―― 目覚め 壱 ――
 
 

 白い。
 目に映るもの全て、何もかもが真っ白だった。
 何一つ影を落とさぬ、ただひたすらに輝かしい世界。
 あまりの眩さに目がくらむ。
 

 ――これも、夢か? また別の夢なのか?
 

「……さん」

 どこかおっとりとした優しい声がする。
 夢から現へ、そっと手を引いてくれるような優しい声だ。

「……耕一さん」

 体が優しく揺すぶられている。
 千鶴が耕一を起こしに来ていた。

「耕一さん、起きてください」

 自分の体を揺すっている千鶴の、布団ごしの手の感触が耕一にはなんとも心地よい。
 その心地よさに口の端を緩ませながら、耕一はそっと薄目をあけた。
 障子の隙間から差し込んだ朝日が、真っ直ぐに耕一の顔の上に落ちていた。
 なるほど、眩しいはずだ。

「おはようございます耕一さん。よく眠れましたか?」

 千鶴が柔らかく微笑む。耕一はボーっとしたまま、そんな千鶴を見上げた。
 半分だけ起きた頭で、正しくは半分以上寝た頭で、このまま眺めているのもいいよなぁ、などと耕一は考えた。
 そんな寝ぼけ眼とはいえ、耕一にじっと見つめられた千鶴は困ったように目を泳がせた。

「あ、あの、私の顔に何かついてます?」
「うん。綺麗なのが色々とね」
「えっ? えっ?」

 耕一は困惑する千鶴の顔を遠慮なく鑑賞し続けた。
 さらに困った表情になり、少しずつ顔を朱に染めて、俯いてゆく千鶴。

「あ、あの、もうそろそろ起きません?」
「う〜ん、もうちょっとだけ。何でか、すっごく眠くて」

 耕一はそんな事を言いながら、身を捩らんばかりにしている千鶴を眺め続けた。

「てめェが、夜更かしするからだろがぁ〜〜!! いい加減起きろ、起きやがれ、起きねぇかぁ耕一ぃ!!」

 ぴしゃんと障子が開け放たれ、憤激に髪を逆立てた梓がずかずかと踏み込んできた。
 どかんと下から衝撃が走り、耕一は地面が転覆する馴染みのない感覚を味わった。
 耕一は簀巻きのように布団に包まって、ごろごろと部屋の隅まで転がっていく。
 どうやら梓が敷布団ごと蹴飛ばしたらしい。ただでさえ寝ぼけていたところに目を回す羽目になった耕一は、くたっと首を垂れた。

「う……ぎゅう」
「あ、梓っ! あなた、なんて起し方するのっ! それになんて口の利き方っ!」
「やかましいっ! 千鶴姉も千鶴姉だっ! 耕一一人起すのにいつまで時間かけてるんだっ! 今日はただでさえ時間が押してるってのに! 見てみろ、もう8時を回ってるんだぞ!」
「あ、あら、いつのまに……」

 まだ8時じゃないか、もう少し寝かせろよ、とは耕一も流石に言えない。寝起きの鈍った判断能力とはいえ、そんなこと言おうものならどうなるかくらいは解っていた。考えるまでもなく。

「ハイハイ、起きますよ」

 逆回りにごろごろと回転して布団をほぐし、ふわぁと体を伸ばす。耕一は寝乱れた浴衣の胸元に手を入れてぼりぼりと掻くと、あらよとばかりに立ちあがった。
 梓が「まったくこのぐーたらが」と呟くのが耳に入ったが、耕一はあえて無視した。

「体のほう、何ともないですか?」

 心配そうに耕一を見上げて、千鶴が聞いてくる。
 先ほど蹴り飛ばされた時の衝撃を思い出して、耕一は自分の脇腹を押さえた。
 
「別にどうもないけど? ただ、少し腹が減ったかな」
「ふん、朝食はもう冷めちゃってるよ」

 梓が吐き捨てるように言う。どうも朝からご機嫌斜めのご様子だった。

「悪かったなぁ。でもま、梓の料理は冷めても充分食えるよ」
「そりゃまたどうも! でもどうせなら熱いうちに食ってもらいたいね!」

 耕一のお世辞の効果はあまりなかったようだ。
 梓は両手を腰だめに耕一を一睨みすると、どすどすと足音高く去っていった。

「あいつ、何をあんなに怒ってるんだ?」
「ちょうど今さっき、犯人が捉まったという報道があったばかりなんです。例の事件の。それで梓、まだ気が立ってるんです」

 千鶴の声と顔は真剣だった。
 耕一も改まって千鶴の顔を見返す。

「犯人? 捕まったって!?」
「ええ」
「それって……」
「ええ、恐らく別人です。冤罪ということになってしまいますね」

 耕一はまた胡座をかいて座り込んだ。次第に明瞭になる意識とともに、記憶もはっきりしてくる。
 冤罪。確かに千鶴の言うとおりだった。
 真犯人を殺したのは、他ならぬ耕一自身だった。

