―― 弦姫祭 後編 ――
 
 

「――すみません。後のこと、頼みます……」

 千鶴、倒れる。

 全軍に急使が飛ぶ。

「千鶴姉が? 嘘だろ?」

 梓は信じられぬ思いでそれを聞いた。楓は自分の失策が招いたこの事態に激しい悔悟の念を感じていた。守り手全体の士気に及んだ影響は夥しく、守り手は正に水を打ったような沈黙に包まれる。

 翻って寄せ手の士気は天を突かんばかりだった。東の壁を陥しいれ、あまつさえ敵の総大将を倒したとなれば戦の半ばまでを勝ったようなものだった。
 彼らは即時に北部の戦線を下げ、東壁の橋頭堡の確保に兵を振り向けた。いずれは突入作戦に移行せねばならない。それまで、ここは何が何でもでも確保すべき要所となった。

 ――ここさえ確保できれば、今や圧倒的兵力差を誇る寄せ手を阻む術は守り手にはない。

 それは寄せ手の大将三人の共通の見解だった。
 千鶴の指揮していた赤軍は、もはや一度倒れれば補充がされない。
消耗戦に徹せられれば、一方的に減らされることになる。
 壁を落とされたことより、こちらのほうが痛かった。士気の上でも、もはや赤軍は積極的な戦いを展開できないだろう。
 

「仕方ないね。補給部隊と入れ替えよう。あたしがと山吹組が前線に出る。かおり、あんたは赤の軍を指揮して補給部隊に再編しな」
「がってんですぅ! ……先輩、約束忘れないで下さいね!」
「……う……わかったよ」

 梓はげんなりしながら言った。

 遂に裏の総大将、梓が前線に立つ時がきた。梓は後局の指揮をかおり一手に委ねると、意気消沈した女性陣に活を入れるため鐘楼に登った。
 

               §
 

「敵の主力は、半ば無力化された。そして、敵防衛線は半壊している。確実に叩いていけば我々の勝利は揺るがない」

 柳川は熱っぽく語っていた。結構こういうのが好きなのかもしれない。

「これからは正攻法で行く。補給線を確保しつつ、少しずつ前線を前に押し出していく。奇を衒うことはない。戦略上の優位は確保した。あとは、ただ侵攻するのみだ」

 そう語る柳川の目は心なしか赤みがかり、瞳が細く眇められているように思えた。
 まるでねずみを狩る猫みたいだ、と誰かが評したが、正にいい得て妙であった。

 ――五分の戦いは終わった。あとは狩るだけだ。

 柳川はそう思っていた。そしてその点では耕一も、全くの同感だった。そんな二人を見て、足立は先代の会長からしばしば感じたような、なんとなく背筋が寒くなるような気分を味わっていた。
 

               §
 

 梓と、彼女直属部隊のこれまでの活躍振りを見てきた女性陣は梓総指揮官の誕生を手放しで迎えた。
 敵から奪った梯子を使って簡易の柵を設け、東からの一気の突入を防ぐように指示し、北側の防備は補給部隊と兼任で赤軍で組織する。幾つかの楓の案が入れられ、庭の要所要所に密かにトラップが仕掛けられた。
 そういった準備中、寄せ手は不気味に沈黙を守っていた。一気阿成に攻め落とすつもりだ、と楓は思った。手桶と梯子が一所に集められ、準備されているのが見える。

 ――今一気に来られたら、押さえられない。

 楓は梓に一つの提案を試みた。
 梓は熱心に楓の言うことを聞いた。聞き終わった梓は二三の指示を出すと楓のお尻をはたいた。驚いて飛び上がる楓ににかっと笑って、梓は親指を立てて見せる。楓も一瞬の後、表情を引き締めて親指を突き出した。

 二人はそれぞれ自分の部隊にきびきびと指示を出し、忙しく立ち働き始めた。
 

               §
 

 ほぼ戦局は決した、と皆が思っていた。あとは力押しで攻め寄せるだけだ、と皆が高を括っていた。戦いと戦いの合間の、一瞬の心の隙。神速を旨とする楓の部隊が突いたのは正にその隙だった。

