―― 虚無 ――
 
 

 それは見た事のない天井だった。
 意識がまとまらず、ただ呆然と天井を見上げる。

 ここは?

 あたりを見回す。飾り気のない真っ白な壁と白いカーテンで区切られた殺風景な部屋。窓にも白いカーテンがかかっている。視界の中の全てが嫌味なほどに真っ白だった。

 その白いカーテンの隙間から朝日がさしていた。

 病室、であるようだった。
 体をひねって部屋を見回そうとしたとき、脇腹から全身を貫くような激痛が走る。
 突然の苦痛に短く喘ぎ、彼は自分が怪我をしていることに気付いた。痛みの出所は一所ではなかった。僅かな身じろぎ、果ては呼吸一つからでさえ苦痛を覚える。死にかけた重傷患者のようだ、と彼は冷静に自己分析した。

 その痛みのお陰で意識がハッキリしてきたようだった。何かの栓が抜けたように、全ての情報が一気に脳髄を駆け巡る。それから彼が自らの置かれた状況を把握するまでに要した時間は殆どなかった。

 そうか……俺は死ねなかったのか。

 柳川は大きく息を吐き出すと、お世辞にも寝心地がいいとはいえないベッドに深々と身を沈めた。
 

               §
 

 柳川が病院に運ばれてきてから、二日が経っていた。
 術後の経過は順調で、回復が早くて驚く、と医者はいった。
 例の連続殺人事件の被害者として病院に担ぎ込まれた柳川のもとに、意識が戻ったと聞いて早くも同僚たちが数人見舞いにやってきた。
 見舞いとは口実で、実際のところは犯人を見て生き残った稀有な証人に対して、事件のことを聞きに来たというところだ。
 柳川は記憶の混乱を装って慎重に情報を集めた。

 なぜ自分は助かったのか。

 柳川が最後に覚えているのは、あとは湖底に沈んでいくばかりとなった自分だった。あの状況からして、彼を助けてくれるものなどいる筈もなかった。
 だが、柳川は道に倒れているところを通りかかったタクシーに発見されたと言う。しかもその場所は例の水門からは遠く離れていた。
 誰が、何かの目的で、そしてどうやってか柳川を助けたのか。全てはまだ謎のままだ。

 事件はどのように収束したのか。

 柳川は苦痛にうめいた。やはり、貴之が犯人として捕らえられたというのだ。警察側も一応は解決という立場をとっているが、事件の現場を鑑みれば、貴之が犯人ではないと考えているものが殆どだという。
 そして、次の情報は柳川を本当に驚かせた。
 それは貴之が逃走したという事実だった。
 自分の意志で行動することが殆どない貴之が、脱走だと?
 柳川は自分の耳を疑った。

 やがて同僚達が去ると、病室にはまた柳川だけが残された。形ばかりの見舞い品に見向きもせず、柳川は一人天井を見つめていた。
 身動き一つせずベッドに横たわり、柳川はただひたすら考えていた。その内容は、意識が戻ってからずっと同じだった。
 

 ――何故、俺を死なせてくれなかった?
 

               §
 

 柳川には父の記憶がない。妾腹の子として生を受けた柳川に、世間は厳しかった。
 言葉と力の暴力が幾度となく柳川を傷つけた。
 いわれない差別が柳川を排斥した。
 そんな有形無形、幾多の悪意に柳川はさらされ続けた。

 理不尽に呑まれ、歪むことは彼の誇りが許さなかった。柳川は憤り、歯を食いしばって、戦うことを決意した。

 そして彼は着実に勝利を収めつづけた。
 自らの努力と目に見えたその結果だけが、柳川を守る盾だった。
 不当・不正と闘う為に彼は警官を目指し、そしてそれを果たした。
 警官となった後も、柳川は努力を怠らなかった。切れ者の風評と異例のスピード出世という形でその結果は現れた。

