一章
 

 カーテンが朝の陽射しを受け薄く輝き始めた中で、梓は寝苦しさに目を覚ました。
 寝汗に濡れた額に酷く重い動作で腕を当てる。
 早く浅い呼吸に合わせ上下していた胸の動機が徐々に収り、額に押し当てられ汗を拭うように動いていた腕の動きが不意に止まる。
 腕の隙間から覗く瞳が落ち着かなげに動き、真上の天井で止まると美しい弧を描く眉が寄り眉間に皺を刻む。

 夢を見ていた。
 それは覚えている。
 酷い悪夢だった気がする。

 寝汗を含んだパジャマのジットリとした不快な感触と身体全体を覆う倦怠感が証拠だ。

 だが、どんな夢だったのか思い出せない。

 ふっと息を吐くと思い出そうとする努力を放棄し、梓は気怠さを払うように勢いよく上体を起こした。

 今ではそうでもないが、子供の頃はうなされる事がよくあった。
 クラブを辞めて運動不足になっているせいで、睡眠が浅かったからだろう。嫌な夢なら、無理に思い出さない方がいい。
 そう考え起した身体を捻るようにして、視線を窓際の目覚まし時計に向ける。
 いつも起きる時間より三十分以上は早い時間に小さく溜息を吐き、鳴る前の目覚まし時計の赤い頭を軽く叩く。
 薄日が輝かすカーテンを勢い良く開け窓を開く。と、冷たい空気が頬を撫でていった。
 胸一杯に新鮮な空気を吸い込むとベッドから起きあがり、身体の倦怠感を払う為に軽いストレッチを始める。
 ゆっくりとした動きで暫く身体を暖め、着替えを持って風呂場に向かう。

 寝汗に濡れた身体を拭いて少し走り込めばもっと気分も良くなる。
 庭に面した廊下を歩く梓を誘うように、清々しいそよ風がそう囁きかける。
 梓は早春の爽やかな空気の中で、久ぶりに体を思う存分動かしたい衝動に駆られた。
 昼間はハイキングを楽しむ人がいる水門へと続く山道も、早朝に人の来ることは滅多にない。
 人目を憚らず思いっきり走れ、綺麗な空気と適度な柔らかさを兼ね備えた絶好のランニングコースだった。

 明るさを増す蒼空に白い雲が浮かぶ空を見上げ、梓は残念そうな溜息を一つ吐いて頭を振って誘惑を断ち切った。

 これから朝食を作るという大切な仕事があるのだ。
 普段の休日なら初音が作ってくれるので任せる処だが、今日は耕一と美冬達も泊まっている。
 八人分の食事は初音一人では荷が重すぎるし、低血圧の楓は朝食ギリギリまで眠りこけているだろう。
 千鶴はもちろん考慮する余地もない。

「あら? 早いのね」

 美冬達もご飯でいいのかな。と献立を考えながら歩いていた梓は、ふいに掛かった声に視線を上げた。
 上げた視線の先。風呂場の前で、美冬が濡れ髪をバスタオルで拭いている。
 なぜか鶴来屋の屋号の入った浴衣を着て髪を乾かす姿は、なかなかに艶っぽい。

「美冬さん? あっ、おはよう」

 まだ六時にもなっていない。
 こんな時間にどうして? と思った梓だが取りあえず朝の挨拶を済ます。
 
「おはよ。どうしたの、なにか考え込んでた見たいだけど?」
「朝食の献立をね。美冬さん達もご飯でいいのかなって思って」

 考えをそのまま口にすると、美冬はキョトンとした顔で髪を拭いていた手を止める。

「パンの方が良かったらそうするけど。コーヒーはインスタントしかないけど、紅茶なら揃ってるし」
「ああ」

 尋ねられた意味を理解していないような美冬の表情に説明を付け加えると、美冬はコクンと頷き頬を綻ばせた。

「ありがとう。でも気を使わなくても平気よ」
「遠慮ならしなくてもいいんだよ」
「言わなかったっけ? 私五歳ぐらいまでこっちで育ったから。巫結花は言うまでもないわね」
「えっ? ああ、そうだっけ」

