葬儀中、祐一と話せる機会は無かった。

 途中、弔問にいらした浩平さんと外に出ただけで、戻ってからはずっとお礼を言っては頭を下げの繰り返し。

 わたしには、その祐一の様子が泣いているように見えた。

 涙を流さずに泣いているように見えた。

 

 昨日の晩、祐一から聞いた話を思い出す。

 辛かった。

 ココロが辛かった。

 

 どうして?

 わたしもお母さんも何も悪いことしてないのに、どうしてこんなに辛い目に逢わなくちゃならないの?

 叫びたかった。

 

 だけど。

 だけどわたしは耐えられる。

 わたしの側には祐一がいてくれるから。

 祐一と二人でなら、お母さんを支えてあげる事ができる。

 三人で生きていくことが、きっとできる。

 

 だからわたしは、無理に笑って見せた。

 膝ががくがくしたけれど。

 心臓がばくばくしたけれど。

 わたしは笑顔で「大丈夫だよ」って言えた。

 

 そんなわたしを、祐一は抱きしめてくれた。

 

 

 

 そして

 

 運命の一日の

 

 

 幕が上がる

 

 

 


もしも翼があったなら

−終章−

たとえ翼は無くとも

前編

2001/01/14 久慈光樹


 

 

 

AM7:15 水瀬名雪

 

 月曜日。

 昨日の雨が嘘のように、朝の日差しがカーテンの隙間から差し込んでいる。

 わたしは珍しく、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

 

「ちょっと残念、かな」

 

 朝一番に祐一の声で目を覚ますのは、もはやわたしの中では日課となりつつある。

 だけど、ま、いいか。

 だって本物の祐一がいるんだもの。

 パジャマのままで祐一の部屋に向かう。

 昨晩わたしを愛してくれた後、祐一は部屋に戻って眠ったはずだ。

 その時のことを思い出し、一人赤面してしまう。

 

 ガチャ

 

「うきゃ!」

 

 丁度その時、ドアが開いて祐一が出てきた。

 思わず声を上げてしまう。

 

「わっ! なんだ名雪か。 ん? どうしたんだ、赤い顔して」

「な、なんでもないよ!」

 

 まさか昨晩のことを思い出していたなんて言えない。

 

「ふーん、まあいいや。それにしても名雪が一人で起きてくるなんて珍しい事もあるもんだ」

「わたしもたまには一人で起きられるよ」

「どうだかな。 それより今日も学校だろ。早く朝ご飯食べてこいよ」

「あれ? 祐一は?」

「俺は今日も休む。まだ忌引扱いになるだろうからな」

「あっ、ずるい」

「ふふふ、まぁ今日は土曜で半日だ、あきらめて学校行ってこい」

「うー」

「さあ早く下行って朝ご飯食べて来いよ」

 

 あれ?

 何か変。

 祐一はわたしを早く部屋の前から去らせたいみたい。

 

「祐一は食べないの?」

「あ、ああ。すぐに行くよ」

「ふーん、じゃあ先に行ってるね」

 

 わたしはそう言って、階段を降りようとする。

 

 ガチャ

 

 祐一が部屋に入ろうとドアを空けた時、振り返って部屋の中を覗く。

 チラッとしか見えなかったが、なんだか部屋の荷物が散乱していた。

 朝から掃除でもしているのかな?

 気にはなったのだけれど、そのままわたしは階段を降りてお母さんの用意してくれた朝ご飯を食べる。

 結局わたしが学校へ行く時間になっても祐一は降りてこなかった。

 

 

 

AM8:40 相沢祐一

 

 名雪が学校へ行った後、俺は朝食を食べる為に一階に降りた。

 これ以上名雪と顔を合わせていると決意が鈍ってしまいそうな気がしたから。

 玄関を出て学校へと向かう名雪の後ろ姿を二階の窓から眺め、俺はそっと呟く。

 

「さよなら、名雪」

 

 

 

「お義兄さん、お茶をどうぞ」

「やっ、これは済みませんな」

 

 一階に降りると、ちょうど親父は朝ご飯を終え、秋子さんがいれてくれたお茶を美味そうに啜っているところだった。

 