 東壁前の圧倒的な布陣を持って守り手を威圧していた足立・柳川・耕一の連合軍が思いもかけぬ奇襲を受けたのは千鶴が倒れてから45分後の15:48のことだった。彼女達は考えもしないところから現れた。
 真後ろから、しかも三人の大将が陣取る本陣を急襲したのだ。

 南正門から密かに柏木邸を抜け出した15人ほどの小部隊は静かに町を迂回して、柏木邸の東壁に向かっている寄せ手の後背に静かに集合した。梓の直属、その中でも俊足を誇る者達のみで構成された精鋭部隊だ。
 楓が自ら陣頭指揮に立ち、副官に控えるかおりは簡潔に作戦を伝える。
 寄せ手は守り手が閉じ篭って出てこないものと高を括っていた。後背に向ける注意は皆無で、防衛ための兵も置かれていなければ、武装そのものを近くにおいていなかった。今まさに全てを前線に集中し、一気突入の下準備が整い次第、と言うところだったのだ。

 そんな既に戦勝ムード漂う敵本陣のど真ん中を一陣の風のごとく駆け抜け、切り裂く楓の部隊。何が起ったのかも判らず呆然としたまま蹴散らされる寄せ手の男達。

「雑魚に構わないで! 一気に大将首全てを取る!」

 楓は鋭く指示を出し先陣を切った。迅い! 他の陸上部員達を唸らせる健脚振り、そして的確で最小限な攻撃。彼女の前に一瞬たりとも踏みとどまれたものはいなかった。
 薄い人垣の向こう。楓の目は驚いた様子の三人の男を捕らえる。それぞれの額には青、紫、黒の鉢巻。
 15:51。
 それは、楓が寄せ手の大将三人を射程内に捕らえた瞬間だった。
 

「――敵襲?」

 足立の漏らした言葉はただこの一言だった。残る二人は声も出せなかった。桶狭間の戦いにおける今川義元はきっとこんな気分だったのだろうか? 考えもしなかった方向からの攻撃に、彼らは反撃すらできない。

「――お覚悟!」

 楓の柄杓が一閃する。そして、足立の鉢巻が地に落ちた。

「――楓か!? 不覚!!」
「足立さん!! くそっ」

 一瞬の衝撃から立ち直った耕一と柳川は素早くその場を退避する。応戦しようにも手元には得物がないのだ。楓から放たれる飛沫を必死にかわす二人。
 三人の戦いは尋常ではなかった。飛び散る飛沫を全てかわすなどということが本当に可能なのだろうか? 周囲の者たちはポカンとしてその目まぐるしい攻防を見守っていた。

 ――流石に、手強い!

 楓は手元の桶が軽くなってきたのを感じた。敵も奇襲の衝撃から覚め、包囲の準備にかかり始めている。

 これ以上は長居できない。
 暫しの逡巡の後、楓は潔く残り二人を倒すことを諦めた。自分が倒されては元も子もない。素早く手勢を纏めると、楓は敵陣をそのまま真っ直ぐつっきる。
 行きがけの駄賃とばかりに寄せ手の用意した手桶の列を可能な限り蹴り倒し、楓達は北西の勝手門目掛けて全力で逃走した。

ようやく後ろから追手が来た時にはすでに全部隊は門に逃げ込んだあとであり、彼らは梓の置いた援護部隊に散り散りに追い返されるばかりだった。
 閉じられた門の前で歯軋りして悔しがる追っ手を他所に、敷地内では大きな勝ち鬨が上がっていた。

「やったじゃないか、楓!」
「やりました、姉さん!」

 梓を先頭に全員が大歓声を上げて楓達を出迎えた。何時になく興奮した楓は姉と抱き合って喜んだ。守り手たちは楓とその指揮下の勇敢な戦士たちを熱烈に歓迎し、口々に称えた。敵の総大将もまた、これで倒れた。条件はまた五分に戻った、と彼女達はおおはしゃぎだった。

