「……忘れるな、エディフェル。……忘れるな。……たとえ生まれ変わっても、この俺の温もりを、この俺の抱擁を忘れるな。……きっと迎えにいく。……そして、きっとまたこうして抱きしめる。……たとえお前が忘れても、俺は絶対に忘れない……」
「……忘れない。……私も……あなたのこと……決して……忘れない。……私……ずっと……待っているから。……あなたに……再び……こうして……抱きしめてもらえる日を……ずっと……ずっと……夢みてるから……」
「……忘れない。……絶対に忘れない。……いつかまた再び巡り逢い、必ずこの手でお前を抱きしめる。……そして今度こそお前を護ってやる。……絶対に……お前を幸せにしてやるからな……」
第1幕 南カリフォルニア、パロマ山天文台
月のない夜だった。
南カリフォルニアにそびえるパロマ山。
その頂きに建つ天文台の一室。
灯りの消された室内をディスプレイの光だけが照らす制御室に楓はいた。
どこか遠い彼方の銀河であろうか。
ディスプレイには200インチ望遠鏡が捉えた渦状星雲の映像が映し出されている。
そのぼうっとした輝きを見るともなしに楓は見つめていた。
「やっぱりここだったのね、カエデ」
静まり返った室内に突然響くハスキーな女性の声。
振り向くと部屋の入り口には同僚の黒人女性が立っていた。
「居室にも観測室にもいないからどこに行ったのかと捜していたんだけど……よっぽどそうしているが好きなのね」
苦笑するように言う彼女を黙って見つめる楓。
そしてしばらくの沈黙の後
「貴方こそこんな時間にどうしたの、ジェーン。今は仮眠時間でしょ? さっき見たときには部屋の灯が消えていたからてっきり眠っていたと思ったのに」
と、つぶやくように言う。
「ぐっすり眠ってたんだけどね、電話のベルで目が覚めちゃったのよ」
「電話?」
電話という言葉にびくっと反応する楓。
「そう、貴方あての国際電話。妹さんからよ。たしかハツネ・ミウラさんでしたっけ?」
「初音から? わかりました、すぐ行きます」
そう言って立ち上がる。
「居室の方の電話に転送しておいたから」
「ありがとう」
入り口に立つジェーンの横を通り抜けると、楓は暗い廊下を走り出した。
階段を駆け上がり三つ上の階の居室に駆け込む。
暗く人気のない居室ではコードレス電話の保留ランプだけが輝いている。
卓上スタンドのスイッチを入れながら、楓はコードレス電話を手に取った。
「はい、お電話代りました」
「あ、楓姉さん? 初音です」
国際電話特有の遅延を伴って聞き覚えのある初音の声が受話器から聞こえてくる。
「待たせてごめんなさい。それで?」
「うん……さっき病院から電話があって……耕一義兄さん、亡くなったって……」
「……そう」
初音からの電話と聞いたときからこの事を予想していた楓は静かにその言葉を受け止めた。
「モルヒネのおかげで痛みもなくて、最期はまるで眠るようだったって……千鶴姉さんが……」
ノイズ混じりの初音の声にすすり泣きが加わる。
おそらく受話器の向うでは必死に涙をこらえているのだろう。
「そう……うん、ありがとう初音。わざわざ報せてくれて」
「う、ううん、そんなことないよ。……あ、あのね、姉さん」
不意に初音が口籠もる。
「なあに?」
「あの……今度はこっちに戻ってきてくれるよね?」
楓の様子を伺うように初音が訊ねる。
「…………」
「……みんな姉さんが帰ってくるのを待っているんだよ。千鶴姉さんも、梓姉さんも、私も」
「…………」
「耕一義兄さんだって、ずっと姉さんに会いたがってたんだよ」
「……」
「これが最期のお別れなんだよ。だから……お願いだから戻ってきてよ、姉さん」
「…………」
まるで縋るかのような初音の声。
しかし楓は何も答えない。
静まり返った部屋に、時計の秒針の音だけが響き渡る。
「……私はもう日本には戻れないの」
縋る初音を振り払うようにそう告げる楓。
「そんな……」
「ごめんなさい、そろそろ仕事に戻らないと」
「ちょ、姉さん、ちょっと待って!」
「取り敢えず葬儀の日時と場所が決まったらメールで知らせてちょうだい。アドレスはこの前教えた大学の方でいいから」
「姉さん! 姉さん!」
「たびたび電話をくれてありがとう。悪いけど千鶴姉さんのことお願いします」
「待って楓姉さん!」
ぶちっ、 ツーツーツー……
初音の声を遮るかのように電話を切る楓。
しばらくして再び電話の呼び出し音が鳴るが、彼女はもう受話器を取ろうとしない。
やがて諦めるかのように呼び出し音が止る。
「ごめんなさい耕一さん……でも……私はあの時、日本に戻らないと決めてしまったの……。だからもう、二度と日本には……隆山には戻れないの……」
その夜、暗い居室からは楓のすすり泣く声がいつまでもいつまでも聞こえていた。
第2幕 カリフォルニア州パサデナ、楓の自宅
ロサンゼルスの郊外15Kmほどの場所に位置する街パサデナ。
楓の勤めるカリフォルニア工科大学のキャンパスが広がり毎年元旦にはローズボールという一大イベントで盛り上がるこの街は、元々高級住宅地として発展してきた歴史を持つ。
楓の家もそんな高級住宅街の一角にあった。
日没前のひととき。
窓から西日の差し込む部屋で楓はマグカップを片手にPCのディスプレイを見つめていた。