 しかし、そこでも理不尽は彼を捉えて離さなかった。あいも変わらず他人の嫉妬と排斥が彼の人生の伴侶だった。

 友を得て、彼に初めて人生が微笑んだと思えたのも僅かな間だけだった。
 運命はまだこれだけでは飽き足らず、この上ない理不尽を彼のために用意していた。
 心休まる友は永久に口を閉ざし、彼の手の届かぬところへと去っていった。
 その代わりに与えられたのは罪と、飽くことなく彼を貪る内なる狂気だった。

 昼も、夜も。
 孤立無援、ぼろぼろになりながらも柳川は戦いつづけた。
 弱音を吐くことなく、人を頼ることなく。
 ひたすら、ただ一人で、柳川は勝ち目のない戦いを戦いつづけた。

 ……だがついに、柳川は膝を屈した。
 

               §
 

 うとうとしても、もう夢は見なくなっていた。久し振りに頭が冴え渡っていた。
 心の中も穏やかだった。
 薄々気付いていた。柳川の中に、もう化け物はいない。
 柳川に償いようのない罪だけを残して、化け物は去った。

 子供のときからずっと、安らぎを求めてきた。ただそれだけを求めて、柳川は駈けてきたはずだった。
 それがどうだろう。
 気付けば、柳川の前にはひたすらの闇が想像もつかぬほどの深淵を覗かせている。
 報いというのなら、何の報いなのだろうか。ただ、そう生まれついたという報いだと?
 

 ――いまさら考えることか? 俺の人生はずっとそんなものだったはずだ。
 

 ずきりと傷が痛んだ。柳川は小さくうめく。目尻から涙がこぼれ、柳川は驚いた。自分が最後に涙を流したのが何時だったか、柳川はもう思い出せない。
 痛い。
 柳川は自らのこめかみを掴み、歯を食いしばって嗚咽を堪える。涙が止まらない。
 

 自暴自棄になり、無感覚のまま死ねるはずだった。
 化け物に心を奪われたという、言い訳を持ったまま死んでいけたはずだった。
 それが今になってなぜ、人の心を取り戻さなければならない?
 こんな痛みが、まだ続くのか?
 俺は、地獄からも厭まれるのか?

 柳川は声を押し殺して泣いた。
 

 いつしか柳川は眠りに落ちていた。
 微かなノックの音に続いて、扉の蝶番がたてる小さな音。まどろみから覚め、柳川は自分が寝ていたことに気付いた。時計を見遣ると針は深夜の2時を回っている。看護婦の巡回だろう。

 しかし、ドアを開けて静かに入ってきたのは看護婦ではなかった。

「久し振りですね、柳川さん」
「…………!」

 柳川は声も出なかった。
 そこに立っていたのは紛れもなくあの貴之だった。
 
 

―― 虚無 弐 千鶴 ――
 
 

 耕一が去ってから二日が過ぎていた。

 千鶴は言葉少なにこの二日を送っていた。熱が上がって寝込んだ梓は最後まで事の顛末を知らずにいた。何があったのと楓は千鶴に詰め寄ったが、元より千鶴は答えられない。二人の争いは初音をおびえさせた。
 耕一は東京に帰っていなかった。大学に問い合わせ、耕一の自宅を訪れた小出由美子と言う同年の学生からの話では、耕一が帰ってきた形跡は見当たらないということだった。

『もう二度とこっちにはこないよ』

 千鶴はまた、あのときのことを反芻する。
 

「耕一さん、どうしてそんな事いうんですか?」

 千鶴の問いかけは無視された。
 耕一は話すことはもうない、といった。
 考えるより先に言葉が口を突いて出る。
 直感していた。
 ここで耕一を離せば本当にそれが今生の別れになる、と。

