人柱・第壱話
 

 そしてあれから数日。
 旅行当日を迎え、今回は遠出もあって車でなく新幹線を使って旅先へと向かっていた。
 俺の胸中はずっと高なったままだ。
 それはもちろん、この旅行中に起こるであろう出来事に対する予感、に対してである。
 ……普通の予感とは正反対だけど。

「はい、志貴君。ア〜ン♪」
「先輩。自分で食べれるからいいって」

 せっかくの旅行なんだ、穏便に楽しく過ごしたい。
 なのに先輩は、しつこく俺に構ってくる。
 それが、俺を挟んで隣にいる秋葉へのあからさまな挑発のような気がするのは、多分気のせいだろう。
 ……だと思いたい。

「兄さん。そんな物よりも、こちらの方が」
「い、いや。だから」

 秋葉も秋葉で、なにか妙な対抗心を燃やしていた。
 俺を巡って美人二人が、自分の弁当を食べさせようと取り合いをしている。
 男としては非常に喜ぶべき展開だし、俺も正直嬉しい。
 だが、両サイドから笑顔の裏の威圧感をひしひしと伝わってくる様は、天国よりもはっきり言って地獄だ。
 席は琥珀さんがグリーン車で取っておいてくれたというのに、両隣でシエルと秋葉が戦線を繰り広げているせいで、心も体も休まることがない。

「先輩、あまり人の兄に引っ付かないでくれます?」

 ぐいっと、秋葉が俺の腕を掴んで引き寄せる。

「あら、恋人同士だから良いじゃないですか」

 こちらもまた、俺を引き寄せた。

「く〜〜〜〜!」
「む〜〜〜〜!」
「あらあら、志貴さんも大変ですねー」
「琥珀さん…見てないでなんかフォローしてくださいよ〜」

 いつものように笑顔でやり取りを見つめる琥珀さんと、俯いたまま会話に参加してこない翡翠。
 ちなみに、普段は仕事着しか着ない琥珀さんと翡翠だが、旅行という事もあり、いつもとはまた違った洋服を着て向かいの席に座っている。
 琥珀さんは紺のサマードレスで。翡翠の方は藍色のワンピースで控えめに。
 いつも見なれていない服なので、かなり新鮮に感じるし、2人とも良く似合っている。

「そういえば、今度の旅行先ってなんだか言い伝えのある場所らしいですよ」
「琥珀さん。何ですか、その言い伝えって」
「呆れた。一体いつの間にそんなの調べたのよ」
「うふふ。秋葉さま、細かい事はお気になさらずに」

 その曰くというヤツが気になったのか、秋葉は表情を和らげて視線を琥珀さんへと向ける。
 ………何とか、この場は納まってくれたようだ。
 琥珀さん、感謝。

「ええ、それがですね……」

 琥珀さんが話し出したのは、この旅行先である「菜摘峠」と呼ばれる海辺の町の名前の由来だった。

 今から遡る事600年ほど前。
 当時はまだ、名も無きほんの小さな海辺の村だった。
 だが突然の流行り病に襲われ、治すだけの金も、術もない村はたちまち病の床に伏せることとなる。
 そこを、村に住んでいた神社の巫女が海に身を投じた途端、不思議な事に病に伏せっていた村人達はみるみるうちに回復し、早々と流行り病は去って行ったという。
 村人達は感謝の意を込め、巫女が身を投じた峠に彼女の名を付けた。
 それが時が巡るにつれてそれがもじり、いつからか『菜摘』となったのだという。

「はぁ〜。なんかロマンチックですねぇ〜」
「………翡翠?どうかしたの?」
「あ、いえ。なんだか気分が……」

 そういえば、翡翠は俯いたままで会話に混ざってこなかったが……どうやら乗り物酔いに掛かっていたようだ。
 おそらくずっと我慢していたのだろう、上げたその顔色はだいぶ悪い。

「翡翠、大丈夫か?」
「志貴さん。お薬と濡れタオルを用意しますので、ちょうどお隣の席が空いてますから、そちらに翡翠ちゃんを移してもらえます?」
「え?いや、俺が手を貸すわけには」