「――でも、俺達にはどうすることも出来ないんだね?」
「はい。今後犯行は行われませんし、その人はまともに自分の意思を告げることが出来ないそうなんです。自首、というか出頭して来たらしいんですが」
「自首? 意思を告げることが出来ない?」
「はい。麻薬中毒で、判断能力が無いと聞きました。ふらふらと警察に現れて、ものも言わなかったそうです。警官が家まで送って行ったところ、そこで行方不明の女性達が発見されたそうです」
「…………」

 耕一はそれ以上聞かなかった。聞かずとも、事の真相を知っているのだ。その捕まった男が犯人でない事も、決して発表されることのない、被害者達の受けた虐待の事も。

 ここ一週間の出来事。夢かと紛うばかりの幸福、そして夢と信じたい非現実。
 昨晩の、千鶴との甘やかな一時、そしてその口から語られた父の遺言。
 恐るべき鬼との邂逅。次いで自らの中の鬼との再会と目覚め。自ら鬼と化しての、敵との戦いとその死。

 そう、鬼は死んだ。
 全ては終わった。
 終わった、筈だった――
 

『目覚めよ、八代目』
 

 しかし、耕一は全てを思い出した。
 全てが終わったと思えた後の、更なる悪夢。
 夢であってくれと願った悪夢。
 内なる声が語った、これまでとは比較にならぬ悪夢を。
 

『目覚めよ、八代目』
 

 しかし、それは目が覚めても終わらない”現実”だった。
 

               §
 

「どうかしましたか耕一さん? 顔色が優れませんが」

 千鶴が頭を押さえた耕一の肩に手を置き、心配そうにその目を覗き込む。
 その接触はとても優しく、どこまでも暖かい気遣いに満ちていた。

 顔を上げた耕一の口から、大きな欠伸がもれる。

「ふわぁぁあ……そう? まだ眠いし、やっぱり少しは疲れてるのかな? でも大丈夫だよ千鶴さん」

 そう言う耕一の声はのどかで、眼差しは柔らかい。
 涙の滲んだ目元を眠そうに擦りながら、耕一はのんびりと言葉を継いだ。

「でも、そうだったのか。俺が寝てる間に、いろいろと変化があったんだね」
「ええ、耕一さんが平和に寝てらっしゃる間にね」

 その言葉に耕一はあははと笑った。
 心地よい朝、申し分のない日和。
 耕一が待ち望んだ穏やかな日常は、確かにそこに広がっていた。

「そろそろ行かないと、また梓が怒鳴り込んでくるなぁ」

 耕一は寝癖のついた頭を掻くと、再びよっこいせと立ち上がる。
 そんな様子を微笑ましげに見ていた千鶴が、ふと逡巡するような様子を見せた。
 そして、少し緊張した様子で耕一を見上げ、呼びかける。

「耕一さん」

 千鶴は居住まいを正し、耕一の前に端座する。
 耕一はぼんやりした寝ぼけ顔のまま千鶴を見た。

「はい? なに?」
「……あの、今夜、少しだけお時間をいただけますか?」
「うん、別にいいけど。でも今じゃダメなの?」
「ええと、今はちょっと……」
「ふうん、わかった今夜だね。さぁ、ほんとに朝食にしようよ。また梓に怒られるよ」
「あ、私はもう」
「またダイエット?まさか、もしかして昨日のこと気にしてる?」
「え、あ、いえ、そんな事は……も、もう笑わないでください」

 慌てて千鶴は否定する。
 そんな様子を耕一は可笑しそうにみていたが、ついには吹き出した。笑いの発作は止まらず、しまいには耕一は腹を抱えて床を転がった。

「耕一さん!!」

 千鶴がすねる。笑いすぎて涙を流しながら、耕一は唐突に千鶴を抱きすくめた。

「きゃっ……あ、あの耕一さん?」
「あはははは、ごめんごめん……なんでかな、はは、止まらなくってさ。もう少しだけ待ってよ」
「もう、耕一さん本当に意地が悪いです」
「あははは、ほんとにごめん。もうすこしだけ。ほんの、少しだけ」

 千鶴は耕一の肩にあごをのせた。
 耕一の体はまだ小刻みに震えている。まだ、笑いがやまないようだった。
 
 

―― 目覚め 弐 ――
 
 

 もう、朝?

