―― 弦姫祭 前編 ――
 
 

「楓、そっちはどう? ――どうぞ」
「――はい、異常ありません――どうぞ」
「じゃあ、引き続き警戒を続けて頂戴。そっちに人が流れてるみたいだから。切るわよ」

 まだ夜もあけやらぬ早朝。
 千鶴は型式の古いトランシーバーを切ると俄(にわか)作りの低い鐘楼から辺りを見渡した。
 ここは柏木家の庭の中。北の壁に面した細い散水用の通路のあちこち小高い足場が設けられている。千鶴が立っているのもそんな足場の一つだ。
 千鶴の出で立ちはといえば、徒な浴衣に紅白の襷も凛々しい。結わえた黒髪の下に朱の鉢巻、両手には清水の満ちた手桶と木の柄杓。

 見回せば、広い広い柏木の庭のあちこちに襷の他は同様の出で立ちの女性達が軽い緊張を漂わせながら塀の外へ注意を向けていた。隊伍を組んで巡回するものあり、足場にて見張るものあり、大量の手桶に水を汲んでは壁際まで運ぶものもあり。
 その数、ざっと50名は越している。

「楓のほうはどうだって?」

 鐘楼の上から北の方を見遣る千鶴に歩みよって声をかけるものがあった。
 梓だ。
 彼女もまた千鶴と同じく鶴来屋の浴衣と襷を纏い、千鶴とは違った山吹色の鉢巻を締めている。なんとも鯔背(いなせ)な格好だが、梓によく似合っていた。

「まだ動きはないみたい。梓のほうはどうなの?」
「こっち? ほぼ万端だよ。念の為に予備のタマを用意してるけどね」
「明け六つの鐘が鳴るまで、あとどれくらい?」
「そうだね、日の出頃だからあと30分ってとこかな」

 梓の言うように空は白みかけていた。日の出は近い。

「敵の姿が見えないのは不気味ね。なにかの作戦なのかしら」
「そうだなぁ。今回は二人ほど切れそうなのが向こうに付いてるからな。いつ仕掛けてくるやら気が気じゃないね」

 そう言いつつも梓はふんっと鼻息荒く白みかけた空を睨みつけた。
 

               §
 

 隆山には様々な民間の伝承や伝説が今も息づいているが、全てがそのまま伝えられて行くわけではない。むしろ、多くが受け継ぐものもなく歴史に埋もれていくなかで、運良く幾つかは形を変えて後にそれを伝え、そして極々限られたものだけがそのまま伝わると言っていい。柏木耕平が戯れに復活させたこの弦姫祭もそんな時代の流れの中に消えゆく定めにある筈の一風習だった。

 かつて鬼神に対して生贄をささげる習俗のあったこの土地には、その名残を止める一つの祭りがあった。白羽の矢が立てられた家の娘を鬼門より寄せる鬼から守るというもので、寄せ手には村の男衆、守り手には村の女衆であたる。
 太平の世を迎えて長らく忘れられていたこんな習俗をどこから見つけ出したか。鶴来屋を築いた柏木耕平がこの祭りを復活させようじゃないかと言い出したのは、もう今から20年ほど前になる。そしてその間、実施されたのはただの一度っきりだった。
 

 そしてそのたった一度から20年。

 柏木邸に一本の白羽の矢が立った。『初音』とかかれたそれは、消え去ろうとしていた祭りの火を再び灯す、灼熱の火矢でもあった。
 

 そして今、初音は一人庭を見渡せる客間の中央に座っていた。巫女のように紅白の羽織袴、手には袱紗をもっている。
 非常に可愛らしい格好に神妙な表情を浮かべ、初音は瞑想するように目を閉じ、外の様子に耳を済ませていた。
 

               §
 

「日が昇るわね……」

 千鶴が呟くのとほぼ時を同じくして、鐘が音が六つ、遠くより山々に木霊しながら響く。夜明けを告げる鐘。そして、戦いの始まりを告げる鐘だった。

 千鶴の腰のトランシーバが鳴る。

「――来ました。黒、耕一さんです。――どうぞ」
「数は?――どうぞ」
「朝日に紛れてよく見えませんが、40程です。こちらで対応できます。梓姉さんに補給線の確認をお願いしてください。戦闘に入ります――以上」
「頑張ってね。緊急の際は連絡を――以上」