 好き嫌いもないし。と可笑しそうに微笑む美冬の笑顔で、中国系だと聞いてからの思い込みが残っているのに気付いた梓は、照れ臭そうに頬を指で引っ掻いた。

 考えてみれば、子供の頃美冬が日本で暮らしていたのは聞いたし、巫結花だって日本で育ったのだから、食生活が自分達とそんなに違うはずがなかった。
 梓も昨夜鶴来屋で出された和食を箸を器用に扱って食べている美冬と巫結花を見ていたのだが。

「そう言えば。日本の家庭では、朝の和食が少なくなってるって聞いたけど?」
「え? う、うん。家はみそ汁とご飯って決まってるけど、朝食抜いたりパンで済ますトコが多いみたい」

 こういうのも偏見なのかな。と少し恥ずかしい気持ちになっていた梓は、眉を寄せた美冬に興味深そうに尋ねられて照れ笑いを浮かべながら頷く。
 
「感心しないわね。和食ってビタミンやミネラルの割合から言っても朝食として理想的なのに。朝食は重要なのにね」
「朝は忙しいから手間が掛る和食より、どうしても簡単なパンになっちゃうんだろうけどさ」

 美冬は梓の意見にふむと息を吐くと、感心したような視線で梓を見直す。

「でも梓は、毎朝手間暇掛けて朝食を作るんでしょ?」
「そりゃ…でも、慣れるとそう大変でもないよ」
「偉いわ。だから、みんなが健全に育ったのかしら?」

 やっぱり食生活は重要よ。と心底感心した風に言われた梓の頬は、カッと赤くなった。
 手放しに誉められるのが梓は苦手だ。
 面映ゆくて、どう答えればいいのか判らなくなる。

「あっと、引き留めてごめん。そのままだと風邪引いちゃうわね」

 照れている梓の様子を微笑ましく見ていた美冬は、汗が乾き始めている梓に気付いて心配そうに脇に避けて道を開ける。

「ううん。じゃあ、食事の用意が出来たら呼びに行くから」
「うん、楽しみにしてる。手伝いたいけど、料理だけはね」

 料理は苦手で、ごめんね。と。申し訳なさそうに両手を合わせた美冬は、何か思い付いたように浴衣の帯に手を伸ばす。
 帯から指先に挟んだ小さな小瓶を抜き出し、美冬は梓の目の高さに小瓶を持ち上げ翳して見せる。
 親指ほどの小さな瓶の中では、半分ほど入った黄色っぽい澄んだ液体が揺れている。
 
「これ使ってみる?」
「香水?」

 ううん。と美冬は首を横に振る。

「ジャスミンのエッセンス。こうやって」

 コルクの栓を抜き指先を瓶の口に当てた美冬は、梓に首筋が見え易いように髪を掻き上げて上半体を捻る。
 掻き上げられた髪の下から現れた健康そうなピンク色の項の斜め上。耳の下辺りに指を這わせた美冬は、そのまま視線だけを梓に向ける。

「一滴だけ指で付ければいいの。ここの動脈の辺りに付けると、体温で香りが広がるから。良い香りよ、付けてみない?」
「あたし?」

 他には誰もいないのだが、梓は自分を指差し聞き返していた。

「うん、気が向いたらでいいわ」

 自分を指差す梓の掌を取り小瓶を握らすと、美冬はクスリと笑う。

「あげる」
「えっ、でも……」
「ジャスミンの香りは、神経を鎮静する作用があるの。お風呂に一滴垂らして入ると、とても落ち着くわよ」

 美冬はそう言うとくるりと背を向けてしまう。

「あっ、あの美冬さん」

 昨日の温泉での様子を気に掛けてくれたのに気付いて、梓は美冬の背に呼びかけた。
 美冬は、うん、と首だけ振り向けただけで足は止めなかった。

「……ありがと」

 小声で言う梓に、美冬は微かに笑んで片手を上げただけだった。

 美冬の背中を見送り風呂場に入った梓は、小瓶のコルクを抜き鼻先に近付けてみた。
 香水ほどクセの強くない甘い香りが鼻先をくすぐる。
 美冬が髪を掻き上げたとき、漂ってくるホッとする香りと同じだった。

 梓は香水の香りが苦手だった。
 千鶴や楓も同じで、デパートの化粧品売場にはあまり近寄ろうとしない。
 化粧の濃い女性が近くに居るだけでも、香りが強すぎて我慢ができなかった。
 様々な匂いがぐちゃぐちゃに混ざり合った香りは、色彩感覚の狂った絵を無理やり見せつけらるような一種独特の気持ち悪さと嗅覚の混乱を引き起こす。
 嗅覚の優れている鬼の血を引く者は、目覚めると皆そうなるらしい。