ディスプレイに表示されているのは画面いっぱいに拡大されたWebブラウザ。
そして大きく表示された「隆山新報」の文字。
インターネットは情報に国境をなくしたとよく言われる。
遥か太平洋の反対側に居ながら日本の一地方の新聞を読むことができる状況を考えれば門外漢の楓にでも確かにそうかもしれないと思えてくる。
耕一の葬儀の翌日、隆山の地方紙は地元有数の企業である鶴来屋の社長の死を大々的に報じていた。
Webブラウザが表示する紙面には故人の業績を記した記事や地元有力者による追悼文、今後の鶴来屋に関する解説記事などが並ぶ。
そんな紙面を眺めることにより改めて耕一の死を実感する楓だった。
「耕一さん……」
遥か昔、巡り遭った人。
遥か昔、惹かれ合い、愛し合った人。
突然訪れた別れの間際、再び巡り遭うことを固く誓い合った人。
そして、再び巡り遭えた人。
楓にとって、まさに「運命の人」だった耕一。
しかしその耕一は、再び巡り遭ったこの時代では自分ではなく姉の千鶴を選んだ。
そして最後まで前世での約束を思い出さないままこの世を去っていった。
遠く異国の地に離れて暮らしながら、それでも心どこか片隅に微かな望みを抱き続けた楓の想いなど知ることもなく。
でもそれでよかったのかもしれない。
千鶴と結婚してから二十数年、耕一は社長として鶴来屋を繁栄させ、夫として千鶴と共に幸せな家庭を築き、父として二人の子供を育て上げた。
彼は自分の人生を生きてきたのだ。
次郎衛門ではなく、柏木耕一として。
そんな彼が前世の記憶を取り戻したとしても、おそらくは戸惑うばかりであったはずだから。
いや、戸惑うだけでは済まなかっただろう。
前世の記憶を取り戻すこと、それは五百年前のあの忌まわしい出来事を思い出すことなのだ。
一族の掟とはいえ、姉が実の妹を手にかけねばならなかった悲劇。
次郎衛門のもとへと走ったエディフェルの命を奪ったのは、同じ皇族四姉妹の長姉リズエルだった。
そしてそれから五百年後。
エディフェルが柏木楓として再びこの世に生を得たように、リズエルもまたこの世に生を得た。
楓の姉、柏木千鶴として。
そして次郎衛門の生まれかわりである耕一が選んだのは、再び巡り遭うことを誓い合ったはずの楓ではなく、前世で二人を引き裂いた千鶴だったのだ。
運命の皮肉というにはあまりに残酷な事実。
もしそのことを知れば、耕一は言葉では言い表せぬほどの苦悩にさいなまれることになったであろう。
幼いころから柏木家の宿命を背負わされてきた千鶴がそのことを知れば、傷付いた心はその衝撃に耐えきれず砕け散ってしまったかもしれない。
しかし二人はそのことを知らない。
知っているのは楓だけ。
五百年前の悲劇は楓の心の中にだけある真実。
そう気付いた時、楓の中に一つの決意が生まれた。
二人に前世の記憶を取り戻させてはいけない。
柏木家の長女として辛酸をなめ尽くした姉がやっと手にいれた幸せを壊してはいけない。
そのためには楓は耕一の近くにいてはいけなかった。
エルクゥは意識を信号化して干渉し合う。
前世に深い繋がりを持つ二人が近くにいれば、耕一は楓からの干渉によって前世の記憶を取り戻してしまうだろう。
そして耕一が前世の記憶を取り戻せば、今度は今の世の中で耕一と深い繋がりを持つ千鶴までが前世の記憶を取り戻してしまうかもしれない。
だから楓は離れた。
耕一のいる場所から、出来る限り遠くへ。
高校三年の進路調査の時、志望する大学を耕一のいる関東の私大から関西の国立大に変更した。
耕一が隆山で暮らすようになってからは学業の多忙を理由に隆山への帰省は出来る限り避けた。
大学院の博士課程が終了した時、恩師に頼み込んで海外の留学先を探してもらった。
そしてこの国で研究者として職を得た時、生涯この国に住むことを決意して米国籍を取得した。
耕一のいる場所から出来る限り遠くへ。
全てはそう考えての行動だった。
その楓の決意に、天は彼女が望んだ結末で報いた。
耕一が前世の記憶を取り戻すことはなく。
また千鶴が過去の忌まわしい記憶を呼び戻す事もなく。
二人が幸せなまま月日は過ぎていった。
そして耕一は耕一のままで与えられた寿命を全うし天に召されていった。
おそらく今後千鶴が前世の記憶を取り戻すこともないだろう。
五百年前の出来事を知るのはこの世で楓ただ一人。
そしていずれは楓の死と共に、知る人のない事実として歴史の彼方に埋もれていくのだろう。
少し寂しい気もするがこれでよかったのだ。
耕一の死に際してそう思う楓だった。
ピピピピッ
省電力モードへの移行を告げるPCの発信音でふと我に返る楓。
気が付けば日は既に沈み、窓の外には夜の帳がおりていた。
「いけない、もうこんな時間だわ」
マグカップを机の上に置き、立ち上がる楓。
電灯のスイッチがある部屋の入り口へ向かって歩き出す。
しかしその足は、部屋の中ほどの壁際でふと止まる。
壁際の本棚に飾られた大きなフォトスタンド。
その中には二枚の写真。
一枚は耕一を取り囲んで微笑む四姉妹。
そしてもう一枚は耕一と並んではにかむセーラー服姿の楓。
28年前の夏、耕一が東京に戻る日に撮った写真だ。
「…………」
無言で写真を見つめる楓。
写真の中には無邪気に微笑む自分の姿があった。
