正直、これほどの鬼を食らって肥大した彼には、もう……」
「鬼を食らった?」

 そうです、とヨークは言った。”えるくぅ”同士の戦いにおいて、敗北は”えるくぅ”の喪失を意味する。要は食われて同化してしまうのだという。
 柳川の調理をする手が留守がちになってきた。

「ということは……」

 俺の鬼は耕一に食われていたのか?
 その柳川の思いは声に出さずとも正確に伝わった。

「ええ、祐也。あなたの中にもう”えるくぅ”は感じられないでしょう?」
「すると鬼の力も、もうないのか。それでどうやって耕一を止めろと言った?」
「そうではありません。”えるくぅ”がないだけです。あなたの体は”えるくぅ”が狩猟できるように作られた、いわば入れ物です。人の血を交えたあなた方はその入れ物に二つの心を宿してしまう運命にありました。ですが祐也、あなたはもうあなたですよ。その力も含めて」
「肉体的にはそのまま、ということか? ふん。精神は肉体の奴隷だ、と誰かが言っていたな。鬼化すれば精神にまた変調をきたしたりしないのか?」
「試してみたらどうです? 別の誰かは精神に肉体は隷属するとも言ってましたし」

 こうして話しているときの貴之は、かつての彼と同じくとても柔らかい雰囲気を纏っていた。柳川も話している相手がヨークであると言うことをしばしば忘れた。柳川は生意気な口を利いてみせる子供に感じるような、誇るべきか叱るべきかという表情を貴之に向ける。

「よしておくよ。危ない橋を渡るのはこりごりだ。ま、それは置いておいて、耕一が鬼を食って肥大してるといったな、それはどういう意味だ?」
「言葉のままです。鬼化した際に現れる付加組織は”えるくぅ”によって維持されます。それは”えるくぅ”の強弱によって肉体的な強弱もほぼ決定されるということです」
「さっきの話と矛盾するぞ。俺には”えるくぅ”はないといい、力はあるという。今は”えるくぅ”の強弱で力も決まるという。どっちが本当だ?」
「どちらもです。あなたに”えるくぅ”はありません。本当です。ですがそれに代わるだけの力を持っているのです。あなたは”えるくぅ”を長く押さえて来ましたが、それがどういう意味か判りませんか? 同族たちには二つの心はありません。あるのは”えるくぅ”だけです」

 柳川の手は完全に止まり、フライパンからは不吉な気配が立ち上っている。

「……俺の意思が代わりをすると?」
「そうです」
「俺の鬼は俺を支配した。その俺の鬼は耕一に歯が立たなかった。ならばなぜ、俺が耕一に抗える?」
「あなたが鬼に支配されたというとき。あなたは全てを”えるくぅ”に受け渡しましたか? いいえ。あなたは心の奥底で抗いつづけていたはずです。その抵抗は”えるくぅ”からちゃんと力を奪っていたのですよ。祐也、”えるくぅ”があなたを完全に屈服させることはついになかったのです」
「…………」

 我知らず、柳川は一歩下がった。
 柳川は”奴”が彼に語りかけつづけていたのを思い出した。あきらめろ、あきらめろ、と言い続けていたことを。そして最後には、彼が形ばかりの抵抗しか示さなくなっていたことを。……自分自身が、諦めてしまったことを。
 

 ――俺は自分の力に酔った。殺戮を楽しんだ。
 

 全てを「化け物」のせいにして。
 担うべき責任と義務を放棄して。

「そうだったのか。知らなかった」

 柳川は自分のしたことを思い出した。
 無辜の人を引き裂き、遺族にさえ見せられぬような肉塊に変えた。
 女性を浚い、肉体を犯し、心を壊した。

「そうか……知らなかった……」
 

 ――全て、俺がやったことなのだ。
 

 悲鳴を上げる、見知らぬ同僚の警官を殺した時の感触が蘇る。
 そのとき、自分は何を考えていただろうか。
 

 ――俺には止めることが出来たのだ。
 

 甘美な血の味がまだ舌に残っている。腹の底からの歓喜、愉悦。
 優越のもたらす、最も純粋な喜び。
 命を支配するものの、高揚。
 

 ――俺もまたそこにある罪を見ながら通り過ぎる、俺が嫌悪する連中の一人だったのだ。
 
 

「あなたは良くやりました。私が言えることでないのは判ります。でも、あなたの抵抗を私は知っています。たった一人で、あなたは良くやりました、祐也。だから、私はあなたに託すのです」