 だが、美冬のくれた小瓶から漂う香りは、人工物ではない自然さが感じられる爽やかな香りで、嗅いでいると気持ちが落ち着いてくる気がした。

 しばらく香りを楽しんだ梓はコルクの栓を戻しパジャマを脱ぎ、熱めにセットしたシャワーの栓を開いた。
 じんわりと身体を暖める温水の雨の程良い刺激を肌に感じながら、後で付けてみようかな。と梓は考えていた。
 

 柏木家の食卓は、耕一が滞在中はとても賑やかだ。
 姉妹だけだと和気藹々としていても非常に静かなのだが、耕一一人が加わるだけで笑い声や梓と言い合う耕一の声に初音の二人を宥める声が加わり、とても賑やかになる。
 しかし、この日の朝食は更に賑やかになった。

「そうか、梓もとうとう色気付いたのかぁ?」

 梓から香るジャスミンの香りに気付いた千鶴が何げなく香水をつけているのと尋ね。照れ臭そうに頷いた梓を、早速耕一がからかいに掛かっていた。

「そんなんじゃないって言ってるだろ!」
「耕一お兄ちゃん、からかっちゃだめだよ」

 したり顔に頷く耕一に真っ赤な顔の梓が噛み付くと、初音は困った顔で耕一にぷるぷる首を振る。

「梓お姉ちゃん、とってもいい香りだよ」
「そうですよ。耕一さん、梓だってお化粧の一つも覚えてもいい頃です」

 珍しく千鶴も苦笑気味に梓の援護に回る。
 せっかく年頃の女の子らしく化粧に興味を持ち出した梓が、恥ずかしがって止めないかを気遣っているのだろう。
 耕一に向けられた千鶴の視線には、始めたばかりの化粧について男性にどうこういわれる女性の気持ちを察せないデリカシーの無さをなじるような色が微かに伺える。
 こういう部分では、やはり女性同士の連帯感の方が強い。

「別に香水を付けるのが悪いって言ってる訳じゃ……」
「……」

 言い訳がましく言った耕一は楓にも上目で睨まれ、愛想笑いを浮かべてみそ汁をすすった。

「香水じゃなくて、エッセンス」

 ぽつりと澄まし顔で千枚漬けを囓っていた美冬が、耕一の間違いを指摘する。

 食卓には姉妹と耕一の他、柳を除く美冬と巫結花が着いていた。
 少々窮屈ではあるが、元から姉妹四人では大きすぎる食卓は、耕一に巫結花と美冬を加えても問題にはならなかった。
 柳だけは、千鶴達の誘いを断り客間に下がって食事を取っている。
 巫結花の食事が終わってからでよいと言う柳に、二度手間になるからと巫結花が部屋に下がって食事を済ますように言い渡していた。
 昨夜の事といい。どうも柳の感覚では、巫結花が食事や風呂を済ませるまで控えて待っているのは当然。議論の余地のない勤めと考えている様子だった。

「どっちも花のエキスだろ? どう違うんだ?」

 ズズッと豆腐とワカメのみそ汁をすすり耕一が聞くと、美冬は蔑んだ目で耕一を見下し一言。

「無知」

 からかう色のない本気の目で見られた耕一は、小さくなって更にみそ汁をすする。が、中身のなくなっていたのに気付いて、恐る恐る初音に椀を差し出す。
 女性陣の機嫌を損ねたらしい耕一を睨んでいないのは、無表情に食事を続ける巫結花を除けば初音だけだ。

「初音ちゃん、お代わりくれる」
「うん」

 低姿勢の耕一から椀を受け取った初音は、仕方ないなあと言った笑顔で微笑み掛けてくれる。

「はい。お兄ちゃん」
「香水はブレンドしてあるんですよ」

 小さくなって畏まってみそ汁を受け取る耕一を助けるように口を開くと、千鶴は可笑しそうに目元を和らげて小さな笑みを向けた。

「ブレンド? なんか混ぜてあるの?」
「エキスだけでは絶対量が足りませんから、化学合成した香料等を加えて、薄めて香水にするんです」
「水増ししてるの?」

 一瞬キョトンとした千鶴は、酒の水増しのような耕一の言い方に苦笑いを浮かべた。

「いえ、エッセンスだけだと香りがきつい物もありますから。調香して香りを調えたり、香りが長持ちするように工夫したり色々ですね」
「ジャスミンのエキスは、朝の早い時間にホンの少ししか取れないそうです」