「あら祐一さん、おはようございます。朝ご飯は?」

「おはようございます秋子さん。なんか食欲が無いんで、お茶だけ下さい」

「名雪ちゃんはとっくに学校行ったぞ、ぐうたら息子」

「うるせえ」

「まあまあ。ところでお義兄さんはいつまで日本にいらっしゃるんですか?」

「明後日には戻るつもりです」

「まあ、そんなに早く?」

「なんだかんだで1月近く会社を休みましたからな、それに……」

 

「この家は居心地が良過ぎます」

「え?」

 

 親父は言ってから、しまった、という顔をした。

 

「いやいや、何より料理が美味い! 何せ祐一の料理はさっぱりですからなぁ」

「親父だって同じようなもんじゃねーか」

 

 俺も調子を合わせる。

 親父が何を言い掛けたのか、何を言いたかったのか、今の俺にはよく分かる。

 

「これからは一人暮らしだからな、ちょっとくらいは料理も巧くなるさ」

 

 そう言って親父は笑う。

 暗に「お前はここに残れ」と言っているのだ。

 秋子さんは何も言わず、やや複雑な面持ちで俺達のやりとりを見守っている。

 3人が3人とも、最も口に出して伝えたい事を伝えられないでいる。

 それは傍から見れば滑稽な光景だったろう。

 だが親父は、そして多分秋子さんも、俺がここに残る事を望んでいるということは痛いほど分かった。

 だけど俺は……。

 

「俺は……」

「祐一!」

 

 言い掛けた俺の言葉を、やや強い口調で親父が遮る。

 俺が何を言い出すのか、分かっているのだろう。だが構わず続けた。 

 

 

 

「俺は、親父についていくよ」

 

 

 

 その言葉は、今までの危うい均衡を全て打ち壊す槌のようだった。

 親父も秋子さんも何も言わず俺の目を見ている。

 続きを促すようでもあり、それ以上言うなと止めるようでもあり。

 だが俺は更に言葉を紡ぐ。自分の決めた事を宣言するように。自分に言い聞かせるように。

 

「俺は親父とストックホルムで暮らす」

 

 長い沈黙。

 そしてその沈黙を破ったのは親父だった。

 怖いくらい真剣な顔で、俺に言葉を投げる。

 

「……祐一、それがどういう事か分かっているのか」

「……」

「日本に帰れるのが何年先になるかも分からない、それ以前にもう二度と帰ってこれないかもしれない。お前はそれを分かって言っているのか」

 

 親父の視線は、俺を刺し貫くように鋭かった。

 

「分かってる、分かってるさ。考えた、俺はバカだけど、バカなりに考えたんだ」

「祐一さん……」

「考えて考えて、その末に出した結論だ、決して思い付きで言っているわけじゃない」

「……」

 

 親父は何も言わず、俺の目をじっと見つめる。

 まるで、親としてではなく、男として俺に何かを問い掛けるように。

 常の俺であれば堪えられないような厳しい視線。だが決して目を逸らさない。俺は決めたんだ、誰にも頼らず、自分で決めた事なんだ。

 きっと、後悔するのだろう。だけど俺は決めたんだ。

 

「祐一」

「何だよ」

「本当に考えたのか?」

「え?」

「本当に、考えたのか?」

「考えたさ」

「……」

 

 そのまま俺たちは睨み合うかのような視線を交し合う。

 やがて、親父が視線を弱めた。

 

「しょうがないな」

 

 親父のその言葉を聞き、俺も視線を弱める。

 

「出発は明後日の10時だ」

「ありがとう、親父」

「ふん」

 

 親父は、そういって鼻を鳴らすと席を立ち、あてがわれた客室へと戻って行った。

 

「秋子さん」

 

 ずっと無言で俺と親父のやりとりを聞いていた秋子さんに話し掛ける。

 

「秋子さん、お話があります……」

 

 秋子さんは、無言のままだった。

 

 

 

 

AM9:20 父

 

 ジーッ

 

 ボストンバックの口を閉める。

 これで荷物は最後だ。元々長居する気は無かった為、荷物もこれ一つだ。

 一息ついて、床に腰を下ろす。

 何故か、タバコが吸いたい気分だった。もう20年近く一本も吸ったことが無いというのに、だ。

 あいつと一緒になってから、タバコは止めた。 

 結婚前は割合に吸う方だったし、やめるなんて考えてもみなかった。

 よく、結婚したらタバコを止めたなんて話を聞くが、自分には関係の無い話だと思っていた。

 だが、結局それからは一本も吸わなかったし、吸いたいとも思わなくなった。

 

