江戸市中の某所、江戸城にほど近い繁華街。
 人通りも多く、大いに賑わう大通りに面している大劇場がある。
 白を基調とした威風堂々とした外観を誇り、その中身も負けず劣らず豪華な造りになっている。

 それこそが日の本一と名高い白記帳一座の演劇座『粉雪』である。

 創立間も無い白記帳一座であったが、その人気は既に熱狂的な支持だけでなく固定的な評価を得るほどであった。
 無論それだけではこれほどの演劇座を構えられるはずは無く、幕府や商人などの支持もあってのことである。
 その際には、一座の長である英二の政治工作もあったとか、江戸一の大問屋 来須川家の支援があったとかという噂が飛び交ったが、真偽の程は確かでない。

 そして今、粉雪座の前は人の山、文字通りの黒山の人だかり。
 普通に公演しても黒山の人だかりが出来る白記帳一座ではあるが、今回は更に輪を掛け盛況である。
 その順番待ちの人の列の長さは、最後尾の人が「ここが最後尾です」と書いてある立て札を持つ程。

 それというのも、今回の演劇が特別であるせいなのだが。
 今回の演劇を終えた白記帳一座は、江戸を離れ全国行脚に旅立つ。
 しばらくの見納めにと人が集う上、更に今回はいつにも増して嗜好を凝らしているとの宣伝である。
 これで活況を呈さぬはずはあるまい。

「すげぇ人だな、これは……」
「そうだね、浩之ちゃん」

 その黒山に埋もれそうになりながら、浩之とあかりは行列に並んでいた。
 公演を待つ行列は数列に分かれているが、これは英二の発案により公演毎に行列をさせた為である。
 それにより、これだけ人の熱気が溢れている状況にも関わらず、混乱を引き起こさずに済ませている。

「やっほぉ、あかり、ヒロ」
「あ、志保、こんにちは」
「なんだ、お前か」

 そこに現れたのは、毎度の事ながら志保である。
 ここまで毎度の登場だと、最早偶然であるかどうかすら疑わしいものがあるのだが。

「なんだとは何よ。 この志保ちゃんを捕まえてその言いぐさは何?」
「捕まえてって、お前から声をかけてきたんだろうがっての」
「そう見れないことも無いわね」
「……お前なぁ」
「それで、志保も演劇を見に来たの?」

 毎度の挑発的な会話の応酬に、あかりがさりげなく割りこむ。
 ここらへんの呼吸は流石熟練の技と言えるであろう。

「見に来たんじゃなくて仕事よ」
「仕事って?」
「今回の特別公演には私達、葉っぱ瓦版も一応関係するからね」
「へえ、そうなんだ」
「そ、こ、で、この志保ちゃんの出番って訳。 部署は違うけど、どうしても手伝ってくれって頼まれちゃって」
「まあ、要は小間使いってことだな」

 得意満面の志保だったが、浩之の一言に表情を一変させ腰に手をあて不満の意を示す。

「ヒロ、なんか引っかかる言い方ねぇ」
「別にぃ、ただこうじゃねぇか?と思ったんだけだ」
「こうって何よ?」
「それほど取っ掛かりな仕事が無いから『おまえ、とりあえず行ってこい』ってな」

 志保の眉がぴくりと動く。
 どうやら図星らしいが、それを認める志保ではない。
 いや、認めたら志保で無いだろう。

「人の扱いを勝手に決めないでよね!」
「決めたのは俺じゃないだろうが」
「なにようヒロ! こんなことなら…」
「あっ、馬鹿っ」

 小声ながら強い調子で発せられた浩之の制止に、動きが止まり額に汗を浮かび上がらせる志保。
 僅かの間あって、「あ」と小声を発して目で浩之に合図を送る。

「ったく……」
「あははは……」
「浩之ちゃん、志保、どうしたの?」

 一人訳がわからないあかりは問うてみるが、浩之も志保もよそよそしいというか怪しいというか。
 その様子にあかりはますます持って訳が解らない。

「あ、思い出したけどあたし急いでいるんだった。 じゃね」
「志保、じゃあな」
「あ、志保……」

 そのままそさくさと去る志保。 どう見てもあやしさ炸裂である。
 当然ながらあかりも心配気な視線を人ごみにまぎれ去りゆく志保の玉葱へと向け続ける。

「志保、どうかしたのかな」
「ま、まあ、志保のやつもあれで結構忙しいんじゃねぇの?」
「ふぅん……」
「いやぁ、これだけの演劇だからな。 人手もいくらあっても足りないだろうし」
「……うん、きっとそうだね」

