悩んで、一歩も前に進めないよりも、後悔することになっても前に進もうと決めた

 

 

 


もしも翼があったなら

−第六章−

決意

2000/12/09 久慈光樹

 

 

 

 俺がストックホルムに滞在して、半月が経った。

 この半月間、親父は手続きの為にそこらじゅうを飛びまわっていた。

 特に難儀したのは火葬の手配だったらしい、北欧は土葬が一般的で火葬の習慣はあまり無いのだそうだ。

 それでもなんとか手続きを済ませ、母さんは荼毘(だび)に付された。

 片手で持てるくらいの壷に、お骨を収めた。

 今は木箱に入れて、居間のテーブルに置かれている。苦労して手に入れた日本製の線香をあげた。

 

「明日の飛行機を予約した、忘れ物が無いようにな」

「あのさ、親父」

「ん? なんだ?」

「……いや、何でも無い」

 

 俺は未だに決めかねていた。

 これからどうするべきなのか。

 母さんを失い、独りぼっちになってしまう親父。そんな親父の側にいてやりたいと思う。

 だけど、俺は名雪の側にいたかった。

 大切な、本当に大切に思っている名雪の側に、俺自身いたいと思った。

 だけど……。

 

「明日は早いぞ、今日はもう寝ろ」

 

 時計を見ると、いつのまにか11時を過ぎていた。

 半月の滞在で時差ぼけは解消されたが、久しぶりに名雪に逢えるという気持ちと迷いから、暫く眠気は訪れそうになかった。

 

「ああ、適当に時間を見て寝るよ」

「そうしろ、じゃあ父さんは寝るぞ」

「おやすみ」

「ああ、おやすみ、祐一」

 

 そう言い残して親父は寝室へ向かう。

 しかし、その足がふと止まった。

 

「どうしたんだ?」

「祐一、今のうちにお前に渡しておきたいものがある」

「渡しておきたいもの?」

 

 親父はポケットを探り、手のひらに乗せたそれを俺に差し出した。

 

「母さんの、形見だ」

 

 それは指輪だった。

 いつも母さんがしていたのを思い出す。

 決して派手ではなく、綺麗な宝石が飾られているわけでもない銀のリング。

 だがそれは暖かな光りを放っているようだった、なぜか母さんらしいと感じる。

 

「これはな、父さんが結婚する時に、贈ったものだ」

「……」

 

 促す親父に急かされるように、その指輪をそっと手に取る。

 指輪、母さんの指輪。

 母さんと親父の、思い出の指輪。

 

「いいのかよ、俺なんかが貰っても」

「いいさ、その方がきっと母さんも喜ぶ。父さんもその方が嬉しい」

「……大事に、するよ」

「ふふ、お前が大事に持っててもしょうがないだろ。お前が将来を共有したいと思う人と出会ったなら、いつかそれを渡してやれ」

 

 将来を共有したい人。

 一番大事な人。

 名雪……。

 

「わかった。ありがとう、父さん」

「ふふふ、お前に“父さん”なんて呼ばれたの、何年ぶりだろうな」

 

 目を細めてそう言う親父。

 そういえばいつからだろう、親父のことを“父さん”と呼ばなくなったのは。

 

「じゃあ寝るぞ、あまり夜更かしするなよ」

「ああ、おやすみ」

「おやすみ、祐一」

 

 今度こそ本当に親父は寝室に消えた。

 渡された指輪を、じっと見つめる。

 親父はどんな想いでこれを母さんに贈り、そして今俺に託したのだろうか。

 

 自分の中で、迷い、漂う霧のようだった思考が、この時、少しずつ形になっていくのを、俺はぼんやりと感じていた。

 翌朝、俺と親父、そして俺の腕の中の母さんはストックホルムを後にした。

 

 

 

 

 半月ぶりの日本。

 半月ぶりの水瀬家。

 半月ぶりの名雪。

 

「お帰りなさい…… 祐一」

 

 名雪は目に涙を溜めて、俺を迎えてくれた。

 

「ただいま、名雪」

 

 ただいま、か。

 考えてみれば、この家に戻るのに「帰ってくる」というのもおかしな話だ。

 だけど、紛れも無く俺は「帰ってきた」と感じている。

 水瀬の家に。

 名雪の元に。

 

「お義兄さん、この度は何と申し上げてよいか」

「いえ。秋子さんこそ気を落とさずに」

 

 親父と秋子さんの会話。

 秋子さんは、俺の腕の中にある母さんを、そっと手でなぞる。

 

「姉さん、お帰りなさい」

 