 楓は寝返りを打って朝日を避けた。
 昨晩、千鶴から耕一の覚醒について語られた楓は喜びのあまり遅くまで寝つけなかった。
 元々朝の強い方でない彼女にとって、その分のしわ寄せが来ている今朝はいつも以上に寝覚めが悪い。

 もう後5分だけ。そう自分に言い訳して、楓は夢の世界へ通じる薄い掛け布団にもぞもぞと潜りこんだ。
 もう起きなければならない時間だった。
 それでも駄々をこねて誰かに甘えているような、ささやかなこの時間は楓のお気に入りだった。
 

 そう言えば、最近『あの夢』を見ない気がする。
 心地よくまどろみながら楓は考えた。
 どうしてだろう。耕一がそばにいるからだろうか。
 しかし、だったらむしろ頻繁に見るようになりそうなものだとも思う。

 もし『あの夢』を見なくなったら、どうなるのだろう。
 ふと浮かんだその考えに楓はぞっとした。冷水を浴びせられたように意識がはっきりする。長く忘れていた夢と言う言葉の意味を、今改めて思い出したような気分だった。
 楓は初めて自分と耕一を結びつける絆を頼りなく思った。
 

 ――そんなのは、嫌!
 

 楓はがば、と跳ね起きようとした。
 が、しかし果たせずそのままばったりと仰向けに倒れこむ。目の前をちらちらと星が飛ぶ。楓はどうにも朝が苦手だった。

 しばらく仰向けにじっとしていた楓はごろんと身を転がして枕に抱きついた。
 もう夢は必要ないのかもしれない、と楓は思いなおした。
 今、現実の耕一が楓のそばにいる。
 そして、これから耕一はずっとそばにいてくれるのだ。楓はずっと耕一のそばにいることができるのだ。

 そしていつかきっと、耕一は気づいてくれる。
 楓の思いと、耕一自身の中にある思いに。
 
 楓は幸せそうに枕にほお擦りした。
 

 朝食の食卓には既に全員がそろっていた。耕一ですら先にきていて、一番のお寝坊が自分だということに楓は気付いた。

「おはよう。今日はゆっくりだね楓ちゃん」
「……おはようございます」

 その言葉に赤面して俯いた楓は、目の前で食卓を囲む耕一を上目遣いにちらちらと見上げた。
 初音ご飯をよそってもらいながら、新聞とTVを交互に見る耕一。
 千鶴がお行儀が悪いですよと柔らかくたしなめると、それくらいいいじゃないかといいながらもさりげなく食事に集中しだす耕一。
 それは、ずっと楓が待ち望んできた朝の一コマだった。
 

               §
 

「千鶴姉! どこ見て食ってんだ!」
「え、あ? はい?」

 梓の声が響き、千鶴がはっとして、左右を見回しておろおろする。その様子からすると、千鶴は何が起きたかまだ把握していないようだった。
 先程からずっと心ここに在らずと言った様子だった千鶴は、テーブルが薄味だとでも思ったのか、熱心に醤油を垂らしてした。

「え? ……ああっ! 誰か、ティッシュかタオル〜」
「わ、私タオル取ってくる!!」

 すぐに初音が駆け出して行った。
 垂れたお醤油がスーツを汚したことにやっと気づいて、千鶴は泣きそうな顔をしていた。
 そのスーツが彼女のお気に入りの一つであることを知っていた楓は少し同情する。