 志保に続き不自然な態度の浩之。饒舌とまではいかないがかなり口数が増えている。
 だが、それを見たあかりは懐疑を深めるどころか、嬉しそうな笑みを浮かべる。

「……なんか妙に嬉しそうだな?」
「え? うん、演劇、楽しみだなって」
「まあ、ならいいけどな」

 逆に疑問を持つ浩之だったが、あかりの笑顔が目前にあってはそれも興味を失う。
 そうこうする内、人の列に流れが生じ始める。

「お、入れるようだぜ」
「えへへ……」
「あかり、そんなに楽しみか?」
「うん、とっても楽しみだよ。 この、ええと……」
「どうした?」
「えへへ、演目の名って何だったかな?」
「しょうがねぇな、ったく。 白記帳一座公演、その演劇の名は……」
 

最果ての地 裏口6万記念SS
『大江戸歌劇団・前説(白記帳一座)
 
 

 さて、入場が開始されたとはいえ、公演開始までにはまだかなりの間がある。
 その間を利し、今回の公演に至る経緯を振りかえるとしよう。

 今よりさらに時を遡ること二月……

 公演もなく、観客のいないがら空きの粉雪の観客席。
 その先にある舞台の上に一座の一同は集結していた。

「さて、今回の演劇だが、地方巡行前の最後の公演になる。 だからという訳では無いが、今回は特に俺も気合を入れるつもりだ」

 今、皆の前で語るのは白記帳一座の座長、緒方 英二である。

「まぁ、何も気負う必要は無いけどな。 いつもより少し大掛かりなだけだ」

 その飄々とした様子からは、誰も江戸を、いや日の本を一番騒がせられる発信源とは思わないだろう。
 しかしながら、白記帳一座がここにあることはこの人を抜きにしては語れない。
 台本のあらすじや演出などの清廉された斬新さは、大きな驚きとかつて無い評価をして江戸っこに気に入られたのである。

「兄さん、仕事は真面目にするものよ」
「ははは、これは厳しいな、理奈」

 今、手厳しい指摘をしたのは英二の妹、緒方 理奈。
 白記帳一座の主演女優にして、容姿・歌・演劇と三拍子そろった正しく「天才少女」である。
 一座が創立を成し遂げ、この規模にまで成長したのは理由の大半はこの少女によるだろう。
 そしてそれは現在においても「天下一品」と呼ばれ、一座の二枚看板の一人である。

「ね、由綺もそう思うでしょう?」
「うん、英二さんの仕事、真面目だもの」
「この男が真面目……ねぇ」

 今、生真面目に答えたのは森川 由綺。
 白記帳一座に後から入った新人であるが、僅かの出演の間に理奈と並び称されるようになった、二枚看板のもう一人である。

 実際、理奈に続けと一座入りを望む子女は少なくは無い。
 その難関をたった一人だけ選ばれた娘だが、その様子は至って真面目で普通である。
 だが、それこそが英二が選んだ理由なのである。

「緒方さんの仕事は信用出来ます。 後の面は存じませんが」
「うん。 そうだよね、弥生さん」

 今、間を取り持ったのは篠塚 弥生。
 冷たい感じのする美女であるが、事務雑務で秀でた才を示す。
 現在は由綺の世話を主に行っている。

「後の面は知らないって……」

 小声で呟いたのは藤井 冬弥。
 大道具など座の力仕事の雑用を主に行なう青年である。
 由綺と付き合ってはいるが、明確にというほどでは無い。
 それにそのことは一般には極秘とされていることもあり、付き合っているというよりは特別に仲の良い異性の友達なのかも知れない。

「どう?」
「言葉の裏に気が付かない由綺も由綺だよな……」
「そうだね」
「それが由綺らしい…ってはるか?!」
「うん」

 冬弥の呟きに割りこんだのが河島 はるか。
 劇団で何をやっているかというと………………

 ………………何をやっているのだろうか?