 その声音には、悲痛な色はなかったけれど、どうしようもない哀しみが含まれているように感じられた。

 そうだ、そこまで頭がまわらなかったが、秋子さんはたった一人の姉妹を失ったんだ。

 この世でたった一人の姉を失った秋子さん、その哀しみは俺や親父に劣るものではないだろう。

 自らも足に後遺症を負い、そして今また大切な家族を失う。

 秋子さん自身はこんなにも強く生きているのに。

 きっと今の秋子さんを支えているのは、名雪の存在だろう。

 

 最愛の娘。

 名雪の存在が、どれほど秋子さんの励みになっていることか。

 そして名雪も秋子さんを支えにしている。

 互いが互いを支え合う。

 本当の家族なんだ、この二人は。

 

 

 二人の支えになってやれ。

 

 

 医師の折原先生に言われた言葉を思い出す。

 大丈夫だよ。

 折原先生、この二人は俺なんかが支えてやるまでも無いよ。

 

「どうしたの? ぼんやりして」

 

 考えこんでいた俺は、名雪の声で我に返る。

 

「あ、ああ、いや、なんでもない。ちょっと時差ぼけ気味なんだ」

「そっか、じゃあ少し休んだ方がいいよ。祐一の部屋はそのまんまになってるからね」

「そうさせてもらうか」

「じゃあお義兄さんは客間を使ってくださいな」

「済みません、秋子さん。しばらくご厄介になります」

 

 親父と秋子さんは、そのまま葬儀の手筈を整える為に話をするとの事で、俺はもうすっかり自分の部屋と化した二階の部屋で少し休むことにした。

 

「で? なんで名雪が付いてくるんだ?」

「うにゅ?」

「うにゅ? じゃない」

「うにゃ?」

「うにゃ? でもない」

 

 ベッドに寝転んだ俺を、名雪は床に腰掛けてニコニコしながら眺めている。

 

「わたしのことは気にしなくていいよ」

「気にしなくていいって言われてもなぁ」

 

 しばらくそのまま俺を見ていた名雪だったが、やがてベッドに横たわる俺に近づき、ギュッとしがみついてきた。

 

「お、おい、名雪」

「祐一だ、本物の祐一だ」

「名雪……」

 

 そんな名雪が愛しくなり、俺も抱きしめる。

 

 とくん、とくん、とくん

 

 互いの心臓の音を聞きながら、俺たちはしばらくベッドの上で抱き合っていた。

 やがて顔を上げた名雪の目には、涙が溢れ出していた。

 

「あれ? おかしいな、祐一に逢えて嬉しいのに、祐一にギュッてしてもらって嬉しいのに。どうして涙が出ちゃうのかな」

「名雪……」

「ごめんね、ごめんね、祐一」

「どうして名雪が謝る」

「だって、だってわたし、祐一が一番大変な時に側にいてあげることもできなくて、祐一は、祐一はわたしが大変な時には、ずっと側にいてくれたのに、支えてくれたのに」

 

 子供のように泣きじゃくる名雪。

 ずっと気にしていたんだろう。

 

「バカだな」

 

 できるだけ優しく頭を撫でてやりながら、俺はゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡ぐ。

 

「名雪はいつだって俺を支えてくれていたよ。これまで、そう、初めて会ったときからずっとな」

「うっ、ひっく」

「あの頃は気が付かなかったけど、今ならわかる。名雪の存在がどれだけ俺の支えだったか。だからもう泣くな、名雪が泣いていると俺も悲しい。やっぱり名雪には笑顔が一番よく似合うよ」

「うっ、祐一、祐一ぃ!」

 

 それからしばらく名雪は泣きつづけた。

 俺はそんな名雪を抱きしめて、頭をなでてやる。

 やがて落ち着いたのか、ちょっぴり恥ずかしいそうに顔を上げた。

 しばらく見詰め合った後、名雪がそっと目を閉じる。

 ゆっくりと二人の唇が寄り添い、重なろうとした瞬間……。

 

 ギシッ

 

 ぎくぅ!

 

 廊下の軋む音に、俺も名雪も心臓が飛び出すくらいびっくりして、慌てて離れる。

 ドアを見ると。

 

 じー……。

 じー……。

 

 片目だけ覗かせて、親父と秋子さんがドアにへばりついていた。

 

「見つかってしまいましたね、お義兄さん」

「そうですね、秋子さん」

「あ、あんたらなぁ!」

「あらあら、怒られてしまいましたね、お義兄さん」

「我が息子ながら、心の狭い男ですなぁ」

「お、お母さんっ!」

「おやおや、名雪ちゃんにまで怒られてしまいましたな」

「我が娘ながら、ケチですわねぇ」

 

 とりあえず、二人を部屋の前から追い払った。

 

 なんか疲れた……。

 ふと名雪と目が合う。

 名雪も疲れ果てたような顔をしていた。

 

「「ぷっ!」」

「あはははっ」

「あはははっ」

 

