人柱・前夜
真夏の昼下がりの喫茶店。
ついさきほど一学期の終業式を終えた俺は、待ち合わせをしていたシエルと昼食としゃれ込んでいた。
巷を騒がせていた吸血鬼の一件からもう半年以上経った。……が、今だシエルと秋葉の仲は壊滅的に悪い。
相性の悪さもあるのだろうが、それ以上に遠野志貴がシエル…先輩と付き合っているという事がさらに火を煽っているのだろう。
後の二人はシエルに非友好的と言うわけではないが、それぞれ思うところがあるらしく、そのとばっちりが俺に回ってくる。
翡翠は、シエルが迎えとか家に来るたびに、冷たい視線と態度を示してくるし、琥珀さんはいつもと変わらないが、帰りが少しでも遅いと その笑顔のまま、自白剤入りの食事を俺に取らせようとする。
……正直言って、勘弁して欲しい。
「志貴君?どうかしました?」
「うん。見惚れていたんだ、先輩はいつも可愛いな。って」
「………はぁ。志貴君って、何でそうすぐに意地悪をするんですか?」
「ごめんごめん。で、お詫びってわけじゃないけど……」
少し赤くなって拗ねる先輩に苦笑しつつも、俺はテーブルの上に一枚の紙切れを差し出す。
「……これって、ホテルの宿泊券ですか?」
「うん。さっき終業式が終わった後、教室で有彦のやつが『姉貴がなんか急に都合が悪くなってな、さすがに捨てるわけにもいかないからお前に恵んでやる』とか言って、俺によこしたんです」
「でも、良かったんですか?なんか高そうですけど…」
「ああ、なんか懸賞か何かで当てたのはいいけど、キャンセルしてもお金が戻ってくるわけでもなかった。だったらせめて、誰かに有意義に使ってもらおうか。ってことで、俺の方に回ってきたみたいですよ」
普段、俺が遠野家と…というより秋葉と折り合いがいまいちよくないのを見かねて、これを渡してくれた。
……なんてことを、有彦がいちいち気にしたりするはずも無いだろうが、どうであれ、人の行為を無下にするのは失礼になるだろう。
もらえる物はもらっておく。がポリシーの俺としては断る理由も無く、ありがたく頂戴したと言うわけだ。
「でも、乾君も残念ですね。久しぶりのお姉さんとの旅行だったんでしょ?」
「…いや、俺がもらったときはなんか笑ってたな」
大方、開き直って別の計画でも立てたのだろう。
気が付けば有彦とは数年の付き合いになるが、あいつの落ち込んだ姿ってろくに見た事がない気がする。
案外、『家族で』というのが面倒かったのかもしれない。
「なんか、まだオープンしたばかりのホテルらしいよ。それでさ、その……一緒に行けないかなって思って……」
「はい、何とかしましょう」
即答。
間髪入れずにシエルから返事が返ってきた。
「え?でも、予約は今度の土曜になってるけど……、大丈夫?」
「ええ。志貴君と行けるなら、いつでも行っちゃいます」
しれっと嬉しい事を言ってくれる。
だが、そのあっさりとした解答の裏にちょっと照れ隠しが入っているのが俺にはわかった。
……か、かわいい。
あまり人目が無かったら、衝動的にキスのひとつでもしていたところだ。
「あ、でも。秋葉達はどうしよう……」
「そうですね、あの妹さんがただで行かせてくれるはずもありませんよね〜」
「それ以上に、怒っても普段の表情と変わり無い、琥珀さんと翡翠の方が時々怖いものがあるよ」
下手をすれば琥珀さんにしびれ薬でも飲まされた上に、一日中秋葉か翡翠の監視付きで部屋に閉じ込められかねない。
去年のクリスマス。
世間の恋人達がするが如く、シエルの家に泊まりに行こうとしたら本当にそうされたしな……あの時は尋問のおまけも付いたか。
「そう言えば。乾君からもらってチケットって、何枚あります?」
「ええっと。ちょうど五枚……ってまさか、あのー、シエルさん?本気ですか!?」
「あら、私はいつだって本気ですよ。それに、志貴君が私の物だって解ってもらういい機会ですから」
思わず「さん」づけになってしまった俺に、チケットを握り締め、にこにこしながら言うシエル。
その笑顔とは裏腹に背後に何かとてつもなく黒いオーラを見た気がして、俺はそれ以上何も言えなかった。
夕方、途方にくれたまま屋敷への道を辿っていると、屋敷の門の前で立ち尽くしている人影が見えた。
あれって……翡翠だよな。
門の前で出迎えなんて、そういえば、何ヶ月ぶりだったかな。
「どうしたんだ翡翠。門の前で出迎えなんて…」
「あ、志貴さま。昼頃に乾さんからお電話がありました」
有彦のやつ。まさか、いまさら返してくれ。ってことは無いだろうな。
でも、それだったら翡翠が門の前で出迎えるほどの事じゃない。よな……
「それで……志貴さまにホテルの宿泊券を差し上げたので、みんなで行って来て下さいと……」
「有彦のやつ。そういう事だったのか……」
チケットをよこす時に笑っていたのは、ただ単に開き直っていたのではなく、事前に家にばらして俺をからかう気だったのか?!