「耕一さん、納得できません! どうしてもう二度と来ないなんて言うんです?!」

 痛みを伴った焦燥感。
 

 ――耕一さんがいなくなってしまう。
 

 千鶴はその考えに震え上がった。
 それは耕一を殺すと決めたときよりもはるかに大きな恐怖だった。
 あのとき自分の内心にあった、殺意にまで高まった独占欲。
 それは、今という一瞬だけは、耕一の心を手に入れたという確信を伴っていた。
 そしてあの瞬間、千鶴は耕一の心を永久に手にできるのなら、このまま殺しても構わないと思った。

 今の千鶴は、恐怖に我を忘れていた。
 耕一を失ってしまう。
 耕一が千鶴を捨て去ってしまう。
 千鶴の心は、耕一が自分を”忘れよう”としていることに悲鳴をあげていた。

「何とか言ってください、耕一さん!!」

 しかし、耕一は一言も口をきかなかった。その目も既に彼女を見ていなかった。
 耕一が応えてくれないと知った瞬間、千鶴は全てを捨て、再び鬼女となった。
 なり振り構わず、ただひたすらに千鶴は耕一を求めた。
 

 ――いやよいやよいやよいやよ! 行かせない。行かせてなるものですか!
 

 千鶴は耕一を押し倒した。圧倒的な重量に畳が軋む。
 共に生きる未来がないのなら、今ここで全てを終わらせてもいい。
 たとえ殺してでも耕一を留めたい。
 たとえ殺されても耕一の心に留まりたい。
 

 ――行かせない! 絶対に!!
 

 千鶴は深紅の瞳で耕一を見下ろした。耕一の瞳は苦渋に満ちていたが、その表情には決然としたものがあった。その時、耕一が何か小さく呟いたが、千鶴はそれを聞き取ることができなかった。
 

 その後の記憶は千鶴にはない。気付けば朝日の中、自室のベットに横たわっていた。耕一が既に去った後だということを、千鶴は確かめるまでもなく知っていた。
 仰向けに横たわり、千鶴は天井を見つめた。

 私、振られちゃった。

 ベッドの上で一人、千鶴は泣いた。
 
 

―― 虚無 参 楓 ――
 
 

 あの夜。楓はごく久し振りに、あの夢を見た。
 夢の舞台はいつも通り、遥か遠い昔だった。
 しかし、何かが異なっていた。そこにいたのはエディフェルと呼ばれる鬼の娘ではなく柏木楓――彼女本人だった。そしてそこに現れたのも次郎衛門ではなく、柏木耕一だった。

 どういうことだろう?

 明晰な意識を保ったままの楓は困惑した。いつもの夢とは大きく勝手が違っていた。エディフェルと次郎衛門の間にはいかなる隠し事もなかった。言葉も要らなかった。彼女が寄り添えば、彼は自然に肩を抱いてくれる。
 だが、楓は目の前の耕一に近づくことを躊躇した。優しく微笑んでいる耕一。だが、その瞳にある寂しさと哀れみの光が、楓を戸惑わせた。
 違和感に苦しむ楓に、耕一がようやく口を開く。

「そうだよ、楓ちゃん。俺は柏木耕一で、君は柏木楓なんだ」

 言外の意味を楓は悟る。
 

 ――私はエディフェルではなく……耕一さんは次郎衛門ではない。
 

 それは、楓が最も恐れていた悪夢だった。
 耕一に重なっていた次郎衛門が楓に手を伸ばす。
 思わず楓も迎えるように手を伸ばした。
 その手は重なることなく、次郎衛門の腕は楓の後ろに立っていたエディフェルの体を抱きしめた。
 抱き合う二人を見つめ、呆然と立ち尽くす楓。
 耕一は深々と楓に向かって一礼すると、背を向けた。

「さようなら、楓ちゃん」

 去り際に、振り返ることなく、耕一はつぶやいた。
 
 

―― 虚無 四 初音 ――
 
 

 初音は空になった部屋を見回した。

「……お兄ちゃん?」

 返事はなかった。

 初音は仏間へと向かい、仏壇の前を伺った。
 心を和ませる線香の香りが初音の鼻腔をくすぐった。まだ燃えきらない線香がゆらゆらと一筋の煙を立ち上らせているのが見える。
 仏壇の前には空の座布団が一枚あるだけだった。

