―― 梓 ――
 
 

 柏木家でも、そのニュースは注目を集めていた。

 千鶴と楓が信じられないといった表情でTV画面に見入っていた。
 初音はそんな二人の様子を訝しげに見ながら、黙っていた。

 そんな中、梓はちらりとTVを見ると朝食の後片付けを始める。

 梓はあの手紙を誰にも見せていなかった。誰にも見せられた内容ではなかった。
 

               §
 

 柳川は柏木家に向けてハンドルを切った。
 貴之は残してきた。”よーく”は心の隙間に入り、人の目を逃れることができる。留置所を脱走してきた実績もある。見つかる心配はない。
 

 耕一は雨月山にいる。そして”れざむのえるくぅ”達もまた、そこにいるのだ。そして柳川に課された使命は奴ら外来の鬼どもの放逐であり、耕一の中に目覚めた鬼狩りの鬼を止めることだった。

 しかし、俺に何ができるのだろう?

 柳川は思考を推し進めながらも正確にハンドルを切る。その表情は常日頃と何ら変わりを見せていない。
 耕一の力は巨大すぎた。それは勝ち負けを云々いえるような力の差ではなかった。例えあの千鶴と二人がかりでもどれほど持ちこたえることが出来るだろうか。

 しかし、まだ鬼達と戦うと決まったわけではない、と柳川は見方を変えてみる。
 そして、戦うとしても、相手が耕一とは限らない。純血の鬼達相手に、耕一が勝てる公算は大きくはないだろう。むしろ耕一が敗れた後の鬼達の始末こそ考えるべきかもしれない。

 柳川はそう考えた後で、ふふっと自らを笑った。

 戦う以外の選択肢があるとでも言うのだろうか。まして、耕一でも勝てない相手に自分が何をできると言うのだろうか。貴之。俺に何を期待しているんだ? 

 そこに含まれる自己欺瞞に気付きつつも、柳川はあえて貴之と呼ぶ。
 まだ思考を纏めきれないうちに、目的地が見えてくる。それは隆山随一の豪邸だった。
 
 

 柳川が柏木邸についたのは丁度梓が門をくぐった時だった。家の前に止まる車を見て梓は首をかしげる。

「悪いけど、ここに止めないで貰えるかな?」

 梓は車の窓をノックした。ウィンドウが開き、柳川の整ってはいるが何処か冷たい印象を与える顔が覗く。

「ああ、すまない。こちらのお宅に用があるんだが、近場の駐車場を知らないか?」
「うちになんの用?」
「うち? ああ……では、お前が梓か?」

 柳川は千鶴としか面識がないが、柏木の家族構成については知っていた。かつて耕一と共有した記憶からも確認が得られる。柏木の次女で、やはり自分の姪にあたる娘だ。

「……あんた、誰よ?」

 威嚇するような声。梓は真っ直ぐに柳川を見据えていた。
 しかし、梓の厳しい誰何の声と視線を柳川は平然と受け流す。

「柳川という。俺の父親は柏木耕平。俺はお前達の叔父に当たる者だ。柏木千鶴に、柏木耕一のことで話がある、と伝えてもらえないか」

 単刀直入に柳川は言い捨てた。
 

 柏木耕一だって?

「あのさ、ちづ……姉はもう出てしまってるんだ。あたしがその話聞くという訳には行かないか?」

 梓の口は、その頭より早く動いていた。その嘘がなぜ出て来たのか、梓自身はっきりとは判らない。千鶴は家のなかで迎えの車を待っていた。耕一の話となれば仕事の一つや二つを先送りにしても飛びつくだろう。
 だが、梓はこの件に関しては自分に優先権があると確信していた。手紙を残されたのは千鶴でも楓でも初音でもない、他ならぬ梓自身だ。

 梓に柳川と名乗った男は眼鏡の奥の切れ長の目を眇めて何か考える仕草をしていた。その僅かな時間すら梓には苛立たしく、待ち遠しい時間に思える。ぐずぐずしている間に千鶴が現れてはたまらない。
 柳川はそんな梓の思惑など知る由もなく、暫し沈思黙考していた。その間僅か数秒。
 しかし、痺れを切らした梓は実力に訴えた。