 

 『考えたさ』

 

 先ほどの祐一の言葉が脳裏を過る。

 

「ちったぁ成長したと思ったんだがな」

 

 あのバカ息子め。

 まだまだ世間知らずのお子様だ。

 自分が今、何をすべきなのか。

 それが分からないうちはいくら図体がでかくとも子供だ。

 そっと溜息をつく。

 

 そのバカ息子に悟られないように。

 秋子さんに声をかけてから、家を出た。

 

 

 

 

 墓地。

 死者の、眠る場所。

 平日の午前ということもあり、人気の無いその場所は生ある者を拒むようでもあり、悼む者の来訪を歓迎しているようでもあり。

 あいつの墓は、そんな雰囲気の中にその真新しい出で立ちと共にひっそりと建っている。

 

 故郷であるこの地に葬ることは、あいつを永遠に失った時から決めていた事だ。

 納骨も滞りなく行われ、今あいつはこの地に眠っている。

 

 

 あいつはこの地に眠ることを喜ぶだろうか?

 墓地へ向かう道すがら、そんなことを考えた。

 若い頃から転勤続きで、苦労ばかりかけた気がする。あいつはそんなことを口に出す事はなかったが。

 

 北のこの街、寒がりだった妻。だけどあいつは雪が好きだった。

 儚く、脆い。

 そんな雪が、好きだった。

 ここならイヤというほど堪能できるだろう。

 

 そのくせ冬になるといつも寒い寒いとボヤいていたことを思い出し、口元が緩む。

 俺を置いて一人で逝っちまった罰だ。せいぜい祐一と一緒にこの街で寒い思いをするがいい。

 

 そう、祐一と一緒に。

 

 朝はああ言ったものの、祐一を連れて行く気は無い。今日の午後に日本を立つ飛行機に乗る予定だった。

 やつにはこの地に残っていて欲しい。だからこそ、ここにあいつの墓を建てたのだから。

 

 

 やがて墓地が見えてくる。

 何の変哲も無い和式の墓石。この下に、あいつは眠っている。

 真新しい墓石、真新しい花。

 

 そしてその場所には、先客がいた。

 

「よお、遅かったじゃないか」

「祐一……」

 

 小高い丘の上にあるこの墓地は、風が強い。

 あいつの墓の前、風にふかれ佇んでいたのは、祐一だった。

 手に大きなボストンバッグを下げて。

 

「なぜ、ここにいる?」

 

 恐らくそう聞かれることを予期していたのだろう。祐一は少しも意外そうな顔をせずに答える。

 

「どうせひねくれ者の親父のことだ、こうなるんじゃないかとは思ってたよ」

 

 無言のまま息子の前を横切り、妻の墓前に花を供え両手を合わせる。

 祐一は何も言わず、じっとこちらを見ていた。

 

 目を瞑りこれからのあいつの眠りが安らかなることを願う。

 

 やがて目を開き、懐からここに来る前に買ったタバコを取り出した。懐かしい匂い。

 

「親父、それ」

「若い頃、吸っていた」

 

 祐一の問いにそれだけ答えると、1本取り出し、強い風に苦労しながら火をつける。

 18年ぶりのタバコだ、少しは咽るかと思ったがそんなことはなく、紫煙が肺を満たしていくのを心地よく感じる。

 

 しばらくは沈黙が続いた。

 風の音だけが、物言わぬ2人を包むように聞こえてくる。

 

 

「父さんがここに来なかったら、どうするつもりだった?」

 

 その沈黙を破るように、紫煙を吐き出し、問う。

 唐突とも言える問いだったが、息子の答えは明瞭だった。

 

「必ず来ると、思っていたよ」

「そうか」

 

 随分短くなったタバコを、一緒に買った携帯用灰皿に押し付ける。続けざまにもう一本咥え、火をつけた。

 

「タバコ、いつから吸わなくなったんだ?」

 

 その問いには答えず、そっけないほどの口調で言った。

 

 

 

「祐一、お前はここに残れ」

 

 

 風が、二人の間を通りぬけ、通りすぎていく。

 どれほどそうしていただろう。やがて、息子が口を開いた。

 

「……嫌だ」

 

 祐一のその声は、風の音にかき消される寸前の大きさで、耳に届く。

 

「ガキみたいな我侭を言ってるんじゃない」

「嫌だ」

「祐一」

「嫌だ」

「祐一!」

「嫌だっ!」

 