「お兄ちゃん、いない?」

 初音は声をかけてみたが、やはり返事はなかった。

 初音は玄関へ出た。
 下駄箱にも、三和土にも、耕一の靴は見あたらなかった。
 耕一が脱ぎ散らかしたつっかけだけが、綺麗に揃えられた初音たちの靴と対照的にばらばらに散っていいた。片方が裏返ったままのつっかけの、擦り切れた底の模様が、なぜか初音の目を捕らえて離さなかった。

 初音は駆け出した。
 門を抜け左右を見渡す。一区画を占める漆喰の壁が、延々と続いている。珍しく朝靄の立ちこめた道を犬を散歩させる老人がゆっくりと通る。ぽつぽつとした人影の中に、初音は耕一を見つけることはできなかった。

 誰かの部屋に、遊びに行ってたりするのかな?

 湧き上がる不安から目を逸らしながら、初音はできるだけ明るく考えた。
 もし涙がこぼれてしまったら、もう押さえが利かなくなりそうだった。
 
 

―― 虚無 五 梓 ――
 
 

 騒々しいなぁ。
 梓はしぶしぶ目を覚ました。誰かが叫んでいる。何を騒いでるのさ千鶴姉……って、あれ、楓の声だ。あの子が大声を出すなんて珍しいこともあるもんだな。

 暢気に梓は考えた。うーん……なんだか、ボーっとするんですけど。熱、上がってないか?
 梓はそのとき部屋の中に漂うかすかな匂いに気付いた。

 お米の炊ける匂い? 梓は余り効かない鼻でふんふんと空気を嗅ぐと、少し身を起こして部屋を見回した。果たして、ベッド脇にお盆とそしてお粥が入っているらしいホーロー鍋。

 起きてから持ってくればいいのに、と梓は思った。こんな所に出しっぱなしでは冷める一方じゃないか。
 そんな批判的な内心とは裏腹に梓の表情は柔らかかった。梓は茶碗を取り上げ、一口だけお粥を啜ってみた。よく出来ていた。暖めなおせば十分に美味しいだろう。
 梓は茶碗を戻そうとして、お盆の上に乗っている手紙を見つけた。
 手紙? 
 梓はそれを取り上げる。「梓へ」表にはそうあった。差出人の名はない。達筆だが、梓が見たことのない字だった。

 いいや、後で読もう。

 梓はまたベッドに潜りこんだ。初音が泣きながら起こしにくるまで、梓はそのままぐっすりと熟睡していた。
 
 

―― 虚無 六 柳川 ――
 
 

 病院に担ぎ込まれてから四日目、柳川は退院した。致死の傷も呪わしい体のお陰でおおむね癒えた。
 大事を取ると言う名目で5日間の自宅療養を決め、柳川は自宅のアパートへと戻った。

『驚くなよ、あの阿部貴之はなんとお前の隣に住んでいたんだ』

 そんな同僚の言葉が思い出される。かつて吉川と貴之が住み、化け物となった柳川が女性を陵辱し、そして貴之と時を過ごしたこの部屋。その扉も今は厳重に封じられ、何者であれ立ち入りを許されない。

 柳川はそれをちらりと眺めて、自分の部屋の鍵をまわす。
 がしゃり、と音を立てて開く鍵。蝶番の音も無く、静かに引き開けられる扉。自分の心の中そのままに閑散と虚ろな部屋が柳川の視界に飛び込む。
 ばたん。重苦しく響いて閉じる扉。
 柳川はすたすたと部屋へ踏み込み、背広を脱ぎ、ネクタイを緩める。
 それから、彼は振り返ってベッドを見る。
 そこには安らかな寝息を立てる貴之がいた。