だとすると、翡翠が門の前で待っていたのって……
「もしかして、期待して表で待ってた。とか?」
「い、いえ……」
「大丈夫だよ。ちゃんとみんなで行ける分はあるから」
笑いながら言うと、「あ、」と翡翠は少しばかり伏せていた顔を挙げて驚いた表情をする。
でも、頬を赤くしてすぐに俯いてしまった。
「は……はい。ありがとうございます……」
「ん。まあ、みんな……特に翡翠にはいつもお世話になりっぱなしだからね。せめて、こんなときぐらいはお礼をしないと」
「そんな事、ありません……それと、秋葉さまが居間の方でお待ちかねです」
「……え?もう秋葉の耳に入ってるの?」
まあ、普段電話に出るのは琥珀さんなんだから、そこから主人である秋葉の耳に入るのは当たり前か。
とはいえ、そうなるとますます先輩の事を切り出しにくくなるなぁ。
先輩。かなり闘志を燃やしているようだったよな……というか、そうとしか見えなかったし。
居間にはソファで紅茶をすすっている秋葉と琥珀さんの姿があった。
と、俺の気配に秋葉が笑顔で出迎える。
「あら、兄さん。お帰りなさい」
「志貴さん、話は聞きましたよ。なんでもホテルの宿泊券を頂いたとか」
「ええ、まあ。でもどうしようか迷っているところなんです」
迷っているのは嘘じゃない。
だがそれは、行くかどうかではなく、先輩の件をどうするかどうかではあるが。
「よろしいのでは?たまにはみんなで旅行してみるのも」
秋葉は上機嫌で喜んでいる。
旅行は去年の暮れに行ったきり、遠出らしい遠出はしたことはなかったっけ。
琥珀さん達も楽しみにしてるみたいだし「これは無かった事に」なんて、とても言い出せる雰囲気じゃない。
「じゃあ秋葉さま。早速明日にでも水着の買出しに行きましょうか」
「そうね。翡翠も連れて繁華街にでも行ってみるとしましょ」
なんだか二人だけで意気揚々と話が進んで行く。
ここでシエルの事を切り出したら五体満足では済まないと、本能が強く警告している。
俺は以前その恐ろしさを味わっただけに、その本能に異議を唱えずに、強く賛同することにした。
そしてその翌日、繁華街のデパート。
よく漫画とかで、彼女の買い物に付き合わされてへとへとになっている彼氏の図を見るが…
まさか自分が似た経験をするとは思いもよらなかった。
「ほら秋葉さま。こんなのはいかがですか?」
「ちょ、ちょっと。これはさすがに……」
「……でも、これくらいじゃないと志貴さんを悩殺できませんよ」
「べ、別にそんなつもりはっ!」
別に荷物持ちをさせられているわけではない。
だが、端で女性達の買い物を見ているというのは、男としては結構暇なものだ。
デパートにある女性用の水着コーナーで、女性三人組は水着選びに没頭している。
俺は売り場から少しばかり離れた所に設置されているベンチに座り、思考を別の所に持って行って時間を潰す。
「……さん。……志貴さんってば!」
「あ、ああ…琥珀さん」
いかんいかん。ちょっとボーっとしてたな。
どうやら何度も俺を呼んでいたらしく、琥珀さんがすぐ目の前で俺の目を覗きこむようにして、その上に少しばかり怒っている。
「もう、だめじゃないですか。せっかくの皆さんでのお買い物なんですよ」
「うん…でも、自分の分はもう買ったし……あの輪の内に入るのはちょっと気が引けて…」
ずいっ、と顔が触れるか否かくらい近づかれ、しどろもどろとなるが、俺の視線は琥珀さんの瞳に釘付けになって離すことができない。
綺麗な瞳だなぁ……って、そうじゃなくって。
「あの、琥珀さん?そろそろ離れてもらわないと、秋葉に誤解されてどやされるんですけど」
だがにっこり笑うだけで何も答えず、俺の頬に手を添えてそのまま唇を……
「姉さん」
「「!!」」
「ひ、翡翠!?こ、これはその、だな……」
「翡翠ちゃん!?…いつからそこにいたの?」
「……さきほどから、秋葉さまがお呼びですが」
「そ、そうね。早く行かないと……」
本当に、いつの間に琥珀さんの背後にいたのか。
琥珀さんはいつも通りの笑顔を繕って売り場の方に戻って行くが、一滴の汗を垂らしているのを俺の目は見逃さなかった。
「………」
「………」
「あのさ、翡翠。琥珀さんは寝ていた俺を起こそうとしただけで、別にやましい事は何もしてない……と思う」
「……まだ買い物が残ってますので、失礼します。ごゆっくりお休みを」
……やっぱり琥珀さんにキスされかかった事、怒ってるよな。
ほとんど見向きもせずに行っちゃったよ。
俺もかなり後ろめたかったから、呼びとめられなかったけど。
…………?