 対して寄せ手は衝撃から立ち直ると、一瞬のうちに受けたその被害に唖然としていた。足立が倒れ、鶴来屋を母体とする青の軍勢は一気に浮き足立った。なんといっても総勢の4割近い40名を擁する主力の一つだったから、全体に与えた衝撃も小さくなかった。
 

               §
 

 それからは一進一退の攻防が続いた。

 残り時間が1時間を切る頃に、寄せ手の総力を挙げた突入作戦が展開された。耕一率いる黒の軍団。若さに任せた突破力でバリケードをものともせずに突き進む。

 ひたすら力押しの寄せ手に対して幾多の工夫を凝らして防御を固める守り手。
 古き戦に倣って2〜3段構えの放水態勢を整える守り手のまえに、黒い鉢巻が次々と落ちてゆく。しかし、寄せて側はもう兵そのものが5段構えの波状陣を敷き、間断なく攻め寄せる。
 前線は次第に入り乱れ、ついには乱戦の様相を呈してきた。楓の指示も、かおりの発破ももう意味をなさなかった。個々人が眼前の敵を倒す。ただそれだけだった。

 そんな乱戦のさなか。

 まるで引き合うように、楓と耕一の一騎討ちが実現した。二人のいる空間だけが、何処か周囲から切り離されたように色を違えて見える。まるで二人だけに通じる会話が交わされているかのようだった。
 

「手加減は無用です。……本気で行きます」
「そうかい。どうなっても知らないぜ?」
 

 それはどちらから始まったとも知れない、壮絶な戦いだった。

 手桶を換える事10回を超え、柄杓を折ることさらに10を加える激戦だった。周囲の者は流れ弾にあたらぬよう遠巻きに二人の戦いを見守った。
 その息詰まる勝負は唐突に終わった。フットワークで撹乱する楓が濡れて滑る地面にほんの僅かに足を取られたとき。耕一はその機を見逃さなかった。
 

 態勢を崩した楓の上に、耕一は裂帛の気合とともに柄杓を振りおろす。
 倒れるわが身を一顧だにせず、楓はそれをはっしと受けた。
 双方の柄杓が打ち合わされる音が喝と響く。
 

 しかし、柄杓は止まれど、勢いのついた水は止まらなかった。双方の体勢は崩れて、至近での飛沫をかわすことは不可能だった。

「大将!!」
「楓さん!!」

 二人の鉢巻が千切れて落ちる。相打ちだった。
 

「ふぅ、やられたか……」

 耕一はすてんと尻餅をつくと、気持ちよさそうに空を仰いだ。

「…………」
「やるもんだな、楓ちゃん。少し見直し……ぶわっ!」

 ざば、と手桶ごとの水を浴びる耕一。目をぱちくりとしばたいた彼の前に、悔しさに身を震わせる楓が仁王立ちしていた。

「か、かえでちゃん?」
「……悔しい悔しい悔しい! 耕一さんの馬鹿っ!」

 ざばっ! 再び水を浴びせられる耕一。楓の手には既に次の手桶が準備されている。

「…………」

 滴る水もそのままに、口元に邪悪な笑いを貼り付けて。不自然なほどにゆっくりと耕一は手近な桶を掴む。

「楓ちゃ〜ん? これは宣戦布告と受け取るが、いいんだろうね?」
「当たり前です……これくらいじゃ気がすみませんから……」

 時に17:11。両軍の大将、同時にリタイア。しかし、勝ち負けを離れた戦いはもう暫く続いたという。
 

               §
 

「――そうか、楓も逝ったか……」

 これも芝居がかった事の好きな梓は、そう呟いて天を仰いだ。両軍これで残すところの将は一人ずつ、柳川と梓だけだ。
 しかしいずれの直属軍も今までの戦いの重要な局面で結果を出してきた精鋭達だ。将も方や当代隋一の知将、方や狂信的な支持を集める女帝。しかし、それでもまだ寄せ手のほうに分があるようだ。
 梓は兵力に比して長大になりすぎた北壁の防衛線をすっぱりと諦め、玄関前の最終防衛ラインを固める決断をした。