「乗っけて! 駅前のファミレスでいいだろ?」

 梓は向かいの扉に回り、ドアを開けろとばかりに鍵を指差した。いざとなればドアごと引っぺがすぞと言わんばかりだった。

「――いいだろう。乗れ」

 一拍の間をおいて、梓とは対照的な落ち着いた声とともにドアが開けられた。梓の剣幕に臆したと言うわけでもなさそうだった。梓はすばやく乗り込み、柳川が少し眉を顰めるほどの勢いでドアを閉めた。
 

 柏木梓が持つ情報の如何に関わらず、ここで単独で会見の場を持つ意味を柳川は認めなかった。彼の為すべき事は柏木姉妹全員の協力を取り付けることであり、その交渉だった。今朝千鶴の出勤前を見計らって訪れたのはその会談のアポイントを取り付けに来たに過ぎない。

 しかし梓はそんな柳川の思惑など一顧だにしなかった。非番で制服も着ていないとはいえ、警官相手に堂々とサボりの宣言とは。自分には考えられないその直情的な行動に、柳川は呆れると同時に可笑しさを覚えた。柳川に「気紛れ」を引き起こさせたのは、梓のその猪突ぶりだった。
 何事も自分自身でやることにしている柳川が、梓に伝言役を頼もうと考えたのだ。
 

「ところでな、言っておくが俺はこういうものだ。学生の本分は忘れるなよ」

 ちらりと警察手帳を見せる。げっと言う表情になる梓。
 柳川はそれ以上の牽制は避けると、指定されたファミレスへと車を出した。それと入れ違いに、千鶴を迎える車が柏木邸前に止まり、運転手が門のインターホンを押す。
 梓は内心ひやひやしたが、柳川はそれに気付かなかった。
 

 警察?
 梓は自分の体を包む制服を見下ろし、首をすくめた。
 冷静になってみると、一応相手が名乗ったとはいえ、誰だかわからない男の車にのこのこ乗り込んでしまった自分に気付く。思慮が浅いといわれても仕方がないこの状況に梓は少し反省した。
 流れ去る外の景色を無関心に眺めながら、柳川はハンドルを握っていた。飾りっけの全くない車内にはナビゲーションこそあるが、ステレオすらあるのかどうか定かではない。

 そういえば、あたしの叔父さんだって言ってた?
 今更ながらに梓は柳川の言葉を思い出した。梓は柳川が柏木の直系に当たる男だという結論と、それの意味するところに考えを至らせる。それはただひとつ。この男も柏木の、鬼の血を引いているということだ。
 梓の中で柳川を警戒する気持ちが俄然高まってきた。梓は本人至ってさりげなくのつもりで柳川の様子を盗み見た。その柳川は、隣の梓など全く意にも介していない様子で、何か話し掛けるでなく、終始無言で前だけを見て運転していた。
 梓は直情的に柳川を問い詰めようと口を開きかけた。が、一度冷静にさせられたせいか、珍しくそれを押さえる。続く考えが頭に浮かんでいた。

 『柏木耕一のことで話がある』。そう、柳川は真っ向から話し合いにきたのだ。
 なにか攻撃する気ならわざわざ敵陣まで乗り込んできたりはしないだろう。たぶん本当に耕一のことで何か話があるのだ、と梓は結論を導いた。同時に、梓はこんな風に論理の帰着を見た自分に内心驚き、得意になった。
 あたしも、やれば出来るじゃない?
 

 警戒丸出しから一転してにやにやする梓を横目で見て、柳川は密かに溜息をついた。選択を誤ったかもしれない、という考えが頭の片隅を過る。車はやがて、目的地のファミレスに近づいて来ていた。
 
 

―― 梓 弐 ――
 
 

 人の耳のないところ、とはとても言えなかった。
 人目を引かないとは、さらに言えない。
 梓自身、意識しようがすまいが人目を引く容貌の持ち主であり、かつ制服を着てこの時間に出歩いている。そしてその横にはスーツ姿の柳川がいるのだ。
 柳川はようやく自分らしからぬこの無分別に気づき、顔を顰めた。

「ここでいいだろ?」

 梓は事も無げに窓際の席を選んで、向かいに座るように言ってきた。

 柳川の渋面が一層険を帯びる。
 今時分のここが昼飯時の退屈を紛らわすために集まった主婦連のゴシップ交換の場となっていることに、そして彼女らの詮索好きな視線が全てここに向けられていることに、柳川は入店早々に気づいていた。
 なぜ、こいつは気付かない?
 