 それはさておき、突発的なひらめきはかなりのものである。

「……お前、ここにいつからいた?」
「んー…」

 いずこかを見つめるように考えていたはるかであったが、目だけ冬弥に向け一言。

「入団したときから」
「…………あのなあ、ここって『白記帳一座』じゃなくて『俺の近くにいつからいたか』だって」

 脱力する冬弥であったが、はるかはそれを全く気にせずに考え込む。
 僅かの間あって、はるかは思い出したのか冬弥に向き直り一言。

「結構小さい時からだよね」

 がくっ、と激しく脱力する冬弥。

「いつからだったかな?」
「そりゃ確かに幼なじみだけどさ……」
「ん?」
「…………もういい」
「ん」

 最後の気力を振り絞った指摘もはるかの邪心のない笑顔で返され、それ以上追求することが出来ない冬弥だった。

「大丈夫かい、冬弥」
「……彰、まあはるかだからな」
「冬弥とはるかだからね」
「俺ははるかと一緒にされるのか?」
「うん」

 これまた邪気の無い笑みを浮かべる、この男が七瀬 彰である。
 冬弥の親友であるが、劇団では美術や小道具を担当する。
 はるかと同じように柔和で中性的な顔立ちだが、れっきとした男性である。

「……ところで、はるかっていつからそこにいたっけな」
「ええと……いつからだっけ? ははは……」
「だよなあ、誰かに聞いてみるか」
「そうだね。 あ、美咲さん」
「なに? 彰君」

 今、呼ばれたのが沢倉 美咲。 劇団では台本を担当している。
 劇団の台本や演出は大まかな所は英二が(そして極希にはるかが)発案するのだが、それを具体化するのは美咲の担当である。
 はるかや英二の奇抜な発想を纏められるだけでも、かなりの才能であることが推されよう。

「冬弥君も……どうかしたの?」
「いや、はるかがさっき突然湧いてきたみたいで」
「そんな、湧いただなんて……」

 また、美咲独自の台本も英二に負けず劣らず好評なのである。
 だが美咲が名前を表に出したがらない為、その評価が英二製とされてしまっているのだが。

「それで冬弥が何時からいたかって気にしてて」
「彰も解らなかっただろ。 だから美咲さんならって」
「はるかちゃんは始めからいたと思うけど……」

 僅かに苦笑する様子からすると、どうやら美咲も確信は持てないらしい。

「どうしたの? 藤井さん」
「あ、マナちゃん」
「もう、相変わらずぼけっとした顔してるわねぇ」
「……ぼけっとって、そんなにしてるかな」
「十分ね」

 この幼い感じの(がこっ!)
 …………か、可愛い感じの少女は観月 マナ。
 劇団へは両親の都合などで籍を置いており、本人はあまり乗り気ではないようだが。

「いや、はるかが湧いたような気がしてね」
「そんな、人が沸く訳ないじゃない」

 小馬鹿にしたように得意げに微笑むマナ。

「じゃあ、しっかりしているマナちゃんには、はるかが何時からいたか解るんだ」
「………………」

 がこっ!

「みんな、聞いてくれ」

 談笑の場と化していた舞台に英二の拍手が2度響く。

「それで、どうした青年?」
「い、いえ…なんでも…ないです……」
「ふむ」

 僅かに笑みを浮かべちらりとマナを見る英二ではあったが、特に気にした様子も無くそのまま話を始める。

「あと2つだけ話がある。 まず、一つ目」

 静寂につばを飲む音が響く。

「今回の演劇は特別で大掛かりだ。 そして役も多数必要だ…だからな」
「多数って……」

 理奈が呟き、その直後にはっと顔を上げ一歩英二に詰め寄る。

「兄さん! まさか?」
「察しが良いな、理奈。 その通り、この演劇座の裏方含めた全員、舞台に出て貰う」
「「ええええええっ?!」」

 英二と弥生を除いた一同の声が大きく響く。
 その声は粉雪の隅々まで届くほど大きかったから、驚きの程が知れよう。

「どうしよ、冬弥くん?」
「由綺も聞いてなかったのか?」
「うん、全然」
「俺だって解らないって、美咲さんは知って……あれ? 美咲さん」
「固まってる……」
「ちょっと! 兄さん、本気?」
「ああ」

