「みゃあ、みゃあ、みゃあ」
「ううっ」
「あっ、目を覚ましたよ」
「…こ、ここは? うわっ!」
 
 どアップの楓ちゃんがいる。
 
「みゃああああああああああ〜」
 
 楓ちゃんがしがみついてきた。苦しい。…でも、ちょっと気持ちいい。
 
「ちょ、ちょっと、楓っ! やめなさい!! もう!!!」
 
 千鶴さんが必死になって引き剥がそうとしてる。あっ、部屋が冷えてきた。
 
「ふ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
 
 総毛立てて怒ってる楓ちゃん。このままじゃみんなの命が…
 
「あ、ありがとう、楓ちゃん。もう、いいよ。大丈夫だから」
「みゃあ〜〜〜」
「だから、千鶴さんも止めてくれ」
「えっ? で、でも…」
「大丈夫だよ。楓ちゃん」
 
 やがて、手を離した楓ちゃんは俺が寝ている布団の横にちょこんと座った。もちろん、女の子座りだ。
 千鶴さんはしぶしぶその横に正座で座っている。初音ちゃんはその真向かいで…やっぱり指をくわえて楓ちゃんを見ていた。
 
 
 
 
 俺は客間に寝かされている。
 あの後すっ飛んできた千鶴さんとパニックから立ち直った初音ちゃんによって、俺はここに運び込まれ布団に寝かされた。下着も着けてくれたみたいだ。
 俺の全てをみんなに見られたんだな。もうお婿にいけない……
 だが、梓が潰れていたのは不幸中の幸いだった。もし、起きていたら俺は半殺しの目に遭うか、さもなくば一生強請られていた事だろう。
 楓ちゃんはすっぽんぽんのままで客間までついてきたらしかったが、そこで強制的に初音ちゃんにパジャマを着させられたようだ。
 それからが大変だった。
 どういう事態が起こったのかを、みんなに知ってもらわなければならなかったからだ。
 初音ちゃんと千鶴さんの誤解を解くのに俺は1時間を要した。だが、ここでその話をするにはあまりにも時間が足りない。
 
「さあ、もう12時過ぎたわよ。明日も早いんだし、みんな寝ましょう」
 
 今夜はもうお開き。後は寝るだけだ。
 
「楓。自分のお部屋に戻りなさい」
「にゃ?」
 
 座ったまま全然動かない楓ちゃん。
 
「あなたが戻らないと耕一さんが寝られないでしょ」
「にゃにゃ?」
「ここは耕一さんが寝る場所でしょ」
「うにゃ〜」
「ここにいたら、耕一さんに襲われるでしょ」
 
 どさくさ紛れにロクな事言わないな。
 
「にゃ〜あ」
 
 ところで、猫に言葉がわかるのか? いや、楓ちゃんは人間か…
 
「楓、いい加減にしなさい!」
 
 そろそろ千鶴さんがキれかけてきた。
 
「楓おねえちゃん…」
 
 初音ちゃんも心配顔になってきた。
 
「楓っ!」
 
 千鶴さんが楓ちゃんの手を引っ張って立たせようとする。
 
「みぎゃ〜〜〜!」
 
 楓ちゃんは両手両足を踏ん張ってイヤイヤをする。見ている俺の方が痛々しい。
 初音ちゃんが見るに見かねて声を掛けた。
 
「千鶴おねえちゃん、楓おねえちゃんがかわいそうだよ」
「このままにしておく訳にはいかないでしょ!」
 
 千鶴さんの言っている事は正論だ。だが…
 
「千鶴さん!」
 
 とうとう俺は決心した。
 
「えっ? はい、耕一さん」
「もういいよ」
 
 きょとんとしている千鶴さんから、視線を初音ちゃんへと移し俺は言葉を続ける。
 
「初音ちゃん。俺の布団の横にもう一つ布団を敷いてよ」
「ど、どういう意味ですか? 耕一さん」
「耕一おにいちゃん?」
「楓ちゃんはここに寝させる」
「耕一さん、ご自分の仰ってる意味がわかって…」
「わかってるよ。わかったうえで言ってるんだよ」
「わかってるなら…」
「楓ちゃんの好きにさせてあげようよ。今の楓ちゃんは無理に従わせようとしても無駄だよ」
 
 俺は布団をひっつかんで団子になっている楓ちゃんを見つめる。
 
「…それに考えてもみてくれよ。今まで何一つわがままを言った事がなかった楓ちゃんだろ? 今の楓ちゃんは確かに普通じゃない。だけど、楓ちゃんは楓ちゃんだ。きっとこんな時にしか楓ちゃんはわがままも言えないのかもしれない。だから…」
 
 俺は千鶴さんの目を見てきっぱりと言った。
 
「俺の事を信じてくれ。楓ちゃんに決しておかしなマネはしないから」
 
 離したくない。
 楓ちゃんは俺の側から離れたくないんだ。俺は楓ちゃんを離してはいけない。
 
「千鶴おねえちゃん…」
 
 初音ちゃんもうるうるした瞳で千鶴さんを見ていた。
 
「…わかりました。初音、お布団を引いてちょうだい」
「うん、わかった」
 
 初音ちゃんはぱっと立ち上がって押入を開けにかかる。
 
「耕一さん。…楓をよろしくお願いします」
「わかった」
「くれぐれもおかしな気は起こされませんように。もしも起きた時には…」
 
 その目は「あなたを殺します」って言っていた。
 本気の目だ。俺は思わず首をカクカクと縦に振る。
 その横で千鶴さんの気が変わらないうちにとばかりに、初音ちゃんは30秒で布団を敷いていた。
 