 いつだったか、俺が翡翠を呼びとめようと肩に手を乗せようとしたら、思いっきり手を払われた事があった。
 それは今でもあまり変わらない。
 ここで手を貸そうとしても、同じことになるような……

「志貴さんは男の子なんですから、手を貸してあげなきゃ駄目でしょ!」
「はいっ!」

 ぴしゃり。と言われ、俺も払われる覚悟で立ちあがろうとする翡翠に手を差し出す。

「……大丈夫です。一人でいけます………あっ!」
「っと!」
「……申し訳ございません。志貴さま」
「翡翠。あまり無理をしないで横になっていたほうがいいよ」

 何とか一人で立ちあがろうとした翡翠だが、前屈みのまま急に倒れてきたので、俺は慌てて抱きとめる。
 それでも翡翠は自力で動こうとして俺の腕に手を乗せる。が、腕に力が入らず、ただ俺の胸の中で悶えるだけだ。

「ん。気にしなくて良って。それより歩けそう?」
「……はい、何とか」

 足元がだいぶおぼつかなくなっている翡翠を少しばかり抱きかかえるようにして、空いている隣のシートに座らせる。
 そして翡翠が少しでも楽になるよう、背もたれを倒す。

「……私の方は構いませんので、皆さんと談話の続きをなさっていてください」
「うん。でも、翡翠がこんなになっているのに、放っておけないよ」
「………ありがとうございます」
「はい、志貴さん。後は私がしますので、秋葉様達と楽しんでいてくださいな」
「じゃあ、琥珀さん。お願いします」
「はい、ではがんばってくださいね」

 ………?
 何をがんばれ、と??

「…………」
「…………」

 琥珀さんの言葉に疑問を感じつつも振りかえったその先に、にこやかに目だけ笑っていない美人女性二人。

「や、やあ。二人とも、どうかしたのかい?」
「いえ、私は兄さんがどれほど女性に優しいか、感心しているだけですわ」
「志貴君って、可愛い子だったら誰にでも優しいんですよね〜」

 しかも共同戦線を張られているため、俺には対抗する術が無い。
 そして目的地に着くまでの数時間。俺は両脇からの蛇の睨みで身動き一つ取れなかった。
 
 

 海の側にそびえ立つ白壁の十ニ階建てホテル。

『菜摘シーサイドホテル』

 この海辺に面したホテルが、昼過ぎに到着した遠野家御一行の宿泊先である。
 その外観は海側へと向かって緩やかな曲線を描き、どの部屋からも夏の海が見えるように出来ている。
 そして内側に面する部屋も、四季折々の景色を楽しめるよう、それなりの配慮がされているらしい。
 ひとまず俺達はチェックインを済ませた後、一旦自分の手荷物を置きに、各自にあてがわれた部屋へと姿を消す。

 懸賞の宿泊券なだけに、部屋と内装は普通のやつではあるが、窓辺から見える光景に俺はしばし呆然とした。
 その窓辺からはチラシでとかで歌い文句であった『部屋から見える海の景色』がしっかりと見える。
 なるほど。これほどのものなら連日、テレビとかで話題になっても当然だ。

「これで、先輩と同じ部屋だったら言うことないんだがな」

 その辺は秋葉の目がある手前、我慢せざるをえない。

『志貴さま。準備はもうお済でしょうか?皆様がロビーでお待ちかねです』
「あ、ちょっと待ってて、すぐに出るから」

 ドア越しに声をかける翡翠に返事をして、早々と身支度を整えて部屋を出ると、翡翠がドアの前で待っていた。

「志貴さま。先ほどは介抱して頂き、ありがとうございます」
「いや、俺はたいしたことしてないんだし、お礼だったら薬を用意していた琥珀さんに言ってくれよ」
「姉さんには既に申し上げましたが……その、不謹慎ながら、志貴さまに介抱して頂いたのが嬉しかったので……」

 赤くなった顔を俯かせ、翡翠は早々とエレベーターホールへと去って行く。

 仕事熱心というか、なんというか。
 いくら薬を飲んだとはいえ、とても乗り物に酔っていたとは思えないほどしっかりとした足取りで歩いている。
 こうゆうのを『メイドの鑑』というのだろうか?などと考えつつもドアを閉め、翡翠の後を追ってエレベーターホールへ続く通路を歩き出す。
 