 カバンを放り出した机から椅子を引き出して背凭れを跨ぐように座ると、柳川は貴之の寝顔を見つめた。

「ただいま、貴之」

 柳川は背凭れに両肘と顎をのせ、ゆっくりと溜めた息をはきだす。背を屈めた姿勢に、脇の傷が痛む。まだ全ての傷が完全に癒えたわけではない。しかし、体の痛みはまだどちらかといえば柳川には心地よかった。柳川は静かに、貴之の安らかな寝顔を眺め続けた。
 そして、貴之が現れたあの日のことを思い返していた。

 病室に現れた貴之に、柳川は驚きを隠せなかった。長く夢みていたように、貴之が昔のままに歩き、話しかけてきた。
 貴之に会ったら聞きたいと思っていたこと、話したいと思っていたこと。全部頭から吹き飛んでしまった。怪我でベッドに寝ているのも忘れて駆け寄ろうとした柳川は、全身を貫く痛みに低くうめいた。
 そんな柳川に、貴之が人懐こい笑顔を浮かべてやってくる。しかし貴之はベットの前で足を止め、寂しげに言った。「ごめんなさい」と。
 そして貴之は語り始めた。自分が阿部貴之ではないということを、貴之のその姿で。
 

 自分がいずれ死にゆく、”よーく”という名の存在であるということ。
 ”えるくぅ”或いは”鬼”と呼ばれる血族の管理者であったということ。
 柳川を助けたのは、自分であるということ。
 

 柳川の中に芽生えていた希望は急速に萎んでいった。貴之の心は、まだ部屋の隅に膝を抱えて蹲ったままだった。
 

『柏木耕一を止めてください』

 貴之はそう言った。正確にはそうではない。貴之の中にいる誰か――ヨークといった――がそう言わせただけだ。

 なぜ、俺達を放っておいてくれない。
 俺も、貴之も、もう疲れ果てているというのを、なぜ解ってくれない。

 柳川は心の中でそう呟いた。貴之のギターの弦のように、彼の中の糸は切れていた。鬼とともに、彼の中の何かも一緒に死んだのだ。

『私はあなたを見てきました。あなたの身の上に起こった事は全て私のせいです。そして、柏木耕一の虚無を生んだのも私です。そして、その虚無は柏木耕一を破滅へと向かわせています。そして、私の子供達も』

 もはや、柳川の中には殆ど怒りも湧かなかった。ただ「虚無」という一言が彼に僅かな痛みを思い出させた。彼にはもう希望というものが無かった。彼が求めるもの、それはもう全て手が届かなくなっていた。彼にできるのはただ、他人も自分も等しく哀れむことだけだった。柳川はただ貴之の言葉に耳を傾けていた。

『そして、あなたの甥があなたと同じ道を歩むのです。……祐也、あなただけが柏木耕一の闇を覗き込むことができます。彼はかつてのあなたと同じ傷をもち、今、かつてのあなたと同じ痛みを感じているのです』

 柳川は、心の奥底にしまい込んだ痕に何かが触れるのを感じた。痕は再び開き、じくじくと痛みが蘇ってくる。それは柳川がかつて感じたことのある痛みばかりだった。今、柳川が内に感じているもの、それが柏木耕一の抱える闇だった。

 父に捨てられたと知ったとき。
 親族に見放されたと感じたとき。
 母が死んだとき。

 なかには暖かな感情もあった。
 柳川はこれほどの愛情があることすら知らなかった。

 優しい従姉妹達。愛すべき従妹達。

 そして、その温かみ全てを覆す圧倒的な喪失感。胸をかきむしるほどの虚無感。
 その痛みの凄まじさに、柳川はあえいだ。
 耕一の受けたまだ真新しい、血を流している傷が殆ど致命的であるのを柳川は知った。そして、柳川はため息をついた。彼はついに、自分の中に芽生えた――いや、始めからあった――耕一への共感と、同情を認めた。