 なんだか可笑しくなって、俺達はしばらく笑い続けた。

 母さんを失って、こんなに笑ったのは初めてかもしれない。

 

「あはははっ」

「あはははっ」

 

 少しずつ

 少しずつ形になってく俺の決意。

 もう迷いの霧は、完全に晴れようとしていた。

 

 俺は顔から笑いを消し、真剣な表情になって名雪に話しかけた。

 

「名雪」

「うにゅ?」

「話しておきたいことがある……」

 

 

 

 

 葬儀の日は朝から雨だった。

 厚くたちこめる雲と降りしきる冷たい雨が、葬儀という日にぴったりだと思った。

 喪主である親父の横で正座しながら、弔問に来た人々に頭を下げる。

 黙々と、同じ行為を繰り返す。

 

 頭を下げ。

 お礼を言い。

 

 頭を下げ。

 お礼を言い。

 

 頭を下げ。

 お礼を言い。

 

 頭を下げ……。

 

 まるで自分が人形になってしまったような錯覚を覚える。

 血の通わない、ゼンマイ仕掛けの自動人形。

 

「祐一」

 

 いつのまにか、俺達の前には折原先生とその奥さんらしき女の人が座っていた。

 

「このたびは、誠に残念なことで……」

「ご弔問、ありがとうございます……」

 

 もう聞き飽きた親父と弔問客のやり取りだった。

 

「祐一、気を、しっかりな」

「はい……」

「ちょっと席を外せるかい? 座りっぱなしじゃ疲れるだろう」

 

 折原先生は、俺にそう声をかけてくれる。

 

「ああ、そうしなさい、祐一」

 

 親父にも薦められ、俺は折原先生と二人で外に出た。

 雨をしのぐ為に傘を差して。

 

 サー……

 

 霧雨と言うのだろうか。

 

「嫌な雨だな」

 

 折原先生は、傘の下から空を見上げ、ぽつりと呟いた。

 

「そうですか? 葬式には相応しい天気だと思いますけど」

 

 俺の言葉に、しばらくこちらをじっと見ていたが、やがて元のように空を見上げる。

 

「そうだな」

 

 サー……

 

 霧のような雨。

 ほとんど音もなく降りしきる。

 

「あの日も……」

 

 またもや折原先生がぽつりと呟いた。

 

「あの日もこんな風に雨が降っていた」

「あの日?」

「……」

 

 俺の問いには答えず、じっと空を見つめる。

 

 サー……

 

 どのくらいそうしていただろう。

 ゆっくりと俺に顔を向け、じっと目を見る。

 いつか見た、すべてに疲れ果てたような。迷子の子供のような。

 俺がその視線に耐えられなくなる寸前、折原先生が再び口を開いた。

 

「前に、俺がなぜ医者になろうと思ったのか聞いたよな?」

「え、ええ」

 

 その視線に、口調に、気圧されながらも肯定の言葉を返す。

 

「俺には、妹がいたんだ」

 

 昔を懐かしむようであり、耐えられない痛みに晒されているようであり。

 だが、その言葉が過去形であった事には気がついていた。

 

「俺達には父親がいなくてな、小さな俺は小さなあいつに少しでも父親を感じて欲しくて、色々と馬鹿もやったよ。父親参観に出ようと画策したりとかな」

 

 そう語る折原先生には悲哀の色はなく、むしろ口元には笑みすら浮かんでいた。

 

「だけど、あいつは、みさおは体を悪くした」

 

 サー……

 

 みさお、というのが妹さんの名前だったのだろう。

 いつのまにか、口元の笑みは消え、ぞっとするような無表情が彼の顔を彩っている。

 

「俺の見ている前で、あいつはどんどん病に蝕まれていった。俺にできたことは、いつも通りに振る舞うことだけだったよ。子供心になんて滑稽なんだろうと思ったものだ」

 

 俺は何も言えずに、その独白にも似た言葉を聞く。

 

「そして、みさおは死んだ」

「……」

「葬式は今日のような、音のない雨の中で行われたよ」

 

 サー……

 

「祐一、悲しみに押し潰されそうになった時、それから逃れる一番いい方法はなんだと思う?」

 

 突然の問い掛けに、俺はやや虚を突かれた。

 

「え…… そうですね…… 他に何か没頭できる事を見つけるとか……」

「違うな、忘れるのさ」

「!」

「悲しい事も、どうしようもなく辛い事も、忘れてしまえば存在しなかったのと同じ事だからな」

 

 俺は、その言葉に奇妙な既視感を覚えた。

 忘れる。

 忘れること……。

 

 独白は続く。

 