 一階ロビーに降り立つと、奥の窓際にあるソファーに秋葉達の姿を見掛けた。
 これ以上秋葉を待たせたらまた小言を言われかねない。
 翡翠よりも一足先に、談話している三人の元へと少し歩調を速めて歩き出す。

「志ぃ貴ぃ〜〜〜!!」

 静かな空気に似つかわしくないほど明るく、嫌になるほど聞き覚えのある声が、猛牛の群れのような足音を立ててだんだんと近づいてくる。
 早く逃げろ。早く逃げろ。早く!!
 まさか。という思いで俺は振り向きつつも、本能的に回避しようとしたが……反応が遅すぎた。

 むにゅ。

 後ろを向きかけた途端。顔が何か柔らかいものに包まれ、それとともに視界がそれの色で真っ白に。
 だが突っ込んで来たものの勢いは緩まず、俺はそれに巻き込まれ、そのまま後方へと吹き飛ばされた。

 ドンッ!ガスッ!ゴロンゴロンゴロンゴロン………!!

 体のあちこちに衝撃が走るたびに、柔らかい感触が幾度もなく顔全体に押し付けられる。

「つ〜〜〜っ!何するんだ、アルクェイド!」

 10mは軽く超えた辺りでようやく止まり、俺は顔に押し付けられていた彼女の胸を引き剥がすと、上にのしかかっている白ずくめの女を睨みつける。

「何って?求愛行動」

 オートバイ並の速度で人を巻き込んだというのに、アルクェイドは悪びれるどころか、にんまりと笑って顔を更に近づけてきた。
 危険を察してアルクェイドをどかそうとするが、それよりも早く唇を奪われた。

「〜〜〜〜〜〜!」

 今回はすぐそこに秋葉達がいるというのに、がっちりと捕まれていて離れる様子が無い。
 そこに。

「こぉんのぉ……アーパー吸血鬼ぃぃぃぃぃぃぃっ!!」

 パッコォォォォ……ン!!

 のしかかっていた重みが消え、傍には折れ曲がったスタンド式の灰皿を持つ先輩が立っていた。
 どうやら、ゴルフスィングの要領で殴ったようで、アルクェイドも数メートル先まで飛んでいってしまっている。

「ああ、先輩。助かっ…」
「……(ギロリ)」
「うっ……」

 出来るだけ陽気さを装ってこの場をごまかそうとしたのだが、どうやら神父さんは相当ご立腹のようだ。
 出し掛けた手を引っ込め、したがなく自力で立ちあがる。

「まったく。毎度毎度不意打ちばかりして、相変わらず根性が腐ってるわね」
「殴っても蹴っても刺しても斬っても燃やしても殺しても死なないあなたなんかに、正攻法も何もあったものではありませんから」
「二人とも。せっかくの旅行なんだから、たまには仕事のことを忘れられないのか?」
「そりゃあ……志貴と泳げるんだから私だってそうしたいけど」
「私だって、志貴君と楽しい思い出を作りたいですよ……」
「だったらケンカはしない事。特に人間離れした力だけは使わないでくれ」
「兄さん!一体何が………げっ………」

 しまった。秋葉のことを失念していた。
 だが、琥珀さんと一緒に駆けつけてきたようだが、あの様子だとキスされた事は知らないようだ。
 しかし………

「あら、確か……アルクェイドさん。でしたっけ?」
「…………」

 翡翠はアルクェイドが現れる直前まで俺の後ろにいたんだから、あの恐い目つきをしている辺り、どうやら見られたようだ。
 睨みつける。という感じではないのだが……
 かなり怒ってるだろうな。間違いなく。

「そ、そういえば、なんでアルクェイドがここにいるんだ?」
「なんでって……志貴ったら、私を誘ってくれないから追い掛けてきたんじゃない」
「あら、兄さん。結構モテるんですね」

 彼女がここにいるのはたまたまなんだ。と秋葉に印象付けたかったが、なんだかかえって目つきが険しくなったような気がする。

「いや、俺が聞きたいのはそこじゃない。だから……教えてもいないことをどうやって知ったんだ?」
「そんなの簡単よ。だって志貴の体には私の血がいくらか流れてるんだから、私がそれを通してある程度の知覚は可能なの」
「お前……あの時に飲ませたの、そういう意味もあったのか?!」

 それってつまり、アルクェイドの前には俺のプライベートは存在しない。という事なのか?