「あんた、耕一の何を知ってるの?」

 梓は柳川の目を真っ直ぐ見据えると、なんの衒いもなく言い放った。細かい交渉もなにもあったものではない。余りにも芸のない直球勝負だった。
 まだ一言二言話しただけにもかかわらず、柳川はもう梓の何たるかが判った気がしていた。

「なにも。お前達が知ってると思って聞きに来たのさ」
「嘘だ!」
「ならば、俺が何を知ってると思うんだ、え? 柏木梓」

 そんな切り返しに、梓はあっさりと返答に詰まって沈黙する。柳川ならずとも読み取れる、あからさまな態度。すでに柳川には梓と掛け合うつもりはなかった。言うべき事を言って、さっさと切り上げるつもりで柳川は切り出す。

「奴はいま、雨月山にいる。見当くらいは付けていただろう?」
「…………!!」

 梓の顔色が蒼白になった。その表情を見て、柳川はまたも失望の色を浮かべた。ここでもまだ買い被っていたか、とでも言うように。

「耕一が……やっぱり」
「どうも勘違いしているようだが一つだけ言っておくぞ。今度の雨月連山での事件は奴の仕業ではない」
「え、そうなの? でも、どうして?」
「どうしてもだ」
「そんなの、答えになるか! 耕一は何をしてるんだ? 一体なんだって家を出たりするんだよ? 知ってるなら教えてくれよ!」

 柳川は自分の認識にいくつかの修正を加えねばならないことを知った。血の自覚という点において、柏木千鶴とその他の姉妹の間には大きく開きがあるだろうということ。次女の梓をしてこれなら、三女及び四女にも状況を説明して以上、という訳にもいかなさそうだ。

 柳川は静かにコーヒーを啜った。その眉間の皺は安っぽいコーヒーの味のせいばかりではない。自分が教育係に向いていないことくらい、柳川も自覚していた。しかし、柳川の前に座っている『現実』はそう甘いものではなさそうだった。
 柳川は二階の窓から外を眺めた。アスファルトの上に陽炎が立っている。今更車に戻っても、すでに車内はサウナ状態になっているだろう。
 
 柳川はついに不味いコーヒーを飲み干した。
 泥で出来ていようがなんだろうが、もう乗りかかった船だった。

「黙ってないで、何とか言ったらどうなんだっ!」

 柳川は目の前で騒ぎ立てる梓の耳を引っ張って、大人しく座らせてやりたい衝動を押さえた。忍耐は彼の得意とするところの一つだったが、同時に騒々しい子供と物分りの悪い馬鹿は最も彼の癇に障るものでもあった。
 

「梓。お前、今日ちょっと付き合え」

 感情を押さえつけるような、ゆっくりと落ちついた口調で柳川は言った。
 

               §
 

 たまたま警察の柔道場は使われていなかった。人前での訓練には梓は目立ちすぎると考えていた柳川はこの幸運に感謝した。

「なんだよ、こんな所に連れてきて」

 蒸し風呂のような道場の暑さに、梓は制服の胸元をパタパタと扇ぐ。ただでさえ熱い空気を篭らせれば、それは耐え難いものになる。
 しかし、柳川は構わず道場の窓を締め切り、外からの干渉を遮断していた。そしてどんどんと床を確かめている。剣道場の床と違って、ここの畳は相当の衝撃にも耐えるように作られているようだった。ようやく納得したか、柳川はやっと梓を振りかえる。

「梓、お前は力を使えるか?」
「…………」
「まぁいい。お前、俺に負けるとは思っていまい?」

 梓は方を竦めるような様子を見せた。柳川はそれを肯定と取る。さりとて気にした様子もなく梓に歩み寄った柳川は梓の頭からひょいとカチューシャを取り上げる。

「わっ、何すんだ返せよ」

 こういう手合いを従わせるには、わかりやすく力関係を示してやるに限る。
 柳川はカチューシャを取り戻そうと手を振りまわす梓から無駄のない動作で距離をとる。
 
「大事なものなのか?」

 柳川はそれを弄び、冗談半分に自分の頭の上に乗せる。柳川の整った風貌にそれはどこかシュールな光景であると言えなくもない。

「わわ、何すんだこの変態」
「取り返してみろよ。それができたらお前のさっきの質問に答えてやる。耕一がなぜ、そして何をしているのかをだ」

 予想通りに梓はその挑発に乗ってきた。柳川による梓の性格把握はすばらしく正確だったが、誇るほどのものでもない。梓の気性は見た目そのままだ。

「いいだろ。その台詞、忘れるなよ」

 そう言い捨てて、梓は飛びかかってきた。そして。

 どしん!