「……」

「……」

 

「じゃあ聞く、お前、あっちに一緒に行ったとして学校はどうするつもりだ」

「……」

「高校だけじゃない、大学、その先は就職のことだってある」

「なんとか、するさ……」

「ほう、どう“何とかする”んだ?」

「……」

「学校はどうにかなったとしよう、だが父さんがまた転勤にならんとは限らんのだぞ」

「……」

「そのときはどうする? また転校するのか? 言葉も通じない、学ぶべき内容も日本とは違うだろう。ましてや就職ともなれば尚更だ。お前が考えているほど、外の国は甘くない」

 

 じっと下を向き、唇を噛み締める祐一。

 言い過ぎただろうか? だが、それが現実だった。

 

「それと」

 

 そこで一旦言葉を切る。そして、言った。

 

「名雪ちゃんのことはどうするつもりだ?」

 

 駄目押し、だった。

 祐一の体が傍から見てもそれと分かるほど、びくりと震える。恐らくこいつが最も懸念しているであろう事実。

 

「祐一、お前はここに残れ。別に今生の別れってわけじゃないんだ」

「……」

「お前はここに残って、父さんの帰ってくる場所になってくれ。そう思って母さんの墓はここに建てたんだからな」

「……」

「いいな、祐一」

 

 

 吹きすさぶ風。

 下を向いたまま押し黙る祐一。

 内心の葛藤を表すように、握り締めた拳が微かに震えていた。

 

 

 どのくらいそうしていただろうか。

 

「……親父」

 

 俯いたまま、ぽつりと呟くように祐一は口を開いた。

 

「俺たち、家族、だよな?」

「ああ、当たり前だ」

 

 相変わらず顔を上げない祐一。

 いつのまにか、その握り締められていた拳は解かれていた。

 

「家族、なんだよな」

「ああ」

「だったら……」

 

「だったら…… どうして離れ離れになって暮らさなきゃならないんだ?」

 

 その言葉を聞いた瞬間、不意にカッとした。

 痛いところを、負い目に感じていたところを、突かれたからかもしれない。

 気がつけば、叱りつけるように叫んでいた。

 

「家族ってそんなもんか!! 離れ離れで暮らすくらいで揺らぐほど弱いもんか!」

 

 相変わらず祐一は下を向いたままだ。

 だがそんなことはお構いなしに語を接ぐ。

 

「祐一!! 家族って何だ? 家族の絆ってものは、それくらいで途切れちまうものなのか!」

 

 そして、なおも続ける。

 

「お前と父さんと、そして母さんは離れて暮らしていたから家族じゃないとでも言うのか!!」

 

 その言葉を発した瞬間。

 その言葉を聞いた瞬間。

 ずっと俯いていた祐一が勢いよく顔を上げた。そして睨み付けるように、叩きつけるように、叫んだ。

 

「俺は母さんの最期を見取る事すらできなかったじゃねぇかっ!!」

 

「……!!」

「家族って何だって言ったよな!」

 

「そんなこと、こっちが聞きてえよ! 家族って何だ! 家族の絆って何だ!」

「大好きな…… 大好きだった母さんの死に目にすら逢えない!」

「そんなのが……」

 

 

「そんなのが家族って呼べるのかよぉ!!」

 

 

 

 

PM13:00 水瀬名雪

 

 土曜日の学校はなんだか物足りない。

 決して勉強が好きなわけじゃないけれど、それでも何となくそんなことを思う。

 いつもだったら部活があるのだけれど、今日はお休み。

 最近はお母さんのこともあり、部活を休みがちだ。それはそれで仕方のない事だし、みんなも分かってくれている。

 だけど今日はサボり。

 祐一が家にいると思うだけで、とても部活に身が入るとは思えないから。

 ごめんね、みんな。

 帰り道も思わず走ってしまって、自分でも可笑しくなる。

 

「ただいまー!」

 

 元気よく玄関に飛びこんだわたしは、そのまま祐一の部屋へ。

 

「祐一ー、ただい……」

 

 言葉が、途切れた。

 そこには、何も無かった。

 

 布団も。

 マンガも。

 服も。

 そして祐一自身さえも。

 なにも、無かった。

 

「ゆう、い、ち?」

 

 心の奥深くで。

 わたしはこの事を予期していたのかもしれなかった。

 絶対に、認めたくはなかったけれど。

 わたしはこの事を予期していたのかもしれなかった。

 

 いやだ!!