「兄さん……彼女に血を吸われたのですか……?」

 それはさっきまでの拗ねたものとかでなく、俺を案ずる心から来る純粋な怒り。
 だが、それは……

「ああ、違う違う。確かに血は一滴くらい飲ませられたけど、大丈夫。血は吸われていないし、コイツだって一度も血を吸ったことは無いんだ」
「吸われていない?」

 だから心配しなくても良いよ。と付け足すと、一応多少なりとも事情を知っている(以前に無理やり説明させられたのだが)秋葉は不承不承といった感じでに引き下がった。

「……では、アルクェイドさまは吸血鬼なのですか?」
「「「はぁっ?」」」
「血を吸った。と言われてましたが」
「大丈夫よ翡翠ちゃん。吸血鬼だったら昼間に動けるはずないでしょ?」

 そういえば。色々とややこしくなるし……極力会わせない様にしてきたから、2人にはアルクェイドと先輩の正体は説明していなかったんだっけ。
 それで合点がいった。

「確かにアルクェイドは吸血鬼だが、こいつの場合、存在自体がデタラメだからあまりその辺は……できれば気にしないでやってくれ」
「あ〜、志貴。デタラメだなんてひっど〜い!」
「当然です。十字架なんて全く効かず、よほどの概念武装でない限り傷すら負わせる事も出来ない」
「昼間でも表を平気で歩ける。漆黒でなく白の方が似合う」
「極め付けに血が吸えないんですから、ことごとく世間一般の吸血鬼に対するイメージを無視してますよね〜」
「……本当にアルクェイドさんって吸血鬼なんですか?」
「ううう……」

 俺とシエルに交互に非難、というより事実を立て続けに指摘されて、吸血鬼の姫は完全に落ち込んだようだ。
 確かに……じかにその恐ろしさを目にしない限り、こいつが吸血鬼だなんてだれにも解らないよな。
 琥珀さんと翡翠の疑問ももっともだ。
 もう2度とあんな事件は起きないだろうから、事細かに説明する事はまず無いだろう。

「一応、害は無いから、警戒しなくても大丈夫だよ」
「『一応』じゃなくっても、志貴以外の人に興味なんて無いもん」
「だからって、兄さんに付きまとう時点で私にとって十分有害です!」
「まあまあ、秋葉様。せっかくの旅行なんですから、肩の力を楽になされては?」
「そりゃあ……そうだけど」
「志貴君のお願いもありますし、この旅行の間は私怨は置いておきましょ」
「ま、志貴に怒られるのは私も嫌だし……そうね、この場は休戦にしとこうかな」
「……この場限りじゃなく、これからもそうしてくれるとありがたい……」

 なんとかこの場は納まったが、この先も幾度となくこういった事になるのかと思うと、ため息が洩れる。
 

 澄み渡った空。
 青い海。
 そして、大勢の人が行き交う浜辺にその他諸々。
 海水浴シーズンなんだから当然の夏の風物詩だ。
 俺は水着に着替えている秋葉達より一足先に浜辺へ出て場所取りをしていた。
 シエルと秋葉の事でも十分に手一杯だというのに、その上アルクェイドまで加わったのだから非常に不安でならない。
 パラソルを立てて、その下でそんな事を考えていると……

「……えいっ」
「のわああ!!」
「へへー。びっくりした?」

 いきなり頬に冷たいものが当てられたもんだから、大声を上げて慌てて飛び退く。
 さっきまで俺が座っていた場所には、アルクェイドがいたずら顔で立っている。
 その手には、冷え切った缶ジュース。
 さっき俺の頬に当てられたのはアレか。