耕一が鬼を制御できたと知り、もう自分が耕一に影響を与えることを気遣わなくてもすむと素直に喜んだあの日。
耕一と姉が結ばれたことも知らず、やがては前世での約束も思い出してくれるだろうと素直に信じられたあの日。
人生のほんの一時、心から幸せそうな顔をすることができたあの日の自分の姿がそこにはあった。
「…………」
しばらく写真を見つめていた楓だったが、不意にフォトスタンドを手にすると、裏返し蓋を外して中の写真を取り出した。
そして本棚の前でしゃがむと、一番下の棚から客用の灰皿とライターを取り出す。
灰皿を床に置くと二枚の写真をその中に入れる。
そしてライターに火をつけると、その火を灰皿の中の写真に近づける。
引火した印画紙はくるりと反りながら炎をあげて燃えていく。
「さようなら、耕一さん……」
床にしゃがみこんだまま写真の燃える様を見つめていた楓がつぶやく。
暗闇のなか写真の炎に照らされるその頬には、涙の筋が伝っていた。
第3幕 カリフォルニア州パサデナ、カリフォルニア工科大学、楓の執務室
「それじゃあもう一度よく検討してみて。貴方の考えは悪くないと思うけど、今あるデータでそれを主張するのはちょっと危険だと思うの」
部屋を出ようとしている学生を楓はそう言って送り出した。
耕一の死から三ヶ月が経過し、楓の生活もいつも通りの忙しい毎日に戻っていた。
最近は担当の学生との打ち合わせが多い。
楓の研究室には現在博士課程の学生が3人いるのだが、そのうち二人が学位取得に向けて本格的に動き出したのだ。
この後ももう一人との打ち合わせの予定が入っている。
来週からはしばらく大学を留守にするのでその前に研究の状況をきちんと確認しておかなければならない。
「ふぅ……」
軽く息をついて自分の席に座る。
するとその振動で机の上のディスプレイにぶぅんと電源が入る。
徐々に明るくなるディスプレイではメーラがちかちかと点滅して新しいメールの到着を報せていた。
カチッ
アイコンをクリックしてメールを取り込む。
次々と表示されるメールの一覧を眺めていた楓だったが、最後の方に表示された一つのメールアドレスが目に留まった。
From: Chiduru Kashiwagi <chiduru@tsurugiya.co.jp>
「千鶴姉さんから……?」
椅子の背もたれにもたれ掛かっていた楓は体を起こすとマウスを操作してメールの本文を表示させた。
『連絡が取りたくて初音から貴方のメールアドレスを教えてもらいました。
どうしても会ってお渡ししたいものがあります。
貴方もいろいろと忙しいのだとは思いますが、一度隆山に戻ってきていただ
けないでしょうか。
お待ちしています。
千鶴』
「…………」
千鶴からのメールをじっと見つめる楓。
何故日本に戻ってこないのか。
何故隆山に戻ってこないのか。
一度戻ってこい。
元気な姿を見せてほしい。
何度も何度もそう言われ続けてきた。
手紙で、電話で、電子メールで。
古くからの友人にも、大学時代の恩師にも、姉の梓にも、妹の初音にも。
そして、生前の耕一にも。
そんな中、長姉の千鶴だけは何故か連絡すらとってこなかった。
それは楓が日本に戻ろうとしないことの意味を彼女なりに悟っていたからかもしれない。
だが今、そんな千鶴から初めてメールが届いた。
そしてそのメールは隆山への帰郷を求めている。
「…………」
カチッ
楓はしばらくそのメールを見つめていたが、やがてマウスを操作してメール
のウィンドウを閉じた。
そして何かを振り払うように立ち上がると窓際にある本棚に向かって歩き出す。
たどり着いた本棚から一冊の本を抜き出した楓はくるりと背中を向け、その
細い体を本棚に持たれかける。
手にした本のページをパラリパラリとめくる楓。
しかしその細い指は、いつの間にかページを繰ることを止めていた。
「…………」
二人の結婚式が行われた日、大学を卒業したら日本を離れようと心に決めた。
この国に来た時、もう二度と日本には戻らないと心に決めた。
それから十数年間。
時に尊敬する恩師の招請を断ってまで頑なに帰ることを拒み続けてきた日本。
今更戻れない。
今更戻るわけにはいかない。
それに戻ったところでもうあの人はいないのだから。
迷いを振り払うようにそう思ってはみるものの、やはり楓の心のなかでは千鶴からのあのメールが引っ掛かっていた。
十数年間音沙汰のなかった姉からの突然のメール。
そして
「どうしても会ってお渡ししたいものがあります」
という言葉。
パンッ
何かを決断するように手にしていた本を勢いよく閉じる楓。
そしてその本を本棚に戻すと席に戻りPCのスケジュール管理ソフトを起動する。
来週からの出張とその後のスケジュールを確認すると、楓は傍らの電話を手に取り秘書室の内線番号を押した。
プルルルルル……
プルルルルル……
「はい、秘書室です」
受話器の向うから女性にしては低い声が聞こえてくる。
「あ、スーザンかしら。私です。楓です」
「はいそうです。楓先生」
「ちょっと大至急でお願いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「はい、何でしょう?」
