一年後の食卓 結末編
千鶴さんはあのあと、結局本当に旅に出てしまった。
鶴来屋の副社長である足立さんの所にかかってきた電話によると、いまは釧路にいるらしい。
千鶴さんの傷心が早く癒されることを祈りながら、同時にこの旅が長いものになりそうだとも思っている。
梓はいきなり蔵から飛び出して一昼夜隆山の山中を駆け回った後、捜索班の手によって保護されそのまま入院の運びとなった。野山を駆けめぐった激しい衰弱のせいだと先生は言ったが、後で俺にだけ梓の衰弱は心因性のものであることを告げ、親切にも良い精神科医を紹介してくれた。
グラマーでセクシャルな大人のオンナに反転した初音ちゃんも、グラビア美女もびっくりの爆乳になっていた楓ちゃんも、あの日の夕方には反転は解け元の体にもどってしまった。
男としてものすごく残念な気分もあるが、あんな事がまた起こるくらいなら、元のままで俺はかまわないと思う。
初音ちゃんは蔵に電気がついたとき、絶叫する間もなく気を失ってしまい、気がついた時には蔵で見たことすべてを忘れていた。
楓ちゃんは気を失いはしなかったものの、しばらくは悪夢にうなされ睡眠不足になっていたようだ。
しかし同時に、自分の胸が大きいと俺が優しくなる事を発見したようで、密かに庭からタイカクハンテンダケを取ってきては自分の部屋で何か実験を繰り返している。
しかしその竹も、今はもう無い。
医者の予想を超えた回復力であっという間に退院してきた梓が、竹林を地面ごと処分してしまったからである。色の違う土で埋め立てられたその場所には強力除草剤が浸るほどふりまかれ、おそらくこれから半世紀はペンペン草もはえることはないだろう。
俺はもうすぐこの柏木の家をさり、自分の家に帰らなければいけない。
大学の休みはもう明日までで、来週からは試験なのだ。
荷物をまとめる作業が一段落ついたとき、俺は仏間に向かった。
別に親父に挨拶しようなんていう殊勝な考えがあったわけではない。ただ本当になんとなく足が仏間に向かっていたのだ。だから俺は仏壇の前にあぐらを掻いて座り、線香に火を点すでもなくただぼうっと親父の遺影を眺めていた。
そして眺めながら、俺は親父は千鶴さんの手料理を食べたことがあるのだろうかと考えた。
どうにも気になったので、俺はテレビのある居間に行ってみんなに訊いてみることにした。
「あ、お兄ちゃん。あいさつはもう終わったの?」
初音ちゃんがリンゴを器用に剥きながらにっこりと笑った。
その笑みは反転していたときとは違い、俺を安心させくつろがせるほほえみだ。
やっぱり初音ちゃんは初音ちゃんのままが良いと思いながら、まあね、と俺は微笑み返した。
「耕一さん、お茶をどうぞ」
テーブルについた俺に、横からお茶を差し出してくる楓ちゃんに俺は礼を言う。
「あ、有り難う楓ちゃん」
「いえ・・」
楓ちゃんはちょっと照れくさそうにうつむいて、自分の席に楚々と座った。
無口で感情を表に出さないおとなしい娘だから誤解されがちだけれど、楓ちゃんは本当はとってもあったかい優しい子なんだ。それを俺は知っている。
楓ちゃんが楓ちゃんとして俺の中で大事な存在であるのはまさにそこに寄るのであって、胸のあるなしは別問題なのだ。俺はそう思って楓ちゃんににこりと微笑みかけた。
すると楓ちゃんはますますうつむいて頬を真っ赤にしてしまった。かわいいなぁ。
そうおもって一人でにやにやしていると、突然後ろからお盆で頭を叩かれた。
「なに楓に目配せおくってるんだ、このスケベ」
梓がエプロンのひもを解きながら俺を下目で見て言った。
「どうせ楓のあのときの姿でも思い出してたんだろ」
「梓、それはちがうぞ。確かに今回の騒動のことを思い出してはいたが、スケベな目的のためではないぞ」
「じゃあ、なんなんだ」
「それはな・・」
俺はごほんと咳払いをして行った。
「反転してもしなくても、楓ちゃんも初音ちゃんも、みんな俺の可愛い従姉妹なんだよな・・と」
「お兄ちゃん・・・」
「耕一さん・・・」
初音ちゃんと楓ちゃんは俺の台詞を素直に受け止め、感銘を受けたようだ。
しかし素直でないもう一匹が手を振りながらせせら笑う。
「初音も楓も、こんな軽薄男のいうこと信じるなよ。どうせ本気じゃないんだから」
「何を言うか。俺はいまのは本当だぞ」
「じゃあ、あの千鶴姉も『可愛い従姉妹』と思うのか?」