「…ったく、何するんだ。お前は」

 まだ頬に残っている冷たい滴を拭い、照りつける日差しで暑くなっている砂へと捨て去る。

「ねえ、どう?」
「どう。って、何がだ?」
「むー。決まってるじゃない。私のみ・ず・ぎ!」

 ああ、そういうことか。
 今、アルクェイドが着ている白のワンピース。
 背中が結構はだけているので、こうやって改めて見ると…なんだかかなりきわどい気も。

「あはは。なんか目付きがいやらしい〜」
「お前が見ろって言ったんだろうが。それで、他のみんなはどうしたんだ?」
「ほっぽってきた」

 ほっぽってきたって……何でそんなにあっさりと言うんだ。
 あとでなだめるこっちの身にもなれよな。

「それに、ね」
「なんだ?この上、さらに何をやらかしたんだ」

 ああ、酷く怒っている二人の顔が目に浮かぶ。
 未だに論理思考の理解できないこいつの事だ。
 一体何をやらかしたんだか……

「なにもやってないわよ。ただね、一番に志貴に私の水着を見せたかったんだよ〜!」
「のあぁぁ!!」

 突然警笛を上げた本能に従い、とっさに回避行動を取った俺の目の前をゴウッ。と突風と共に白い影が横へとすり抜けた。
 そして……

 ズシャアッ!!

 慣性の法則……だったか。
 飛びかかった……もとい、飛びついてきたアルクェイドは俺のいた空間を通り越し、そのまま、顔面から砂へと盛大に突っ込んだ。
 あ、危なかった。
 あと一瞬反応が遅かったら、間違いなく俺はあの下敷きとなっていたことだろう。

「兄さん!大丈夫ですか?!」
「まったく。急に姿が見えなくなったから急いで来てみれば……志貴君?どうしました?」
「…………あ、うん。考えてみれば、水着姿だなんて初めて見るからちょっと、ね」

 俺の不用意な、そして率直な感想に二人とも赤面してしまう。

「もう。兄さんったら変なこと言わないで下さい」
「そんな言いかたされると、なんだかこっちまで恥ずかしいですー」
「べ、別に変な意味じゃ…!」

 グリーンのワンピースに黄色のパレオ姿の秋葉。
 青を基調としたセパレートに身を包んだ先輩。
 元がいいから何を着ても似合いはするだろうけど、2人とも良く似合っている。

 ところが、砂浜に突っ込んだままノビているアルクェイドも含めた3人だけで、後の二人の姿が見えない。

「あれ?翡翠と琥珀さんは?」
「そのうち琥珀が引っ張ってくるでしょうし、大丈夫ですわ」
「翡翠が、どうかしたのか?」
「かなり恥ずかしがってましたしたよ、翡翠ちゃん。『人前で素肌を晒すのは…』なんて言ってました」

 翡翠と琥珀さんの水着姿……
 屋敷での普段の服装が服装だけに……どんな姿なんだろう。

「兄さん。鼻の下が伸びてますわ」
「べ、別にやましいことは考えてないぞ……先輩も、そんな目で見ないで下さい」
「別に良いですよー。志貴君がだれかれ構わずデレデレしてても」
「せ、先輩。機嫌直してよー」
「どうせ、私なんか魅力なんですよねー……」
「そうだそうだー。年齢サバ読み女はとっとと帰れー」
「サバを読むのも馬鹿らしくなる吸血鬼の分際で、人間同士の会話に割り込まないでくれます?」
「そこまで言うんなら、この場で決着つける?」

 いきなり復活したアルクェイドがまた先輩を挑発して、いつもの展開に……
 ……ああ、もう。まったく。
 あの日の公園ではまだしも…ここには人が大勢いるんだぞ!
 なんで、いつもいつも……!

「二人とも、これ以上やるなら……」
「し、志貴?!ほんの冗談だよ」
「そうそう、志貴君の目の前でけんかするわけないじゃないですか」

 眼鏡を外しながらの『説得』にぎこちない笑みを浮かべつつも、二人とも出しかけた手を収める。
 それを見届け、俺も眼鏡をかけ直す。

「兄さん。あまり無闇に眼鏡を外さないで貰えますか?」
「あ……ごめん。でも、俺にはこれ以外に二人を止める方法が無いから」
「志貴〜。ごめんってば〜」
「………それに、人の『死を視る』というのはあまり気分の良いものじゃないしね」
「お願いですから。それで倒れる、といった事は無いようにしてくださいね……その、せっかくの旅行なんですから」
「ああ。自分で誘っといてぶっ倒れたんじゃあ、せっかくの旅行も台無しだしな」
「……志貴君。なんか意地悪です」

