「楓!」
「楓ちゃん!」
「楓おねえちゃん!」
 
 みんなが楓ちゃんの元へとかけよる。一人だけを残して…。
 
「わ、私のせいなの…?」
「当たり前だろ! おい、楓! しっかりしろ、楓!」
「初音ちゃん、電話っ! 医者を呼ぶんだ!」
「えっ? う、うん。わかった」
 
 楓ちゃんは眠ったように倒れて動かない。とにかく、医者に診せなきゃいけない。
 
「ちょっと、おおげさな…」
 
 千鶴さんは、狼狽しながらもあくまでも事を穏便に収めたいらしい。
 そりゃそうだろう。長女の権威はこれでガタ落ちになるも当然だもんな。
 初音ちゃんはそんな千鶴さんにかまわずコードレス電話を持って来て電話帳を広げた。
 
「梓おねえちゃん! どこに掛ければいいの?」
「ええっと…そうだな、3丁目の緒方医院に…」
「それ、産婦人科…」
 
 梓もそうとう動揺しているみたいだ。

 ぱちっ

 その時、楓ちゃんが目を覚ました。
 
「楓!? だいじょうぶか? どこか、苦しいとこないか?」
「……」
「楓ちゃん! 俺がわかるかい?」
「……」
「楓おねえちゃん?」
「……」
「楓。だいじょうぶでしょ? なんともないでしょ?」
「……」
 
 むくっと起きあがった楓ちゃん。その意識の感じられない瞳が、だんだんと焦点を結んでくる。
 そして、みんなを見回した楓ちゃんは…
 
「にゃあ〜」
 
 一声、かわいく鳴いた。
 
「えっ?」
「へっ?」
「なっ?」
「はっ?」
 
 にゃあ〜ん
 
「お、おい…楓。冗談はよそうな」
「楓ちゃん。気をしっかり!」
 
 ぷるぷるっ
 
 小さく体を震わせると、楓ちゃんはすくっと立ち上がりすたすたと部屋を出ていく。
 
「楓っ!何処行くんだ?」
「楓おねえちゃん」
 
 梓と初音ちゃんが慌てて、その後を追った。
 残されたのは、俺と千鶴さん。
 
「……」
 
 茫然自失状態の俺に向かって千鶴さんは、こうのたまってくれた。
 
「ねっ。なんともないでしょ」
 
 千鶴さん…あんたねえ。
 
 
 
 
 20分はたっただろうか。梓と初音ちゃんを引き連れて楓ちゃんが帰ってきた。
 お供の二人は既に疲れきった顔をしている。
 
「家中ぐるぐる回るんだぜ。猫や犬の散歩じゃあるまいし」
 
 梓がぼやく。
 
「しかも…」
 
 居間の中に入ってきた楓ちゃんは障子やテレビ、炬燵に身体を擦(こす)り付けている。
 
「見ろよ。ああやって家の中の物、至る所に身体を擦り付けるんだ」
「梓おねえちゃん。あれはたぶん、匂い付けだよ」
「「「匂い付け?」」」
 
 みんなが初音ちゃんの方を振り向く。
 
「うん。猫がよくやるんだよ。自分の物に身体を擦り付けて匂いをつけるの。これは自分の物だよって」
 
 そういえばそんな話を聞いた事がある。猫科の動物がよくやる習性だ。
 となると、やっぱり…
 
「にゃあ」
 
 考え事をしていた俺の耳元で、いきなり声が聞こえて俺はビックリした。
 俺のすぐ後ろに楓ちゃんがいる。
 
 すりすり
 
「お、おい」
「ちょっと」
「楓お姉ちゃん」
 
 俺の肩にあごを載せ、一生懸命身体を擦り付けてくる楓ちゃん
 
「楓おねえちゃん。もしかして、それって……」
 
 初音ちゃんが戸惑っている。
 
「楓! あなた!」
 
 千鶴さんの声が飛んだ。
 
「耕一さんはあなたの物じゃないのよ!」
 
 そう、楓ちゃんは俺を自分の所有物と思ったんだ。
 嬉しいよ、俺。
 
「耕一……」
 
 いかん。注意がそれてた。
 
「おめえ…」
 
 梓の顔が般若に見える。
 
「楓にいったい何しやがった!!」
「ちょっと待て、梓! 誤解だ、誤解!!」
「誤解も六階あるか! 楓がそんな事するなんて、耕一が何かやったに違いないだろー!」
「耕一さん、まさか…」
「千鶴さん、待ってよ!」
「耕一!」
「耕一さん!」
「耕一おにいちゃん」
 
