―― 目覚め 参 ――
 
 

 「まったく、今日もどうしようもなく暑いな」

 耕一は首にかけたタオルで額を拭いながらぼやいた。
 背負ったリュックが背中にシャツを押しつけ、汗で貼りつく感覚が気持ち悪かった。風が凪いでいて、むしむしした熱気が地面から立ち上っているのが見えるようだ。空には威圧的に入道雲が聳えていた。この分だとまず夕立になるだろう。
 どうせなら今一降りして貰えないか、などと耕一は思う。
 耕一は額に浮いた汗を拭うと照りつける太陽を睨んだ。こんなことならサンバイザーくらいは用意すべきだった、と耕一は自分の不明を悔やんだ。

 耕一は、一人水門のほうへと歩を進めていた。

 千鶴から聞いた話では、容疑者として捕らえられた阿部貴之は麻薬中毒者で殆ど廃人だったという。たしかにその名は、耕一が夢の中で聞いたものだった。少なくとも、あの部屋の持ち主ではあるのだろう。
 しかし、あの鬼は耕一が殺した。だから阿部とかいうその青年が犯人である筈が無い。 あの時、奴の命の火は散った。耕一は間違いなくそれを感じた。そして、その命の火を自分が食らい、取込んだのもまた知っていた。だから、奴が生きている筈はない。耕一は迷いなくそれを確信していた。
 彼ならずとも、今地上に生きている誰かであるはずはないのだ。

 あの事件は、もう終わっている。

 耕一は顔を上げて空を仰ぐ。その視線の先で、雨月連山の稜線が青空を切り取っていた。
 

 耕一は水門の前で足を止めた。
 風雨に晒され、赤茶のペンキが所々剥げたその水門の上には今、工事中の札が掛かっていた。あの戦いで壊された鉄柵や足場を補修しているのだろう。
 一見何気ないその光景にも柏木のもう一つの力が影を落としていた。
 ここ隆山では、柏木は社会権力へも支配の根を伸ばしている。この出来事に興味を持つものも、その理由を追求するものも、決して現れることはない。

 耕一は辺りを見まわした。昼の光のもとで見るここもまた、爽やかで美しかった。
 山々が水際に迫り、青々とした森が湖面に映りこんでいた。水門から開放された僅かな流れが、低く小さく轟きながら急なコンクリートの斜面を滑り落ちる。人工の小さな滝はそこで忙しなさを和らげ、そこからはそよそよとのんびりとした流れとなる。
 湖面を震わせているのではないかと思うばかりのセミの大合唱が、自分が都会から遠く離れた地にいることを耕一に思い出させた。幾人かの釣り人が糸を垂れ、子供達がきゃあきゃあ嬌声を上げて水と戯れている。
 耕一は脇を駆け抜けていく、そんな子供たちを見て目を細めた。
 かつての自分が同じように従妹の少女達と遊んでいた日々を、耕一は思いのほかしっかりと覚えていた。

 思い出を良くも悪くもするのは、結局は今の自分なんだな。
 耕一はそんな事を思う。
 夏はすぐに去りそして秋が来る。冬を耐えれば、春を経てまた夏がくる。
 その時、自分は何を思っているだろう?
 誰と、何をしているだろう?
 

 水門を行き過ぎた耕一は雨月連山の麓に向けて足を向けていた。

 麓に近づくにつれ大きく、耳を聾するようになった虫の音が耕一には心地よかった。木々は強い日差しを可能な限り受け止めようとするかのように枝葉を天へと差し伸べ、木漏れ日は僅かな風にも美しく揺らめき、耕一の体を薄く緑に彩った。
 土の香も、何処かから聞こえる水音も、顔や腕を弾く潅木の枝も。
 鬱陶しい羽虫までもが、耕一には新鮮に感じられた。やがて勾配が少しずつ急になり、道幅が狭まってくる。目的の林道へと耕一はたどり着いていた。
 この道はそのうち登山道と合流するが、そのちょっと手前にある獣道への分岐点こそ耕一の目指しているところだった。そこは人目もなく、耕一が”一気に”駆けあがるにはもってこいの道だった。
 