「来週の出張なんだけど、マウナケアからの帰りにちょっと日本に寄ってこようと思うの」
「日本に……ですか?」
受話器から聞こえるスーザンの声に戸惑いが混じる。
彼女は秘書室一番の古株で、楓にとっては準教授時代からの長い付き合いだった。
当然自分のボスが故郷である日本に行くことになりそうな学会や講演などを尽く断り続けてきたこともよく知っている。
そんな楓が突然日本に行くと言い出したのだ。
彼女の戸惑いももっともである。
「そう。それで、ハワイからの飛行機のチケットの手配をお願いしたいんだけど」
「かしこまりました。それで、ホテルの方の予約は如何致しましょうか?」
「そうね、東京都心でどこか適当にお願いします。あと、日本の国内便と列車のチケットの手配もお願いしたいの。ちょっと今からいうURLを見てもらえるかしら。http://www.……」
「はい、表示されました」
「そのページの一番最初の経路です」
「このJASのXXX便のチケットですね」
「そう、それと空港からその隆山って駅までの急行列車のチケットを」
「了解しました。それでは早速手配します」
「ええ、それじゃあお願いしますね」
そういって電話を切ると、楓は再びメーラを起動し先程の千鶴のメールへの返事を書きはじめた。
『メール拝見しました。
来週、出張でハワイに行きます。
その帰りにそちらに立ち寄らせて頂こうと思っています。
詳しくは来週また連絡します。
楓』
手短にそう書いて送信する。
そのまましばらくディスプレイを見つめていた楓だったが、スケジュール管理ソフトが会議の開始時間を知らせるポップアップを表示したのを見て我に返った。
「さて、と」
勢いよく立ち上がり机の上のバインダーを掴む楓。
そして部屋を出るとちらりと腕時計で時間を確かめ、会議室に向かって歩き始めた。
第4幕 日本、隆山
「たかやまー、たかやまー。この電車は回送電車となります。ご利用できませんのでご注意下さい」
終着駅に到着した急行列車からは人がバラバラと降りてくる。
そしてその一番最後に大きなトランクを手に下げた楓の姿があった。
「…………」
ホームにたたずみ空を見上げる楓。
雪国の春は遅い。
例年三月始めの隆山にはまだ雪が色濃く残っている。
加えて今年は例年以上に春の訪れが遅れているようだ。
二十年ぶりに訪れた隆山は灰色に煙る雪に包まれていた。
「さて、と」
しばらくそうしてたたずんだ後、大きなトランクを頃がしてホーム反対端の乗降口に向かう。
改札を通り駅舎の外に出ると、そこは再び灰色に煙る世界だった。
オフシーズンの平日に観光客の姿はなく、地元の人間はそれぞれの目的地に向かって足早に歩いている。
そんな静まり返った世界の中、客待ちをしているタクシーに向かって歩き出した楓に声がかけられた。
「失礼ですが、柏木楓様でしょうか?」
静寂を破って問いかける声に振り向くと、そこには帽子を被り制服を着た年輩の男性が立っていた。
「はい、そうですが……?」
「私、鶴来屋で運転手をしております立花と申します。本日は会長からの指示で楓様をお迎えにあがりました」
「会長……って千鶴姉さんですか?」
「はい。会長がご自宅でお待ちです。さ、どうぞこちらへ」
そう言うと、その立花と名乗った人物は楓の荷物を両手に持ち、少し離れたところに停めてある車に向かって歩き出す。
「あ、どうもすいません」
立花の後を追う楓。
彼は車のところまで来るとトランクを開け楓の荷物を納め、その後で楓を後
部座席にエスコートする。
そうして楓を載せた車は雪の舞う隆山駅を静かに出発した。
隆山の中心街を抜け、車は柏木邸のある市の北部へと走っていく。
窓の外では相変わらず雪が降り続いていた。
「変りましたね、隆山も」
窓の外を見つめながら楓がつぶやく。
「亡くなられた社長のおかげで隆山もだいぶ賑やかになりました。楓様は二十年ぶりのご帰郷だとお伺いしましたが、それですと街並みの様子なども当時とは様変わりして見えることと存じ上げます」
立花は低い声でそう答える。
「そう……ですね」
確かに雪の舞う街並みは、楓の知っているそれとは何もかもが変っていた。
二十年という時の長さを改めて感じる楓だった。
車はなおも北へと走り続け、やがて古い住宅街へと入ってくる。
そしてその一番奥、白塗りの壁と門構えを持つ広大な屋敷の前で車は停った。
立花は運転席から降りると車の反対側に回り楓を車から降ろす。
「それでは私はこれで失礼致します。会長によろしくお伝え下さい」
「どうもありがとうございました」
立花はトランクから楓の荷物を取り出すと、一礼して車に戻り、そして来た道を引き返していった。
走り去る車をしばらく見送っていた楓だったが、ふと振り返り背後の邸宅を見つめる。
何もかもが変った隆山の中で、まるでそこだけ時が止っていたかのように二十年前と変らぬ懐かしい姿がそこにはあった。
トランクを抱えて屋敷の門をくぐる。
雪に包まれた庭園を横切って玄関の前まで来ると、荷物を降ろして戸の横の呼び鈴を押す。
ピンポーン
「はーい」
ドタドタドタ……
少し高めの声と共に廊下を走る足音が響く。
そして、
ガラッ
玄関の戸が開いて中からショートカットの女の子が顔を出す。
「こ、こんにちは。ええと……」