 ――始まったわね。

 千鶴は梓に楓の報告を伝える。梓は号令をかけると持ち場へと戻って行く。東の壁の向こうから、地を揺るがすような鬨の声が上がっていた。
 

「行くぞ野郎ども!! 一気に突破だ、遅れずについて来い!!」

 耕一が吼えた。耕一も同じく鶴来屋の浴衣に大将襷、額には漆黒の鉢巻。
 耕一の咆哮に続き、男たちが怒号を上げる。彼らもまた浴衣を着、全員が漆黒の鉢巻を締めて、やはり手には手桶と柄杓、そしてそれぞれが短めの梯子を小脇に抱えていた。彼らの前には朝日を照り返して眩く輝く白い漆喰の壁があった。
 
 手勢の中心は商店街の旦那衆と高校の男子生徒たち。男衆の中でも選りすぐりの猛者達だ。

「突撃!!」

 応応応!!
 時の声とともに、朝日を背負って男たちは突進した。梯子を構え、手桶や柄杓を口に咥えて、彼らは東の壁に殺到する。
 

「まだです! もう少し引きつけてから!」

 楓が鋭く指示を発する。彼女もまた、例に倣った戦装束。守り手三軍の将であり、その鉢巻は緑。

 息を潜めるようにして、青い鉢巻をした女性達は身を屈めていた。
 楓は男たちが何も考えずに均等に壁に取り付こうとしているのを確認すると、手勢を予定通りに配置する。

「今です!」

 男衆が梯子を立て掛けようと壁に取りついたその時、楓は号令を発した。すっくと女軍は立ちあがり、壁の上に姿を現すと柄杓の水を雨霰と男たちの頭上に振りまいた。
 辺りに悲鳴と怒号が満ち溢れた。
 いよいよ戦の始まりだった。
 

               §
 

 攻め手の男衆は、明け六つの鐘が鳴ってから暮れ六つの鐘が鳴るまでの間に壁を上って玄関にたどり着かなければならない。そして女衆はそれを阻止するのが役目である。

 両軍必ず鉢巻をしているが、この鉢巻は水に弱く、濡れるとすぐに解けてしまう。そうなるとそのままでは戦闘に参加してはいけない。鉢巻をしていない者は戦に置いては死人とされるのだ。
 鉢巻は正門にて再交付されるので、やられても何度でもまた参加できる。
 ただし、自分の大将が負けると、それ以降その色の鉢巻の交付はされなくなる。大将は一度倒れたらもう復帰はできないから、両軍それぞれ三名ずつの大将はしっかりと守らなければならない。

 その他のルールとしては、

 手桶と柄杓以外の道具を使って水をかけてはいけない。
 寄せ手は必ず東か北の壁を乗り越えなければならない。
 門を使っていいのは守り手だけである。

 というものがある程度だった。

 要は、派手な水合戦である。夏らしい涼やかな祭りといえなくもなかったが、実際は炎天下の中を走り回る熱い戦いであった。

               §

「――と言うわけで、被害甚大でした。やっぱり無謀な突貫でした――どうぞ」
「まあ、そうだろうな。戦闘の感覚は掴んだか?――どうぞ」
「――ええ。次ぎはもっとスムーズに動けます。意外と、梯子守って走るのは大変ですよ。それと、咥えた桶から水が撥ねて、下手すりゃ自滅です――どうぞ」
「耕一、お前だけはそれやるなよ。白けるったらないぞ。まあいい、次の準備を整えておいてくれ。今度はこっちの番だ――以上」
「了解。ではご武運を――以上」

 通信を切った柳川は振り返って足立を見た。額の鉢巻の色はそれぞれ紫、そして青。男衆の大将三人のうち、この二人は柏木宅北壁に陣を敷いていた。男衆は北東、つまりは鬼門から攻め入ることになっている。
 東には現在耕一が配されていた。

「敵さんの守りはなかなか堅そうですね。誰も壁の上まで辿りつけなかったそうです」
「うーん、あのチームは若いしそこそこ行くかとも思ってたんだが……甘かったかねぇ」

 足立が腕組みをしてぼやくように言う。

「取り敢えず時間はまだありますし、ここは訓練がてら攻めてみましょう。お互いまだ勝手が掴めてないですから。……しかし、聞くところの楓の手並みは鮮やかでした。どこぞかで練習したんですかね?」
「お? 知らんのかね、柳川君。彼女たちは殆ど毎日男衆を御す訓練しとるんだよ。そも女衆に逆らっても、始めから勝ち目なんぞないのさ」
「……そう言うものですか?」