 驚愕する一同を前に平然とする英二。
 呆然とする一同ではあったが、理奈だけは英二に食って掛かる。

「『ああ』って、藤井君とかは演劇の経験は無いのよ! それに裏方はどうするの?!」
「演劇の経験に関しては、あまり必要ない役柄と台本にしてある」
「してあるって……そうじゃなくてっ!」
「それと裏方のこと含めて、もう一つなんだが」

 抗議する理奈を差し置き、英二は淡々と話を進める。
 理奈も最早英二のこういう時には抗議は無駄と悟り、押し黙る。

「まだ……なにかあるですか、英二さん」
「ま、ちょっとな」

 不安げな冬弥とは対照的に、見方によっては意地悪そうに見える笑みを浮かべる英二は、弥生に目配せする。
 全員の視線を集めた弥生は、いつも通り淀み無い口調で答え始める。

「はい、快く了承頂きました」
「え? 弥生さん、了承って何を聞たんですか?」

 やや心配な面持ちの由綺を見、弥生は表情を僅かに変えるものの、調子はやはり変えず答える。
 その答えは英二以外の皆が予測した、いかなる答えとも合致しなかった。
 何故ならば、歌とも演劇に出ることとも全く無縁の集団だったからである。

「葉っぱ瓦版、絵師集団……いわゆる『こみぱ組』です」

 本日二度目の絶叫は『粉雪』の外にまで聞こえたという……
 
 
 

 それから数刻後の夕刻。 茶屋『絵構図』
 その調理場に冬弥と彰はいた。

「でも、結局は納得したんだよね」
「納得せざるを得ないだろ?」
「まあね」

 現在の店内の客は先ほど入店した男女のみ。
 調理場に冬弥と彰に注文取りの塚本の臨時雇い達だけである。
 店主は冬弥達が来ると、2人に店を任せて出かけてしまった。
 信頼しているのか無責任なのか、それとも他の何かなのかは人それぞれの判断に任せるとしよう。

「でも、いきなりだぞ? そりゃ地方巡行に行くって事も決定まで伏せてあったけど」
「英二さんは人を驚かせるのが好きみたいだからね」
「全くだな……」
「注文です〜、田舎雑炊と抹茶です」
「「了解」」

 どうやら先ほど入店した男女の注文が決定したらしい。
 彰は慣れた手つきで田舎雑炊を作り始め、冬弥は抹茶の準備をする。 結構手馴れたものである。
 それもそのはず、ここでの臨時雇いは二人ともかなり経験しているからだ。

 白記帳一座に籍を置く二人だが、いままでは裏方のみで常用の臨時雇いのような状態だった。
 そして2人は店主が彰の親類でもある、この絵構図にたまに手伝いに来るのである。

「それで、彰も出るのか?」
「うん、まあね。 みんなも出るっていうし」
「まあ、美咲さんの書いた台本、無駄にはしたくないしな」
「そうだね」

 この「そうだね」に僅かに特殊な語気が込められていることを感じながら、冬弥は食器を出す。
 そして盆に並べられた食器に、彰は作った田舎雑炊を盛り付け冬弥は抹茶を注ぐ。

「はい、あがったよ。千沙ちゃん」
「はいです」

 冬弥が声をかけ、塚本が盆を持って席へと運んでいった。

「でも冬弥が承知したのは少し意外だったかな?」
「彰も出たがりじゃないのに良く言うよ。 でも……そうかもな」

 そう言いつつ、冬弥はあの絶叫の後を思い浮かべた……
 
 