 

 予期していたのかも

 

 いやだ!! 絶対にイヤダ!!

 

 イツカラ?

 

 イヤだ! 嫌だ!!

 

 今朝、祐一の様子はおかしかった。

 

 嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!!

 

 昨日の葬儀の時もおかしかった。

 

 嫌! 嫌! 嫌! 嫌! 嫌!

 

 ひょっとしたら、祐一のお母さまが亡くなった時から、こうなることは分かっていたのかも……。

 

 イヤ!! イヤ!! イヤ!! イヤ!!

 イヤァ!!!!!

 

 

 ココロが、バラバラになってしまうようだった。

 立っていられなくて、ぺたりと床に腰を下ろす。

 涙と、鼻水で、顔がぐちゃぐちゃで。

 子供のようにしゃくりあげて。

 わたしは祐一の部屋で、一人。

 ただ、座り込んでいることしかできなかった。

 

 

 

 

PM13:10 折原留美

 

 あいつは今日、仕事を休んだ。

 朝から、なんだか似合いもしないしかめっ面をして、一人で考え込んでいた。

 私は何も聞かなかった。何か相談事があるのなら、あいつの方から言ってくるだろう。

 悔しいけどそんなあいつの事が心配だった、だから私も会社を休んだ。

 朝から、ずっと二人して黙り込んだまま、無為な時間を過ごした。

 

 あいつのことは多分本人以上に分かってる。

 きっとまた、他人の厄介事をしょい込んだに違いない。

 一見傍若無人を装っているけれど、あいつは自分自身の悩みを表に出す事は絶対にしない。

 表面上、「なんでもない」って顔をして、自分一人で苦しんで、自分で自分を押しつぶしてしまうくらいに苦しんで、それでも他人には絶対にその事を悟らせない。

 こんな風に悩み込んでいる時は、大抵他人の厄介事をしょい込んでしまっている時だ。

 他人が苦しんでいる時には絶対にそれを見過ごすことができない。まるで自分の事のように悩み込む。そのくせ、いつだって自分の事は後回し。

 呆れるくらいお人好しで、どうしようもないくらいひねくれ者で。

 だけど、そんなあいつだから私はこれからの人生を共に歩もうと思ったのだ。

 どうしようもないお人好しで、どうしようもないひねくれ者なこいつと、共に歩もうと決めたのだ。

 

「留美、これは例えばの話なんだが」

 

 あいつがこんな事を言い出したのは、お昼を少し過ぎ、そろそろお昼ご飯の用意をしなくてはと思い始めた頃だった。

 

「何?」

 

 私に話してくれる気になったことを、凄く嬉しく思いながらも態度には出さないでわざとつっけんどんな対応をとってしまう。

 私も浩平のことは言えないかもしれない。

 

「例えば、お互いに好き合っている男女がいるとする」

「何よ、いきなり」

「いいから。 で、その女の子は、実は“だよもん星人”だったんだ」

「はぁ??」

 

 突然何を言い出すのよ、このバカは。

 

「二人は男の子の母親と一緒に幸せに暮らし続けるはずだった、でも事件が起きた、“だよもん星”にいた女の子のお母さんが急に亡くなったんだ」

「……」

「お互いに離れ離れにはなりたくない、だけど一人ぼっちになってしまったお父さんを一人母星に残しておけない女の子は、“だよもん星”に帰らなければならない」

「……それで?」

「女の子は悩んだ、なにしろ“だよもん星”は遠い所だ、一度帰ってしまえば次にいつ地球に帰ってこれるかわからないんだからな」

 

 ここまで聞いて確信した。

 いかにも浩平らしいバカバカしい例えだけど、これはきっと名雪ちゃんと祐一くんのことだ。恐らく、二人のうちの誰かから相談を受けたのだろう。

 そしてそれはきっと祐一くんじゃないかと思う。

 浩平の言うところの“だよもん星”ってのは、きっと祐一くんのお父さまがいらっしゃる外国で、“女の子”ってのは祐一くんなんだ。

 

「それで、その女の子はどうしたの?」

「彼女は…… 決心したんだ。“だよもん星”に帰ろうって」

「そんな! じゃあ残された名雪ちゃんはどうなるのよ!」

「だから、例えばの話だ!」

 