「あっ、楓叔母さんですよね? お待ちしてましたっ!」
楓の声を遮るようにそういうと、女の子は戸を大きく開け放つ。
「どうぞどうそ。お母さーん、楓叔母さんいらっしゃったよー」
女の子が廊下の奥に向かってそう叫ぶと、まもなく中から年輩の女性が姿を現した。
「ほら知世、ちゃんとご挨拶しなきゃ駄目でしょ」
「あ、いっけなーい、忘れてた」
母親にたしなめられた女の子は口に手を当てそう言うと、体をくるりと楓の向き直す。
「柏木知世です。はじめまして、楓叔母様」
と言ってペコリとお辞儀をした。
「はじめまして、知世ちゃん」
楓もそう言って微笑む。
「それじゃあ知世、お母さんは楓叔母さんと大切な話があるから……」
「わかってます。さっき由実のところに電話したら暇してるみたいだったから、あの娘のところにでも行ってくるね」
母親の言葉を遮るように言う知世。
「でも、ご用が住んだら私の携帯に電話してよ、お母さん。私だって楓叔母さんとお話したいんだから」
「はいはい、それじゃあちゃんと電波の届くところにいてね」
「うん、それじゃあ私そろそろ行くね」
知世はそう言って再び楓の方に向き直ると
「それじゃあ楓叔母さん、後でアメリカのお話、いろいろ聞かせてくださいね」
と言い残して飛び出していった。
「ごめんなさい、とんだおてんば娘でしょ? まったく、一体誰に似たのかしら」
しばらく彼女の出ていった玄関を見つめていた母親は、苦笑するように話しかけてきた。
「そんなことないわ。知世ちゃん、元気ないい娘じゃない」
微笑みながら楓は母親の方に向き直る。そして、改めて挨拶を交わした。
「……ただいま、姉さん」
「お帰りなさい、楓。よく戻ってきてくれたわね」
二十年ぶりに生家を訪れた楓の目の前で、彼女の姉、千鶴は昔と変らない笑顔をたたえてたたずんでいた。
第5幕 柏木邸、居間
仏間で焼香を済ませると楓は居間に通された。
自分もかつて生活していたその場所は、家具などは多少変ったものの部屋の雰囲気などは記憶の中のそれとなんら変っていなかった。
楓は懐かしさのあまり、まるで珍しいものをみるかのようにキョロキョロと部屋を見回していた。
「ごめんなさいね。昔のままだから暖房を入れてもあんまり暖かくならなくて」
そう言いながら今に入ってくる千鶴。
その両手には湯飲みを載せたお盆があった。
「はい、どうそ。粗茶ですけど」
そういって楓の前に湯飲みを差し出す。
目の前の湯飲みをじっと見つめる楓。
そんな楓の様子をきょとんとした顔で見つめていた千鶴だったが、やがてあることに思い当たりややすねた調子で話しかけてきた。
「もう、楓ったら。これでも二十年以上家庭の主婦を勤めてきたのよ。一応家事一通りはこなせるようになったわ。お茶くらい、ちゃんとだせるわよ」
そんな千鶴の様子をくすりと笑うと、楓は目の前の湯飲みを手に取り、中のお茶をすする。
まだ完全には暖まりきらぬ体に、熱いお茶が心地好かった。
「でも、安心したわ」
お茶をすすりながら、ぽつりと楓が呟く。
「え?」
「姉さん、思ったよりも元気そうだから」
楓は湯飲みから口を離して千鶴の方を見る。
「そうね、『母は強し』ってところかしら」
自分の湯飲みを手に取りながら答える千鶴。
「あの子達がいると思うと頑張らなきゃって気になるの。こんなことで泣いてちゃいけないって。あと、あの子達がいてくれることで逆に励まされているのかもしれないわね」
そして、ふと寂しげな表情を浮かべて呟く。
「それに……私が塞ぎ込んだりしたら、あの人安心して眠れないと思うから……」
「…………」
千鶴の言葉に、楓は黙ってお茶をすする。
部屋を沈黙が支配する。
「ごめんなさい、何だか湿っぽくなっちゃったわね。本題に入りましょ」
そう言って立ち上がると、千鶴は後ろのタンスの引き出しを開けて何やら取り出した。
「今日来てもらったのはね、これを貴方に渡したかったからなの」
すっと白い物をテーブルの上に差し出す千鶴。
「?」
千鶴の手の先を見つめる楓。
テーブルに置かれた白い物。
それは一枚の封筒だった。
ごく普通の白い封筒だが、その表には端正な文字で
『柏木 楓 様』
と書かれている。
「……これは?」
そう言いながら、楓は問いかけるように視線を封筒から千鶴に移す。
「四十九日が過ぎてあの人のものを整理し始めたんだけど、そうしたら病院から引き上げてきた荷物の中からそれが出てきたの。多分、病院に収容された直後に書かれたものだと思うわ。どうしようかと悩んだんだけど……やっぱりこれは貴方に直接渡さなきゃいけない気がして……」
そう言って封筒を見つめる千鶴。
楓も再び視線を封筒に戻す。
死に際して耕一が残した手紙。
しかも妻である千鶴や子供達にではなく、楓に宛てた手紙。
それが今楓の目の前にある。
「耕一さんの……手紙……」
そっと封筒を手に取る楓。
しばらく手の中の封筒をじっと見つめていたが、ちらりと千鶴の方を見た後思いきったように封を開け、中の便箋を取り出す。
折り畳まれた便箋を広げると、そこには封筒に書かれていたのと同じ端正な文字が綴られていた。
「 柏木楓様
秋が少しずつ去り始め、冬の足音が聞こえてくる季節になりました。隆山では木々はすっかり葉を落し、朝夕の冷たい風は冬の到来が間近であることを告げています。貴方の住む町は、今どんな様子なのでしょうか。