 食事を終えふっと息を吐いた楓は千鶴を助けるように言って箸を置き、眉を顰めて唇に指を当て考えながら続ける。

「確か百近い花から取れるのは、一滴だって」
「一滴!?」

 耕一と耕一を睨んで唸っていた梓は、あまりの少量さに目を剥いた。

「それじゃ、とてつもない希少価値なんじゃない?」

 知らん顔で食事を続ける美冬を伺いつつも、驚いた顔を向ける梓に楓はコクンと頷く。

「アロマ専門のお店でも、ごく少量しか入荷しないそうだけど……」
「でも、そんな貴重品なら……」
「優先的に送って貰ってるから、平気よ」

 申し訳なそうな梓に言い、食事を終えた美冬は満足そうに手を合わせる。

「ごちそうさま、美味しかったわ。お酒を飲んだ翌日は、特におみそ汁が美味しいって言ってたけど本当だったわね、耕一」
「そんな事言ったっけ?」
「言ったわよ、惚けちゃって。あっ、ありがとう」

 ぽりぽり頬を掻く耕一に突っ込みつつ楓からお茶を受け取り、美冬はお茶の香りを楽しむ。

「でも楓、良く知ってるわね?」
「お香とかアロマの雑誌に載ってましたから」
「それより、そんなに貴重なら、貰うわけにいかないよ」

 のんびりお茶を楽しみ楓と雑談を始めた美冬と、貰った小瓶とを代わる代わる見ていた梓は焦って言う。
 そうでなくても、美冬には洋服や化粧品を買って貰って、千鶴から散々お小言を貰ったばかりでは梓が焦るのも当然だろう。

「貴重って言っても、たかが知れてるんだけど。そうだ。じゃあ楓にあげれば? 興味があるようだし」
「え? いえ、私……」
「専用の香炉もあるけど。なければお湯を張った小皿に一滴垂らして暖めるといい香りが広がるわよ。楓って香りに敏感そうだし、いいんじゃないかな」

 一度あげた物は受け取らない。と言った態度で美冬は梓の差し出した小瓶を無視してふるふる髪を揺らす楓に笑みを向けている。

「梓、せっかくだから頂いて置きなさい」

 それまで黙って見ていた千鶴は、食事を終わらせると静かに口を開いた。

「香りが気にいったんでしょ?」
「そりゃ。だけど…」
「その代わりと言っては失礼ですけど。美冬さん」

 良いの。と問い掛けるように見る梓に頷いた千鶴は、美冬に視線を向け少し強い口調で続ける。

「これ以上のご厚意には甘えられません。それに夕べの料金を頂くわけにもいきません。それでいいですね?」

 睨むような眼差しで見詰める千鶴に、美冬は苦く笑う。
 どう見ても、千鶴には引く気はないようだ。

「判ったわ」

 でも、私からじゃなきゃいいのよね。と心の中で呟きながら美冬は頷いていた。

「梓お姉ちゃん、香り嗅がせて貰ってもいい?」
「う、うん。いいけど…」

 受け取っていいのか迷っていた梓は、初音に覗き込まれて小瓶を戸惑いながらも初音に手渡した。
 初音は受け取った瓶からコルクを抜くと、瓶の口を鼻の下に置き静かに息を吸う。

「いい香り。ねっ、楓お姉ちゃんも嗅いでみて」
「うん…ほんと、いい香り」

 初音の差し出す瓶に顔を寄せ、流れ出る甘い香りにうっとりと酔う楓と初音を見ながら、梓がほんとにいいのかなと考えていると。

「梓、気にするなって。取引相手騙す小道具なんだから、もらっとけよ」

 注意が自分から逸れた隙に大人しく食事を済ませた耕一がのんびり食後のお茶をすすりながら、今度は美冬にちょかいを出し始める。

「小道具って?」
「相手の好みに合わせるだけよ」
「油断させといて、足下掬うんだよな」

 大したことじゃないわよ。と手を振る美冬に耕一は眉をしかめて見せる。

「れっきとした正攻法。女だと思って舐めてかかる相手が悪いと思わない?」
「気の毒だと思う」
「性別で過小評価される、私は?」
「差別されて黙ってるお前じゃない」
「当然、報いは受けて貰う」
「で、どっちが気の毒だって?」
「やっぱり相手かしら?」