 前門の虎、後門の狼? 四面楚歌? 絶体絶命? それから、えーと…
 とにかく、俺の命は風前の灯火だった。
 
「ふーーーー!!」
 
 そんなみんなの前に、楓ちゃんが立ちふさがった。低い唸り声をたてて…
 
「楓、あなた…」
 
 千鶴さんの声が一段と低くなる。部屋の温度が徐々に下がってきた。
 これはまずい。
 
「ちょ、ちょっと千鶴姉?」
「千鶴おねえちゃん!」
「なに本気になってるんだ? 千鶴さん。大人気ないんじゃなのか?」
「楓。白黒はっきりつける時が来たみたいね」
 
 瞳が赤く染まり、瞳孔が縦に裂ける。これは本気だ。
 
 びくっ、さささっ
 
 楓ちゃんは体をひくつかせると炬燵の中に逃げ込んだ。
 割と根性無しだ。
 
「楓。出ていらっしゃい!」
「いい加減にしないか! 千鶴さんっ!!」
 
 俺は自分でも驚くぐらい大きな声を出していた。
 
「えっ?」
「楓ちゃんがいったい何をしたって言うんだ?」
「だ、だって…」
 
 いっぺんで鬼の気配は欠片もなくなった。
 
「大人気なさすぎるよ、楓ちゃんはいわば病気なんだ。仕草のひとつひとつにいちいち目くじら立てるなんて千鶴さんらしくないぞ」
「耕一さん……すいません」
「…ごめん。言い過ぎた」
「…すいません」
 
 千鶴さんは身を小さくして、しゅんとしている。
 
「耕一…すごい。千鶴姉を一発で大人しくさせちまった」
「耕一おにいちゃん、かっこいい」
 
 どうだ。俺は男だ。
 
 
 
 
「で、…どうするんだ?」
 
 あれから、10分後。初音ちゃんを除く全員がこの居間で炬燵を囲んで座っている。
 炬燵には入ってない。何故かって?
 楓ちゃんが潜り込んでいるからだ。
 千鶴さんとの対決に破れた楓ちゃんは炬燵に逃げ込んでから以後、一向に外に出てくる気配がなかった。時々、声は聞こえてくるから大丈夫なんだろうけど。
 猫は炬燵で丸くなる…というが、まさにそれを地でいっている。
 そう、楓ちゃんの今までの行動は猫そのものと言ってよかった。
 
 でも、どうして…?
 
「なあ千鶴姉、いったい何食わせたんだよ?」
「なにっていっても…、普通のお菓子よ」
「ちがうっ! キノコのことだ!!」
「キノコって…?」
「しらばっくれるな。七瀬さんが言ってただろ。変なキノコが転がってたって」
「千鶴さん…」
 
 千鶴さんは俺達二人に睨まれてモジモジしてる。
 
「そ、そんなに見つめちゃイヤで…」
「だあーーー!いい加減にしろっ!!」
 
 梓がキレた。
 
「もう、せっかく人が裏庭で見つけてきたキノコを…」
 
 おいおい、またかよ……
 
「あんまり香りがよかったものだから、一本抜いてきて焼いて粉にしてパイ生地に混ぜ込んだのよ。そりゃもう、出来上がったお菓子はいい匂いがしたんだから…」
 
 千鶴さん、全然懲りてないんだな。だが、あんな風になるキノコなんて聞いたことがないぞ。
 
「梓おねえちゃん。持ってきたよ」
 
 席を外していた初音ちゃんが戻ってきた。どこから持ってきたのか、なにやら大きな本を抱えている。
 
「サンキュッ。初音」
「いったい、どのキノコだったんだよ。千鶴姉」
 
 なんと初音ちゃんが持ってきたのは、「日本キノコ大図鑑」なるものだ。こんなものが置いてあるなんて、侮りがたし柏木家。
 
「ええっと…これでもない…これも違う…」
 
 どんどんページをめくっていく千鶴さん。とっても使い慣れているように見えるのは俺の気のせいか?
 
「あった。これよ、これ」
「どれ?」
 
 千鶴さんが指し示したものはこれ以上ないってぐらい怪しい形をしたキノコ。
 
「ケモノナルタケ?」
 

ケモノナルタケ
ハンテンダケ目セイカクハンテンダケ科(毒有り)
日本海側、特に能登半島の一部に分布。個体数は非常に少ない幻のキノコ。
食べると幻覚作用をもたらす。具体的には食べた者が、自身が似ていると思っている動物と同じ行動をとる。
食後すぐ発症し、10〜20時間持続する。後遺症はない。
 