 さて、反省してるようだし、もう許すかな。
 と、そこに。

「皆さん。お待たせしまし……ほらほら、翡翠ちゃん。後ろに隠れないで」
「だ、だって。姉さん……あ!」
「ひす、い?」
「………」

 ……なんというか……すごいというか、大胆というか。
 ビキニとはいえ、琥珀さんの小豆色の水着とは色違いなだけの黒のはずなのに、心なしか、刺激が強い感じが……
 まずい。反応してきてしまった。
 静まれ。静まれ、俺。

「……?どーしたの、志貴?」
「い、いや。……そうそう、ちょっと飲み物でも買ってくるよ!」
「ちょ、ちょっと兄さん…!」

 危なかった〜。
 アルクェイドが覗き込むようにして前かがみになったせいで、静まるどころか……いかん、また反応が……
 ううっ。男の哀しいサガ。
 まあ。その辺を適当にぶらついて、ジュースを買って戻るか。

「……って、あれ?ちょっと行きすぎたかな」

 慌てすぎたか。
 つい浜辺を通り過ぎ、岬の下の岩場まで来てしまったようだ。

「なんだ、あれ?」

 引き返そうとした矢先。
 視界の端で何かが眼に写った。
 なんとなく近づいてみる。
 『ソレ』は、潮の満ち引きの関係か、ここより少し高い位置にある窪みの中にあった。

「昔の社か、何か…なのか?」

 だがそれはこじんまりとしすぎていて、手入れされていない様子も、10年20年どころではなさそうだ。
 扉にかかれている文字もだいぶかすれているため、今となっては何を祭っていたのかは分からない。
 もっとも、こんなところにあるのだから海に関する神様か何かなのだろう。
 しかし、2m四方もない物の中に祭るだなんて少々罰当たりな気もする。

「こんなご時世にこのような場所に参拝とは、なかなか変わった者だな」
「だぁっ!!すみません!」

 急に背後から声をかけられ、あわてて振り返って謝る。
 別に、『立ち入り禁止』の立て看板が有ったわけでも無く、やましい事では無いのだが。
 それはそれ、つい。といった感じで言ってしまった。

「いや、失礼。なかなか見所のある。と訂正すべきだったかな」
「あ、いえ。別に気にしてませんけど……これの管理人か何かですか?」
「ふっ……似たようなものだ」

 窪みの入り口に立っている巫女らしき女性はその鋭い目を細め、潮風になびく長い髪を抑えて薄い笑みを浮かべた。
 本人には失礼ながら、あまり神社とかいった感じがまるで無いので、彼女が巫女服を着ていても特に実感が無い。

「君は……そうか、なるほど」
「俺が、何か?」
「いや……しかし、よい眼をしておる。他のものには無き、強い力を秘めた眼だな」
「は、はぁ。どうも」

 なんか冷たい感じのする眼だけど、どことなく不思議な感じもするひとだ。
 巫女さんへのイメージとのギャップもあるが……でも、綺麗だ。

「今となっては、地元の者にすら忘れ去られたこの場所を見つけるとはな……君には興味がある。特にその眼……私の家で色々と聞かせてもらえないか」
「あ、いや!ソレはちょっと!」
「……?心配せずとも、茶菓子くらいは用意できるが?」
「すみません。ちょっと家族……みたいなのを待たせてるんで」

 そろそろ戻らないといけないんです。と付け足すと、彼女もそうか、と引き下がる。

「……まあよい。後でもまた会えるからな」

 確信で裏打ちされた言葉。
 それを残して彼女はきびすを返した。
 俺はその意味が気にかかって、去り行く彼女の後を追い掛けた。
 下に続く道は一本道。
 なのに……

「はて、幻覚……だったのかな……」

 脇に隠れたり出来る場所も無いのに、まだ名前も聴いていない彼女は忽然と姿を消していた。

「……って、秋葉達を待たせたままだった!」

 考えるのは後回しだ。
 急いで戻らないと。
 
 

「兄さん、何処まで行っていたんです!」

 当然の事ながら、戻って来て早々に秋葉に叱られる事となった。
 5分かそこらで済む用事を、20分以上経ってから戻って来たんだから秋葉の怒りもごもっともである。
 だから、俺には素直に謝るしかない。