 貴之が立ち上がり、背を向けたままの柳川の首にそっと腕を回した。柳川は体を強張らせたまま天を見上げ、歯を食いしばっていた。
 フライパンが抗議の声を上げるようにちりちりと音を立てていた。
 

               §
 

 ヨークが去ると、貴之は懇々と眠りについた。

 耕一の力は肥大している。それは耕一の精神が次第に圧迫されていくだろうということも意味しているのだろうか? いつか耕一は再び鬼と支配権を争うことになるのではないか?
 たとえそうでなくとも、今の耕一の精神状態は極端に不安定のはずだった。
 虚無を埋めるため躍起になっている耕一に、柳川はかつての自分を重ねて見た。為すべき仕事があるうちは、人はその忙しさの中に苦しみを紛らすことができる。しかし……
 あと五人、とヨークは言った。それを狩り出すまでは耕一が山を降りない事を柳川は確信していた。しかしそれにどれほどの時間がかかるのかは、柳川にもわからなかった。

『自分自身を救えない奴が、どうやって人を救うつもりだったんだろうね?』

 上司の長瀬が自嘲気味に口にしたその言葉は、柳川の記憶に深く刻まれていた。
 
 人が、自分と同じ轍を踏まないように配慮するのは当然ではないか。
 当時の柳川はそう思った。

 だが今、溺れる者が同じく溺れる者を救う術などないということを柳川は実感していた。耕一と同じく、柳川も出口の見えない闇の中を彷徨っているのだ。

「……俺自身を救えないというのに、どうして他人を救えると?」

 柳川はポツリと呟いた。
 
 

―― 前夜祭 弐 ――
 
 

 耕一が去ってから、柏木の食卓に四人が顔を合わせることは殆どなかった。千鶴と楓が同席することが極端に減ったからだった。居心地悪そうに座っている千鶴を尻目に、楓はさっさと自室に引きこもってしまう。三人でいるときにもう一人が顔を見せると、まるではじき出されるようにどちらか一方が消えてしまう。そんな状況に梓と初音は困り果てていた。

 梓は今日お客がくること、全員に話があることだけを伝えていた。客の名前と素性に関しては本人に言って貰うと全く取り合わなかった。
 梓は柳川と千鶴が面識があることを知らなかったし、千鶴もまさか梓と柳川が関わりをもつとは想像もしなかった。

「とにかく、お客が来るから全員そこで待つように」

 梓はそういい残して、自分は接客用の料理を作ると言って台所に篭っていた。
 

 自分のために何かを望むということが、千鶴には絶えてなかった。今を保つこと。今の安寧を守ること。千鶴の絶えざる使命はその一点に振り向けられていた。彼女は何かを失うように見えても、その実自分が欲した物を失うということはなかった。正確には、欲しがると言う行為をずっと止めていた。そして、長く忘れていたその気持ちを思い出した矢先に――しかも立て続けに――彼女はそれを失うことになった。
 

 ――梓、張り切って料理を作っているわね……どうしたのかしら。
 

 千鶴は事務的にそう考えた。事実殆ど考えてもいない。見たままを頭の中に放り込んで、どうしたのかしら、で閉じるだけの無気力な心。
 千鶴の心の糸はぶつりと切れ、誰もそれを結わえなおす者はなかった。
 

 楓はそんな様子の千鶴を見ようともしなかった。耕一を引き止められなかった千鶴を、筋が違うとは知りながらも、楓は許すことができずにいた。
 あの時見た夢から耕一が全てを知っていることを楓は確信していた。千鶴と耕一の関係も、千鶴本人から聞いた。千鶴と楓の間の軋轢を耕一が慮ったのかもしれない、と考えもした。
 しかし楓は納得がいかなかった。
 彼女にしてみれば、二人の間にある絆の強さは余りにも別格で、何者も割り込む余地を認められなかった。楓が姉に見せた優しさも、裏を返せば勝利を確信した者の余裕と言えたかもしれない。
 そんな絆を、耕一が棄てる? 楓には信じられなかった。
 楓は毎夜、祈るような気持ちで眠りについては、まるで平安の歌人達のように、夢に恋人が訪れてくれるのを待ち焦がれていた。愛しい人が夢に現れて、訳を説明し、抱きしめてくれるのを切望していた。
 しかしあれ以来楓の夢に現れるのは、別れの言葉を呟く耕一だけだった。
 