早いものですね。貴方と最後に会ってからもう二十年の月日が過ぎ去りました。小さい頃から端正な日本人形を想わせる美人顔だった貴方のことです。今ではさぞや素敵な女性になられているものと思います。でも、俺にとって、瞼に映る貴方は今でも二十年前のおかっぱ頭の『楓ちゃん』のままです。だから今、貴方のことを『楓ちゃん』と呼ぶことをどうか許してください。
楓ちゃん、俺は今この手紙を病院のベッドの上で書いてます。数日前、医者から入院するように言われました。今まで駄々をこね続けてきましたがさすがにもういけないようです。君も知っているだろうけど、俺はかなり前から進行性の癌に侵されてます。医者は何も言いませんが、自分の体のことは自分が一番よくわかります。恐らく俺が生きて家に戻ることはもうないでしょう。地上最強の鬼も癌には勝てなかったみたいです。
でも、俺は幸せだと思います。君達のお父さんや俺の親父と違って俺はベッドの上で死ぬことができるのだから。それだけじゃありません。俺は伯父さんや親父のように後に残される人達のことを憂いながら死んでいかなくても済みます。息子の賢太は俺より早い時期に目覚めたにも関わらず鬼を制御できました。知世も自分の血のことをしっかりと受けとめてくれています。鶴来屋は専務の山内さんが俺のいなくなった後をきちんと引き継いでくれるでしょう。千鶴のやつも強くなりました。俺が死んでも親父の時のようなことにはならないでしょう。俺がいなくなっても、みんな力強く生きていってくれる。だから俺は安心して死ぬことができる。
ほんの数日前まで、そう、ほんの数日前まで俺は本気でそう思ってました。
でも、
俺は全て思い出してしまったんだ。遥か昔、俺が柏木耕一ではなく次郎衛門という野武士だった時のことを。そこで巡り会い、愛し合ったエディフェルという一人の鬼の娘のことを。その後二人を襲った苛烈な運命のことを。別れの間際、再び巡り遭うことを二人が固く誓い会ったことを。そして……次郎衛門が柏木耕一としてこの時代に転生したように、この時代に転生し、そして前世の約束を信じて幼いころから俺が思い出すことをずっと待ち続けたエディフェルの生まれかわりの少女のことを。
そして、全てを思い出したとき、俺には判ったんだ。君が何故急に進路を関西の大学に変えたのか。俺達が結婚した後、何故君は隆山への帰省を避け続けたのか。博士課程終了後、何故海外に留学すると言い出したのか。そして、アメリカに渡った後の二十年間、何故一度も日本に戻ろうとしなかったのか。
楓ちゃん、君は俺達の幸せを守ろうとしてくれたんだね。前世で君を殺したリズエルの生まれ変わりであるあいつと、前世での誓いも忘れて君ではなくあいつを選んでしまった俺の幸せを。小さいときから全部気付いていて、誓いを思い出せない俺のことを待ち続けてくれて、俺が君ではなくあいつを選んだことを知って誰よりも傷付いたはずなのに俺達のこと祝福してくれて、そして、自分の幸せを犠牲にしてまで俺達の幸せが壊れることを防ごうとしてくれて。
なのに、俺はそんな君の気持ちも知らずに……。
楓ちゃん、俺は今、君を残してこの世を去らなければならないことがたまらなく悔しい。本当ならば俺は今すぐ全てを捨ててでも君の元に行って俺が君にしたことの償いをしなければならないのに、俺には償いをする時間も、君の元に駆け付けるだけの力ももはや残されていない。ようやく君のこと思い出したのに、俺は君に謝ることすらできない。今の俺は、君のために何もしてあげることができない。
だから、だから、せめて俺は誓おう。もし今度俺達が同じ時代に生まれ変わったら、その時は絶対俺が先に思い出して君のことを待ち続けると。そしてもし君が俺のことに気付いてくれなくても、俺は君の幸せを全力で守ると。これは約束じゃない。俺は君に約束なんか求めることはできない。これは俺が俺自身に課した義務。たとえ君が気付いてくれなくても、俺は何度でも生まれ変わって君のことを待ち続ける。君が俺のことなんか忘れたとしても、俺はいつの時も君の幸せを守り続ける。
だから……、もし、もしもこんな俺のことを許してくれるのなら、君を待ち続ける俺に振り向いてくれないか。すぐじゃなくても構わない、次も、その次も、俺は何度生まれ変わっても君のことを待ち続ける。君が俺にしてくれたことを、罪深い俺のためにしてくれたことをずっとやり続ける。だから、もしいつかこんなバカな俺のことを許せる時が来たら、その時は声をかけてくれないか。
そのことだけを言いたくてこの手紙を書きました。死ぬ間際になってこんな都合のいいことを君に伝えたがる俺をどうか許してください。
耕一」
耕一が楓に宛てた手紙。
それは死を間近にした耕一が、約束を果たせなかったことを詫びる思いと、楓のために立てた誓いを伝えるために書いた手紙だった。
「うぐっ……えぐっ……」
居間を楓の嗚咽が充たしていく。
そして楓の頬を伝い落ちた涙が便箋の上にぼつぽつとにじみを作っていく。
「耕一……さん……こう……いち……さん」
耕一の手紙を抱いて嗚咽を繰り返す楓の声は、静まり返った邸宅にいつまでもいつまでも響き渡っていた。
第6幕 急行「たかやま」の車窓