「ごめん。遅くなってしまった」
「気を付けてください兄さん。今ではそうでも無くなったとはいえ、また兄さんが貧血で倒れたのかと……」
「志貴さんがいない間、大変だったんですよ。秋葉様、ずっとそわそわしていらしたんですから」
「ちょ、ちょっと琥珀!?」
「その上さらに、私達に声をかけてくる方が次々といらしたのですが……」
「………大丈夫、だったのか」

 その翡翠の口ぶりに、俺は一瞬真っ青になった。
 それでも、声をひねり出して訪ねる。

「その辺は大丈夫、その辺は私とシエルで処理しちゃったから」
「はい。アルクェイド様とシエル様のご活躍により、以後声をかけてくる方はいらっしゃらなくなりました」
「…………そうか」

 最強の吸血鬼と、その吸血鬼を狩るための組織の牧師二人がいるんだから、どっちかというと相手の命が心配になった。とは喉元までで留めておこう。
 アルクェイドには魅惑の魔眼が、シエルには暗示があるんだから、そっちで一掃してくれたのだろう。
 ………たぶん怪我人は無い。と思いたい。

「志貴君も来たところで、そろそろみなさん、泳ぎませんか?」
「ごめん。俺はちょっと……」
「あら?志貴さん、ゴーグルを用意してなかったんですか?」
「いや…ちょっと、ね」
「まあ、したがありませんわね」
「みんなで楽しんできて。俺はそこにいるから」

 俺の反応を察したか、秋葉はみんなを海へと促す。
 海へと向かうみんなを遠目に、俺はパラソルの下に入る。
 そして、さっき買ってきておいたジュースのタブを起こして一口。

「ふぅ……眼鏡の上からつけられるヤツ。って無いからなぁ」

 泳ごうと思うなら、どうしてもこの眼鏡を外さなくてはならない。
 そのせいであの日、一度死んだ後遺症で、モノの死が見えるようになったあの日以来、俺は泳いだ事が無い。
 外すとこめかみに走る頭痛の事もあるが、それ以上に、水の中でそこらじゅうに走る『線』が見えてしまったら、俺は間違い無く取り乱しておぼれてしまうだろう。
 ……情けないが、はっきり言ってあの感覚にはどうしても慣れることが出来ない。
 だから、寝起きの時以外は外さないし、外せない。
 とはいえ、去年の一時期は例外ではあったが。
 それに、この胸の痕。
 その時に過去の清算が終わった今だなお、消え去ってはいない。
 遠い昔、ある男に奪われていた半身が戻ってきたとはいえ、傷口が消えて無くなるわけでもなかったという事だ。
 この場はTシャツを着て隠してはいるが、泳ごうと思ったらこれも脱がなくてはならない。
 現実問題。胸に大きな痕を抱えた男が浜辺を歩いていたら、周りの人達も気分を害してしまうだろうしな。
 ……っと、視界に影が差す。

「ねえ、志貴。ちょっとコレ、お願いできるかな」

 そう言って、アルクェイドが俺に手渡したのは、日焼け止めのサンオイル。

「アルクェイド。お前、こんなの使う必要無いだろ?」

 太陽の光を浴びても何とも無い吸血鬼が、肌が焼ける心配をする必要があるはずが無い。

「気分だけ。ね、いいでしょ?」
「いや、断固断る」
「背中以外の場所も触っていいから〜」
「だったらなおさらだ!」

 そんなことをしたら、本当に殺されかねない。
 串刺しか、冷凍か、毒殺か、いずれにせよここで引きうけたら命の保証はまず無い。

「う〜。志貴って冷たい」
「お前以外のヤツには大抵優しいさ」
「ふ〜ん……じゃあ、後ろのコにもそうなんだ」
「後ろ…って、翡翠?!」

 いつからいたのか、翡翠が何か申し訳なさそうに立っていた。

「え〜っと、翡翠。そこだと日が当たるからこっちに座って」

 俺は影になっている自分の場所を譲り、翡翠は無言で座ってしまう。

「……みんなとは泳がないのか?」
「はい……」
「じゃあ、私。ちょっと泳いで来ようかな〜」

 はい。と俺にサンオイルを手渡して海へと去って行く。
 珍しいな。アイツがああもあっさりと引き下がるなんて。

「志貴さま……できれば、サンオイルを塗らせて頂けないでしょうか」
「あ、いや。別に大丈夫だと思うけど…」
「塗っておかないと、後で日焼けがムラになり、皮がはげるそうですが」

