22.
 

支度を終えた人が静かに部屋を出て行く。
まだ半分ぐらいの人は疲れ果てたように寝ている。
大部屋の数箇所にあるストーブを見ているととても8月とは思えない。
「耕一、起きろ」
私は傍らの息子を揺り動かす。

ふぁ。

耕一が眠そうな声を漏らす。
「起きろ、夜明けに間に合わないぞ」
耕一は眠そうに目をこする。もう一度声をかけようと思ったその時に、耕一が一気に体を起こした。
 

8月も下旬に入り、ツクツクホーシが喧しい頃。
「親父、暇そうだな」
私よりも暇そうな耕一がそう声をかける。何時の間にか三人称では”親父”と称されるようになり、さらに気づいた時には二人称までそうなっていた。
私は盆の繁忙期が終わり、鶴来屋に入ってから初めて数日の休みをとった。
毎年夏休みのあるコイツとは違う。

「お前こそ随分暇そうじゃないか。宿題は終わらせたのか?」
耕一はニヤっと笑ってそれに応える。数日前まで海の家でのアルバイトに明け暮れていたくせに何時の間に勉強しているのだろう。

私は暇そうに欠伸をした。その口が閉じる前に耕一が言う。
「山へ行こう」
何を言い出すのだコイツは。
「山へ行こう」
耕一はもう一度繰り返す。
山か。俺はあんまり山に登ったことがない。親父や兄貴と行ったこともないし、耕一を連れていったこともなかった。
でも今のうだったい雰囲気をぶち壊すには最適かもしれない。

そう思うと山を登りたくてしかたなくなった。
「山か、いいな。」
「だろ、だろ。二人で行こうよ」
「俺とお前でか?」
耕一は頷く。
「登山靴は持ってるか?」
「もちろん、親父は?」
「俺も昔のがあるはずだ」

ところで山といっても何処へ行こう。
「耕一はどの山に登りたい?」
「そうね。ここからだと白山か立山がいいんじゃないかな」
「どちらも手強そうだな。素人の手に負えないんじゃないか?」
俺が言うと耕一がそれに答える。

「立山だったらアルペンルートのケーブルカーがあるから結構楽だと思う」
なんだもう下調べしてるんじゃないか。
「靴と非常用の食料、防寒着、雨具、あと山をナメなければ大丈夫のはず、ガイドブックによるとね」
耕一はかなり積極的だ。
「よし、今から用意して明日出掛けよう」
 

「山?どうして?」
「山へ行くんですか?」
「そうか、立山へ行くのね」
「わたしも行こうかな」
「大丈夫なんですか?」
「遭難したりしないで下さいね」
 

山頂近くにある山小屋を出た時周囲はまだ暗かった。標高3,000mならではの突風が夜明け近くの闇を切り裂く。周りが見えないので山男達の列に付いていく。

「夜明けを見に大汝山へ行きたいんですがこちらでいいんですか?」
「そやよ。俺達に付いて来いや。お天道さんが顔をだす所を教えたるわ」
そう言って豪快に笑う。そして改めて私達を見た。

「あんたら親子なんか?」
「はい」
「ええなあ。俺にもこんな孝行息子がおったらなあ」
そう言って彼が笑い、その仲間達も一緒に笑う。
「そんなそんな、コイツはどら息子でね。鍛え直そうと思いまして」
耕一は笑いながら頭を掻いている。

「せやけどこんな軽装で大丈夫なんか?」
「私達は夜明けを見たらもう室堂に下りますから」
「ワシらは今日は縦走や」
彼の仲間が口をはさむ。
「大変ですね、頑張って下さい」
相変わらずの微笑を浮かべて耕一が言う。
「エエ子やんか」
笑い声を突風がさらっていく。

立山に3つある頂の一つ、大汝山の頂近くで山男達と別れた。ここからだと日の出が奇麗に見えるらしい。ここまで来る間に東側の空が黒から白へと色を変え、まわりが見えるようになった。ほんの10m程で頂だが、そこには私達のように日の出を待つ人達の姿が見える。私と耕一は安全を確認してから登山道の脇に腰を下ろした。

耕一が山小屋で入れ直した魔法瓶を傾けて私の方に差し出す。それから自分の分を内ブタに注ぐ。

「親父、なんで家に帰らないの?」
耕一が静かに声を掛ける。
いきなり話しにくいことを聞く奴だ。
「そんな事を聞くために山に連れ出したのか?」

「女性がいっぱいいると華やかだけどそればっかりじゃね。親父が全然帰ってこないから俺だって気を遣うんだぜ」
「悪かったな」
思ったより素直な口調で言えたことに少し驚いた。
残ったお茶を飲み干し、外ブタを耕一に返す。

「親父は俺が高校を選ぶ時も寮に入るように薦めたよな」
私は頷く。耕一は今近くの公立高校に通っている。
再び耕一は魔法瓶を傾ける。
「それは俺の”鬼”を心配してるの?」

「耕一、お前」
自分でもうろたえているとわかる声だ。
耕一はまたお茶を差し出す。
「俺迷ってたんだけど親父には言っとかなきゃいけないと思うんだ。俺はね、既に鬼に目覚めてるんだ。」

自分を落ち着けるためにまたお茶を飲む。東の空が薄い紅に染まる。

「押さえられるのか?鬼を?」
耕一は頷く。

「何時から?水門での梓ちゃん達との事は聞いてるけどその時か?」
耕一は頷く。俺の嗅覚では解らなかった。

「それでね、伯父さんのことだけど」
耕一は次から次へと話題を変える。
「俺が手を下した」

風が吹き荒ぶ中で耕一が立ち上がる。私達の後ろを登山者達がまた通りすぎる。
雲のほとんどが俺達の下にあるのがわかる。

「立ち上がってもお日さんは見えないな」
そう言いながらまた腰を下ろす。
私には言い返す言葉がない。

「だから親父も心配しないでよ、ね。家に帰って来てよ」

耕一、私が家に帰らないのは確かにお前の事もあった。
でも今はもうそれだけじゃないんだよ。
その事をお前に伝えたら、お前はどういう顔をするだろう。

兄貴を耕一が殺したというのはなぜか自然に受け入れることができた。
そして耕一が何故それを言い出したのかも解った。

『伯父さんを殺したけど俺は大丈夫だよ。だから親父も俺に気を遣うなよ』

俺自身が死にたくなった時、耕一は遠慮するなというのだ。

『そんな事は俺には負担にならないよ』

今の俺と耕一の感覚を理解できるのは親父や兄貴だけだろう。
風が防寒着はもちろん俺自身も突き抜けていくかのように感じられる。
俺はまたお茶に口をつける。

北アルプスの山々の向こうからいよいよ太陽が姿を現す。
世界に光が満ちていく。
頭上には何処までも澄みきった天上の蒼。
 

(注1)私は立山はもちろん日本海側には行ったことがありません。ガイドブックをちらっと見ただけでこの文章を書きました。だから実際の立山とは大きく異なると思います。
 

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