「何が『まあ』なのよ……」

 理奈の呟きは英二に届かず、虚空の観客席に消えた。
 英二は全員が呆気に取られている間に「まあ、弥生さん。 後の説明宜しく」と言い残し、舞台袖よりどこかへと去って行ったのである。

「……逃げたわね」
「あの男、言うだけ言って……」

 理奈とマナが同じ様に呟く。
 その一方、特に疲弊した様子の美咲の周りに他の面々が集っていた。

「美咲さん、大丈夫?」
「う、うん。 大丈夫よ」
「本当に大丈夫ですか?」
「ごめんね、由綺ちゃん、彰くん。 心配させちゃって……」
「そんな気にしなくていいって、美咲さん」
「そうだよ、あんなこと言われたんだし」

 口々に美咲を気遣う面々ではあったが、あることにふと気付き、辺りを見まわす。

「あれ? はるかは……」

 だが、その姿は無い。
 確かに一緒にいたはずだし、去っていく姿は英二しかなかったはずであるが。

「……また何時の間にかいないし」
「うん、どうしちゃったんだろうね」
「はるかちゃん…大丈夫かしら……」
「心配無いと思うよ」
「あ、彰くん?」
「そ…そうなの……」

 あっさりと答える彰に、少し気おされた様子の美咲達だった。

(彰、なぜだか怒ってるな……っと)
「そうだ、ところで弥生さん」
「はい」

 僅かながらも重大な親友の変化に気がついた冬弥は、矛先を変えるべく弥生を呼ぶ。
 無論、冬弥にしても無闇に矛先を向けた訳ではない。

「説明は、って英二さん言ってましたけど……」
「はい、何なりとお聞き下さい」

 何時の間にか、冬弥のみならず皆一様に弥生に注目していた。
 冬弥は少し驚くが、そのまま質問を続ける。

「では、まず何故こみぱ組なんですか?」
「緒方さんは先日、こみぱ市へと赴かれたそうです」
「こみぱ市? あの?」
「はい、そこでこみぱ組の方々を見て『いんすぴれえしょん』が湧いたと言われました」
「その、なんなんだろうか、ええと……」
「私にも不明です」

 いんすぴれえしょんってなんですか、と聞こうとした冬弥は機先を制され、押し黙るしか無い。
 弥生はそれを確認するかの如く一呼吸置き、再び話し続ける。

「そこで向こう側の代表者に話した所、意気投合して舞台出演に話が纏まったそうです」
「…………それだけですか?」
「そうです」
「意気投合って……」
「一晩飲み明かしたそうです」

 あまりにもあっさりと決定したことに、二の句が出ない冬弥達だった……

 その後、冬弥達は精神的に疲労したこともあり、とりあえず解散して休憩にすることにした。
 そして粉雪の一室、由綺の控え室。

「それで冬弥くんはどうするの?」
「正直、出たくないところはあるな……」
「うん……」
「どうした? 由綺」
「え? ううん、なんでもないよ」
「どうしたんだってば」

 ちょっと妙と感じた冬弥の再度の催促に、由綺は目を伏せ少し申し訳なさそうにしつつ話し始める。

「うん、そのね……もし、冬弥くんと一緒に舞台に上がれたら、嬉しいなぁ……って」
「由綺……」
「あ、その、ううん、私が勝手に思っちゃっただけ。 だから気にしないでね」
「あ、ああ……」
「本当、冬弥くんが決めることなんだから、ねっ」
「ああ………………」
「………………」

 普通だったら下手な勘繰りでもしそうな所であるが、それが無いのが由綺である。
 当然の事ながらそれを知る冬弥は、由綺の気持ちが推し量られてしまい、押し黙ってしまう。
 つられて由綺も、言ってしまった気まずさもあり、押し黙る。