 耕一の魂が弱り、翳るとそれに覆い被さる深い闇が見えた。それは古い、遥か昔の怨霊だった。柳川は何故か、その怨霊を知っているような気がした。
 

 柳川が我に帰ると”ヨーク”は語り始めた。
 それは500年間にわたる自分の役目についての、長い、とても長い話だった。
        

       §
 

 柳川は椅子の上で目を覚ました。
 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 貴之はまだ眠っていた。

 柳川は強張った体を伸ばす。体こそ少々痛むが、気分は悪くなかった。朝日が差し込むまで眠っているのもたまにはいいものだな、と柳川は思った。
 貴之はただすやすやと寝息を立てている。柳川にとって貴之は弟のようなものだった。兄弟を持ったことのない柳川だったが、この感覚が本当の兄弟以下であるとは思えなかった。
 一晩ゆっくりしただけで意欲が湧くというわけではないが、体の回復にあわせて心のほうも少しだけ生気を取り戻した気がした。

「貴之。俺には、罪を償う義務があるらしい。もう少し、待っててくれないか?」

 彼は安らかに眠る貴之に語りかける。貴之が何かむにゃむにゃと呟いて寝返りを打った。貴之のそんな様子を見て柳川は相好を崩す。

 何かいい夢でも見ているのだろうか。
 久しく忘れていた安らいだ気持ちが広がるのを柳川はすなおに心地よいと感じた。
 

 習慣のままに新聞受けから新聞を取り、TVのニュースを流すと朝食の準備にかかる。ここ数日家をあけたお陰で、冷蔵庫の中の生物は痛みかけていた。ありあわせで食器を彩った柳川はTVから流れてきたニュースに耳を引かれた。

 雨月連山の遭難事故について、レポーターが癇に触る声でしゃべっていた。
 

「隆山の悪夢再び……」

 柳川はTV画面に映し出された大仰な見出しを読み上げた。リポーターの癇に障る声はさらに癇に障る内容を語った。雨月連山に踏み込んだ登山客が五名行方不明となっていたが、うち一名が熊に襲われたと思しき状態で発見されたという。
 その報道は事件の規模から考えれば控えめだった。柳川自身の引き起こしたあの事件との関連性を警察が意識しているのは確実で、しかも犯人として手配されている貴之は逃走中だった。
 報道に何かしら規制を加えているとしたら、警察はかなりの本腰を入れてきている。
 それがどこまでのものかまでは柳川も預り知らないが、こうなっては秘密が暴かれるのも時間の問題かも知れない。

「始めたか、耕一」

 お互いにまだそうとは名乗りあわない柳川の甥、耕一。彼の抱える闇は殆ど柳川のものと同じだった。自分が守れるものを探しつづけ、そして見つけたと思った途端に奪われた、柳川の怒りと、悲しみと、空虚さ。とてつもなく大きな、胸にあいた傷。
 柳川には、痛みに耐えかねて荒れ狂う耕一の姿がかつての自分と重なるように思えた。
 

 あの時、貴之の口を借りて”ヨーク”は自らの使命について語った。

 それは運んできた”えるくぅ”達を守ること。
 どんな手段をとろうとも、その血を絶やさず遺して行くこと。

 その為にヨークは二通りの手段をとった。可能な限り純血の鬼を残す方法、そしてもう一つは鬼の血を潜在的に広めておく方法。
 純血の一族とはもちろん柏木の一族だった。
 彼らは、強い力と同時に強い支配をヨークから受けていた。ヨークは彼らにシグナルを送り、時には仲介し、彼らのうちで強い力を持つもの同士が引かれ合うように仕向けた。意識に進入し、血の拡散を極力に押さえてきた。
 結果、近親婚による”狂気”が彼らのうちには忍び寄ってはいたが、それでもヨークは血脈が途絶えぬよう500年間の間ずっと取りはからってきた。しかしヨークはその500年の間に弱り、ついに今、その支配力を失いつつあった。

