25.
 

軽くをノックして個室のドアを開けると、椅子から立ちあがろうとした千鶴さんと目が合った。母さんは眠っているみたいだ、いつものように。

病室に入ろうとした俺を手で制し、千鶴さんが部屋から出てきた。
「どう?」
「今日は妹達が来てたから賑やかだったわ。叔母様も楽しそうでしたし」
後ろ手にドアを閉めながら、千鶴さんが答える。夕陽に映えるそのわずかな微笑みも痛々しい。
「そうなんだ、よかった。じゃあ後は替わるよ」
「いえ、でも・・もう少しここにいますね」
 

母さんが倒れた時、俺は国道を調べ歩いていた。
部屋に戻ろうとすると楓ちゃんと初音ちゃんが急いで駆けてきた。
「どうかしたの?」
「おばちゃんが、叔母ちゃんがね」
短い距離とはいえ全力疾走したのだろう、息が切れてる。
「さっき、救急車で、・・・」
「千鶴、姉さんが、付き添って・・」

俺が千鶴さんと並んで病院の椅子に座っていると、診察室から親父が出てきた。久しぶりに見る顔は前より暗くなっている。寝てないから疲れも溜まっているのだろう。そろそろレッドゾーンかもしれない。

NHAA。それが親父から聞いた母さんの病名だ。
「なんだよそれ、聞いたこともない」
親父はたばこに火をつけ、立ったまま俺と千鶴さんに話し続ける。
NHAAというのはそう珍しい病気ではないという。日本人の場合その過半数が気づかぬうちにこの病気にかかっているらしい。たいがいの場合ちょっとした体の不調にとどまりやがて回復する。
たいがいの場合は。

「母さんはかなり重いらしい」
親父の言葉を頭の中で繰り返す。
いつもよりも白い顔をした千鶴さんが親父に問い掛けた。
「そうですか、すると入院しなくちゃいけないんですか?」
親父のたばこを持つ手が震えている。
「そういうレベルの問題ではないらしい」
俺は今なにが起きているのかよく判らなかった。現実だというのはわかっているはずなのだが、妙に周囲の色が薄い。空気すらもどこか希薄だ。

しばらく続く沈黙を親父が破る。
「とにかく俺は入院の手続きをして、あと紀子さんに電話する。報せを待っているだろうからな。千鶴ちゃんや梓ちゃん達にはいろいろ迷惑をかけるけどよろしく頼む。」
「そんな、迷惑なんて、家族じゃないですか、私達」
親父の表情はすごく深くて底が見えない。
「夏休みだし、俺にもできることが多いと思う」
親父は俺の言葉に頷くとたばこを灰皿に入れ歩き出した。
 

俺は病室で本を読んでいる。もちろん個室でそれも大き目だと思う。夜の付き添いが俺。昼は千鶴さんだ。その千鶴さんはさっき帰った。そうそう、千鶴さんには見合い話が持ち上がっていて、かの花村の息子だ、ずるずる進んでいるらしい。Mr.野塚が頑張っているのだろう。
「どう思います?」
どうって言われても。いずれにせよ今回の件で向こうのペースも崩れるだろう。
「うーん、やっぱり寂しいな、世の中のオトコの一人として」
 

「こういち」
カーテンの向こうから母さんの声がする。俺は読んでいた本を置き母さんの枕元に行く。
「もってきてくれた?」
俺は頷いてポケットの中の封筒を出す。

「あなた中を見たのね?」
「いや、見てないよ」
本当は見た。でも俺の嘘がばれたわけではないはずだ。
「見たんでしょ。そうでしょ」
母さんは俺を疑っている。それに病人に逆らってはいけない。

「ねえ母さん。母さんの昔の恋人の写真なんか見てもしかたないよ」
母さんは、えっ、と少し驚いた顔をする。
「そうよね、見ても仕方ないわよね」
「そうそう」 ”母さんだけの大切な思い出なんだからさ”
俺はなんとか前半だけで言葉を切ることに成功した。こういったデリケートな話題では、できるだけ言葉は使わない方がいい。ふとした言葉が何らかのきっかけになりかねないのだ。ただでさえ今母さんは弱っている。

おととい俺は診察室で原田という医者にコーヒーとケーキをごちそうになった。
その時にNHAAがどういう病気なのか教えてもらった。初めは疲れを感じる程度だが、やがて睡眠時間が極端に増え、そのうちに目覚めることなく・・・

「耕一」
「なに?母さん」
「あなた一晩中起きてるみたいだけど大丈夫なの?」
最近俺は昼間寝ている。今日は梓達がお見舞いに行った。誰もいないのは不用心なので母屋で昼寝をした。その間に母さんの引き出しからこの封筒を持ってきたのだ。

「大丈夫だよ、夏休みだからいくらでも昼寝できる」
「そう、でも眠くなったら私の隣に寝てくれていいのよ」
確かに大きなベッドだけどそのためにはソファがあるし、そもそも寝てしまったら付き添いの意味がないような気がする。

「こういち」
「なに?母さん」
「さっきの封筒のことだけど」
「うん」
「学校の焼却炉ででも燃やしておいてくれない」
「うん」
俺は封筒を受け取ると強引に話題を変える。
「ねえ母さん」
「どうしたの?」
「やっぱり眠くなってきた。隣で寝ていい?」
母さんはニコっと笑って俺のためのスペースを空けてくれる。

電気を暗くしてカーテンを引く。
もし母さんがいなくなったら。
親父に一番近いのは多分俺だけになる。リミッターがまた一つ外れるのだ。
「母さん、ねえ」
口を開くつもりはなかったが、勝手に言葉が飛び出た。仕方ないので言葉を続ける。
「もう少しだけこうしていてもいいでしょう?」
寝息だけでそれ以上の返事はなかった。

俺は枕代わりに布団の下に敷いた本の位置を整える。
しんしんと寝静まった夜。
遠くから蛙の声だけが響いてくる。
 
 

(注1)NHAAは架空の病気です。それから一年早いっすね。
 

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