「……え?」

 柳川は一人前の警察官だった。いままで実戦で使う機会こそなかったが、一応は柔道の有段者だ。
 自分が投げられたことが解っていないのか、呆然とした様子の梓。それを見下す柳川。

「て、てめェ!」

 見るからに頭に血を上らせた梓は再び突進した。しかし、同じことを繰り返せば、自ずと同じ結果がもたらされるだけだ。掴みかかる梓の腕をかい潜って柳川は梓を背負い、仮借なく投げ捨てる。

 どしん!

 いまや柳川は紛れもない嘲弄を浮かべていた。梓は三度目となる同様の突進を敢行し、同様の結果を招いた。都度都度、今度こそ本気という顔をしていた梓はまだ信じられない表情をしていた。

「お前は学習という言葉を知っているか?」
「上等だよ……」

 梓の気配が変わる。そうなるよう意図的に仕向けた本人だけあって柳川は微塵も動じたところを見せなかった。梓にはそれがまた癇に障った。
 道場の畳が僅かに歪みだす。いま、梓の体重は女性にあるまじき数値を示しているだろう。

「覚悟しろよ、柳川」

 低く顰められた梓の声に、柳川は挑発するように肩をすくめて見せた。

 その瞬間、梓が突進してきた。
 大した瞬発力だった。その速度には、さすがの柳川も一瞬対応が遅れた。例によって背負い投げる心算でいた柳川の懐深くまでを、梓は一瞬で詰め寄ったのだ。

 しかし柳川は慌てなかった。梓の勢いに逆らわずその腕を取って倒れこみ、巴に投げ捨てた。大質量に加速がついて、派手な音ととも畳にバウンドした梓は向かいの壁近くまで転がっていった。
 梓は深紅の瞳をしばたかせる。まさか、鬼化してまで投げられるとは考えてもいなかった、とその表情が語っていた。

「もう何度やっても同じだ、梓。お前は弱すぎる」

 柳川は少々しびれた腕を隠して立ち上がると、何気ない声で言った。
 

               §
 

 柳川は道場の窓を開けて換気すると、梓の前に正座した。梓は既に座っている。
 風が勢いよく吹き込み、汗ばんだ肌に心地よかった。隣の道場からだろうか、竹刀や床を踏むたんという音が聞こえてくる。

「俺は、力をつかわなかった。それは判るな?」
「……うん」
「お前は力を使ってまで負けた。これは二つの点で大きな問題だ。それが判っているか?」
「…………」

 梓は神妙に聞いていた。柳川も正座して真っ直ぐに梓を見て話す。

「一つは純粋にお前が力の使い方を知らないということ。先ほども言ったがお前は弱い」

 梓はがっくりと首を垂れた。梓は内心、腕力なら誰にも負けないくらいに思っていた。それをただの人間にやり込められたとあって、その衝撃は本人もまだ信じられずにいるほどだった。

「もう一つは、ただの人間相手に力を使った言う点だ。梓。俺は柏木家ゆかりの者だと名乗ったが、お前はそれを確かめたのか?」

 梓はびくりとした。まさか、という顔で柳川の顔を見る。本人の言うとおり、柳川はまだ梓の前で鬼の力を見せていないのだ。

「まあ、俺は嘘はついていないがな。俺の父親は柏木耕平らしいし、俺に力があるのも間違いない。だが梓。お前のその行動はあまりにも軽率だと思わないか?」
「う……ゴメン……なさい」

 意外と素直な返事に柳川は少しだけ目つきを和らげた。

「梓。お前に心構えがあれば、俺はお前に全てを話そう。だがお前に心構えができていないなら、今後お前は蚊帳の外だ。どうする?」
「心構え? なんの?」
「義務に対する心構えだ」
「義務?」
「力を持ち、力を行使する者には必ず義務が付き纏う。そして、義務は全てに優先する。お前にはその義務を全うする覚悟があるか、と聞いている」