「急行『たかやま』発車します。閉まるドアにご注意下さい」
プシューー
扉の閉まる音の後、ガタンという音と共に列車は隆山駅を発車した。
この街に着いた日とは対称的にきれいに晴れ上った空の下を列車は進んでいく。
その列車の指定席の一角に楓はいた。
ボックスシートに座った楓の膝には紫色の布に包まれた小さな包みが一つ。
その小さな包みを大切そうに抱えた楓は、陽の差し込む車窓を眺めながら先程この包みを渡されたときのことを思い出していた。
「ごめんなさいね、帰り際になってから急に」
隆山を離れる朝、楓は再び千鶴と二人きりで居間にいた。
前日の夜、大切な話があるからもう一度二人だけで話がしたいと千鶴に告げられたのだ。
楓の滞在中ずっと彼女にべったりだった姪の知世は、今日はどうしても外せない用事があるとかで朝早くに出かけていった。
「ううん、まだ電車までは時間があるから大丈夫だけど……それで姉さん、二人だけでしたい話って……」
「ええ……実はね、貴方にもう一つ持っていって欲しいものがあるの」
そう言って千鶴は紫の布に包まれた小さな包みをテーブルの上に置く。
「……これは?」
不思議そうにしばらくその包みを見つめていた楓が千鶴に問いかける。
「あの人の遺骨。納骨の時に分けておいてもらったの」
「遺骨……って耕一さんの?」
楓の問いかけに千鶴が頷く。
「でも……どうしてこれを私に?」
困惑した表情で千鶴を見つめる楓。
耕一の遺骨なら柏木家の菩提寺にある先祖代々の墓に納めるべきものであろう。
それが一部とはいえ、何故こんなところにあるのだろうか。
いや、そもそも何故そのようなものを千鶴は自分に渡そうとするのだろうか。
「あの人を……ううん、耕一さんをもう貴方に返さなきゃいけないと思って」
「えっ?」
予想外の千鶴の言葉に戸惑う楓。
だがしばらくの当惑の後、その千鶴の言葉からあることが閃いた。
「姉さん、まさか、姉さんも記憶を……」
楓の言葉に千鶴が小さく頷く。
「一体、いつ……?」
「耕一さんの意識が混濁し始めた頃だったかしら。付き添って夜病室にいる時にね、不思議な夢を見るようになったの」
呟くように語り始める千鶴。
「最初は何なのかよく判らなかったんだけど、ある夜の夢で胸を赤く染めた少女を抱きしめながら泣く野武士の姿を見たの。私はその二人を呆然と見つめていて、ふと自分の手を見ると私の両手は血でべったりと濡れていて……。それを見たとき全部思い出したのよ、500年前のことを」
そう言って、千鶴は楓の顔を見つめる。
そんな千鶴を、楓も無言のままずっと見つめている。
「そして……すぐに気付いたわ。耕一さんは次郎衛門の生まれ代わりで、貴方はエディフェルの生まれ変わり。そして貴方達はこの時代に転生した。500年前の約束を果たすために。そして……貴方は幼いころからずっと待ち続けていた。耕一さんがその約束を思い出す時を」
そこまで言ったとき、それまで微笑みさえ浮かべていたように見えた千鶴の表情が急に崩れた。
「なのに……私、また貴方達二人を引き裂いてしまったのね……。500年前、貴方をこの手にかけた私が、今度は耕一さんを貴方から奪った。耕一さんに愛される資格なんかないはずの私が……」
俯きながら話す千鶴の目からぼろぼろと大粒の涙がこぼれる。
「姉さん、そんな……」
「ううん、そうなのよ。私には最初から耕一さんに愛される資格なんかなかった。もっと早く気付いて身を引かなきゃいけなかった。それなのに……貴方はこんな私の幸せを守ろうとしてくれて……恨まれたって……罵られたって……当然だったのに……なのに貴方は……こんな私のために……自分の人生を犠牲にしてまで……貴方は……私のために……」
流れる涙を拭おうともせず、まるでうなされているかのように語り続ける千鶴。
楓もそんな千鶴を悲痛な面持ちでただ見つめ続けるだけだった。
「私……愛される資格なんかなかったのに……愛してもらえるはずなんかなかったのに……なのに……私……耕一さんを貴方から奪って……貴方はずっと辛い思いしてたのに……寂しい思いしてたのに……私……そんなこと気付きもしないで……あの人のこと一人占めにして……自分一人だけに幸せになって……」
静まり返った居間に千鶴の嗚咽だけが響き渡る。
そうしてどのくらいの時間が経過しただろうか。
「ご、ごめんなさいね、見苦しいところを見せちゃって」
ようやく落ち着きを取り戻した千鶴が、涙を手で拭いながら言う。
「だから、これを貴方に持っていって欲しいの。私が貴方から奪ってしまった耕一さんのせめてもの代りに。こんなことで許されるなんて思わないけど、今の私にはこれしかできないから……」
そう言って、テーブルの上におかれた耕一の遺骨を楓の方に差し出した。
目の前に差し出されたそれをじっと見つめる楓。
しばらくそれをじっと見つめた後、
「わかったわ、姉さん。それじゃあこれは私が頂いていきます」
そう言って包みを手元に引き寄せる。
「ありがとう、楓」
それを見て千鶴もようやくほっとしたような表情をみせる。
が、すぐに思い直して話を続ける。
「それから、これは私からのお願いなんだけど……貴方にも日本に、そして隆山に戻ってきて欲しいの」
「えっ?」