 小首を傾げてにやりと笑う耕一と顔を見合わせた美冬は、表情を崩しクスクス笑い出した。
 可笑しそうに笑う耕一と美冬を見ながら、梓は小さく溜息を吐いていた。

 どうも調子が出ない。
 いつもの自分の居場所を美冬に奪われたような。それでいて美冬の方が、断然耕一と息が合っている気がする。
 子供の馴れ合いのような言い合いでない何か。
 互いに認め合い通じる処のある美冬と耕一の言い合いは、梓と耕一の子供のじゃれあいのそれとは明らかに違っていた。

「それじゃ、私はそろそろ失礼しますね」

 千鶴の声にはっとなった梓は、席を立つ姉の姿を目に留めた。

「うん。午後までには終わるんだよね?」
「ええ。それ程多くはありませんから」
「じゃあ、後で」
「はい」

 優しい眼差しで見上げる耕一にコクンと頷いた千鶴は、そのまま居間を出ていってしまう。

「耕一。千鶴姉、仕事か?」
「ああ、昨日急ぎの分だけ持って帰って来たって」

 ふ〜んと頷きながらも、梓は千鶴には美冬と耕一の親しげな様子を気にした風がないのを訝しがっていた。
 千鶴が焼き餅を妬いたら妬いたで呆れるのだが、妬かないとなるとなぜか面白くない。

「忙しいんだな」
「決算期だからな。経理やらなんやら、目を通す書類だけでも大変な量だろう」
「耕一は、これからどうすんの?」
「俺か? ちょっと出掛けてくる」

 美冬達も来てるのに、またか。と思った梓は眉を顰める。
 泊まりに来ては一人でふらふら出掛けるのは、最近の耕一の行動パターンだった。
 しかし今回は様子が違った。

「楓ちゃんと初音ちゃんも一緒にどうかな?」

 視線を梓から楓と初音に移した耕一は、二人を誘っていた。

「えっ?」

 今日も耕一は一人で出掛けるのだろう。と、少し寂しそうな顔をしていた初音と楓は揃って表情を輝かせる。

「巫結花を神社に案内するんだけど、初音ちゃんと楓ちゃんも一緒に行かないかな?」

 楓と初音は意外そうに顔を見合わせ、初音が首を傾げながら問い返した。

「お兄ちゃん、神社って隣街の?」

 少し離れた隣街まで行けば、比較的大きな神社があるためか。隆山にある神社は、どこの街にもある小さな神社ばかりで、正月以外は特に人の出入りのある場所ではなかった。

「いや、近くでのいいんだ。散歩がてらどうかな?」
「あ、うん。もちろん行くよ」
「行きます」

 同じ問いを繰り返す耕一に、二人は慌てて頷く。
 気になって聞いただけで、どこの神社でも初音や楓には最初から断る気はなかった。
 答えてから、初音と楓は梓に戸惑った視線を向けた。

「梓お姉ちゃんも行くよね?」
「いいよ、あたしは」

 梓は初音の気遣わしそうな視線から目を逸らし、ぶっきらぼうに答えてしまう。

 ついと視線を逸らされた初音の方は、困った顔で梓と耕一を見比べていた。
 耕一は話していた梓を誘わずに初音と楓を誘ったのだから、一緒に行きたいなどとは意地っ張りの梓が言えるはずがない。
 お兄ちゃんが誘ってくれれば、と言う期待のこもった瞳を初音が耕一に向けていると。