「あ・ん・た・は……一体何歳だあ〜! 赤ん坊じゃないんだぞ? だいたいでっかい赤ん坊ならもう間に合ってるんだ!」

 梓の怒鳴り声に、千鶴は小さくなった。
 それと同時に、耕一が耳をぴくつかせる。

「聞き捨てならないな。そりゃどういう意味だよ、梓」
「あれ、赤ん坊の割に言葉が達者なんだね。わからないと思ったんだけど」
「頭と性格がが悪いのは知ってたが、目まで悪かったとはな。俺のどこが赤ん坊だ?」
「あたしの何が悪いって? え?」
「おいおい、耳も悪いのか?」
「なんだと! もう一度言ってみろ!」
「ああ、あまつさえ口まで悪いとはな。鼻は大丈夫か? そこも駄目なら顔面全滅だぞ、お前も女なら顔は大事にしとけよ」
「耕一ぃ……いい度胸だなぁ〜〜」

 楓は内心で吹き出す。お馴染みのこんな家族漫才を、楓は嫌いではない。最近は、時々自分がその輪に加われないのを残念に思うくらいになっていた。
 

 ――梓姉さん、耕一さんをいつも引き合いに出すのよね。その度にこうなるの解ってるのに。
 

 初音が困ったような顔をしてみている。ほっとけば勝手に収まるのに、と楓はいつも思うのだが、同時に初音がそれをできない性分なのだということも判っていた。
 そして結局、楓もそんな初音を立派だと思っているのだった。
 

               §
 

 いつ収拾をつければいいのかしら?
 台布巾と塵紙でテーブルとスカートの惨状に対処しながら千鶴は思った。
 もしかしてこれ、耕一さんが梓の矛先を逸らしてくれたのかしら?

 いずれにしても。
 二人でじゃれて遊んでるのを邪魔しちゃ悪いかな、と千鶴は微笑む。
 千鶴は一見昨日と何も変わらない今朝の食卓を、ホッとした気持ちで見ていた。

 ここ数日の、千鶴たちの内に秘められた緊張はもう跡形もなかった。
 耕一を冷静に観察することに自己嫌悪することもない。
 鬼への不安に苛まされつづけることも、もうない。
 自分の責任におびえる日々は、もう終わったのだ。

 全てが終わったわけではないが、最も大きな山は越えたと千鶴は思っていた。
 そう、今朝の今朝、今の今までは。

 今、千鶴の胸には新しい緊張が生まれていた。
 耕一に懺悔することを決意した千鶴はその山の急峻さに今始めて気が付いたのだ。
 

『耕一さんならきっと許してくれる』
 

 そんな自分の中の甘えを千鶴は意識した。全てが丸く収まるように信じられた昨日の夜。
 自分がしたことの重さも一時忘れてしまったほどの、確信じみた耕一への甘え。
 

『耕一さんなら』
 

 しかしいざ懺悔することを決心してみると、千鶴の確信は揺らぎだしていた。
 闇雲に耕一を求めて駄々をこねる千鶴と、理性と常識から自らの罪を問う千鶴がいた。

 千鶴はへの字に口を結んで額に手を当てる。しばしば注意散漫になるのは自分の悪い癖だと千鶴は知っていた。どうも余計なことを考えすぎ、気にしすぎるのだ。
 今の失敗を振り返って千鶴は情けない気持ちになった。どれくらい呆けていたのだろうか。その間どんな顔してたのだろうか。それを、耕一に見られたのだろうか? 変な所を見せて、余計な心配かけてやしないだろうか?
 そのときふと千鶴は気づいた。図らずも『今までどおりの振る舞い』を自分はやっていたらしい。これも長年の習慣の賜物だろうか?
 だからといって、全然喜べないけど。
 千鶴は少々ふて腐れたように頬を膨らませながら、スカートの染みと格闘していた。
 
 

「千鶴姉さん、それ早く着替えたほうがいいんじゃない?」

 楓が千鶴のスーツの染みを見ながら言う。
 こんなときあんまり擦るものじゃないと、どこかで聞いたような気がする。
 楓はそう思ったが、なにぶん曖昧な記憶だったから、特に口には出さない。

「あ、そ、そうね。楓、悪いんだけど着替え手伝ってもらえない?」
「うん、解った」
「お、お姉ちゃん達……この状況を残して行っちゃうの?」

 ちょうどタオルを持って戻ってきた初音がおろおろしながら言った。
 耕一と梓の睨み合いは正に火花が散らんばかりだ。
 所在なげに立ち尽くす初音が哀れがましい視線を姉二人に投げかける。
 ちらりと状況に目をやった千鶴は初音に莞爾(にっこり)と微笑んだ。