 ううん、マジで空気が重いなぁ。
 梓は片手でフライパンを振りつつそう思った。
 梓が無意味に明るいという言い方もできなくもないが、実際今のこの二人は陰気そのものだった。
 その場にいる初音もこんな雰囲気の中明るくしろというほうが酷だ。かといってこちらの手伝いに(何度も何度も初音はそれを申し出ていたが)きて貰っては一触即発の二人のこと、何をしでかすか判らない。
 悪い、初音! 今日だけは我慢してくれ! 梓は内心で妹に手を合わせていた。
 

 私、グレちゃおうかな。
 初音は泣きたい気分でそう思った。今どき死語なそんな言葉も今の初音には相応に思えた。
 黙ってれば千鶴が等閑に「どうしたの?」と聞いてくる。しかし、そう言うだけであとはほったらかし、初音を見ることすらしない。仕方なく初音が何か喋ろうとすると「悪いけど、静かにして」と間髪入れずに楓のストップがかかる。
 いかに初音といえど、ものには限度というものがあった。内から湧き出ない笑顔とはそれ相応に重労働なのだ。それでも、その役を押し付けた梓もぐっとくる健気さで、初音は微笑を保ちつづけていた。
 

 ぴんぽーん。

 そんな淀んだ空気の中、玄関から来客を告げるチャイムの音がした。どんなであれ、変化を歓迎してホッとした様子の初音。全く関心を示さない楓。

「はいはいはーい!」

 そして、ふらりと立ち上がる千鶴の横を梓がすっ飛んでいった。

「おー叔父貴、いらっしゃい! ささ、上がった上がった」
「……叔父貴? それにお前、何だその出迎え方は」

 玄関口から漏れ聞こえる会話を千鶴はぼんやりと聞いていた。
 梓の、知り合い?

「夜分に失礼する」
「あなたは、いつぞやの?」

 その顔には見覚えがあった。
 以前千鶴を調査にきた二刑事二人組の、若い方だ。

 なんと言ったかしら。確か柳川とか名乗っていた気がする。
 千鶴は記憶を探り、その名前に辿りつく。

「なに? あんた達知り合いなんだ?」

 梓は意外な顔をする。千鶴からすればそれは自分の台詞だった。
 千鶴は梓を無視して柳川に厳しい視線を投げた。
 

 ――何の用件か知らないけど、梓を懐柔してどうしようと言うのかしら?
 

 柳川は千鶴の視線の意味するところを正確に受け取っていた。やはり、梓と接触を持ったのは失敗だったかもな、と内心でため息をつく。
 が、彼女達の感情がどうあれ、ここは為すべきを為さなければならない。

「そこにいる梓に伝えるように頼んだつもりだったが……」

 柳川は梓を一瞥する。梓はそっぽを向いて知らぬ顔を決め込んでいた。

「柏木耕一のことで話があって来た。できれば話をする場と時間が欲しい」

 その名を出した瞬間に千鶴の目に走った動揺を柳川は見逃さなかった。
 

               §
 

 柳川は客間に通され、大きな卓の前に一人で腰掛けていた。聞いてはいたが、柏木の家は想像を越えて広かった。
 柳川はあまり物に動じるほうではないがそれでも落ち着かなさを覚えずにはいられない。料亭を思わせる長い廊下、それに面する広い庭。室内はまた柱立ちも見事、天井は高い。意匠を凝らした欄間、オーソドクスな書院造の床の間と互い棚。そして、嫌味なく上品な調度品の数々。

 しかし、柳川にはそのそれぞれに見覚えがあった。
 これが耕一が身を横たえた畳であり、見上げていた天井なのだろうか。
 自分がこの家に入ることがあるとは、考えたことがなかった。自分も事によってはここに住んでいるということもありえたかも知れないのに。
 思考が嫌な方向へと進みそうな気配を感じ、柳川は注意を他へ移した。なんだか、奥のほうが騒がしい。

 しかし、一体何をしているんだ?