「初音、梓は私と先約があるのよ」

 相変わらずなにも聞こえないように静かにお茶を楽しんでいる巫結花の隣から、申し訳なさそうに美冬が言った。 

「あ、そうなんだ」
「…美冬さん?」

 美冬と約束した覚えのない梓は、安心した笑顔で素直に頷く初音を横目で伺い、眉間に皺を寄せた顔で美冬を呼ぶ。

「お前、美冬に気功習う約束したんだろ?」
「えっ、あっ?! ああ」

 なに拗ねてんだよ。と言わんばかりに渋面を作った耕一に尋ねられた梓は、ぐっと拳を握ってカッーと顔が火照ってくる恥ずかしさに耐えた。
 仲間外れにされて拗ねているんじゃ、まるっきり子供だ。
 軽く笑って、そうだったとでも言えば良かったのだろう。
 しかし、隣でこれ見よがしに耕一が初音の頭を撫でて安心させているのを見ると、何故か素直に言えなくなってしまった。

「でも、じゃあ美冬お姉ちゃんも一緒に行かないの?」

 気不味い梓の様子を察したのか、初音は殊更に明るく美冬に話かけている。

「ごめんね。一応宗教上の理由でね」
「あの。巫結花さんは、いいんですか?」

 同じ道教なのにと思った楓は、巫結花の前で美冬に聞いていいのかと言った控えめな態度で尋ねた。

「巫結花は実家が神社だから、いいのよ」

 本人が気にしてないし。と、美冬は溜息混じりでの小声で続ける。

「実家が神社?」
「母方の方。巫結花のお母さん、そこで巫女さんやってたんだってさ」

 聞いていた話との食い違いに首を傾げる梓に耕一が答え。楓と初音がへぇ〜というように巫結花を見ると、巫結花はゆっくりと頷く。

「巫結花のお父さんね、小母さんの巫女姿に一目惚れしたそうなのよ」
「えっ、そうなんだ」

 一目惚れと聞いた途端、初音と楓の瞳がパッと煌めいた。

「でね。小母さんの家族に結婚を反対されて、小父さんったら、小母さんを連れて逃げちゃったんだって」
「駆け落ちですか?」

 眉を顰めながらも、楓は興味つつに身を乗り出す。

「そう、だけど小父さんの家でも反対されてね。二人だけでそうとう苦労したらしいわ」
「ええ! そんなの可哀想だよ」

 お茶をすする巫結花をチラチラ伺いながら、初音は胸の前で拳を握り心配そうに言う。
 初音の可哀想と顔中に書いた不安顔に見詰められた美冬は、慌てて両手を振って続けた。

「でも、小父さんの実家の方が折れてね。まあ、丸く収まったから」
「でも、お母さんのお家の方は?」

 楓の鋭い突っ込みに、美冬はグッと詰まった。

 巫結花が生まれ母方も結婚は認めたものの。巫結花の母親が亡くなった当時は、巫結花を渡せ渡さないで両家の間はかなり揉めていたのだ。
 今でも両家の関係は円滑とは言い難かった。

「まあ。巫結花は向こうにも出入りしてるし、何とか巧くやってる見たいよ」

 ちょっと話しすぎたかと後悔しながらも、美冬は愛想笑いで誤魔化す。

「だから、巫結花は巫結花なんだよな」

 仕事以外の突っ込みには意外と脆い美冬に呆れつつ、耕一も助け船を出した。

「なんだよ、それ? 巫結花ちゃんが巫結花ちゃんだって。当たり前だろ?」

 謎掛けのような言葉を使う耕一を、少し立ち直った梓は眉間を寄せて睨み付ける。
 
「名前だよ。な、ま、え」
「巫女の小母さんと、結ばれて出来た女の子だから。巫結花なのよ」
「あっ、そうか。それで巫結花ちゃんなの?」

 初音が問い掛けるように巫結花を見ると、巫結花はコクンと頷く。

「初音達の名前は、生まれた季節に因んでるのかな?」

 変わった話に乗り、美冬は素早く名前の縁起に話題を振る。

「その年始めて鳴くうぐいすの声が初音で。初音ちゃんの季節は春だよね」
「うん。わたしが生まれたの二月の終わりだから、春には少し早いのかな?」

 耕一が尋ねると、初音は嬉しそうにコクンと首を傾げる。

「楓ちゃんは、そのものズバリ。紅葉の綺麗な季節、秋の代表的な樹だしね」
「…はい」

 ぽっと頬を染め、楓は恥ずかしそうに頷く。

「えっと。梓は……」

 耕一はそこで詰まった。

「なんだよ。梓の樹ってのが、ちゃんとあるんだからな」

 梓ってなんだっけ。と困ったように見る耕一から目を逸らし、梓はぶつぶつと言った。
 本当は、よぐそみねばり。という樹の別称なのだが、名前が格好悪くて自分の口から言えるはずがない。
 耕一に笑われるのが落ちだ。