 昨日の夜の、あの光。その眩しさに目が眩んでしまうほどの光。
 耕一は、確かにその光の中に何か巨大なものが空をよぎって飛ぶのを見ていた。彗星のように尾を引き、それは山の裏手へと消えて行った。
 今朝の新聞にもニュースにも、そんな流星のことは何一つ触れていなかった。あれだけの光を観測所が見落とすことは絶対にない。
 そして何より、耕一自身があの光の中に何か禍禍しいものを感じていた。
 耕一がこうして足を運んできたのも、その気配の正体を確かめるためだった。
 

 二時間ほど歩いただろうか。太陽は頂点に居座り、木漏れ日といえど日差しは肌に刺さるようだった。獣道にもかなり分け入ったところで、耕一は後ろを振り返る。
 木々の間から隆山の町並みが一望できた。
 耕一はその美観に注意を向けず、暫し木々のざわめきに耳を傾けた。
 人の気配は感じられない。獣以上に研ぎ澄まされた耕一の五感を遁れる存在があり得ないのは、彼自身が一番良く知っていた。

「さて、と。そろそろ行きますか」

 耕一は靴紐を締めなおす。
 千鶴が心配していた昨夜の戦いの後遺症は、全くない。あの戦いで耕一は殆どダメージを受けなかったし、鬼の能力が活性化したお蔭で回復力も高まっている。正直、日々の疲れが落ちてずっと爽快なくらいだった。
 耕一はリュックを背負い直すと呼吸を整えた。血管を駆け巡る力の感覚を耕一は慎重に調整した。

 そして、人にありうべからざる速度で耕一は山道を駆け上がり始めた。
 

               §
 

 梓ははぁぁ、とため息をつき、とぼとぼと歩いていた。
 病院は面会謝絶なる札を盾にして、かおりに会わせてくれなかった。警察は話をしてくれるどころか、梓を補導しようとする有様だった。勢い込んで駆け出したはいいが、いきなり手詰まりになってしまった。あせりに突き動かされて闇雲に歩き回ってはみたが、もちろん何の収穫もない。
 今日の日差しはどうしてこんなに強いんだろう。なんだってセミはこうもジージーと騒々しいんだ? 梓には何もかも全てが苛々を募らせるものに思えた。そして今のままではその苛々を収めようがないのも、梓は自分で判っていた。

 畜生、自分の力のなさが悔しいよ。
 梓はまた一つ、大きなため息をついた。
 

 梓ががっくりと肩を落として帰ってくると、玄関には鍵が掛かっていた。もう家の中には誰もいないらしい。

「ただいま」

 誰からも返事はなかった。土間になっている玄関には、一つも靴がない。梓は玄関に靴をそろえ、とんとんと廊下を歩く。
 千鶴はときどき梓に向かって「どすどす歩かない!」などと叱っていた。が、梓も自分の不機嫌をアピールするつもりでもなければそんな歩き方はしない。

「耕一ぃ、出かけてるのォ?」

 ここでも返事はなかった。ほんとに誰もいないようだ。解ってはいたが、それでも梓は少しがっかりした。
 自分一人だと思うと、梓にはただでさえ広いこの家がさらに広く侘しく感じた。

 仕方ないか、と梓はすっぱり思考を切り替えた。当面の問題として、梓は今日の夕食の事を取り上げることにした。一週間ほどの滞在も終わりに近づき、耕一は明日東京へ帰ることになっている。だから梓が腕を振るう夕食は、今夜が最後となるのだ。

 耕一の事だから明日の夕食はきっとコンビニの弁当辺なんかになるんだろう、と梓は踏んでいた。それどころか、下手をすれば何も食べないなどということも耕一なら十分に考えられることだった。
 だったらその前に少しでもマシな物を食わしとかないと。
 そんな具合に今晩のご馳走の理由を取ってつけると、梓はよっしゃとばかりに動きだす。

 梓は部屋に戻りカバンを置いた。その部屋に入った唯一の友人に言わせれば、そこは
「とても女の子らしい可愛い部屋」
 であるという。そして実際その通りだった。
 男前で通る梓も、自分の身の周りには極めて女性らしい品々を張り巡らせていた。

 台所へと向かい、買い物篭と財布を取り上げる。
 梓は新聞折り込みの広告を広げると、本日の目玉商品を調べ始める。

 現実的には、梓には家計の遣り繰りをする必要は殆どなかった。
 その門構えを裏切ることなく柏木家は素封家だったから、食費が切れても千鶴に一言いえば事は済んだ。
 家計を預かる身としてはそれも練習だ、と常々梓は言っていたものだが、実際は安売りの材料を知れば献立もおのずと決まってくるというのが大きな理由だった。

