―― 序 ――
 
 

 ただ落ちてゆく。
 ひたすら静かに、何処までも果てしなく。

 自分の体がひどく、あまりにもひどくゆっくりと沈んでゆくように柳川は感じた。包みこむように纏わっていた気泡も水面へと消え、鮮明になった世界は心地よい静謐に満ちていた。
 波立った水面が、平静を取戻して行く。
 千切れては形を取り戻す、ゆらゆらと揺れる月が水面(みなも)を、柳川は穏やかな心持ちで見上げていた。死に瀕した柳川の目には、その定かならざる月は例えようもなく美しく映った。

 やがて、柳川の体から立ち上る血潮がたなびく雲のようにそれを覆い隠してゆく。
 弱々しい鼓動と共に、満身創痍の体は激しく痛んでいた。その痛みも今はどこか遠くから響き来るように感じる。
 先ほどまで荒れ狂っていたのがまるで嘘のように、柳川の心はこの上ない安寧に包まれていた。
 心と体にじんわりと広がって行く優しげな倦怠感に彼はそっと身を任せた。
 

 ――ああ、やっと眠れる。
 

 そして、意識もまた深い闇へと沈んでいく。
 

 ――やっと、俺もお前のもとにいける……
 

               §
 

 ここ隆山を貫く雨月山からの流れは、一度貯水池によって堰きとめられ、古くから治水の進んだ肥沃な農業地帯へと流れ下る。
 町の人々は豊作を祈願して水神を祭る一方、山神への信仰も今だ根強く残していた。室町の昔から、この地には鬼神の伝説が伝わっている。
 鬼は時に人を襲い田を荒らすが、時には堤を作り橋を架け、人々の暮らしを豊かにもする。ここは、そんな素朴な民間伝承がいまだ伝わる穏やかな田舎町だった。
 

 貯水池の堰に据えつけられた古びた水門。流れる水が低く轟くほかは、辺りはしんと静まり返っている。
 月明かりの下、人に在らざる異形の影を地に落していた耕一は、注意深く目と心を残しながら、辺りを圧する鬼気を緩めた。巨大な体のあちこちがひび割れ、その隙間からうっすらと湯気が立ちのぼる。ぼろぼろと剥がれ落ちる老廃物の下から全裸の耕一の姿が現れた。
 はちきれたシャツの切れ端を腰に巻きつけ一応の体裁を整えると、耕一は倒れた千鶴のもとへと駆け寄った。

「倒した、のですか?」

 千鶴はおぼつかない足取りながらもなんとか身を起こし、耕一を迎えた。
 吐息も細く、顔に黒髪が落ちかかる様は、平素の彼女からは考えられぬほどに頼りなげでそして何処か艶かしかった。

「……多分」

 耕一は短く応える。まだその表情は厳しく、息は荒かった。
 湖面に広がってゆく、いくつもの重なり合う波紋。
 耕一と千鶴は暫くの間無言でそれを見詰めていた。
 次第に落ちつきを取り戻してゆく水面が、きらきらと月光を照り返し始めていた。

 りーり……
 りーり……

 鈴虫やクツワムシ、おけらなどの大合唱が辺りを満たしていることに耕一はようやく気が付いた。
 いつのまにか虫の声が戻ってきていた。
 千鶴もそれに気付いたらしく、ちらりと耕一を仰ぎ見る。

 風が渡り、木々が静かにそよいでいた。
 丈の短い草々の葉が刃のように煌く。
 それは、冴え冴えと澄み渡る、美しい月夜だった。
 

               §
 

 長い大学の夏休みもそろそろ終盤。暑さはいまだ衰えないものの、秋の気配がそこここに見られるようになってきていた。
 柏木耕一が実父の実家である隆山へと足を向けたのは、その実父の四十九日に参列するためだった。殆ど面識のない親族と顔を合わす可能性のある場に顔を出すことに、耕一は正直なところ気が進まなかった。しかし、法事そのものは内々のものだと聞いたことと、かつて自分に良くしてくれた従妹達のたっての願いと言うこともあって、耕一は実に8年ぶりに隆山に足を下ろしていた。

 耕一の父の実家であり、今は従姉妹たちが住まう柏木の本宅は大きい。
 その造りも、家格も。古い歴史を持ち、一族は地元の有力者でもある。
 従妹達が暮らすその家に、耕一は数日前から一週間ほど厄介になることにしていた。
 その死に臨んでも何の感慨も湧かないほどに、母と自分を捨てて家を出た父に対する耕一の感情は冷め切っていた。しかし、耕一にとって深く考えたくもない実父の存在は、従妹達にとっては大きな慰めだったらしい。より悲しむものから、悲しまぬものが励まされるという状況には、耕一も少々居心地の悪い思いをした。しかし、それを差し引いて余りある従姉妹たちの歓待に、耕一は感謝し心和む日々を送っていた。

 そしてそんな中、それは起こった。

 思えばそれは僅か数日間の出来事に過ぎない。
 しかしその事件によって、ごく一般的な大学生でしかなかった耕一の人生と常識は根底から覆された。
 

 鬼の血族。
 鬼の引き起こす災厄と、それにまつわる一族の掟。

 ありうべからざる、正気を疑うような出来事の只中に耕一は放り込まれた。
 耕一は自らのうちに流れる鬼の血と向かい合わされ、その掟に恭順を強いられた。
 夜毎の悪夢は飽くことなく耕一に付き纏い、ついには現実となって現れた。