遺骨を包んだ紫の包みを見つめていた楓は、意外な申し出に驚きの表情で姉を見る。
「あ、違うの。そういう意味じゃないの」
そんな楓を見た千鶴は慌てて誤解を解こうとする。
「貴方にはアメリカでの仕事や生活があることは判っている。だからそれを捨てて戻ってこいなんて言うつもりはないわ。私が言いたかったのはね、もうこの街を避けるようなことはやめにして欲しいってことなの」
「姉さん……」
その言葉にようやく納得する楓。
「貴方がなぜこの街に戻ってこなかったかは今ではよく判っている。ううん、よく判っているつもり。だから、本当は今更こんなこと言えた義理じゃないってことも判っている。でも、でもね、私はせめてこの街だけでも貴方に返してあげたいの。返さなきゃいけないの。だって、耕一さんを奪ってしまった上にこの街まで貴方から奪ってしまったとしたら、私は、私は……」
「わかったわ、姉さん」
再び泣き崩れそうな千鶴を制するように応える楓。
「もうこの街を避けるようなことはしない。だってこの街は私の生まれ故郷なんだから。それにこの街には姉さんがいる。知世ちゃんがいる。耕一さんだっている。この街には私の大切な人達がいる。だから私はこれからもこの街に戻ってくる。大切な人達に会うために。約束するわ、姉さん」
そういって楓は微笑む。
「ありがとう、楓。ありがとう……」
泣き崩れそうになっていた千鶴は楓のその言葉を聞いて、目に涙を浮かべながらもようやく心からの笑みを浮かべるのであった。
「お手数ですが切符を拝見させて頂きます」
検札に現れた車掌の声で我に帰る楓。
「あ、はい」
手提げ鞄の中から切符を取り出して車掌に渡す。
「ありがとうございました」
車掌は受け取った切符に刻印を打って楓の手に戻した後、一礼して去っていった。
しばらくその姿を見送った後、楓は再び車窓に視線を戻す。
いつの間にか列車が高いところまで上っていたのだろう。眼下には隆山の街
並みが広がっていた。
「私……戻ってきます……貴方に会うために……これからも……」
言うともなく呟いた楓は、陽の光に照らされて輝きながら小さくなっていく街並みを見つめ続けていた。
終幕 南米チリ、セロ・トロロ天文台
冬の訪れを告げる冷たい南風が夜の山を駆け登っていく。
標高2200mのセト・トロロ山頂に設けられた天文台。
切り立った崖際に建つ観測棟の一室で、楓はあの日と同じようにディスプレイを見つめていた。
崖に面した南側の窓の外にはまばゆいばかりにきらめく南半球の星空が広がっている。
そしてその窓際に佇む楓が見つめるディスプレイには、天頂近くで燦然と輝く一つの天体の姿が映し出されていた。
超新星。
天球上のそれまで何もなかった場所に忽然と現れてまばゆい光を放つが故に英語では「Super
Nova」と呼ばれる超新星だが、実は「新星」という言葉のイメージとはうらはらに星の死にゆく様が観測されたものである。
年老いて巨大なガス体となった赤色巨星がその身を支えきれなくなった時、星は爆発して自分を構成していた物質の大半を周囲の空間へと撒き散らす。
その時に放出される膨大な量のエネルギーが、遥か距離を隔てた我々には忽然と姿を現す超新星として観測されるのである。
パロマ山で初音からの電話を受け取った翌日、楓は同僚から南半球の空に1つの超新星が現れたことを知らされた。
耕一が亡くなるのとほぼ同時に出現した超新星。
楓には、それがまるでこの世を去り行く耕一の後ろ姿のように思えた。
「耕一さん……」
ディスプレイに映る超新星のまばたきを楓はじっと見つめ続ける。
「私、信じてます。いつの日かまた、必ず貴方と巡り遭えるって。この超新星が、いつかまた新たな星として輝き出すように」
年老いた星は、超新星となってその一生を終える。
しかし、それは必ずしも全てが終ることを意味する訳ではない。
超新星爆発によって宇宙空間に撒き散らされた物質は、長い時間を掛けて再び集まり、やがては新たな星の一部となって輝き出す。
星もまた、気の遠くなるような長い時間を掛けて輪廻転生を繰り返すのだ。
「この星も、いつかは別の星として生まれ変わります。だから、私達もいつかまた同じ時代に生まれて巡り遭えます。そうですよね、耕一さん」
ディスプレイを見つめながら心の中でそう呟く楓。
(楓ちゃん……)
不意に自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして楓は顔を上げる。
(楓ちゃん。許してくれるのかい、俺のことを? 君と誓った約束を思い出すことすら出来なかったのに、それでもまだ俺のことを信じてくれるのかい?)
振り向いた先の窓には先程と変らぬ星空だけが広がっている。しかし、その星空を見つめて楓は微笑む。
「わたし、耕一さんのこと恨んでなんかいませんよ。だって私との約束、ちゃんと思い出してくれたんですから。今この世の中で巡り合えたんですもの、きっといつかまた巡り遭えます。また、遭えます、きっと……」
(……うん……そうだよな……また遭えるよな……きっと。その時には、俺、今度こそ絶対に先に思い出すから……君のこと……絶対に先に思い出すから……)
「……はい」
目に涙を浮かべながらにっこりと笑って頷く楓。
南の空に流星がひとすじ流れた。
(了)