 よし、今日は、太刀魚が安いな。
 梓は頭の中で献立を纏めると必要な食材を思い浮かべ、次いで回るべき商店とそのルートを決定した。
 

 梓は自転車を駆り商店街へと向かう。大きな籠のついた、買い物用の自転車だった。高校生の女の子が乗るにはかなり色気のない代物だったが、梓は全く気にしなかった。
 表通りを少し外れ、古めかしい……ではなくてただ古く、草臥(くたび)れた感じの店が並んでいる通りへと梓はハンドルを向ける。その姿を認めた商店主たちが店頭へと顔を出してきた。

「お、梓ちゃんいらっしゃい! 今日は葱がいいよ!」
「あ、あとで貰うよ。一本取っといて!」
「よう、こっちもイイの入ってるぜ? しゃぶしゃぶなんかどうよ?」
「悪いね、今日は魚にしようと思ってんだ」
「ありゃ、益さんとこか。じゃぁまた今度頼むな」
「おまけしてくれるんなら考えるよ」

 商店街の両脇からポンポンと声が掛かる。梓は快活にそれらに答え、あしらい、笑った。梓はここの通りの商店主全員と顔馴染みだ。

「益サン、こんにちは。今日は太刀魚が安いんだって?」
「ああ、イキもいいしお勧めだよ。幾つ?」
「五人分、頂戴」

 いくつといいながら既に四人前を包もうとしていた商店主はおっと、ともう一切れを加える。

「あんだ、お客さんかい? それとも梓ちゃんのいい人かい?」

 魚屋の主人が通り全体に聞こえそうな大声でからかう。

「ち、違うっ! 東京の従兄弟が来てるんだよ!」

 梓は思わず声を張り上げてしまった。人目が集まるのを感じ、梓は少し赤面した。
 そういえば、耕一が来てからここではまだ買い物してなかったかも知れない。

「あらら、そんなに否定されちゃその人、可哀相だよなぁ? 梓ちゃんみたいな可愛い子ちゃんに嫌われちゃ、どんな男だって悲しむぜ?」
「だ、だから従兄弟なんだってば!」

 天下の往来を憚ることなく、客寄せの口上で鍛えた豊かな声量を披露する魚屋の店主にさすがの梓も逃げ出したくなった。

「あんまりからかうもんじゃないよ、あんた。ご免ね梓ちゃん。これオマケしとくからさ、お見限りにいしないでね?」
「あ、ありがと」

 梓は、はぁぁとため息をついた。今のやり取りは商店街の旦那衆の間に、野火のように広まるだろう。そして、買い物はまだ始まったばかりなのだ。
 今から行く先々で自分がからかわれ続けるだろうと思うと梓はげんなりした。そしてありがたくない事に、その予想は違わなかった。
 

               §
 

 買い物を終えた梓は荷物を積み込み、自転車に跨る。日差しはまだ強い。日が落ちるまではまだ時間があった。落ち着いて考えてみれば夕飯の準備には少々早すぎた。
 かおりのことやなんかできっと気が急いてたんだ、と梓は思った。

 山からの風が吹き降ろし、前髪が目にかかる。そろそろ切り揃えていい頃合だった。
 梓は自分の髪を摘んで日に透かす。色素の抜けた、焦茶の髪が黄金色に輝いて見える。
 髪を伸ばそうと思ったことはこれまで何度かあった。しかし実際に今以上伸ばしたことはない。
 梓はその理由を自分で知っていたし、突き詰めて意味を考えたこともあった。その上での、これは彼女のスタイルだった。

 ちょっと今日は足を伸ばしてみるかな。
 風に誘われるように、梓は自転車を川原へと向ける。
 そこはずっとずっと前から、梓一番のお気に入りの場所だった。

 梓は自転車を押しながら、緩い勾配の砂利道をのんびりと登っていた。
 そろそろ水門につくかという頃になって、ようやく日は落ちる気配を見せだした。梓は額の汗を拭うと、空を振り仰いだ。夕焼け前に一雨くるかな、と思わせる天高く聳える入道雲。その奇妙に明瞭な雲の段々の一つ一つを眺めていると、梓はいつも少し切ない気分になる。
 それは決して見ることのできない何か、決して行き着くことのできない何処かへの憧憬であることを、梓は遠い子供時代から知っていた。