梓は自分でそう言って、そのときのことを思い出してしまったらしい。
勝ち誇った顔が引きつり、目を上に上げる。
「・・・・・あ、いや。いまの無し。なしね」
あいまいにつぶやきながら梓は自分の席に着いた。
少し重い沈黙が落ちかかる前に、俺はここに来た本論を思い出した。
「そう言えば千鶴さんの料理と言えば・・・」
「やめろ耕一。その話はしたくない」
梓が耳に手を当てる。
これはよほどのトラウマが残ったらしい。
「いや、今回のじゃないんだ。ずっとまえ、つまり俺の親父が生きてた頃だよ」
三人が「親父」のキーワードにぴくりと反応した。
「親父は、千鶴さんの手料理を食べたり・・・してた?」
俺は三人の顔を眺めながらそう質問した。
梓達は目を見合わせた。そして何事か確認するようにうなずくとこういった。
「ううん。たぶん一度も」
初音ちゃんが少し悲しそうな顔をしてそう言った。皮を剥いたリンゴを皿に盛って、テーブルの真ん中に置く。
「一度も・・・? 本当にたった一度も?」
意外だった。俺がそう聞き返すとこんどは梓が言った。
「・・・本当だよ。千鶴姉は作りたがってたんだけど、あたしがいつも止めてたんだ。疲れてかえってくる叔父さんに千鶴姉の変な料理食わせて体壊されちゃ可哀想だと思ってたから」
梓もちょっとうつむいて目をそらしながら、言い訳するようにつぶやいた。
「それで結局・・・最後まで・・・」
俺は質問したことをちょっと後悔した。
梓達にとって、これはまだ辛い話題だったのかも知れない。
「すまん、梓」
「・・・謝ること無いよ、お兄ちゃん。だって・・・」
初音ちゃんが小さく微笑んで、俺に言った。
「だって今は、お兄ちゃんがいるんだもん」
「初音ちゃん・・・」
胸が詰まった。なんだか泣きそうだ。
こういうとき、この子は本当に天使だと俺は思う。
「千鶴姉さんが耕一さんに自分の手料理を食べさせたがるのはそのせいだと思います」
楓ちゃんがまぶしいような目つきで俺を見ながらそう言った。
親父に自分の手料理を食べさせてあげられなかった後悔と自責を、その息子である俺に料理を振る舞うことによって代償を得ようとしているというのだろう。
「・・・女の人はね、自分の大事な人に自分が作った料理を食べて欲しいという気持ちがあるんだよ」
初音ちゃんがそう言って、またにこりとして
「だから、今度は初音がお料理作って上げるね」
と言った。
俺は手を伸ばして初音ちゃんの頭をまたなでた。
「有り難う、初音ちゃん」
「えへへ。でもお兄ちゃん、もうかえっちゃうんだよね・・・」
急に寂しそうな顔になる。
「うん。でも、また来るよ。今度はクリスマスかな」
「本当?! お兄ちゃん」
「本当さ。約束するよ」
「じゃあ、今年のクリスマスまでにお料理うんと練習しておくね」
「楽しみにしてるよ」
俺がそう言うと初音ちゃんの表情がぱっと明るくなった。
切り替わりの早い子だ。
俺が苦笑していると、横合いから梓が俺に尋ねてきた。
「ところで耕一。なんでそんなことを訊いたのさ、突然」
「親父が千鶴さんの料理を食べたことがあるかどうか?」
「そう」
「べつに・・・たまたまそう思っただけだな」
俺は腕組みをしてそう言った。
本当にそう思っただけだ。
俺はそのとき仏壇の供え物を急に思い出した。
そして、あっと声を出して立ち上がり、仏間へ走ってゆく。
「どうしたんだよ耕一」
後ろからみんなの足音がする。
俺は仏壇の上を一瞥しただけで目的のものを見つけだした。
「これだよ、これ」
俺は仏壇に捧げられた小さな器を指さした。
梓達はそれを見て、あっと声を漏らした。
「・・・これって・・・もしかして・・」
「あの茶碗蒸し・・・・!!」
梓がびっくりしたように叫んだ。
「・・・たぶん千鶴さんは、料理を作ったときには必ず親父にも持っていっていたんだろうと思ってね」
そして、その器を無意識に見た俺のなかに千鶴さんの手料理と親父のつながりが、疑問となって浮かんできたのだろう。
俺はそのとき、新たな疑問が胸の中に浮かんでくるのを覚えた。
俺は永遠の笑みを浮かべた親父の遺影を見ながら、答えの返ってくるはずのない質問を問いかけた。
「親父ならこの茶碗蒸しを・・・食べるかな」
俺の言葉に、梓達の視線も親父の遺影に集まる。
揺れるろうそくの炎の向こうでみんなの視線を浴びて、親父はすこし困った顔をした・・・ような気がした。