 珍しく、浩平は感情を露にしてそう叫んだ。

 あくまで例え話で通したいらしい。そんな浩平の様子が、ひどく苦しげなので私も仕方なくそれに乗る事にする。

 

「わかった。 で? 残された男の子の気持ちは考えないわけ? 残される者の気持ちはこれっぽっちも考えないわけ?」

「その女の子だって考えたさ、考えて考えて、それで出した結論なんだ。どうして俺にそれを止められる? 祐一は、自分が後悔することを知っていて、それでも決断した。俺にはそんな祐一を止めることができなかった! だけど……」

 

 浩平はまるで自分の事のように苦しそうな表情で言う。途中から、例え話じゃなくなってしまっている事に、自分自身で気付かないほどに。

 ああ、こいつはまた他人の事を自分より優先させて考えてる。

 いや、祐一くんを自分に重ねているのかもしれない。

 恐らく、浩平自身気付いてはいないのだろう。祐一くんの今の状況が、10年前の自分の状況と表面上酷似しているという事に。

 

 丸1年間、私は浩平の事を待った。

 いつ帰ってくるのかも分からない、そもそも帰ってくるのかどうかすら分からない。そんな状況で待つ身の辛さ。そして浩平もそんな私の辛さを痛いほど知っているはずだ。

 だからこそ、悩んでいるのだろう。

 同じ男として祐一くんの決断に賛同しながらも、恐らくはずっと待ち続けるであろう名雪ちゃんの事を考えて苦しんでいるんだろう。

 やっぱりこいつはバカだ。どうしようもないくらい大バカだ。

 他人の事で、それもたった1、2ヶ月ほど前に知り合ったばかりの他人の事で、こんなにも自分を苦しめて。

 だけど、それでこそ浩平だと思う。

 

「浩平」

 

 苦しそうな浩平に、そっと抱き付く。

 ピクリと震えた浩平だったけど、すぐに私を抱きしめてくれる。あったかい。

 

 私は何をすべきなのか、ちゃんと分かってる。

 浩平は、きっともう結論を出している。名雪ちゃんの想いも祐一くんの想いも知っているから、身をもって知っているから。

 だから自分と同じ過ちを繰り返させない為に、本当は何をしたらいいのか分かっているはずだ。

 私がすることは、背中を押してあげるだけ。

 

「ねえ、浩平。私、祐一くんがそう決めたならそれでいいと思う。だけど、名雪ちゃんにはちゃんと伝えたの?」

「……いや、あいつは伝えずに日本を発つつもりだ」

「それはダメ、それはダメよ! それじゃあまりにも名雪ちゃんが救われない。ねえ浩平、名雪ちゃんにちゃんと伝えよう? 祐一くんが伝えられないのなら、私たちが伝えてあげよう?」

「留美……」

「私たち、10年前は随分とすれ違ったよね? すれ違いで悲しい思いをしたよね? だけど名雪ちゃんと祐一くんにはそんな思いをさせちゃダメよ。 あの二人には、私たちと同じ過ちを繰り返させちゃダメなのよ」

 

 必死だった。

 私も、必死だった。

 

「……そうだな、そうなんだよな!」

 

 そう言った時の浩平の目は、真っ直ぐに前を向いていた。今までの悩みや苦しみは、もうその瞳からは読み取れなかった。

 ああ、こいつがこの目になったときはもう大丈夫。

 しっかりと前を見据えたこの目になったときは、もうなんにも心配は要らない。

 

「ありがとう、留美。俺は危うく自分と同じ過ちを祐一に犯させる所だった。お前と同じ悲しみを、名雪ちゃんに味あわすところだった」

「うん」

「留美、お前はやっぱり最高の奥さんだよ!」

「うふふ、ばーか」

 

 いい顔してる。

 しっかりと前を向いて走り始めたこいつは、もう誰にも止められない。

 私はしっかりとついて行くだけだ。

 しっかりと寄り添って。 いつまでも、いつまでも寄り添って。こいつについて行くだけだ。

 

 

「行こう、まだ時間はある。名雪ちゃんの家に行こう。名雪ちゃんに伝えるんだ、ちゃんと伝えるんだ!」

「はい!」

 

 名雪ちゃんと祐一くん。

 あの二人には、私たちが犯した過ちを繰り返して欲しくない。

 私と浩平の思いは、同じだった。

 

 

 

 

<つづく>
 

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