 梓は広い川原に降りていった。自転車は水門前に止めてある。うーんと伸びをして、体の節々を伸ばし、胸一杯に深呼吸する。ここはいつも空気が澄んでいて、日当たりの良い大地の醸す心和む香りで満ちていた。
 水際の滑らかな岩に腰掛けて、川のせせらぎに耳を澄ますのが梓のお気に入りだった。ここにくるたびに、梓は自分が子供のとき裸足になって水をぱしゃぱしゃと弾いて遊ぶのが好きだった事を思い出した。

 そんな時。

 あれ、耕一だ? 何でこんなところに?

 梓はいつもの岩へと向かう途中、かなり前方に耕一がいるのを見つけた。
 耕一は流れの半ば近くまで入ってしゃがみ込んでいる。まるで石の下に魚や蟹を探している子供のようだった。

「おーい、耕一ぃーー!」

 梓は大声を上げて耕一を呼んだ。その声にびくっと驚いたように耕一は振り返り……
 足元を滑らせたのか、バランスを崩してそのまま川の中に倒れこんだ。
 派手に跳ね上がる水飛沫。
 
 一瞬あっけにとられた後、梓は盛大に笑ってやった。

「あっはははは、何やってんだ耕一。鈍くさい」

 あいつも何やってるんだか。
 梓はけらけらと大笑いした。耕一が落ちた辺りは別段深くもなければ、流れが急でもないところだ。お陰で石は苔むしていて、滑る水草や藻が人の足をとる。よほど気をつけていても滑る時は滑る、そんな場所だ。
 梓は失態を言いつくろう耕一の顔を想像しながらゆっくり歩いていった。
 
「耕一ぃ、どうしたぁ?」

 耕一は子供の時分から泳ぎは達者だった。梓と遊んだときも川遊びを知らない都会者とは思えないほど上手に流れと戯れていた。梓が内心悔しい思いをしたほどだ。
 だから、梓は耕一が姿を見せなくても全く心配しなかった。
 しかし、道程の中ほどまで進んだ頃にもなってまだ耕一は顔を出さなかった。流石に梓も不安を覚えはじめる。のんびり歩いていたとはいえ、まだ一分もたってはいない。しかし普通、すぐにでも顔を出しそうなものだ。
 いつしか梓の足がやや小走りになる。
 

 ――倒れたときに頭でも打ったのか?
 

 この辺りはまだ山に迫る上流で、川辺の岩は大きく硬く、鋭角的だ。川遊びの最中に何時の間にか怪我していたなんてことも珍しくない。そう思うと、梓には辺りの岩がみな尖っているように見えてきた。岩に砕ける水音がにわかに耳に響く。

「耕一?! 返事しろっ!!」

 しかし返事はなかった。
 

 ――耕一ッ!?
 

 ついに梓は全力で駆け出した。悪い足場をものともせず、梓は猛然と川原を駆ける。
 梓は砂利を四方に跳ね飛ばして大地を蹴り、耕一の消えたあたりを目掛けて跳んだ。
 それはそばに人がいれば目を疑うような跳躍だった。10Mを越す距離を梓は一跳びにしていた。

 そのとき。

「……っぷっはぁ! ふぅ〜〜、気持ちいいねぇ!」

 少し離れた岩にしがみつく様にして、ざばっと耕一が水から顔を出した。

 その様子を空中で、呆然と見る梓。
 耕一もきょとんとした顔でこちらを見た。
 長い長い滞空時間の最後の瞬間、梓と耕一は視線を交わしあう。

 そして、また盛大な水飛沫があがった。

 ・
 ・
 ・

 さば。

 ぼたぼたと水を滴らせながら流れに立ち上がる梓を、耕一は目を丸くしたまま見ていた。
 梓、憤怒の形相。
 耕一、放心の態。

 暫し無言で見詰め合う二人。そしてついに耕一が吹き出した。

「はははははははははっ! 水も滴るなんとやらだな梓。あはははははは」
「耕一ぃ、お前が笑うかぁ?」
「ははははははは」
「……笑うな、耕一!」
「あっははははははははわっぷ!!!」