 
 初めて聞いたぞ? こんなキノコ。でも楓ちゃんが猫のマネをしたのが、これで納得がいった。
 とりあえず命に関わる事はなさそうなので梓も初音ちゃんもホッとしている。千鶴さんにいたっては、ホラ見ろって顔してる。
 
「でも、このまま放って置いてもいいのか?」
「うん、そうだよ。楓おねえちゃん、このまんまじゃかわいそうだよ」
 
 そりゃ、確かにそうだ。
 
「そうね。このままじゃ炬燵が使えないものね」
 
 とんでもないボケをかます千鶴さん。
 
「そういう話じゃないだろ、千鶴姉。楓の事が心配じゃないのかよ?」
「心配ない訳ないじゃない。でも、1日もしたら元に戻るんでしょ? なら、このままにしときましょう」
「千鶴姉!」
 
 うーむ、剣呑な雰囲気になってきた。
 
「ねえ…。楓お姉ちゃん、全然顔出さないけどだいじょうぶかな?」
 
 たしかにそうだ。
 楓ちゃんがお籠もりになってから、かれこれ20分近くなる。
 いくら柏木家の炬燵が大きいからと言っても、人一人中に入って居続けるには小さすぎる。だいいち、中でいったいどういう格好でいるのか非常に気になる。
 様子を見たいのだが、さっき中を覗こうとした俺は梓に頭を思いっきりぶん殴られた。
 
「女の子が入っている炬燵の中を覗くなんて、デリカシーのないマネすんな」
 
 ということらしい。それで俺はどうすることも出来ずこのままでいたのだ。
 
「うーん。たしかにちょっと心配になってきたな」
 
 みんなの視線が炬燵に集中する。その中で…
 楓ちゃんがひょこっと炬燵の掛け布団から頭を出した。
 ぷはっと息をすると、きょろきょろとあたりを見渡す。何かを探し求めるように…。やがてその瞳が俺を捉えた。
 唐突に頭が引っ込むや再びその頭が姿を現した。俺が胡座をかいて座っているその真ん中に。
 
「どわっ!」
 
 俺は思わず仰け反りかけた。
 みんなもいきなりの展開に付いていけず、ぽかんとその様子を見ているだけだ。
 そんな中、楓ちゃんは頭を胡座をかいてる俺の足の上にのっけると、俺の顔を下から見上げながら
「にぱっ」と笑った。
 
「楓ちゃん…」
 
 か、かわいい……
 思わず見とれてしまった。
 その間にも、楓ちゃんは俺の膝に頬をすりすりしながら目を細めている。
 
「お、おいっ! 楓!!」
 
 一番に我に返った梓が身を乗り出しながら叫んだ。
 
 びくっ…
 
 楓ちゃんが身を縮込ませる。
 
「楓! やめなさい、そんな事。なんて羨ま…あわあわ、なんてはしたない」
「楓おねえちゃん…」
 
 初音ちゃん、指をくわえてる。
 
「まあまあ、みんな」
 
 俺はとりあえずこの場を収めようと試みた。
 
「今の楓ちゃんに何を言っても無駄だよ。まともな判断力がないんだから」
 
 楓ちゃんが聞いてたら、怒るだろうがこの場合はしようがない。
 
「なんで、耕一の所にいくんだ? おかしいじゃないか」
「そうですよ。納得がいきません」
「いいなあ、楓おねえちゃん」
 
 どう、言いくるめるか。ここで、解答を間違うととんでもない事になる。
 俺と楓ちゃんが恋人となっているのは、まだみんなには言ってない。当時、学費すら援助してもらっていた半端な状態で、女の子と付き合うなんぞ俺のプライドが許さなかった。それに楓ちゃんはまだ高校生だし。だから、楓ちゃんとは未だにデートらしいことすらしてはいなかった。
 楓ちゃんが大学生になったら、みんなに言うつもりだった。
 
「楓ちゃんと結婚を前提として付き合いたい」
 
 と……
 つまらないと思うかもしれないが、それが俺なりのけじめの付け方だった。
 もっとも、一回だけアレはやっちゃったけど……
 ここで、みんなに知られる訳にはいかない。この状況で知られたらマジで俺の命が危ない。
 
「猫ってのは、人に媚びを売る事がうまいんだよ。何かの見返りがあると思ってるのさ。楓ちゃん、何か俺に買って欲しい物でもあったんじゃないかな?」
 
 人間、窮地になればなんか知恵が湧いてくるもの。とにかくここはビビったら負けだ。
 
「それに、猫に怒ったってしようがないよ。なんせ、猫なんだから…」
 
 我ながら苦しい言い訳だと思ったが…
 
「そ、そういうもんなのか?」
「そういえば、タマも同じ様な事をする時がありますものね」
「そうだよ、おねえちゃん。餌が欲しい時とか、遊んで貰いたい時とか、よく甘えてたもの」
 