 このとき残り時間は約30分。

 そして、最後の戦いが始まった。
 

               §
 

「楓お姉ちゃん、客間にこれ出して〜〜。あっち、てんてこ舞いだよ〜〜」
「初音、あんたは向こうで座ってなさい。佐和さん、座敷にコップが全然足りません。縁側に座布団も出さないといけないんですけど、見当たりません。どこかにないですか?」
「座布団はないねぇ。コップは今もってくよ。楓ちゃん、お盆だけ引いてきてくれない?」
「はい」
「あ、あの、私も何か手伝います」

 腕まくりしてエプロンに手を伸ばす千鶴に楓と初音は青ざめる。佐和さんはそんな二人の意を汲んでか、千鶴の背を押して座敷へ追いやる。

「千鶴さんは皆さんの労をねぎらうってお役目があろうさ。初音ちゃんもそうだよ。ここは任せて、みんなのとこいっといで。さぁさぁ」

 柏木邸がいかに広いとはいえ、150名近くの人間を収めるのはかなり、どころか尋常でなく大変だった。客間、居間、座敷、応接間と殆どの部屋を開放してなお人が溢れ返り、廊下・縁側から盛大な水撒き合戦をやんやと見物していた。
 鶴来屋から予め用意してきたとはいえ、湯のみの数もお茶の良も尋常ではなく、湯を沸かすだけでてんてこ舞いになる有様だった。すぐに鶴来屋のほうに応援が出され、仕出しのおつまみやビールが手配される。無論、未成年にはジュースで我慢してもらう。

 足立と耕一がビールを酌み交わして笑っていた。

「しかし、みんななかなかやるもんだ」
「そうですね。正直楽勝だと思ってたんですが」
「耕一君は一騎当千の戦いぶりだったね」
「マジになりすぎて危うく本気を出しちゃうところでしたよ」
「……? 今の若者の言葉はよくわからないけど、マジと本気は違うのかね?」
「……あ、いや、その、いまどきの間違いです」

 脇のほうでどっと笑いが起こる。

 今日のヒーローの一人、七瀬が千鶴を討ち取った後の話でからかわれていた。東壁を落としいれたときの混乱に乗じて彼を送りこんだ耕一だったが、ホントに上手くいくとは考えていなかった。だからといって、彼に与えておくべき注意を与えなかったのは耕一の責任である。

 ――相当怖かったんだろうなぁ……

 壁の向こうにいた耕一はその状況を見ていないが、聞こえてきた梓の怒号と七瀬の悲鳴だけで大まかな見当はつこうというものだ。

 怒った梓は、ほんとに怖いからなぁ。
 女性とはすべからく優しく天使である、などという幻想を持っていなければいいんだけど、と耕一はいらぬ心配をした。

 千鶴と初音が客間に立ち現れた。

 辺りからそれだけで歓声が上がり、彼方此方からお呼びが掛かる彼女達。ただ、七瀬だけはぶるぶると縮こまる様にしているようにみえた。なんでだろ? 耕一は首をひねった。梓の姿はない。もちろん彼女はまだ外で交戦中だ。

「耕一お兄ちゃん、お疲れ様!」
「……うわ〜初音ちゃん、それ似合ってる。可愛いよ」

 耕一は目をしばたかせた。初音が蕩けんばかりの笑顔を向けると、耕一は目尻を下げて初音を見た。

「うんうん、とても素敵だよ」

 足立も耕一と同じ表情をしていた。可愛い孫を見る老人の目と言おうか。とすると、この場合耕一の見方のほうがやや特殊なのかもしれない。

「もう、煽てても何も出ないよ」

 初音は赤面しつつも、笑顔で二人のグラスに酌をする。巫女姿の初音に視線が集まっているのを耕一は気づいた。集まって当然、そうでなければ連中の目が見えてるのかどうか疑うところだと耕一は誇らしげに思った。そして同時に余計な老婆心を出す。