「ゴメン。後は任せたわ、初音」
「じゃあ」
「そ、そんなぁ〜〜」

 そんな初音の嘆きは、誰にも顧みられることがなかった。
 

               §
 

 耕一と梓の戦場にはただ一人初音だけが残されていた。
 初音は薄情な姉二人が逃げ出した後を恨めしげに見、ふぅと諦めのため息をついた。
 そうする間にも二人は喧嘩する猫みたいにふーふー威嚇し合っている。

「あ、あの二人とも……ご飯冷めちゃうよ?」

 取り合えず、といった具合に初音は口を挟んでみる。
 初音自身効果に期待した発言ではなかったのだが。

「――あ、それもそうだな。ありがと初音ちゃん」

 しかし耕一は事も無げにそう言って梓との戦いを一方的に打ち切ると、また食事を再開した。
 今までの勢いは何処へやら、である。
 発言した初音自身、意外と感じた反応だったし、取り残された梓もぽかんとしていた。

「食わないのか梓? コレうまいぞ」
「そ、そりゃ、あたしが作ったんだっ!」

 梓は耕一の態度に困惑していた。初音も同様に困惑していた。
 そして成り行きを見守りつつ言葉を選ぶ。

「そうだよね、今日のお味噌汁おいしいよね」
「今日の? 初音、それどういう意味?」

 矛先が自分に向けられたのを感じて、初音は慌てた。
 振り上げた手の下ろし先を求めて、梓は理不尽な八つ辺りを始めていた。

「うんうん、他はともかく舌だけは抜群だな」
「なにをう! 耕一、まだ言うか!」
「まぁそう怒るな梓、俺は誉めてやったんだぞ」
「他はともかくってのは何だ!」

 また振り出しに戻ってしまったのを初音は見て取った。
 楓にすれば無用な、千鶴にすればわざわざ、といいそうだが、あえてそれを決行するのが初音だ。無理やりでも話を変えるべく、初音は口を開いた。
 その結果、矛先が自分に向こうとも。

「そ、そう言えばさ」
「なに? 初音ちゃん」

 耕一が間髪いれず反応する。もちろん話の中身は、何も考えていない。

「……ええと」

 宙を泳いでいた初音の目がぱっと輝く。

「うん、昨日ね、なんだか不思議な夢を見たんだよ」
「夢? どんな?」

 梓も――どこか不穏な感じを漂わせつつ――乗ってきた。
 初音はそんな嫌なプレッシャーを感じつつもどうにか話を始める。

「なんだか悲しい夢だったんだ。声が聞こえてね、”さようなら私のお友達”っていったんだよ。私そのときずーっとずーっと前からのお友達がいなくなたみたいな気がほんとにしたんだ」
「ふぅん。それで?」
「う……それだけなんだけど」

 お姉ちゃんたち、早く戻ってきて。
 全く目の笑っていない梓を前に、初音は内心でそう叫んでいた。
 

               §
 

 楓は千鶴の部屋の落ち着いた造りを見回した。何となく楓には千鶴の部屋を訪れるのが久しぶりに思えた。以前はもう少し頻繁に姉を訪ねていたように思う。
 最近あまり足が向かないのは何故だろうか、と楓は考えた。

「楓、ちょっとこれ上げてくれない?」

 自分の尻尾にじゃれる子犬みたいにくるくる回りながら、千鶴は背中のジッパーを指さしていた。

 どうも体が固いのではないだろうか?忙しくて運動不足なのかも知れない、と自分の事は棚に上げて楓は考えた。姉に服を着せながら、楓は昨夜交わした会話を思い出していた。
 

『耕一さんね……目覚めたのよ』

 その千鶴の言葉は、すぐには楓の胸に落ちなかった。
 耕一が”鬼に”目覚めた。
 その理解とともに楓の心に不安が広がった。目覚めた鬼を抑えられるのか、そうでないのか。その違いが意味するものには天と地の差があった。

『耕一さんは完全に鬼を押さえ込んでいるわ。もう大丈夫よ。今までずっと辛かったわね、楓。……もう我慢しなくてもいいのよ』
 

 ――鬼を押さえ込んでいる……もう我慢しなくて、いい?
 