 折り悪くもそんなときに、新たな”えるくぅ”達の接近をヨークは感じ取っていた。
 そしてそれが助けの到着などではないと言うこともヨークは知っていた。
 純血を誇りとする彼らは獲物との”雑種”などを認めはしない。格好の獲物とみなすだろう、とヨークは言った。
 それらの敵を追い返すべく、ヨークは敵の到着前に力あるもの達の召集を試みた。
 それはつまりは柏木の血を引く者たちへの強制的な目覚めの命令だった。

 柏木の狂気の血が柳川を支配したのは正にその頃だ。
 柳川は、その召集の声に繰られ、狂気ともども叩き起こされた。
 ほぼ時を同じくして耕一の父、柏木賢治も狂気に倒れた。彼の目覚め自体は早い時期からゆっくりと行われていたが、ヨークの呼びかけがそれを加速したのだ。
 そして耕一もヨークの呼び声に引かれてこの地を訪れ、同じく覚醒に至った。

 そんな紆余曲折を経て生き残ったのは柏木の四姉妹と柏木耕一、そして柳川だった。
 

『そう、貴方たちは新たな敵との闘いの為に私が呼び寄せ、目覚めさせたのです。力を合わせ、外来の敵と戦ってもらうつもりでした。
 ……しかし、それは同族たちより恐ろしい敵を呼ぶ結果になってしまいました。柏木耕一の中に、次郎衛門が目覚めてしまったのです』

 次郎衛門。かつてこの地の鬼を滅ぼした一武士の名、柳川はそう聞いている。

『500年前、次郎衛門という人間に”えるくぅ”の血が入った時、何かが狂いました。純血の”えるくぅ”をも凌ぐ力を持った次郎衛門は、私の子供達を次々と殺していきました。私の悲鳴も制止も、彼には通じません。私の力は”えるくぅ”でない彼に及ばなかったのです。しかし、血を絶やすわけには行きません。私は仕方なく彼の子孫に賭けました……最後に生き残った私の娘を彼に娶わせたのです』

 柳川の中の何かが、話の理解を助けてくれていた。
 彼は抵抗無く話を吸収していった。

『それはなんとか成功し、私達の血はかろうじて保たれました。次郎衛門の子孫たちにはどうにか私からの干渉が通じたからです。私はまた彼らに働きかけ、血脈の維持に努めました。そうして、500年の間彼らを導いてきたのです。
 しかし、次郎衛門の怒りと恨みは消えていませんでした。
 次郎衛門は転生することができたのです。それも一度ならず。時には人として、そして時には鬼として。
 彼が転生を繰り返すたび、”えるくぅ”の血は数を減じたのです……彼の私の子供達に対する深い憎しみの為に』

 柳川は黙って聞いていた。

『次郎衛門の強い意識を引き継ぐものには、私の干渉は殆ど通じませんでした。しかし、全くではありません。代を重ね、血が薄まるうちに歴代の次郎衛門へも僅かなら干渉ができるようになっていました。私は彼の怒りを収めるために、贄を用意することさえしました』

 柳川は苦笑した。

「その贄が、俺だったと言うんだな? 俺は、奴と戦い殺されるように仕向けられたと言うわけだ」

 ヨークはそれを否定も肯定もしなかった。
 そして柳川自身、今更それを気にしているわけでもない。

『しかし今、私の干渉が弱くなり、次郎衛門は全き形で目覚めてしまったようです。私のしてきた事も彼は全て知ってしまいました。そして、私の干渉を知り、怒りに狂っているのです。
 ……私にはもう力がありません。500年は私にも長すぎました。じきに、私は滅びます。そしてそんな時期に柏木の党首となった柏木耕一が、次郎衛門の意思に目覚めてしまった。
 今の次郎衛門は、桁外れに強固です。このままでは私の子供達は皆殺しにされてしまうでしょう。
 今一度お願いします。どうにか、柏木耕一を止めて下さい』
 
 
 

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