 ――不埒なやつぁ、たとえ天が許してもこの俺が許さんぜよ。

「耕一さん、お疲れっす」
「お疲れです」

 やがて耕一を出汁に男子学生たちが寄って来、初音を囲んで談笑が始まった。
 

「そろそろ、こっちはなんとかなるよ。楓ちゃんも向こうに行っておいで」

 そう言われて楓は困った顔をした。実際、身の置き所がわからなくて手伝っていたようなものだった。千鶴も梓も、そして初音も沢山の友人知人に囲まれていた。耕一も自然にみんなの輪に溶け込んでいる。そんな様子をみて楓は所在無い思いをしていたのだった。

「でも、私友達がいるわけじゃないし……」
「まぁまぁ、そんなことはないから。いいからだまされたと思って行っておいで」

 楓もしぶしぶ半ば宴会と化した客間に戻って行った。静かに誰にも見咎められないように客間に入った楓だったが、直ぐに声がかかった。東壁防衛線で一緒だった、商店会の女将さんの一人だった。

「ああ、楓ちゃん、そんなとこ座ってないででこっち来な!」
「そうそう、こっちおいで」

 よく通る朗らかな声。同じく商店会の別の女将さんみ口を揃えてくれる。楓は内心で少し怯えながら、表面はやや強張った微笑を浮かべて呼ばれるままに近づいた。

「まぁ、この子も綺麗だね〜〜。流石に柏木さんとこのお嬢さんだよ」
「……そんなことないです」
「ホラホラ、さっきの威勢はどこいったんだい? あたしゃ感心したよ、最近の子にしちゃ随分骨がありそうだってね! ね、楓ちゃん今度うちにも遊びにおいで! 仲町の商店会だけど、判るかい?」
「ええ、時々梓姉さんについて行きますから……」
「ええ? そうかい? ごめんね、あんまり見た覚えがないんだけど」
「あ、たいていは入り口までですから」
「そうなんだ。次は遠慮せずいらっしゃい」
「はい、そうさせてもらいます」
「そうだよ、うちにもおいでよ。楓ちゃんならおまけするからさ」

 女将さんたちの元気な笑い声につられて、楓の表情も自然と綻んでいった。こんな娘がほしいねぇ、といって女将さん衆は楓を取り合って離さなかった。
 やがてその輪に商店会の旦那衆が加わり、そしておずおずといた様子で若い学生達も少しずつ会話に入ってくるようになった。
 その頃には楓の表情は普段から想像できないほど柔らかく、笑顔は内から輝くようだった。そして訥々としていた印象の話し方にも、ごく僅かだが彼女生来のウィットとユーモアが混じるようになっていた。
 

               §
 

 そのころ、まだ庭では激闘が行われていた。梓率いる直属軍も疲労の極にきていた。千鶴と楓の麾下にあった赤と緑の軍はその大半がリタイアしていた。しかしそれは敵も同様だった。足立と耕一の部隊だった黒と青の鉢巻は殆ど見えなくなっている。

 もう梓にも何が何だか解らなくなっていた。ただ目の前の敵を倒す。ただそれだけだった。目に入るのは鉢巻だけ、敵か見方かそれだけ。
 目がくらみ、足がもつれる中を梓は懸命に走り回り、声を嗄らして指示を出す。その殆どはもう作戦もくそもない、只の激励に過ぎない。だが、梓はそれこそが今求められている事だと知っている。
 自分がそこにいること、自分がまだ健在で戦っていると知らせること。
 それが今もっとも必要な事だと、梓は理解していた。

 ずっと梓の左隣を固めていた後輩がよろけ、ぬかるんだ地面に膝をついた。梓はその肩を支え木陰へと連れて行く。度を越えた疲労と暑さに意識が朦朧としているようだった。

「あ……先輩」
「いいって、寝てなよ。後はあたしが任せてもらうから」
「……すみません」

 すっくと立ち上がって見せるが、その膝が笑っている。梓自身の限界もそう遠いことではなさそうだった。
 それでも、梓は不適に笑って見せた。
 心が折れたら負けだ。逆にいえば、それ以外は負けじゃない。根性勝負で遅れをとるわけにはいかないよ!