 柳川はちょっと納得のいかない顔をした。足立はそれをみてにやりとして言った。

「残念ながらそういうものなんだよ。しかし、そろそろ行こうか。みんなうずうずしとるよ」
 

「梓、敵が北にきたわ――どうぞ」
「……あのさ、士気が下がるような事言わないでくれ、千鶴姉。で、どうなんだ? 対処できそうか? ――どうぞ」
「……紫と青、その両方が混じってるわ。一気に来たみたいなの。あなたのところから少し応援を出して頂戴――どうぞ」
「了解。ウチの部員達を遣るから使ってやってくれ……わぁっ……せんぱい、私はここで手伝いますぅ……ええい鬱陶しい、いいから行けっ! ……――どうぞ」
「……ありがと。――以上」

 千鶴は整然と隊伍を整えた敵影を眺めた。朝日を受けて長く伸びた影が恐ろしげに見える。それにしても凄い数だ。70人ぐらいの筈だが、こうして見ると100人ではすまないように感じる。
 千鶴は振りかえって自陣の配置を確認した。彼女たちはしっかりと持ち場につき、準備を整えている。水の入った手桶が大量に運び込まれ、予備の柄杓が整然と並べられている。移動の経路指示もしっかりとしている。千鶴はその様子を見て頼もしく思った。もう一度敵を見ると、先ほど感じた威容が、それほどでもなく思える。

「――さて、いよいよね」

 千鶴は真っ赤な紙の鉢巻を締めなおし、心持ち垂れた目元も引き締めると、迫る敵をきりりと見据える。そして、さっと片手を上げた。

「打ち方、用意!」

 守り手の女性たちがざぁっと柄杓を構える。猛り狂った寄せ手の進軍を前にして、千鶴は不敵に微笑んだ。

「打て!」

 そして、此処でも戦が始まった。
 

               §
 

「佐和さん、みんな連れて三番にまわってっ!」
「あいよっ! じゃあ、ここは任せたわ」

 鶴来屋従業員たちの意思伝達は簡潔で素早い。さすがは日本一のサービスを誇るプロ達である。
 それぞれがてきぱきと指示を出し、淀みなく作業が進む。
 統括する千鶴の指示も常に当を得ていた。男衆の集中する場所を的確に予測しそこに前もって人を動かすので、男衆が壁に取り付こうとするときにはもう水を湛えた柄杓がズラリとそこに並んでいる、などとということもままあった。

「……やるな……」
「大したもんだよ、ちーちゃん。締めるときは締めてくれるねぇ」

 寄せ手が近づけずにいる様を二人の大将はため息まじりに眺めた。
 この戦いは随分と長期に及んでいたが、男衆はなかなか壁に取り付けずにいた。物量を誇って押そうとするのだが、前線が順繰りになぎ倒されるだけで、後続の援護が殆どできていない。実際、援護しようにも流れ弾を味方に当てるのが関の山と言う話もあった。ひたすら突撃しては倒されると言う203高地の戦いのようだった。
 東のほうでも耕一軍が再び侵攻を開始していたが、同様に攻めあぐねていると言う報告を受けている。
 鉢巻の再交付を行う正門の辺りに、男衆の大行列ができているのを見て、柳川と足立は苦笑する。

「――大将、タマが尽きかけています」

 手桶の水がなくなった、ということだ。補給線の確保をやり直す必要があるな、と柳川と足立は思う。

「そうか……こりゃ、ここで撤退かな。柳川君」
「そうですね、昼も近いですし。何より作戦の練り直しが必要ですね」

 どんどんと太鼓が打ち鳴らされ、寄せ手に撤退が伝えられた。
 第一次総攻撃は、女性軍の完勝に終わったと言えそうだ。
 

               §
 

「ぃやったぁぁーー!! 奴ら、逃げてくぜ!!」

 梓が快哉を叫ぶ。千鶴のトランシーバが鳴り、楓もまた敵を押し返したという報告が入った。千鶴と梓は抱き合って叫ぶ。
 女性たちがあちこちで勝利の歓声を上げている。
 大勝利と言っていいだろう。男衆の鉢巻の交付が数え切れないほどだったのに対して、女性陣の被害はそれこそ数えるほどにすぎなかったのだから。