 柳川は梓の目をじっと見据えた。
 蝉の鳴き声が突然大きく響きだしたように梓には思えた。
 

 力ある者が、えてして尊厳を力の下に考えるものだということを柳川は知っている。
 ”力”があれば何をしてもいい。
 そんな暴力という名の理不尽を柳川は嫌というほどよく知っていた。誰よりもそれを知り、誰よりもそれを嫌悪しているつもりだった。
 それでも、かつて鬼となった時、柳川は力の感覚に酔った。理不尽の快楽に浸った。人の尊厳も、命も、力の前には易々と砕かれることを柳川は思い知らされたのだ。

 何が力を御すか、御し得なかった柳川は知らない。
 耕一がいかにして力を御し得たか、柳川は知らない。

 そんな柳川が一人で力に抗ったのはひとえに義務と、誇りとからだった。
 

 ――義務を果たす心構えと誇りを持たぬ者には、力を持つ資格も行使する権利も無い。
 

 柳川はそう強く確信していた。
 

 柳川の真摯な瞳に、梓は吸い込まれるような感覚を覚えた。
 

 ――綺麗だな。
 

 ……って、なんだそれ?!

 梓は唐突に浮かんだその思いにこの上なく動揺した。顔が火をつけたように熱を持っているのが判る。思いきり混乱し、慌てふためくと、梓は顔を隠すように深く俯いた。畳の目が妙にくっきりと見え、心臓の音が耳元で聞こえる。

「……そうだな、まだ早いか」

 柳川の声に梓ははっとして顔を上げる。柳川の表情が、はじめて柔らかさをたたえているように梓には見えた。

「この辺にしよう。送っていく」

 すっと柳川は無駄のない動作で立ち上がり、道場の扉を開け放った。新鮮な空気が一気に吹き込んできた。光を背負った柳川が、梓には妙に眩しかった。
 

               §
 

 車の中で、梓は非常に居心地の悪い思いをしていた。
 なんだってあんなこと思ったんだろう? しかもあんなに態度に出して。
 梓は穴があったら入りたい気持ちで助手席に座っていた。後ろの席があればいいのだが、あいにくとこの車はスポーツカータイプで後部座席がない。
 
「そんなに気にすることはないぞ。俺も急ぎすぎたかも知れない……覚悟を決めるのはそうそう簡単なことではないからな」

 梓が小さく恥じ入っているのを見かねたか、柳川が声をかける。
 梓はぽかんとした。その柳川の言葉が梓の胸に落ちるまでにはさらに数瞬を要した。要するに、柳川は見た目どおりの朴念仁なのだった。

 はぁぁぁとため息をついて、梓は風船の空気が抜けるように一気にへたり込んだ。助手席にぺしゃんこになった梓を柳川は横目でちらと眺めたが、声をかけるのは控えた。梓の浮き沈みは柳川には激しすぎ、とても付いていけそうには思えなかった。
 

               §
 

 車は柏木邸から少し離れたところに停められた。柳川を足代わりに使って買い物を済ませた梓が両手に食材を持って降りる。日はいつしか傾きかけていて、空に浮かぶ雲と同じく二人を黄金色に染め上げていた。

「今から上がって待ってれば? またどうせ後でくるんだろ?」
「いや、それは遠慮させてもらう。どちらにせよ一度家に戻らないといけないからな」
「なんだ、待ってるヒトでもいるんだ?」

 梓はからかった。

「まぁ、そういうことだ」

 柳川はあっさり答えて踵を返すと、車に乗り込む。磨かれたドアが一瞬だけ日を照り返し、梓の目をくらませた。

「あ、ちょっと待った。これこれ」

 梓は柳川の頭からひょいっとカチューシャを取り戻した。実は梓のほうはずっと前から気付いていたのだが。窓から覗く柳川の顔はショックで硬直していた。

「……俺は、それを……ずっと……付けてたのか?」
「おう」
「……お前の買い物を手伝わされてた間も……ということか?」
「くくく。なかなかよく似合ってたぞ」

 青白かった柳川の顔が僅かに赤くなったような気がした。やられっ放しでは面白くない。

「……ではまた後ほど」

 ショックに強張った表情のまま、柳川はそのままエンジン音を響かせて去っていった。
 梓は笑いながら柳川に手を振って見送った。

 なぁんだ。

 梓は自分でも驚くほどがっかりしていた。
 梓は手元の食材を見た。まだ癖が抜けないのか、それは五人分あった。
 
 
 

虚無

前夜祭

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