 う〜む。
 塗って欲しいような。後が恐いような……
 でも、手先まで真っ赤にしてまでお願いしていると言うのに、ここで断ったら申し訳無い。

「うん、じゃあ……Tシャツを着てる事だし、首周りをお願いしていいかな?」
「あ、はい……」

 俺はアルクェイドに渡されたサンオイルを、いくらか自分の手に乗せて容器は翡翠に手渡し、自分で塗れる腕周りとかを塗り出す。
 首周りだけとはいえ、女の子に塗ってもらえるなんて、考えるだけでも気恥ずかしい。

「それでは……失礼、します」

 そして首筋にヌラッとした、何かが這うような感触。

「ちょ、ちょっとくすぐったい」
「あ……では、この位で」

 さっきよりもゆっくりと、そして力を緩められてオイルが塗られてゆく。
 はぁ。これくらいなら我慢できそうだ。

「それで……背中の方はどうなさいますか?」
「あ、うん。泳ぐつもりは無いから、いいよ」

 ………?
 何でそこで残念そうな顔をするんだ?

 そしてあっさりとオイルも塗り終わり、俺達は手持ち無沙汰になってしまった。
 それからはただ、日陰の下で海を眺める事しか出来ない。

「あの、さ。翡翠はオイルを塗らないのか?」
「後で、姉さんに塗ってもらおうかと」

 そして、他愛ない会話も長続きしない。
 そんな矢先。

「志貴さまは、泳ぎは得意ですか?」
「う〜ん…どうだろう?少なくとも、8年間は泳いだ事が無いからね」

 今は泳げるどうかも分からないよ。と笑うが、翡翠の顔は心なしか暗い。

「翡翠。もしかして……?」
「はい………泳げないんです」

 …………………

「………そっか」
「はい………」

 ……まずい、完全に会話が途切れてしまった。

「志貴さま。やっぱり……その………していただけますか」
「なにを……?」
「………オイルを、塗って下さい」

 か細い声に、俺の思考回路は一瞬止まってしまった。
 あの翡翠が。
 オイルを?
 俺に塗ってくれだって?
 まさかアルクェイド、翡翠がこう言うと思って俺にコレを渡したのか?
 ど、どうしよう。

「えっと、じゃあ。横になってもらえるかな」
「あ、はい……あっ!」
「ご、ごめん!」
「いえ。くすぐったかっただけです。どうぞ…お続け下さい」

 なんか、脳裏に先輩の顔がちらついていている。
 翡翠の肌はすべすべして、触っていて気持ち良いのだが…
 かなりの後ろめたさと、見つかったらお仕置きされる事への大きな不安で、とても感触を楽しむどころでない。
 このまま触っていたいという気持ちもあるが、いくらなんでも命と引き換えには出来るほど、俺は人生を達観しきってはいない。

「コレくらい塗ればもう大丈夫。かな?」
「あ、はい。それでは…」

 いそいそと水着を整えると、顔を真っ赤にして走り去ってしまった。
 なんか、今日の翡翠はやけに変……だよな。
 わざわざワケを聞くのもなんだし、先輩に見つからなかった分、良しとしなくてはな。

「………」
「………」

 隣に無言で座ってきた人が、今一番会いたくない人にかなり似ている気がするが、恐くて横を向いて顔を確かめることが出来ない。
 本能が逃避するよう訴えるが、体が逃げられないと悟って硬直してしまって動かない。
 なのに心臓は、やかましいくらい動悸が速まってきている。

「志貴君」
「は、はい!」
「私にもオイルを塗ってもらえます♪」

 「にも」をあえて強調し、恐すぎるくらいの笑顔で俺の目を見つめるその人が、俺には死神が死刑宣告書を突き付けている様に写る。

「さて。向こうの岩場に行きましょうか」

 ………遠野志貴
 牧師さんの手によって死刑決定。
 
 
 

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