 本当に何やら騒がしいので、柳川は僅かに不安を覚えた。
 

「梓。一体何を考えているの? あの人が誰だか知ってるの?」
「柳川さんだろ。あの人あたし達の叔父さんに当たるんだって。つまり耕平じいさんの……ってあれ、そういってたんだけど……」

 梓は今更のように自分の家の家系をたどる。思い当たりがない。とはいえ、梓は柳川が嘘をついているとは思わなかった。

「……耕平おじい様の?」

 千鶴の目に剣呑な光が宿る。興味が無さそうにしていた楓も初めて顔を向けた。

「いいでしょう。でも梓。……あとで話がありますからね」
「う……」

 千鶴の目が”覚悟しておきなさい”といっているように梓には見えた。
 

               §
 

 柳川は堅苦しい挨拶から始まる日本の風習を、非効率的なものとして馬鹿馬鹿しく思う口だった。が、今回ばかりは出自を語る事には大きな意味があった。

「柳川祐也という。俺は柏木耕平の妾腹として生まれた。一応、お前達の叔父に当たるわけだ」

 千鶴は柳川の表情の奥を探るような目を向けつづけていた。その横で楓も同様の厳しい視線を投げていたが、柳川は臆する事無くその視線を一つ一つ見返した。それはまるで、それぞれ千鶴、楓、と確認するようだった。初音葉そんな様子の三人を落ちつかなげに見守っていた。明らかに重苦しい空気のなか、梓が煎れたお茶を柳川は丁重に一礼して受け取る。

「探りあいは後にしよう。こちらがまず用件をいう。判断はそのあとでそちらでしてもらう。これで何か問題はあるか?」
「そうですね、構いません」

 用心深く千鶴が答えた。楓も小さくうなずく。梓はそんな堅苦しい雰囲気に口を差し挟みかねていたが、その表情にはありありと不満が浮かんでいる。初音はといえば、まだ状況を掴んでいないのだろう、視線を左右にちらちらと向けて大人しくしていた。

 語り始める前に、柳川は言葉を選ぶかのように数瞬の間を取った。

「ここ隆山には、守り、受け継がれてきた秘密がある。長い間、500年ほどにもわたって隠しつづけられた秘密だ」

 千鶴は動かない。楓も、初音も神妙な表情のままだ。柳川は確認するように一堂を見まわすと、あとを続ける。

「一つはある血族が代々受け継いできた”力”に関する事。もう一つはその血族に伝わる”掟”だ。そして多分、その血族の者も知らない最後の秘密が”血の出自”に関する事柄だ」

 血の出自、のくだりで千鶴の目が眇められる。そこには疑惑の色がありありと浮かんでいた。

「そして、耕一が今関わっているのはその二つ目、”掟”だ。今、あいつは雨月山にいる」

 その一言に彼女らの示した反応は一様ではなかった。
 千鶴と楓に現れたのは困惑だった。
 さきほどの梓と同じく青ざめながら姉達を交互に見遣る初音。彼女もこの件について初耳であるようだと柳川は見る。

「ある昔話だ。何処からともなく流れ着いた鬼が鬼ヶ島に住み着き、やはり何処からともなく流れてきた桃から生まれた侍によって退治されるという話だ。知っているか梓?」
「馬鹿にしてるのか? 桃太郎だろ。それくらい小学生でも知ってる」
「そうだ。昔から鬼は何処からともなく流れ着くことになっている………最近もその流儀は変わってないらしい」

 今度は千鶴と楓の顔色が変わった。一方で理解が出来ずに目をしばたかせる梓と初音。
 楓にはある程度の話が通してあるらしい、と柳川は思った。
 柏木の掟、人に仇為す鬼を闇に葬る義務と、その守秘義務について理解ができていなければ、今の話は聞いても意味が通らない。

「いまや秘密はもはや公然のものとなりつつある。既にめでたしめでたしとは行かない可能性が高い。夷狄の鬼と衆目官憲を相手に、奴は一人で戦っている。桃太郎にも、三匹のお供くらいはいたからな」

 千鶴と楓の瞳に、理解の光とともに希望が宿る。彼女達はようやく耕一の行動に理由を見つけたと考えているのだろう。様々な希望的な観測が彼女達の脳裏を駆け巡っているだろう。

 柳川は彼女たちの内心を手に取るように理解していた。柳川は自分の言葉が彼女たちをそのように誘導したこともまた知っていた。
 

 ――しかし、今それを明らかにすることはない。
 

「俺は明日雨月山へ入る。耕一と合流して片を付け、後始末をする。俺が伝えに来たのはそのことだ」

 そう言葉を結ぶと、柳川は茶を啜った。
 庭のどこかで、鹿威しの寡々という音が響いた。
 
 

―― 前夜祭 参 ――
 
 