 耕一は梓に、水の中に叩き込まれた。

「ぶわっは、やったな、あはははは」

 耕一はまだ笑いが止まらない。
 また沈めてやるとばかりに梓は耕一の頭を押さえつけた。
 梓の照れ隠しの怒りもそろそろ無理そうだった。

 二人は子供の昔に戻ったように、笑いながら水遊びに興じた。
 
 

―― 目覚め 四 ――
 
 

 縁側から雨だれの音がする。唐突に振り出した夕立は少し前に上がり、雨どいを伝う雫がパタパタと浅く穿たれた敷石をたたく。
 風鈴が風に応えて徽々(きき)と鳴った。
 食卓には既に五人が顔を揃えていた。着衣のまま水泳をした二人と、夕立に降られた楓はもう風呂を貰って着替えていた。梓は手際よく夕餉の仕度を整え、家人を食卓に呼び集める。そして今は食事が始められたばかりといった所だった。

「あら?」

 暑い暑い、と帰ってくるなり普段着に着替えた千鶴は、初音のように軽く髪を束ねてすっきりした様子を見せていた。
 長い髪ってアレンジが出来ていいな、と思ってそれを見ていた梓は、千鶴が一瞬眉根を寄せたのに気付いた。

「梓お姉ちゃん、なにかあったの?」
「さぁ。でもまぁ、ちょっと珍しいかな」

 見ると、初音と耕一も顔を見合わせて何やらひそひそと話し合っている。そしてちらちらと梓の顔を覗き見ていた。
 梓も不審げに皆の顔を見返す。

「…………」

 言葉より態度、の楓の評価を梓は信頼していた。
 その楓の箸も止まっていた。

「え? 何? どうしたの?」

 皆は梓と食卓に並んだ料理とを交互に見、次いでお互いに顔を見合わせる。何か、梓に言いにくいことでもあるかのようだった。
 料理? これがどうかしたのか?
 梓は自分の前にある太刀魚の塩焼きを一口放りこんだ。
 別段変な感じはしないんだけど、と梓は思った。ちょっと味が薄いかな? とも思ったが問題になる程とは思えなかった。

「――梓姉さん、これ辛い」

 そう楓が言う。

「辛い? これが?」

 梓はもう一度食べてみる。辛い? 梓は首をひねった。梓にはやはり薄味過ぎるとさえ思えた。箸を咥えたまま、梓は訳が分らないという様子を体全体で見せていた。

「梓、ちょっと」

 耕一がすっと寄ってきて、梓の額に手を当てた。

「な、なんだよ?」

 身構える梓を、神妙な顔をした耕一が一寸大人しくしてろと制する。
 照れて今にも暴れださんばかりになった梓の顔を耕一はじっと見た。

「なぁ、梓。お前少し熱があるよ。」
「え? 嘘」

 改めてそういわれればそんな気もするかも、と自覚のない梓は思った。
 今も少し顔が火照ってる気がしないでもない。

「嘘じゃない、顔も赤いぞ。悪かったな。昼間のあれのせいか?」

 あのあと、梓と耕一は揃ってずぶ濡れで家に帰った。山からの流れは夏でも思いのほか冷たく、吹き降ろす風が容赦なく体温を奪った。耕一の手前ということもあり、きちんと体と服を乾かさなかったのがいけなかったのだろう。
 思えば、既に帰り道から梓はくしゃみを連発していた。
 
 それこそ鬼の霍乱と言うべきだろう。梓は自分の体の変調をようやく認めた。何となくだるいような気もしなくもなかったが、特に気にしなかったのだ。
 しかし。病気など滅多にしないからとは言え、味覚が狂っている事くらいは気付いてもよさそうなものだ。よりによって今夜でなくともいいのに、と梓は臍をかむ。

「ゴメン。今日の料理、大失敗だ」

 がっかりした梓は肩を落としてみんなに謝る。
 言うほど自己評価してないつもりだったが、料理で失敗するのがこんなに堪えるとは。梓はきまり悪げに姉の顔を覗き見た。

「あ。梓、気にすんなよ。これくらい何てことないぜ?」
「そうよ、梓。これくらいの……」

 千鶴はそこまで言いかけて、何をどう考えたのか、しおしおと語尾を萎ませる。

「ちょっと味整えなおすから。悪いんだけどみんな魚は待ってくれないかな」
「大丈夫、食えるって。でも、いつもの梓の料理がどれだけ凄いかって、ちょっと実感しなおしたよ」