 
 
 
「それでは、お休みなさい」
「おやすみなさい。耕一おにいちゃん、楓おねえちゃん」
 
 二人とも部屋から出ていった。残されたのは俺と楓ちゃんだけ。
 長い一日が終わろうとしていた。…いや、これから長い夜が始まろうとしているのかな?
 俺は楓ちゃんの方を振り向いた。
 楓ちゃんは「にぱっ」と笑って
 
「にゃう〜ん」
 
 と、甘えたような声で鳴いた。
 
 
 
 
 客間に二人きり。誰も俺達を邪魔する者はいない。
 俺は寝る間も惜しんで楓ちゃんと遊んでいた。
 ……とにかくおもしろい。
 今の楓ちゃんは猫そのものだった。試しに、以前近所にいた猫相手にやってた遊びをしてみたら、おもしろいように同じ反応を楓ちゃんは返してきたのだ。
 俺は替えに持ってきていた自分の靴下を、楓ちゃんの目の前でひらひらやってみた。
 楓ちゃんは獲物を狙う猫の目でそれを追っかけてたと思うや、はしっとそれを両手で掴もうとした。当然、俺は取られないようにさっと避ける。そして、また同じ事をする。楓ちゃんはまたそれを捕まえようと目を光らせる。
 俗に言う猫じゃらしだな。
 しばらくそうやった後、俺は靴下を隠し今度は自分の指を楓ちゃんの目の前に突き出してぐるぐる回す。
 指先の動きにつられるように楓ちゃんの顔がくるくるっと回る。そして、ぱっと両手で俺の指を捕らえた。楓ちゃんは捕まえた俺の指を自分の口元へもってくると、ぱくっとくわえる。
 俺は楓ちゃんの成すがままにさせておいた。
 
 はぐはぐ…
 もぐもぐ…
 がりっ
 
「痛ってー」
 
 大きな声をあげたものだから、楓ちゃんは驚いて布団の中に潜り込んでしまった。
 指をふうふう吹きながらも、俺は出来るだけ落ち着いた声で楓ちゃんに話しかけた。
 
「ごめん、ごめん…もう、大丈夫だから」
 
 やがて、楓ちゃんは布団から頭だけ出して俺の顔を窺った。
 
「だから、出ておいで」
「うにゃあ」
 
 ごそごそと出てきた楓ちゃんは俺の横にぺたんと座り上目遣いに俺を見ている。

 なでなで…

 俺は何も言わずに楓ちゃんの頭を優しく撫でる。
 楓ちゃんはうっとりとその身を俺に預けてきた。
 
 
 
 
 しばらくの間、そうやっているうち楓ちゃんの瞼はだんだん重くなってきたみたいだった。
 そろそろおやすみの時間だな。
 撫でていた手を止めて俺は楓ちゃんに話しかける。
 
「さあ、もう寝よう。あしたの朝は正気に戻ってるといいな」
「なーう」
 
 一声鳴いた楓ちゃんは、ぱっと障子の方を向いた。
 ごそごそと俺から離れて障子の中間まで四つ足で這っていくと、その姿勢のままじーっと空中の一点を見つめる。
 何かあるのか?
 俺は注意をそちらに向けるが何もありはしない。
 やがて視線をすーっと横へそらす。何かを追っているような目つきだ。
 けれどもやっぱり何もありはしない。
 猫は人が見えないモノが見えるという。
 楓ちゃんにも何かが見えるのだろうか。
 でも猫なら自然な仕草も、人がやるとそこはかとなく不気味だな。
 やがて、見えない何かはほんとうにいなくなったのだろう。後ろ向きにぺたんと座った楓ちゃんは両手をぐーにして顔を擦りだした。
 あしたは晴れだな。
 などと、思っていると…
 楓ちゃんは両手をそろえて前につくや、膝を支点にお尻を持ち上げて背中を思い切りそらせた。
 噂に名高い猫の背伸びのポーズ。
 しかし、これは……
 楓ちゃんは俺に背中を向けて座っていた訳だから、当然このポーズをすると…楓ちゃんのかわいいお尻が俺の目の前に来る。
 なんて、扇情的な姿なんだ。
 ピンクのパジャマを履いたかわいいお尻。
 俺の手は我が意志を離れてふらふらと前へ伸びていった。
 
「耕一さん、あしたの朝の事ですけど……」
 
 障子が開いて現れたのはこの家のご主人様、柏木家の長女、楓ちゃんのお姉さん、…柏木千鶴その人。
 きょとんとした顔で千鶴さんを見上げるのは楓ちゃん。
 呆然とした顔で硬直する俺。
 そして…
 
「耕一さん…」
 
 千鶴さん、笑ってる。…氷の微笑。
 床がミシミシ言い出した。
 部屋の中をブリザードが吹き荒れているようだ。
 あっ、楓ちゃん布団の中に避難しちゃってるよ。
 
「あなたを……」
 
 ころします…ですか?
 こっくりと微笑んだ千鶴さんの顔を見た後、俺の意識が闇に閉ざされた。
 
 

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