 鬼が、流れ着いた?
 千鶴はまだ自分の思考を整理しかねていた。
 鬼の血の出自?
 自分たちの叔父を名乗る男、柳川は先ほどそうも言った。
 そも、自分たちの中に流れるこの鬼の血はどこからきたのか。それは以前からの謎だった。千鶴はちらりと楓をみる。この鬼の出自に関して、楓は昔から思うところがあるようだった。

 でも、どうしてこの男はそれを知っているのだろう。
 「掟」は千鶴だけに伝えられていた。楓には耕一の一件から、その一部だけを伝えてある。梓と初音には鬼の血とその歴史について大まかに伝えるに止め、他言を禁じている。
 にもかかわらずなぜ、柳川は「掟」の事を知っているのだろうか。

 自分は柏木耕平の息子だ、と柳川は言った。柏木耕平が多くの浮名を流したことは千鶴も知っている。そしてその全てを把握できずにいるのも事実だ。鬼の血を残すことにすら嫌悪を持ったという耕平が何故そんな軽率をしたのか、千鶴は未だに理解できずにいる。自分の遊び相手たちを明らかにしなかったことはもっと筋が通らないことだった。
 今それは置くとして、耕平の落胤の存在は可能性として否定することは出来ない。
 しかし、血の秘密を直系の一族以外に洩らすようなことがあるだろうか。

 柳川は千鶴と同じ知識レベルを前提に会話を進めた。そればかりか、千鶴すら知らないことを知っている素振りを見せた。柏木について、鬼の血について自分以上に詳しいものがいるはずがないと思っていた千鶴は困惑と、警戒の目を柳川に向けた。千鶴は用心深く柳川を観察したが、その表情には感情の動きというものが殆ど表れなかった。

 事の真偽についてはもうここで考えても仕方がないと千鶴は結論した。柳川が嘘をついていないという前提に立って思考する所まで、千鶴は譲歩した。柳川の言うとおり、耕一は雨月山にいるのだろう。そして、鬼が流れ着いたという話にも千鶴は心当たりがあった。あの夜の、あの気配を千鶴もかすかに感じていた。話を聞くまでは気のせいだと思っていたのだ。

 ただ、千鶴は柳川の真意を掴むことが出来ないでいた。何故、何の目的で柳川が動いているのか、それを知らないことには千鶴は安心できなかった。柳川と耕一の間の接点は、あの日の僅かな会見以外に考えられなかった。
 この男は、何をする気なのだろう?
 

「柳川さん。あなたは柏木耕平の息子だ、と仰いました。つまりは柏木の直系に当たると、そういうことでしたね?」

 梓が同じ反応を見せたのを柳川は思い出した。千鶴の質問、それは話の真偽を問うに見えてその実、柳川本人の正体についての疑惑に他ならなかった。同時にそれは、たとえ柳川の言うことは信用しても、柳川本人となれば話は別だ、ということでもあった。
 柏木の問題は柏木だけで解決する。千鶴の目は柳川を拒絶していた。余所者が首を突っ込むな。千鶴の目はそう語っていた。

「……それはつまり”証拠”が見たいと?」

 柳川は口元に笑いを浮かべた。凍りつくような笑みだった。
 千鶴の意図を読みながら、柳川は敢えてその言葉を額面どおりに受け取る。
 「証を見せろ」という挑戦に、柳川は何時いかなる時も応じてきた。幼少の頃からずっと柳川に投げつけられてきた試練。それはいつでも、「存在の許可」を勝ち取る試練だった。相手が望まない時でさえ、柳川はその実力で自分の地歩を確保してきたのだ。
 

 ――俺を脅すのは100年早いぞ、柏木千鶴。
 

「…………!」

 その瞳にこもった意思の強さに、千鶴は気圧された。鬼気を感じているわけでもないのに、千鶴は自信を失っていくのを覚えた。

「ここで力を見せてやってもいいが、見たからどうとなる訳でもないだろう。俺は明日の行動を伝えに来ただけだ。対応はそちらに任せる……いずれも先ほど言ったとおりだ」

 柳川は眼鏡を据えなおす。視線が途切れて、千鶴はほっと一息をついた。
 

 おお、あの千鶴姉がビビってる! さすがだ、やるな叔父貴!