「………………」
「………………」
『由綺さん』
「は、はい」

 しばらくの沈黙が続いたが、それを打ち破った廊下からの声。
 端正な響きを持つその声の主は弥生であろう。

「失礼します」

 一声かけて部屋に入った弥生は、室内に冬弥もいるのを見て僅かに表情を変える。
 だが、それもすぐに消え去る。

「歌の練習の時間です。 緒方さんも準備出来たそうです」
「はい、解りました」

 弥生は極めて事務的に、しかし冷たさを感じさせない声で予定を述べる。
 由綺は少し申し訳なさそうに顔を冬弥に向けるが、冬弥は軽い調子で立ちあがる。

「じゃ、俺はこれで」
「ごめんね、冬弥くん」
「いいって、気にするなよ」
「うん」

 冬弥と一緒に部屋を出た由綺は弥生に連れられ、粉雪の別室にある練習の間へと歩いて行った。
 一人廊下に残った冬弥は、とりあえずこれからどうするかを考える。

「さて……」
「あら、冬弥君」

 声をかけて来たのは理奈。
 その姿は舞台衣装で、さらに額に僅かに汗が滲んでいる。
 どうやら演舞か何かの練習の帰りらしい。

「どうしたの? 立ったままで。 もしかして入りにくいのかしら?」

 理奈のくすくすと笑う仕草に漂う魅力と気品に、少し呆ける冬弥ではあるが弁明は忘れない。

「いや、由綺は練習に行ったんだけど」
「ふぅん……ならば、私の控え室でちょっとお話しない?」
「あ……うん」

 どうやら理奈が『冬弥は部屋に入れなかった』と思い違いをしているようだと気が付いた冬弥だったが、言い出せずそのまま理奈の控え室まで付いて行く。
 特に断ることも無いだろうとも思ったからでもあるが。

 そして理奈専用の控え室。
 十畳ほどの室内には化粧箱や鏡台、それに様様な贈答物が並ぶ。
 特に何の日でも無いのだが、こういう贈答物は絶えず送られてくるのである。

「ところで話しって?」
「うん、今度の演劇のことで話がしたくて」
「うーん、突然の事だからね……」
「本当! 突然こんなこと言って、兄さん何考えているのかしら?」
「は、はは……」

 理奈の語気に押された冬弥は、その怒りももっともだと苦笑するより他に無い。
 だが、理奈は表情を一転させ、少し目を伏せ気味にして冬弥に問う。

「それで、冬弥くんはどうするのか聞いたくて」
「俺?」
「ええ、一応…ね」
「ところで理奈ちゃんはどう?」
「え? 私? 勿論出るわよ。 仕事だしね」

 明るくあっさりと答える理奈。
 無論仕事面での英二への信頼も多分にあるだろうが、理奈の責任感のような意思の強さが垣間見える。
 その様を見、冬弥の心は少し迷いが晴れたような気がしてくる。

「……俺、出てみてもいいんだろうか?」
「勿論よ!」
「え……」

 冬弥の言葉は何気ない呟きに近かったが、理奈の予想外に大きい反応に戸惑う。
 言葉のみではなく、見上げたその表情もまるで楽しさを控えた子供のような無邪気さであることも再度戸惑いを生む。

「きっと楽しい舞台になるわ、きっとね」
「その、でも大丈夫かな? 素人が出ても。 理奈ちゃん迷惑じゃない?」
「全然迷惑じゃないわ。 それに演劇なら私も鍛えてあげるし」