 ようやく、楓の頭がその意味を理解する。
 どうしてこんなにも混乱しているのか、楓は分からなかった。
 何から考えればいいのか、見当もつかなかった。
 めったにないことだが、楓は実際なに一つ考えることができなかった。
 心の底から歓喜が湧き上がるのを止められない。
 それでも、もうちょっと嬉しそうにしてもいいのよと千鶴に言われるまで、楓は感情を表に出さないよう押さえてしまっていた。そんなことが習い性になってしまっていたのかもしれない。
 しかし、もうそれも必要なくなったのだ!

 そして、ひとしきり喜んだ楓に千鶴は悲しげな表情で切り出した。
 市中を騒がせた鬼と対峙した事。それを耕一の鬼が滅ぼした事。
 そして、千鶴が耕一を殺すつもりでいたことを。
 

「――楓? どう?」

 楓は千鶴の声ではっと現実に戻った。

「あ、うん」
「ありがと。こんなものでいいと思う?」

 千鶴は替えのスーツを軽く持ち上げ、不安そうに楓にお伺いを立てた。
 悪くないと思う、と楓は言った。実際、姉は何を着ても似合う。
 これは楓の偽らざる本音であり、密かな誇りだった。
 千鶴もそんな楓の内心を感じたのか、ありがとうと言って微笑んだ。
 そんな千鶴の表情がすっと僅かに翳るのを見て、楓は姉が抱えている問題に思いを馳せた。
 そして、千鶴は少し潜めた声で切り出した。

「私ね。今夜耕一さんに謝ろうと思うの……でも、許してもらえないでしょうね」

 千鶴の声は硬かった。
 楓は思う。
 

 ――千鶴姉さんは許して欲しいと思っている。
 

 そしてまた、楓はこうも思う。
 

 ――でも、許されてはいけないとも思っている。
 

 自分の感情を義務で縛り付け、押し殺してきた千鶴が、素直に感情に従うということに臆病になっている事を楓は知っていた。そして、それが自分にも完全に当てはまることも。

「姉さん、もう終わったの。これ以上義務に縛られることはないと思う。姉さんも、もっと耕一さんに甘えていいと思うの」
「あ、甘えるって……」
「それから、もうお互いに解禁しましょう」
「……楓?」
「千鶴姉さん、私に遠慮してるでしょう? 私もそう。でも、もう余計なことに縛られるのやめようよ。恨みっこなしで、ね?」
「楓……ありがとう……ご免ね」

 楓は千鶴の最後の呟きの意味を知らず、涙ぐむ姉を抱きしめた。
 

               §
 

「なぁんだってぇぇぇ〜〜!!」

 梓の怒鳴り声が廊下まで響いてきた。
 千鶴の着替えを終え、食卓へと取って返そうとしていた楓は千鶴と顔を見合わせた。
 正直二人は食卓の騒動のことなど殆ど忘れていた。それが、まだ続いていたとは。
 初音の制止が効かないってことは滅多にないのだけれど、と二人は考えながら居間を覗き込む。

「まだやってるの、あなた達?」

 千鶴は部屋に入りながら言うと、テレビに噛み付かんばかりの梓が怒鳴り返した。

「違うよっ! あの犯人が、逃げたんだ!」
「えっ?!」

 皆がテレビの周りに集まる。そのニュース番組は阿部貴之の逃走を淡々と告げていた。
 梓はテレビのチャンネルを目まぐるしく切り替え、新聞を引っ掻き回したあと、凄い勢いで駆け出していった。何一つ持たず、完全な手ぶらで。

 病院に見舞いに行くようなことを言っていたな、と楓は考えた。恐らく学校に行く気は初めからなかったのだろう。
 あの連続殺人事件に巻き込まれたのが自分の友達だったら、私も学校どころではないと思うだろうか? そう楓は自問する。
 自分には梓ほどの侠気がないと以前から結論していた楓は、考えるより先に飛び出していく姉を尊敬していた。

「え、えっと梓、遅くならないように……ね……」

 鉄砲玉のように家を駆け出していく梓に、千鶴がちょっと間の抜けた見送りの言葉をかけた。その言葉の後半部分は全く届かなかった。もっとも聞こえても、意にも介されなかっただろう。

 ふと楓が目をやると、耕一がちょっと考え込むような表情を見せていた。テレビから流れるニュースはすでに別の事件をやはり淡々と報じていた。
 楓の視線に気付いた耕一は、問いかけるような微笑を向けた。なぜか照れて俯いてしまった楓は、耕一の表情に潜む陰に気付かなかった。
 
 
 

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目覚め 後編

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