 梓は何となく胸がスカッとする気分だった。先ほどからの険悪な雰囲気に、梓は内心むかむかしていた。和気藹々とまではいかずとも、お客様として歓迎しようと思っていた梓にとっては身内の恥を晒してるようで、とても恥ずかしかったのだ。
 勿論、梓は自分が柳川に対して取った態度のことはすっかり忘れていた。

「もういいだろ、千鶴姉。あたしも叔父貴にはぜんぜん敵わなかったよ。それに、耕一の居場所を教えてくれたお客さんに喧嘩売ってていいのか?」
「……そうね。柳川さん、失礼を致しました。お許し下さい」
「構わない。気にするな」

 梓の言葉に、千鶴も態度を改める必要を認めたようだった。当の柳川はどうでもよさそうに応じると、腕時計に目を走らせた。そろそろ予定した時刻を過ぎようとしていた。
 

               §
 

 用件を済ませた柳川が暇乞いをしようとしているのをみて、梓は慌てて声をかける。

「なぁ叔父貴、夕食食ってかないか? 余っちゃって困ってるんだよ」
「いや、俺は」
「なんだよ、あたしの飯が食えないっての?」
「お前が作ったのか?」

 心から意外そうな顔をする柳川。
 梓はにっこりと微笑んで腰ダメに胸を張る。

「ふうん、あたしみたいな男女には料理なんか作れるはずはないって、そう言いたいんだ?」
「いや。そんなつもりでは」
「じゃあ、どんなつもりさ? 作れてもろくなものじゃないだろうって?」
「…………」
「確かに叔父貴の口に合うようなものは作れないかもしれないけどさ、味見もせずにそりゃないだろ」
「……わかった、ご相伴に与からせてもらうとする」

 梓は勢いに任せて柳川を押し切る。おやあ、案外耕一にやるのと同じ手が使えるのかもな。梓はそんな手応えを掴む。

「よし、持ってくるから待ってろ」

 梓は意気揚揚と料理を運ぶために台所へと向かった。運ぶ料理は結構大量にある。梓は初音に声をかけると、早速搬出をはじめた。
 

 柏木の姉妹が別室に戻り、客間に一人残された柳川はどうしてこんな事になったのだろうと考えていた。運ばれてくる料理を前にしてもまだ柳川は考えていた。
 どうも、こいつといると調子が狂う。

 梓が嬉々として料理を運びつづける。意外にも、それらの料理はとても綺麗で美味しそうだ。

「おい、さすがにこれだけの量は食えないぞ」

 柳川は先ほどかなり焦げた夕食を済ませていた。しかし今彼の前に並べられている量は、夕食を済ませているかどうかに関わらず、一人の人間が食べきれる量ではない。梓は言われて初めて気づいたというように皿の群れを眺めた。

「……そうだね、ごめん。確かに、多すぎるかな」

 梓は腕組をして唸る。少なく見積もっても三人前はあるだろう。

「まぁ、いい。では、いただきます」

 その言い方が柳川らしくなく、梓は内心で吹き出していた。梓は柳川が箸をつけるのをじっと観察した。そして、何気なく見えるその動きの中に一瞬の躊躇があったのを梓は見逃さなかった。柳川が梓の腕前に疑いを持っているのは明白だ。しかし、梓は黙って見守る。果たして、柳川の手が止まり、驚いたような表情が浮かぶ。

「……うまい」

 よし。

「ホントか? よし、どんどん食ってくれ」
「ああ、そうさせてもらう。しかしホントに美味いな、驚いた」

 自信があったとはいえ。柳川から真っ正直な誉め言葉を受けた梓は、照れて鼻の頭を掻いた。

 そしてそのとき、梓は初めて柳川が微笑むのを見た。
 

               §
 

「どう思う、楓」
「多分本当のことだと思う。まだ言っていないことはあると思うけど……嘘はついてない」
「そう……」
「姉さん。私、行くわよ」
「止めても、無駄なんでしょう?」
「耕一さんを取り返すわ。鬼から……姉さんからも」
「…………」
「姉さんも行くんでしょう?」
「ええ、そうね。行くしかないでしょうね」
「初音は残す?」
「……あの子には悪いけど、それもそうするしかないでしょうね」
「…………」
「…………」
「でも、梓姉さん楽しそう。叔父貴なんて呼んでた」
「そうね。そういう事になるのよね」
「……でもあの人、怖い」
「怖い?」
「何処までも冷たそうで……何処までも深い闇に呑まれそうで……」
 
 
 

血風 前編

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