 梓が戦線に戻るのと同時に、遠くでわぁあああっと、歓声があがった。何事だろう、と梓は乱戦に目を凝らすが何も見えない。

「敵大将が倒れました!」

 疲労困憊しながらも嬉しそうに味方の子が叫ぶ。

 ――さらば叔父貴、あんたは強かった。

 梓も、最後の力振り絞って声を張り上げる。

「よおーーし、もう一踏ん張りだ! みんな、頑張ろう!!」

 おおっ、と声が返ってきて、梓は自分に気合を入れなおすと乱戦の中に駆け込んで行った。傾いた夕陽が、戦う彼女達をその鉢巻と同じ山吹色に染め上げた。
 

               §
 

「やあやあ、柳川君もお疲れ様だったね。やられちゃったのかい」

 しんどい、と顔に書いて現れた柳川を足立が呼び寄せる。タオルで頭を拭きながら柳川はどっかと腰をおろす。

「最後の最後で気が抜けました。しかし、彼女達はさすがに若いですね」

 ぬれた眼鏡を磨く柳川に耕一はグラスを差し出した。

「そんな年より臭い事言わないで下さいよ、叔父さん」
「俺もまだ若いつもりだったがな。さすがにあそこまでのエネルギーはないよ……流石に参った」

 千鶴と楓が人垣を掻き分けつつ一緒にやって来た。

「お疲れ様です、柳川叔父さん」
「お疲れ様です」

 柳川は頭にタオルを被ったままふうと大きく嘆息した。

「全くだ。もう金輪際こんなのはお断りだ」

 この状況で彼女達を独占するのはどうか、と耕一は思った。柳川は気にせず、というよりその余裕もなくパタパタと手団扇している。
 ちらとみると、予想通り周囲から羨望の眼差しがそそがれている。

「千鶴さんは早めにリタイアしたからいいよな」

 耕一は意地悪く言ってやる。

「う」

 千鶴は喉にものを詰まらせたような呻き声を出した。見ると楓もきまり悪げにしている。どうやら千鶴のリタイアに責任を感じている様子だった。二人とも真面目だからなぁ、と耕一は内心で苦笑する。

「今回は俺が二人ともやっつけたようなものだからな。敗者は勝者に酌でもするべきだと思うがどうだね?」
「私負けてません! 相打ちです!」

 楓が食って掛かる。楓の中のこんな激しさ、負けん気の強さを耕一は今日始めて見たような気がした。

「そうだね。お互い大将をふたりづつ倒した、って事にしとこうか?」

 そんなことを言いながら偉そうにグラスを突き出す耕一。

「ふん。自分ひとりで勝ったみたいな事を言うんじゃないぞ。あれは足立さんの作戦あればこそ、だろう」
「叔父さん、そうカタイことは言いっこなしですよ」
「柳川叔父さんの言うとおりですよ。耕一さん、何にもしてないくせに」

 千鶴がむくれたように言う。

「私は自分で作戦立案しましたから」

 と澄ました顔で楓。

 二人とも、とても楽しそうだな。
 耕一はそう思った。特に楓の表情の優しさには今までにない物を感じる。
 

「会長〜、こっちにも来て下さいよ〜」
「ほら、ちーちゃんご指名だ」
「楓さんこっち来ませんかぁ?」
「お、楓ちゃんもお呼びだね」

 暇を希うと彼女達はまた人の輪の中に混じって行った。取り残された男三人はしかし、それぞれが慈愛を感じさせる眼差しを彼女達の背中に送っていたことに気付いていた。

「……この時間の為に祭り全体があったんだよ。是でちーちゃんの社内での立場も少し変わるといいけどね」
「やっぱりそうですか。楓ちゃんの引込み思案も少しは解消されたみたいですし」
「――余計なお世話かも知れんぞ?」
「叔父さんももう少し人付き合いをしたほうがいいですね」
「ふん。それこそ余計なお世話というものだ」