なんか、向こうの別の売り場に先輩によく似た人がいるような……
先輩によく似た人は、かなり怒ったような顔をしてこちらに近づいて……って、似てるとかどうとかじゃなく、アレは先輩本人じゃないか?!
まずい、あの様子だと間違いなくさっきの琥珀さんとの事を見てしまっている。
「お隣に座っても良いですか?」
あわてて逃げ出そうにも、もう時既に遅し。
既にシエルは俺の目の前でぴたりと立ち止まり、近づいてくるまでの表情とは一変して、怖いくらいの作り笑顔になっている。
さっきの事はこの場で、じっくりと追及しますね。という意味を多分に含んでる気がして、背中に冷たい刃物を当てられたような感触が走る。
そして隣に座った先輩に両手で俺の片手を握られ、これで逃亡を仕掛ける事も不可能になった。
……もっとも、脚力においても人間離れしている先輩から逃げ通せる事などできるはずも無いのだが。
まるで、いつ始まるかもしれぬ死刑執行を牢獄で待つ死刑囚のような気分だ。
「……あのさ、先輩が思っている事はただの冤罪で、さっきのは未遂で終わったんだけど」
「私には、志貴君が何の事を言ってるのか良くわかりません。私はたまたまここに買い物に来ただけですから」
だったら先輩、せめて両手に込めている力を抜いてください。
だんだんと痛みが増してきている気がするんですけど。
「そんな事をしなくたって、俺が愛しているのは先輩だって」
「でも、まんざらでもなさそうでしたよね〜」
「〜〜〜〜〜〜!」
あ痛たたたたたた!!
先輩。爪、爪立ってるっ!
いい加減許してください!!
「あら。先輩もお買い物ですか」
「ええ、ちょっと水着とかを買いに来ました」
うっ。
秋葉のやつ、いつの間にやら戻ってきて、なんかこっちを睨んでる。
「兄さん。どうやら私はお邪魔のようですね」
「秋葉、何怒ってるんだ?先輩とここで会ったのはたまたまなんだぞ」
「仲良さそうに手を繋いでるのにですか?」
秋葉は睨む。というより、呆れた顔をして俺を見る。
突然の秋葉の登場で忘れていたが、そういえばずっと手を握り締められてたんだっけ。
「先輩。そろそろ手を離してくれないかな?……その、さっきのは反省してるからさ」
「別に良いじゃないですか。それとも、私と手を繋ぐのは嫌ですか?」
はにかみ……いや、不敵な笑みを浮かべながら俺に尋ねる。
……これって絶対、秋葉を意識して言ってるな。
秋葉もなんか眼を赤くしてるし……いや、眼どころか髪ま…で!?
ゴスッ!!
「ちょ、ちょっと志貴君?!」
いきなり世界が流れ、気が付いた時には俺は横向きに床に倒れていた。
一体何があったのかと座っていたベンチを見たら……
「………」
ベンチを支えていた鉄製の足が根元からもげている。
たぶん。いや、間違いなく秋葉がベンチの足から熱を奪って脆くして、上に乗っている俺と先輩の体重の駄目押しで壊れたんだ。
「大丈夫ですか?志貴君」
「ええ、何とか」
でも先輩。俺がこける直前、手を放して自分だけ逃げたような気がするのは気のせいですか?
「……うわっ」
ずっと握られていたその手を見てみれば、既に真っ白になっていて完全に色が失われている。
それでも爪を立てたところは跡が残っているだけで血が滲んでない分、ほんの少しだけ手加減してくれていたみたいだけど……
本当にほんの少しだけだ。
「あら兄さん。ベンチがいきなり壊れるだなんて、災難でしたね」
「あ、ああ。そうだな」
熱の略奪破壊魔は、すまし顔で俺を見る。
最早今更なので、もう俺には怒る気力もないし、第一、ベンチが崩れた音で周りの人の目を引いてしまっている。
これ以上、場が荒むのは避けたいのだが……
「…………」
「…………」
この二人は既に戦う気まんまんで、比喩を通り越した火花を散らしている。
ふと、シエルが目元を緩め……
「そういえば、今度の土曜日に皆さんで海に行くんでしたよね。私も同席する事になりましたので、よろしくお願いしますね」
「………!」
「……あら、そうなんですか。とても楽しい旅行になるでしょうね。歓迎しますわ。先輩」
シエルの突然の宣戦布告ともとれる発言に対し、口調こそ柔らかいものの、秋葉も眼がまったく笑っていない。
空中に飛び交う火花が激しさを増す中、俺にはただ傍観する事しか出来なかった。
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