 引き擦られながら、巻き込まれながらも、耕一は必死に抵抗した。
 自分自身を守るために、そして大事な人を守るために、耕一は足掻き、戦った。
 そしてそれもようやく決着がつこうとしていた。
 現実と悪夢の狭間で、耕一は自らの居場所を選び出したのだ。
 

 ――全てが終われば、また穏やかな日々に帰れる。
 

 耕一はそう信じて疑わなかった。
 そしていま、耕一は全ての悪夢終わりつつあるのをようやく実感し始めていた。
 
 

 湖面に漣(さざなみ)を伴って、再び涼やかな風が寄せてきた。
 夏とはいえ、水場の夜は冷える。裸同然の耕一はさすがに肌寒さを覚えた。隣を見ると、千鶴も小さく己が肩を抱くような仕草を見せていた。
 耕一はそっと千鶴を抱き寄せた。
 あ、と小さく声を上げて、千鶴は耕一を見上げた。
 耕一の表情は、いつしか普段どおりに戻っていた。その腕に僅かにぎこちなさと緊張があるのに気づき、千鶴は小さく笑った。張り詰めていたものが、ほぐされていく。
 千鶴は肩に回された耕一の腕の温もりが体に染み入るに任せ、その胸に体を預けようとした。

「あ、あら?」

 千鶴はへなへなと座りこんでしまった。先ほどのダメージと疲労からか、いつの間にか膝が言うことを聞かない。暫くはどうにも動けなさそうな気配に、千鶴は困ったような情けないような顔で耕一を見上げた。

 そんな千鶴の様子に耕一は苦笑した。
 しょうがないなとでもいいたげな意地の悪い表情の中、その目はまるで幼子を見る父親のように柔らかかった。
 耕一は千鶴に背を向けると、すっと腰を落とす。

「ほら千鶴さん、おぶさって」
「え、えっ? あの、大丈夫ですよ。すぐ歩けるようになりますから」

 やっと耕一の動作の意味が判った千鶴は、慌てて背筋をしゃんと伸ばす。

「駄目だよ、無理は」
「でも……」
「昔さ、遊びつかれて寝ちゃったりしたとき、気がついたら布団で寝てたりしたことがあったんだよね。あれって、親父や千鶴さんが運んでくれてたんだろ? ――今日はその役、俺にやらせてよ」

 千鶴はまだ迷った様子を見せる。

「ね? 今日くらいいいかっこさせてよ」

 耕一のその悪戯っぽい口調に、千鶴もつい微笑みをもらした。

「はい、それじゃ、お願いします……でも」
「大丈夫だって。それともそんなに重いの? 千鶴さん?」
「もう! そんなことありません……と思います」

 おずおずといった風に千鶴が腕を回してくるのを確認すると、耕一はよっこいしょと立ち上がる。
 耕一は背中に千鶴を感じた。
 千鶴は、耕一の背を抱く。お互いの存在とぬくもりが、ついにそれを確信させた。
 

 終わった。
 やっと、終わったのだ。
 

 連日連夜の悪夢も、ついに終焉を迎える。
 簡素な片田舎を騒がせた事件、耕一とその従姉妹たちを苦しめた一連の事件は、もう二度と起こることはない。
 これで帰る事が出来る。
 穏やかで暖かい、悪夢の中にあって夢見つづけた日々へ、ようやく帰る事が出来るのだ――二人で。
 
 

 耕一が家路へと一歩を踏み出したそのときだった。
 月が一瞬、まるで太陽のように輝いた、そんな風に耕一は思った。フラッシュをたかれたように世界が真っ白に染まる。あらゆるものが色を失い、光と影だけに二分される、そんな強烈な光だった。

「な……っ?」
「きゃっ!」

 それは本当に一瞬の出来事だった。
 何事も無かったように、あたりは静謐を取り戻す。
 星を払う明るい月も、優しい影を水面に落とす木々も、耳朶を擽る優しい虫の音も。
 彼らにはいかなる変化も見出せなかった。

 耕一は何度も瞬きをし、ごしごしと目を擦った。まだ焼け付いたような白点が見える。
 頭がくらくらし、意識が遠ざかる。
 

「な、何だったんでしょう今の光……耕一さん? きゃっ!」

 耕一はふらりとよろめいて、そのまま前のめりに倒れた。

「こ、耕一さん?! わ、私そんなに……って、耕一さん?」

 倒れたまま起き上がる気配を見せない耕一に、千鶴は慌てて取りすがった。
 千鶴は耕一の胸に耳を当て、心臓の鼓動を確かめた。
 耕一の確かな鼓動が千鶴に伝わる。
 そして、すうすうと規則正しい呼吸音が耳に届く。
 耕一は眠っていた。

「……耕一さん? ……もう……」

 千鶴は安心してぺたんと座り込むと、この大荷物をどうしたものか考え始めた。
 

               §
 

『……耕一』

 頭蓋に木霊する、覚えのない声。

『……柏木耕一』

 厳めしく、感情を感じさせない非人間的な声。

『柏木耕一。汝こそ八代目次郎衛門也。我等が宿願、今此処に至れり』
 

 逃れたばかりの悪夢が再び纏わりつこうとしているのを直感し、耕一は身を捩る。
 しかし、逃げ場はどこにも無かった。
 
 
 

目覚め 前編

目次