 そのとき鐘の音が木霊し、庭から梓達の歓声と男達の落胆の声が聞こえてきた。ようやく、長かった戦いが終わったのだ。
 

               §
 

 夕暮れの空に染み渡るような重く、どこか切ない鐘の音が六度鳴る。日の入りをさす、暮れ六つ時。

 戦いは終わった。そして玄関は死守された。
 梓たちはへたりこみながらも勝利の歓声を上げた。梓の周りに感極まり、涙ぐんだ仲間達が群がってくる。梓は優しく皆を抱擁し、よくやったねと声をかけた。
あたり構わず泣き出す子が何人か出始めたとき。

「せんぱぁい、私も頑張りましたぁ!!」

 かおりが群がる後輩達をちぎっては投げちぎっては投げ、人波を蹴立ててやってきた。

「おうっ、本当に良くやったなぁ、かおり!!」

 梓は飛び込んできたかおりを胸で受け止めると、きゅっと抱きしめた。かおりは予想外な梓の率直な親愛の表現に、ぽーっとして悪さをすることも忘れてしまう。
 そして再び仲間達が梓の周りに集まってくる。

「ようし、みんな、勝ち鬨だ!!」

 そして、彼女達は夕焼け空に向かって声を限りに吼えたのだった。
 

               §
 

「本当にお疲れ様でした」

 初音が玄関にて三つ指ついて出迎える。千鶴と楓も側に控えて、席へと彼らを案内する。彼女達が姿を見せると、半ば出来上がった会場の皆も割れんばかりの拍手で迎えた。

「お疲れ様、おめでとう」
「お疲れさま、姉御!」
「カッコよかったぞ〜」

 ぴーぴーと口笛が飛び、笑い声と野次と拍手とが交じり合った大騒ぎだった。さすがに少し疲れが混じっているけれども、梓の表情は晴れがましかった。何より、彼女に付いて来た陸上部の皆を誉められたときの誇らしげな笑顔。自分が誉められた時には決して見せない、照れも遠慮もない、真っ直ぐな笑顔だった。

「よー梓、お疲れ様。今日はやられちまったな〜」
「お疲れだ」

 耕一と柳川が梓を手招く。耕一はグラスを出し、今日くらいはいいだろ、と千鶴に合図を送ってからビールを注ぐ。梓は一息で全てを飲み干すとそれこそ腹の底からというふうな感嘆のため息をついた。無言で空のグラスを突き出す梓に今度は柳川が一献注ぐ。即座にをれを空ける梓。そして、次は足立の番。梓は駆けつけの三杯を飲み干した。

「たぁぁぁ〜〜、効くねぇ!」

 親父臭い感嘆をする梓。いい呑みっぷりだねぇ、と煽る耕一。梓の周りにまたどっと人が集まり、次々にグラスに酒を注いでゆく。梓もまた調子に乗ってそれを次々に空けてゆく。それは非番とはいえ現職の一警官がストップを入れるまで続いた。というより、止めなければどこまでも際限がなさそうだった。
 

 宴も、どこまでも尽きる事無く盛り上がっていた。皆が皆、場の雰囲気を、会話を、料理を、酒を、心行くまで満喫していた。
 

 そんな中を、初音が床の間を背負い、すうっと端座する。それぞれの席に散った姉妹達がそれを見て静かにするように周りに頼む。
 少しずつざわめきが収まり、しんと落ち着いた雰囲気場に満ちる。皆の注意を一身に集めるも、初音は臆せず莞爾と微笑んで口を開いた。

「今日は皆様お集まりいただき有難うございました。本日のこの弦姫祭、贄役を勤めさせていただきました柏木初音でございます。古い風習を保存しようと私どもの祖父がこのような形で蘇らせたこの『柱祭り』は、かつての山神・鬼神への尊敬と取り決めをもとにされた伝統行事でした。
 今の世、このような民間の信仰は絶えて久しいものとなっていますが、物語中の弦姫と鬼一が人と鬼の壁を超えて理解し合ったように、私たちも人と人、そして自然や社会との協調に勤めてまいりたいものでございます」