「確か枝を折ると独特の香りのする樹よ。和歌にも出てくる梓弓の材料になった樹だと思うけど」
「そうだと思う」
「開花は春だったな。梓と初音は春の生まれか」

 ぶすっとした梓を宥めるように掛けた美冬の言葉は、梓を更に渋い顔にさせた。

「あたし、夏だけど」
「まさか、きささげの方…?」

 睨むように上目で見る梓の不機嫌な顔に、不安そうな小声で呟く美冬。

「きさ…?」
「あっ! なんでもない」

 眉を顰めて聞き返す梓に両手を振り、美冬は曖昧な笑いで誤魔化す。

 梓の樹は一般的に、よぐそみねばりの別称と言われる。
 これはカバノキ科の落葉高木で梓弓の材料や版木に用いられ、春に花を付ける。
 そして梓の樹の別称を持つ樹がもう一つある。
 それが、きささぎの樹だった。
 こちらは中国南部原産のノウゼンカズラ科の落葉高木で、夏に花を付ける。
 果実は食用になると共に、利尿薬にもなった。
 もし美冬がきささげの話をしていたら、梓の機嫌が更に悪くなっていただろう事は間違いない。
 
「けどさ。弓の材料なんて、元気な梓らしくていいよな」
「ええ、ホントに……」
「どうせ、あたしには元気しか取り柄がないよ」

 いつになく不機嫌な梓は、何とか雰囲気を明るくしようとした耕一にも取り付く暇を与えない。

「美冬お姉ちゃんは、美しい冬だよね?」

 美冬の困り顔を見かねた初音が美冬の腕をそっと引き、梓に見つからないように小さく首を横に振って尋ねた。
 初音は梓が中学生の頃、クラスの男子に名前の事でからかわれて怒っていたのを思い出していた。
 初音の様子からこれ以上は梓の名前の由来に触れない方がいいと判断したのか、美冬は初音を覗き込むようにして頷く。

「うん、そう。冬に生まれたからって、芸がないでしょ?」
「ううん。わたし、綺麗な名前だと思うよ」
「ありがとう。そうだ、千鶴も私と同じ冬の生まれよね?」
「えっ? ううん」

 自信ありげに聞かれた初音は、ぷるぷる首を横に振る。

「千鶴お姉ちゃんは五月生まれだから、春だよ」
「そうなの? 千の鶴って、冬の代表的な名前だと思ったのに」
「千羽鶴、ってのもあるけどな」

 美冬が首を傾げていると、耕一がぼそっとそんな事を言う。

「耕一?」
「お兄ちゃん?」

 何となく耕一の顔が寂しそうな気がした美冬と初音が問い掛けに呼ぶと、耕一はクスリと笑って大きく伸び上がりながら肩の凝りをほぐす様に大袈裟に腕を回す。

「案外、鶴来屋の鶴から来てるのかも知れないな」
「跡取りだから?」
「さあな。兎に角、千鶴さんと梓は、季節に関係なく名付けたみたいだな。爺さんの名前を一字変えただけの俺よりマシか」
「いいじゃない。ここなら、名乗れば、ああ鶴来屋のって覚えて貰えるわよ」

 耕一のプレッシャーになるのが判っていて、美冬はさらりと言ってのける。
 耕一は美冬になにも答えず一瞥を送っただけで、巫結花の方に顔を向けた。

「巫結花、遅くなるからそろそろ行こうか? 初音ちゃんと楓ちゃんは、そのままでいいのかな?」

 巫結花は返事の替わりに音もなくスッと立ち上がり、楓も小さく頷いて腰を上げる。

「あ、うん。梓お姉ちゃん、行って来ます」
「うん。じゃあ気を付けてな」

 持っていた小瓶を梓に返した初音は、一足先に廊下に出た楓と巫結花の後を追う。

「じゃあ梓、昼飯までには帰ってくるから」
「ああ、ちゃんと用意しとくよ」

 廊下で初音と楓に巫結花を連れて玄関で待つように言うと、耕一は柳を呼びに廊下を奥へ向かった。
 梓と美冬、二人だけが残された居間は、梓には酷くがらんとして寂しく感じられた。
 

二章

目次