 耕一はそう言うと、勢いよく味の狂った料理を平らげ始めた。楓も同様に食べ始める。梓は不覚にも鼻の奥につんと来るものを感じた。気も少々弱っているようだった。

「で、でもさ、せっかくだからあたしも美味しいの食べてって欲しいよ」
「気にするなって。梓の料理に慣れちまうと、向こうに帰ってから他の食いもん口に出来なくなりそうだ。それにたまにはこういうのも乙なもんだぜ」
「そ、そうですよね?」
「千鶴姉さん……」
「お姉ちゃん……」

 同時に楓と初音が苦笑する。耕一は我関せずとばかりに無言で通す。

「みんなゴメンな……ありがと」

 梓は素直に感謝した。
 思わぬ耕一の思いやりに、姉の身を呈した慰めに、妹たちの心配げな眼差しに。

「そうだな、明日は俺が粥でも作ってやろうか?」

 耕一がそういうと初音と楓も手伝いますと言い出した。
 乗り遅れまいと同じ申し出をして、即決でご遠慮願われた千鶴が拗ねる。そんな千鶴を梓は初めて気の毒に思いながらも、つい口元が緩んでしまう。
 

 ――ほんとにみんなゴメン。みんなホントありがと。
 

 笑いながら、梓はもう一度心の中で呟いた。
 

               §
 

 ――そういえば、今日は初音ちゃんとの花火の約束があるんだったな。
 

 湯上りの火照った体を、耕一は縁側で涼風にさらしていた。夕方に今日一日分の雨を落した空は晴れ渡り、ちかちかと星が瞬いている。
 耕一は浴衣の帯に竹骨和紙張りの団扇を粋に挟み、縁側に投げ出した足には下駄を鼻緒にぶら下げて、去りゆく日本の夏を惜しんでいた。耕一の思いはここ数日を遡り、従姉妹の皆と過ごした心休まる記憶に止まり、反芻していた。
 

 ――判っているさ、黙れよ。今夜までだ。
 

 パタパタと廊下を駆け寄る軽い足音。首だけ後ろに逸らして見遣ると、果たして初音が幾つもの市販の花火のセットを手に立っている。

「お兄ちゃん、花火持ってきたよ! みんなで、やろ?」
「いいね。じゃ、早速みんな呼んでこようか」

 そんな些細なことに息せき切って駆けつけた小柄な従姉妹に、耕一は微笑みを返した。
 

 浴衣を着た千鶴に、耕一は呼吸を忘れた。

 なかなか火のつかない吹き上げ花火をつい覗きこんだ彼女は、案の定と言うべきか、意地悪で気紛れな火柱に驚いた。彼女が悲鳴とともに尻餅をつきかけたとき、耕一は何処か神妙な顔で彼女を抱き止め、優しく助け起こした。
 大仰かつ慇懃に、かつ悪戯っぽく紳士の礼を取って見せる耕一。そして、それに応える千鶴の微笑みに、耕一の呼吸は再び止まった。
 

 初音は珍しいくらいはしゃいでいた。

 なんにでも驚き、笑い、怖がり、この場の全てを楽しもうとしていた。線香花火がその火を散らすとき、彼女の表情はまるで泣き出すのではないかというくらいに寂しげだった。そんな時耕一は、黙ってその手に次の花火を手渡した。新しく生まれた輝きが、彼女の瞳を再び輝かせるように。
 

 風情。物静かな楓に耕一はそんな言葉を思う。

 しかし、光の加減なのだろうか。その表情はいつになく豊かで、澄んだ瞳に映える光は万華鏡のように、その揺らめく影は走馬灯のように、耕一の心を強く惹きつけ、そして揺さぶった。黙して蝋燭を手渡す彼女から、耕一はその小さな炎からではない微かな光と熱を受け取ったように思った。
 