「よォし、この調子で守り切るぞ。千鶴姉、今のうちに補給を済ませるから、みんなを順番で休ませといてよ」
「わかった。梓、張り切りすぎて無理しないでね」
「これくらい何てことないよ。千鶴姉こそみんなの士気を挙げるような勝利の演説でも一つ頼むぜ」
「ええっ? え、演説?」

 商店街の女将さんたちから野次が飛ぶなか、千鶴がなんとか皆の健闘を称える一節をぶち終わった頃、昼の休憩を伝える鐘が鳴り響いた。
 

               §
 

 柏木の庭の中。
 鶴来屋で使い古した浴衣が全員分の着替えとして用意されている。男衆は盛大な水合戦で濡れた体をタオルで拭い――あるものは褌姿でまた水を浴びた後で――着替えてさっぱりとした顔で仕出しの弁当を受け取りに行く。
 女性陣は流石にそう簡単には行かず、すぐ近くの銭湯を借り切っての着替えと相成っている。

 皆にお弁当が配られ、和気藹々とした食事の風景が展開されていた。先ほどまでは敵味方に分かれて争っていた旦那衆と女将さん衆は仲睦まじく談笑し、高校生の男女が一塊に席を占めておおらかに騒いでいる。

 柏木の姉妹たちはそれぞれにもてなしにてんてこ舞いだった。
 初音の晴れ姿に同校の生徒達は殆ど骨を抜かれていた。もともと此処に集まった連中の内心を思えば、目の毒というものだろう。
 鶴来屋からの男子社員達はここぞとばかりに会長へのアピールに奔走していた。企業人としてか、それとも男としてか千鶴の前に出た社員達は自分の立場の据え所に大いに迷うことになった。浴衣姿の千鶴相手に上がらず話せるものはそうそうはいない。
 梓は商店街の旦那衆と女将さん衆に囲まれていた。ミス隆山商店街というのがあれば真っ先に彼女が上がるのだろうが、いまだかつてそんな企画が持ち上がったことが一度もないのは残念だ。
 そんな中、一人ぽつねんとしていたのが楓。
 姉妹たちの人気者ぶりに、さすがの彼女も少し自分の生き方を考え直そうかと思ってしまった。

 一座が暖かくくつろいだ雰囲気をかもし出している中で、足立・柳川・耕一の三人は一角を占めて顔を付き合わせると、真剣に午後の戦いに備えた作戦会議を開いていた。

 そしてお昼時間は終わり、再び戦いの幕が切って落とされる。
 

               §
 

「今から作戦を説明する。
 いいか、まず紫部隊を二つに分ける。梯子部隊と援護部隊だ。
 梯子部隊は、突進して梯子を設置するのが役目だ。壁の真下に入り、はしごを固定するんだ。壁には僅かだが屋根が張り出している。水を掛けるのは意外に難しいはずだ。そして良く聞け、梯子は一定の間隔をあけて並べるんだ。
 そのスペースに援護部隊が入って水を撒く事になる。あまり間隔が詰まると自爆が多くなるから気をつけろ。この援護を援護部隊にあたってもらう。判るか?
 梯子と梯子の間に援護部隊が入って敵に応戦、登攀を助けるわけだ――よし、ここまでは理解したな?」

 柳川は自分直属の部隊に作戦を説明すると足立を振り向いた。
 足立も自分の青部隊に突入の方法を指示し終えたところだった。

 足立の部隊は梯子を持たず、梯子部隊によって設置された梯子へ隊伍を組んで突進し、列を作って先頭の者へ手桶をバケツリレーする。先頭がやられたら次が梯子を上り、前線に立つ。先ほどの無秩序な攻め方では効率が悪すぎると柳川が提唱した作戦だった。

 その間、耕一は東の方面を同様の戦術で牽制することになっている。

「では行くぞ。第一次波状攻撃開始だ! 締まっていけ!!」

 柳川は自陣に活を入れた。隣で、足立の軍も時の声を上げていた。
 

               §
 

「――東、黒、来ました。応戦します――どうぞ」
「――こっちも来たわ。また追い返してやりましょう!――以上」

 前半戦の圧勝に気を大きくしている女性軍は鷹揚に構えていた。千鶴も短く指揮を出し、応戦の態勢を整えた。
 しかし、高を括っていた彼女達が顔色を変えるまで、それほど時間はかからなかった。