 よし! あと、もう一押しだ。
 
「だからさ。楓ちゃんも毒が抜けて元に戻るまでは、猫と同じように扱った方が落ち着くんじゃないかな?」
「うーん…わかった。それじゃ、元に戻るまで楓の事は猫として扱おう」
 
 梓が答える。こういう時には単純な梓は扱いやすい。
 
「いいのかしら、それで」
 
 それに引き替え、千鶴さんはやっぱり疑り深い。さすが偽善者……
 
「いいなあ、楓おねえちゃん」
 
 初音ちゃんはどうにも楓ちゃんが羨ましいらしい。
 
「いいんじゃないの?そういう事で」
 
 強引に俺は結論に引っ張っていく。
 
「ねっ。楓ちゃん?」
 
 目を瞑って縮こまっていた楓ちゃんに俺は囁きかけた。
 ぱちっと目を開けた楓ちゃんは俺の目をじっと見つめる。その頭を俺は優しく撫でる。
 やがてその目はゆっくりと閉じられ、安らぎの笑みを漏らし始めた。猫の笑顔っていうのかな。
 
「耕一。楓に変な事してみろ。ただじゃ置かないからな」
「耕一さん。節度を持って接して下さいね」
「いいなあ」
 
 みんなの視線が異様に痛かった。
 
 
 
 
「ふいー…。いい気持ちだ」
 
 俺は湯船に浸かって天井を見上げた。
 
「ばばんば、ばんばんば。は、びばのんの」
 
 鼻歌も出てくる。
 あれから俺達は梓が作った酒の肴をつまみに一杯やっていた。お酒の飲めない初音ちゃんもウーロン茶で付き合った。
 久しぶりに会った俺達は、夜遅くまで語り明かしていたのだ。
 楓ちゃんはその間ずっと俺の膝を枕にしてウトウトと眠っていた。
 時々、「うにゃ〜」とか「みゃ」とか寝言を言っていたが、その寝顔は心配事などこの世に無いってぐらい安心しきった安らかな寝顔だった。
 そんなこんなで10時も過ぎ、酔いも回った俺は風呂に入って寝る事とした。梓は既に撃沈している。
 千鶴さんはあれだけ飲んだのにほんのりと赤くなっているにすぎない。この時点でしらふは初音ちゃんだけだった。当然、風呂の準備は初音ちゃんがした。ほんといい娘だな、初音ちゃんは。
 
 絞ったタオルを頭に乗っけて俺は目を瞑る。
 楓ちゃん……
 今日の出来事には驚かされた。
 でも、こんな楓ちゃんも悪くはない。もう少しこのままでもいいかな?
 湯に浸かっている俺は酔いも手伝って意識が次第に薄れていった。

 カラカラ

 風呂の扉が開く音?
 
「いけない、いけない。眠っちまったよ」
 
 はっと開いた俺の目に飛び込んできたのは…
 
「みゃあ〜」
 
 一糸まとわぬオールヌードの楓ちゃんだった。
 
「ちょ、ちょっと楓ちゃん!?」
 
 思わず湯船に我が身を深く沈める俺。あまりにも目の保養…いや、目の毒だ。
 開けた扉もそのままに楓ちゃんは風呂場の中に入ってくる。
 猫って風呂が嫌いじゃなかったけ? いや、そんな事を考えてる時じゃない。
 だがそれでも俺の目は、前に立つビーナスからその視線を離せないでいた。
 楓ちゃんの裸を見るのはあの時以来、初めてだった。真っ白な肌、すらりとした足、ちょっぴり膨らんだ胸。……そして、大きく膨らみつつある俺のナニ。
 
「い、いけないよ、楓ちゃん! 正気に戻って」
 
 理性がぶっ飛びそうになるこの状況で、俺はこう言うのが精一杯だった。
 
「耕一お兄ちゃん、シャンプーが切れてるの忘れてた。替えのシャン……」
 
 現れ出(いで)たる初音ちゃん。
 マーフィの法則って奴か?
 脱衣場のドアを開けて入ってきた初音ちゃんはその場面に凍り付いていた。そりゃそうだ。風呂場の扉を開けて立っているのはすっぽんぽんの楓ちゃん。そして、風呂場の中で湯船に浸かってるのは俺。そんなシーンに年頃の女の子が遭遇すれば…
 
「おにいちゃんのえっちいいいいいいいいい!」
 
 マッハのスピードで飛んできたシャンプーは正確に俺の顔面をクリーンヒットした。

 俺の意識はそこで途絶えた。
 

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