 憎まれ口をきいてみても、梓の浴衣姿が実に様になっているのを耕一は認めないわけにはいかない。

 何時ものように率先して自分が楽しむのでなく、楓や初音、時には耕一や千鶴が楽しんでいるところに興を添えるという風だった。普段の肩肘を張った梓には感じたことのないしなやかさ。皆に花火を手渡し、煙から妹達を助け出す出す梓に、耕一は何故か死んだ母を重ねて見た。
 風邪の熱に浮かされた、それは一夜の夢だったのかもしれない。
 

 やがて、いろとりどりの光に照らし出されていた柏木家の庭にも夜の闇が戻り、楽しげな笑い声も厳かな静寂に取ってかわられた。
 いつか訪れる終わりのとき。
 楽しい事も悲しい事も区別無く常に全てに、時は始まりと終わりを用意する。

 耕一のそして柏木家の夏が終わろうとしていた。
 
 

―― 目覚め 五 ――
 
 

 静かな夜だった。
 耕一は布団に仰向けに寝て、高い天井を見つめていた。
 低く静かに扇風機が唸っている。庭からる心地よい虫の音が聞こえる。時折響く、廊下に掛かった風鈴の涼やかで控えめな音。その全てが耕一のお気に入りだった。
 全てが寝静まっている。
 耕一もただ静かに体を横たえていた。

 誰かが廊下を静かに歩いてくる気配に耕一は気付く。

 千鶴さん、か。
 今夜、話があるといっていた。
 耕一は頭の中で予定を後倒しにし、深夜の訪問者を待った。
 

「耕一さん。起きていらっしゃいますか」
「どうぞ」

 耕一が寝ていれば気付かなかったかもしれない、小さな潜めた声だった。
 返事に応じて障子戸がすうっと滑ると、冴え冴えとした月明かりと微かな外気、そして一層の虫の音が流れ込んでくる。
 千鶴がそこに正座していた。いつもと変わらぬ千鶴の所作に、耕一は改めて古めかしさと堅苦しさを感じた。
 部屋へ進み出ると千鶴は戸を閉じ、耕一の前に腰をおろす。

「すみません、こんな遅くに……」
「いいよ。俺も千鶴さんに話がなくもないから」

 耕一も布団の上に起き上がり、胡座をかいた。
 部屋に明かりは点されていない。今は障子越しの鈍い月明かりが全てだった。
 満月は過ぎていたが、闇になれた目にはそれでも十分に明るい。
 蒼みをおびた光の下、障子の隙間からの微風(そよかぜ)に一条二条、千鶴の髪が金糸のように煌いた。綺麗だな、と耕一は素直に感じた。しかしその感想はどこか人事、どこか虚ろで、何ら感情を孕まないものだった。
 

「耕一さん」

 千鶴は居住まいを正し、耕一の前に端座した。その表情は厳しい。
 耕一は既に、千鶴が切り出そうとしている内容に見当がついていた。

「はい」
「私は、あなたに謝らなければなりません。もうお分かりでしょうが……私は……」
 

 千鶴は耕一を殺しかけたことに苦しんでいた。耕一が鬼に憑かれているかどうか十分な確認もとらず、葬り去ろうとした自分自身を今でも恐怖し、恥じていた。
 

 ――それでも。
 

 彼女の心にはひとつの希望がある。耕一ならきっと自分を許してくれる、という希望。耕一が、自分への愛の故に、その罪を許してくれるだろうという希望が。
 そして、耕一もそれを知っている。彼女の内にある葛藤を耕一は痛いほど理解できた。
 

「……あなたの言葉を信じようともせず、本当に殺してしまうところだった……」

 千鶴は声を詰まらせながら耕一に謝罪を続けた。彼女らしい、整然とした秩序だった謝罪だった。そういう体裁を整えなければ、彼女は最後まで言葉を紡ぐことができなかったに違いない。全てを語り終えた千鶴は、項垂(うなだ)れて審判を待った。耕一は、掠れた声でゆっくりとその言葉を千鶴へと送り出す。