 くすくす、と本当に楽しそうに微笑む理奈の笑顔に、冬弥の未知に対する不安も和らぐ。
 何より同い年とはいえ、長らくこの業界に身を置く玄人の太鼓判である。

「覚悟してね。 結構厳しく行くから」
「はは、うん」
「それに、由綺も楽しみしていると思うし」
「そうだね……」

 冬弥は「由綺」と聞き、先ほどの由綺の表情が思い出される。
 再び惑いが胸に去来し、冬弥は再び考え込む。

「そして…………私も……ね……」

 思い返し考える冬弥の耳には、理奈の小さい呟きが届く事は無かった。
 

 回想より戻り、再び絵構図の調理場。

「ふうん、それで決めたんだ」
「まあ……な」

 日が沈み、先ほどの2人も既に帰っており、千沙も帰宅した店内。
 彰と冬弥以外は誰もいないが、この店ではそれほど珍しくない風景である。

「しかし……」

 からから……

 冬弥が何か言いかけたその時、入り口の戸が開けられた。

「失礼します」
「あ、弥生さん」

 入ってきたのは弥生だが、どうやら一人だけのようだ。
 由綺が入るときに一緒にということはあっても、一人で時間を潰すということは無かったはずだが。

「ご自宅に居られないようでしたので、こちらかと」
「あ……」
「由綺さんは練習されてます」
「それで……」
「英二さんより言伝があります」
「…………」

 ことごとく質問より先に答える弥生。 流石と言うか何と言うか。
 冬弥は最早質問することを諦め、そのまま黙って聞くことにする。
 彰はその空気にも特段の表情の変化なく、冬弥と並んで聞いている。
 意外に大物かも知れない。

 その2人の様子を確認してか、僅かの間の後に弥生は言伝の内容を話す。

「次回舞台出演の希望者は翌日牛の刻、粉雪の舞台に集うように、とのことです」
「それは……」
「強制はしません」
「でも……」
「出なかったからといって不利になることは無いそうですが」
「………………」
 
 
 

 と、いう訳で、その翌日。

「ふむ、全員揃ったか」

 再び舞台には英二を筆頭に白記帳一座が集結していた。
 無論、一人の欠けも無い。

「それで、何をやるの?」

 理奈の多少懐疑的な視線を受け、苦笑しつつ英二は説明を開始する。

「まずは、どういうやり方で進めるか、だが……」

 そう言いつつ英二は自らの足元に置いてあった本の束を紐解く。

「個別に台本を用意した。 これを熟読してくれ」

 その表紙にはそれぞれ一冊づつ各自の名前が書いてあり、英二の言葉を裏付ける。
 マナがとりあえず英二より受けとり、各自に台本を配り歩く。

「あとは、発声等、個別の演技指導を行なう。 以上だ」
「ちょっと待って、それだけ?」
「……そうですね、通し稽古等はどうされるのですか?」
「そうよ、説明が足りないと思うわ」
「ふむ」

 マナと弥生と理奈の三重突っ込みではあるが、それにも英二は全く動じ無い。
 それどころが余裕をもった笑みさえ浮かべて答える。

「まあ、役になりきってくれ。 台詞は本番その場の思いつきでな」
「ええっ?」
「初回公演次第でそれ以降も決める。 まあそのままと思って貰っていいぞ」

 決定も衝撃的ながら、内容も衝撃的である。
 驚いた面々が台本を見ると、確かに台詞が書かれていない。
 更には他の役の台詞、場面展開等も書き忘れたかの如く全く無い。
 その役がどういう環境にあるか、どういう立場か、などは詳細に書かれているが、それだけである。

「兄さん! これでどう演じろっていうのっ?!」

 理奈が大きく声を張り上げる。 だが、それももっともな疑問であろう。
 他の役がどう動くのか、どういう展開になるのか等々欠落している部分が多すぎる。
 これではもはや台本とすら呼べる代物で無いだろう。

「演じなくていい。 役を理解した上、素のままで舞台に上がれば良い」
「…………………………」

 粉雪の中の時は止まった。
 正確には皆が驚きのあまり硬直し言葉どころか身動きすら出来ないでいる為なのだが。
 しかしながら、それも無理が無いことであろう。
 前代未聞の練習方法と公演方法であり、更には前例が無いだけでは済まない程のいいかげんさである。
 その驚きによる硬直具合は弥生ですらその表情が微妙に変化しているのが見て取れる程であるから、その凄まじさが測り知れよう。

「まあ、という訳だ。 練習は明日以降、予定は今日中に伝えるからな」

 それだけ言い残し、皆が復帰する前に再び逃走する英二。
 特に急いでいるようには見えないが、姿を消すまでに必要な時は非常に短かった。

 舞台袖より続く廊下。
 英二は舞台から十分に離れた後、一人呟く。

「後はこみぱ組の方だな……」

 
 乞う次回。
 

こみぱ組へ

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