 落ち着いた声で紡がれる初音の謝辞。年に比して幼く見られる初音だが、このときの彼女はまさに神々しくさえあった。
 

「……集侍神主・祝部等、諸聞食宣。
(……うごなわれるかむぬし・はふりら、もろもろきこしめせとのる。)
 高天原神留坐、皇睦神漏伎・神漏弥以、天社・国社敷坐、皇神等前白……」
(たかまがはらにかむづまります、すめむつかむろき・かむろみのみこともちて、あまつやしろ・くにつやしろとしきませる……)

 目を閉じた初音の口から淀みなく祝詞が流れる。水を打ったような座に、初音の耳障りの良い声が朗々と響く。

「……事不落捧持奉宣……」
(……ことおちずささげもちてたてまつれとのる……)

 唱え終わると初音は目を開き、微笑んだ。

「堅苦しい決り事は以上です。それでは皆さん、後はまたご自由にご歓談ください」

 ポーっとしてしまった男性陣が回復するのにはさらにもう暫くを要した。
 

               §
 

 梓と彼女の仲間達が座に加わると、場は一層華やかになった。しばしばその華達は揃って柳川に秋波をおくったものだったが、当の本人は気付いてか気付かずにか、そのほぼ全てを無視していた。やっかみの視線も相当集めたのは当然だが、こちらもまた無視された。

 柏木の姉妹が勢揃うということの意味を改めて耕一は思い知った。美はそれだけで力である。彼女達の行くところひたすら人が集まり、皆が構ってもらいたがっていた。

 ――ぱっと見で一番人気は? うーむ。楓ちゃんと初音ちゃんはやや層が被るかんじだな。でも、ちゃんと同年代の若者達の付き合いって奴だ。なんか、梓は独自の路線を突っ走ってるなぁ。姉御肌な感じが主婦層と親父層と女性陣に大人気だ。千鶴さん……ありゃ既に年配キラーだな。いやまて、年下も思いっきり大量に殺してそうだな……。うーん、流石だキリングマシーンだ。そういや、叔父さんも凄いなぁ……

 相当出来上がっていた耕一はそんな事を考えている。

「耕一ぃ、飲んでるかぁ?」
「ご……っぶ!」

 声と同時に梓がいきなり耕一にチョークスリーパーを仕掛けた。たまたま入りが完璧だったのか、酒のせいか。タップするまもなく耕一落ちる。

「どうした耕一、静かじゃねぇか!」
「梓っ、耕一さんを離しなさい」
「梓姉さん!!」

 意識のない耕一を振り回す梓に、流石に危険なものを覚えた姉妹が駆けつけた。
 その後、姉妹の間で勃発した「軽い」争いは後の語り草である。座はそれは大きく盛り上がったと言う。運のいいことに、怪我人は出ずにすんだ。

 ……その程度で済んだのは、柳川と初音による決死の尽力の賜物だ、と目覚めた耕一に足立は真顔で語ったものだった。
 

               §
 

 部屋の壁近くで七瀬と梓が談笑していた。何か共通の話題を見つけたらしい。

 千鶴と柳川がある料理の一皿を取り上げて何か真剣に話している。漏れ聞こえる会話の端々に裏とか皆伝とか、奇妙な単語が混じっていた。

 楓とかおりが意気投合したのか、ジュースで乾杯している。それはプラトニックな友情であるらしい。

 ととと、と歩み寄った初音の頭を耕一が微笑みながら撫でている。耕一はまだ青ざめて横になっていたが。
 

 ――宴は何時までも続いた。

 それは一つの夏の叙情。
 淡々と続く日常のなかの、本当に短い非日常の一コマ。
 あっという間に過ぎ去り、後は記憶の中にうっすらと思い浮かべることも困難になる多くの出来事のなかの一つに過ぎない。

 しかし、物事は僅かずつとはいえ変わってゆく。
 今日は間違いなく昨日とは違う一日であり、明日は予想も出来ない一日かもしれない。
 明るく燃え上がった炎はいずれ消えるが、その後には熾を残す。
 皆、その優しい温もりを胸にまた日常へと戻ってゆくのだった。
 
 

―― 了 ――               
 
 
 

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