「千鶴さん。千鶴さんのせいじゃないんだ。千鶴さんが悪いんじゃない」

 そう言う耕一の顔が苦渋に満ちているのに千鶴は気づかなかった。
 なぜなら耕一の声はとても優しかったから。

「悪いのは鬼の血だ。呪われた、この血がすべて悪いんだ。だから、千鶴さんは悪くない……」

 耕一がやり場のない怒りを噛み殺しているのに、千鶴は気づけなかった。
 なぜなら耕一は心の中でだけ叫んでいたから。

「千鶴さんは悪くないよ。だからもう、泣き止んで」
「耕一さん……ありがとう」

 千鶴は耕一に体を預け、ひとしきり泣いた。耕一はその間ずっと、子供をあやす母親のように優しく彼女の髪を撫でて続けていた。
 

「耕一さん。耕一さんもお話があると仰ってましたが」

 耕一は壁に背中を預け、千鶴の肩を抱き寄せていた。千鶴の口調からは先ほどまでの硬さが消え、表情には柔らかさが戻ってきていた。

「ねぇ、千鶴さん。千鶴さんは俺のこと好きかい?」

 耕一はぼんやりと天井を見あげながら言った。それは唐突な物言いだった。
 不意をつかれてうろたえた千鶴は、耕一の目が虚ろであることにも、その声が乾いていることにも気づかず、頬を染めて俯いた。

「も、もう、いきなりなんですから……」

 耕一は続ける。

「俺は、千鶴さんの事好きだよ」
「……わたしも、その……」
「みんなのことだって、本当に好きだ。……この上なく大事だ」

 言いかけた千鶴はさらに赤面して口をつぐむ。
 一方的な告白を口に出しかけた千鶴は恥じ入り、小さくなっていた。

「みんな、俺のこと本当はどう思ってくれてたのかな……」
「……耕一さん?」

 千鶴はようやく耕一の様子に気づいた。その内の虚無を感じて、千鶴は不安な声を出した。その言葉に、なぜか千鶴は背筋に走る物を覚えた。

 耕一の目にはもう千鶴は映っていなかった。
 耕一の耳には何も届いていなかった。
 
 ぼんやりと天井を見上げ、耕一は機械的とも言える動作で千鶴の髪を指で梳き続けた。

「俺、明日東京に帰ったら、もう二度とこっちには来ないよ」
「耕一さん?!」

 千鶴は耕一の腕の中で耕一と真正面に向き直った。
 互いの息遣いが、互いの温もりが、そして互いの鼓動が感じられる距離で千鶴は耕一を見上げた。耕一は千鶴を見返す。その目には余りに万感が篭り過ぎ、かえって千鶴には冷たく無機質に見えた。

「どうしてそんな事いうんです、耕一さん?! どうして?!」

 必死の形相で食ってかかる千鶴を耕一は優しく押しやる。
 その腕にはしかし断固とした力がこもっていた。

「ごめん。もう、俺に話せることはないよ……ごめん。さよなら、千鶴さん」
 
 

―― 目覚め 七 ――
 
 

 朝一番に目が覚めた初音は不思議な違和感を覚えた。
 すぐにその理由に思い至る。居間に明かりがない。
 梓がまだ起きていないのだ。少し風邪をひいた梓は、耕一に言われた通りゆっくり寝ているようだった。

 だとすると朝ご飯の準備、今からだと厳しいよ!
 初音は急いで居間に入った。
 そこには既に朝食の準備が整えられた食卓があった。初音は驚く。
 

 ――楓お姉ちゃん? それとも梓お姉ちゃんが準備してから…って事はないよね。昨日あの後すぐに寝てたし。じゃぁ、楓お姉ちゃんか。
 

 しかし、居間には誰もいない。

 食事は和食の典型といった様子で、焼き魚に焼き海苔、お新香といったものだ。見るとガス台の上にはまだ湯気をあげるお粥が準備されていた。

 その光景に何処か違和感を覚えていた初音は、その正体に気付いて苦笑した。食卓には四人分しか用意されていなかった。
 まだ体調の完全でない梓がうっかりしたのだろうか?
 まだ違和感が残る初音はもう一度食卓を見て眉を顰めた。無いのは耕一の食器だった。梓でも、楓でも自分の分を忘れても耕一の分は忘れない。そのとき初音は昨日耕一の言っていた言葉を思い出した。

『明日、俺が粥でも作ってやろうか?』

 初音は胸騒ぎを覚えて耕一のいる客間へと向かった。
 布団が綺麗にたたまれ、シーツや枕カバーが外されていた。
 がらんとした部屋には耕一の姿も、耕一の荷物も無かった。

「……お兄ちゃん? 何処、行っちゃったの……?」

 初音は一人で立ち尽くしていた。
 
 
 

目覚め 前編

虚無

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