「人の精神ってやつはよくできていてな、普通なら忘れられるわけが無いような事でも、いざとなれば忘れる事ができる。きっと一種の防衛本能みたいなものが働くんだろうな」

「……」

「だけど、忘れたはずなのに。覚えていないはずなのに。いつだって俺の抜け殻の心には、今日のような、あの時のような音の無い雨が降り続けていた」

 

 サー……

 

 折原先生の言葉に、意外なほど俺は動揺していた。

 忘れる。

 俺は何かを忘れている。

 だが、それを思い出す事はついにできなかった。

 

「だけど、俺はあいつの、留美のおかげで全てを思い出し、その上で自分を取り戻すことができた。心の雨は止み、前に進むことができたんだ」

「留美さんって、さっき隣にいた女の人ですね」

「ああ、俺の奥さんだよ」

 

 微笑む。

 自分を取り戻したものだけが許される、慈しみに満ちた笑みだった。

 

「それからな、俺は医者になろうと決意したんだ。みさおの時のようにただ見ているしかできないなんて、まっぴらだ。全ての人を救えなくとも、何もできないよりは遥かにましだからな」

「そうだったんですか」

「……祐一」

「はい?」

「なぜ急にこんな話をしたか、分かるか?」

「……いえ」

「俺が自分を取り戻したとき、留美と一緒にこの世界で生きて行こうと決意したとき、今のお前はその時の俺と同じ目をしているよ」

「!」

「何かを、決意した目をな」

 

 態度に出したつもりは全くなかったし、誰にも言うつもりはなかった。だが、目の前のこの人には目を見ただけで見抜かれてしまっている。

 

「よかったら、聞かせてくれないか? 祐一、お前が何を決意したのかを」

「……」

 

 サー……

 

「……昨日、秋子さんの足の事を名雪に話しました。リハビリを続けても、完全に元には戻らない、って」

「……そうか」

「正直言って、泣き叫ばれることを覚悟してました。秋子さんが事故に遭った時のように、抜け殻のようになってしまうかもしれないって覚悟してました」

「それで?」

 

 俺はそこで目を閉じ、昨晩の事を思い浮かべながら話を続ける。

 

 サー……

 

「名雪のやつ、ぶるぶる震えて、立っていられないくらいに震えて、それでも笑ったんです」

「……」

「真っ青になりながら。 わたしなら大丈夫だよ、って。お母さんはわたしが支えるから、って」

「そうか、名雪ちゃんが」

「そんな名雪を見て、俺は分かったんです。名雪なら、俺の好きになった名雪なら、秋子さんと支えあって生きていける」

「祐一、お前……」

 

 

 

「俺、親父と一緒にストックホルムで暮らします」

 

 

 

 サー……

 

 

 

「その事、名雪ちゃんには?」

「伝えてません、親父と秋子さんには明日話すつもりです」

「伝えないで行くつもりか?」

「……」

 

 サー……

 

「その目をした人間に、何を言っても無駄だってことは身を持って知ってるからな。俺は何も言わないよ」

「はい」

「だけどな、祐一。その決断、多分、後悔するぞ」

 

 後悔。

 そう、きっと俺は後悔するだろう。

 でも……。

 

「でも、前に進もうと決めたんです。悩んで、一歩も前に進めないよりも、後悔することになっても前に進もうと決めたんです」

「……そうか」

 

 サー……

 

「折原先生」

「浩平でいい」

「……浩平さん。一つお願いしてもいいですか?」

「ものによるな」

「これを、名雪に渡して欲しいんです」

 

 喪服の懐から、一枚の手紙と、そして指輪。

 名雪に宛てた手紙、そして母さんの形見の指輪。

 本当は秋子さんにお願いしようと思っていた。

 だが今は、折原先生…… いや、浩平さんにお願いするのが一番だと思う。

 

「これを名雪ちゃんに渡せばいいんだな?」

「はい。俺と親父は明日には日本を発ちます。その後で渡してやって下さい」

「……」

 

 浩平さんは、差し出したそれには目を向けず、じっと俺の目を見据えた。

 俺も、その目を逸らすことなく見返す。

 迷いが無かったといえば嘘になる。

 名雪と離れ離れになることに、他でもない俺自信が一番恐怖している。

 

 だけど

 俺は決めたんだ。

 

 サー……

 

「……わかった。これは確かに預かる」

 

 どのくらいそうしていただろう。

 浩平さんはそう言って、差し出した手紙と指輪を預かってくれた。

 

「浩平さん、俺がこんなこと頼める立場じゃ無いことは分かってます。浩平さんにそんな義理が無いことも承知してます。ですけど…… 名雪と、秋子さんのこと、お願いします」

「ああ、できる限りの事はするよ」

「お願い、します」

 

 サー……

 

 霧の雨はいつまでも降り続いていた。

 

 

 

 

<つづく>
 

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