「――敵の動きが違います! そちらは――」
「――何とか対応してっ! こっちもよ!!」

 行動目標のハッキリした動きで突進してくる紫の柳川軍。降り注ぐ水を避けながら、梯子を立てかけてくる。今までであれば、ここで梯子に登ろうとしてもたつき、バタバタしながら放水の的となるところだが、今回の彼らはそのまま梯子の裏に回って壁に張り付いてしまう。的が壁の向こうでは、散水するためには彼女達も身を乗り出さねばならない。そこに援護の水が浴びせられ、千鶴率いる赤軍は午前の戦い全体以上の被害を開戦僅か数十分のうちに蒙っていた。
 千鶴も陣頭指揮の最中にしばしば飛沫を浴び、先ほどとは様相の異なる戦況に気を引き締める。

 寄せ手が優位を占め、防衛の手が弱ったのを見て足立の手が振り下ろされる。

「突入!」

 青の軍勢が雪崩を打って押し寄せる。それは男衆の主力の鶴来屋従業員の一団であり、別名を千鶴親衛隊ともいう。
 

               §
 

 楓も耕一率いる黒軍の勢いに押され気味になっていた。機能的に波状攻撃を続ける耕一軍に対して、緑の楓率いる手勢はやや統一を欠いていた。指揮命令系統がきっちりしていないことを楓は悔しがったが、今更どうにもならない。ついに初めて壁の上に立ち上がる者が現れた。即座に集中放水を浴びて退場となったが、それが耕一軍に与えた士気の高揚は計り知れなかった。

「よくやった矢島ぁ!! みんな奴に続けぇ!!」

 耕一の声が轟き、大気を震わすような咆哮が壁の向こうで上がった。比して、女性陣の不安が広まっていくのを楓は必死に止めようとした。しかし厳しい活も懸命の指示もなかなかに通らないほど混乱が増していく。楓は歯噛みしてその現状を見つめていた。
 

               §
 

「みんな、正念場だ!! 防衛するほうが圧倒的に有利なんだ!! 補給線とバケツリレー態勢を確保するぞ。かおり、お前は東を統括しろ。ちゃんとやれば後でごほうびの一つでもやるっ!! ほかの皆は、北壁を死守するぞ!! 庭の池からバケツリレーラインを作る!! あんたは、家の中からホース持ってきて庭まで繋いどいてくれ。あと、家の風呂にも水をためとくんだ!! 物置には子供用のビニールプールもあるから、それにも水を張ること!! 判った? じゃ、各自行動開始!!」

 梓の号令一下、山吹の鉢巻を締めた陸上部員達は猛烈に動き出す。特に目の前にえさを吊り下げられたかおりの張り切りようは普段からは全く考えられないものだった。
 東のもたついた伝令指揮が、年配のおかみさんたちにあると見た彼女は、どうやったのかは判らないが有無を言わさず彼女達を自分の命令下に置いた。指揮系統さえしっかりすれば、彼女達は最も強力な戦力の一つとなる。
 かおりは楓からの命令指示をうけ、それをきっちりと末端まで伝達した。補充とローテーションのシステムがあっという間に組みあがり、壁の内外での水撃戦を五分に持ち直す。
 

 ――恐るべし、日吉かおり。楓はその名を心に刻んだ。
 

 同刻、梓率いる援軍が北の壁の戦局を変えていた。足立軍の苛烈な攻撃に一時は壁の内側への進入さえ許すかと思われた北壁防衛戦線だったが、梓の徹底した早期補充と部活動経験者の組むローテーションのシステムで徐々に足立軍に打ち勝っていった。
 それでも足立・柳川連合軍の波状攻撃は止む所なく、体力的な面での消耗が女性陣に見られ始めていた。

「――梓、ちょっと作戦があるの。手伝ってもらえる? ――どうぞ」
「――作戦? ………え………うう〜ん……まぁ、いいや千鶴姉がやりたいって言うんなら止めないよ――どうぞ」
「じゃあ、協力お願いね――以上」
 

               §
 

「おおっ!! 敵総大将だっ!!」
「あああっ、会長だぁぁ!!」
「千鶴さんだぁぁっ!!」

 北壁を攻める寄せ手の半数、足立率いる青の軍勢が一斉に色めきたった。
 北壁の西端、勝手の門付近の屋根の上に姿を見せたのは守り手の総大将、柏木千鶴その人だった。紅白襷が日に輝き、目に鮮やかな朱の鉢巻と緑なす黒髪が風にたなびく。

「「「大将首だ!! 討ち取れぇ!!」」」

「あ、こら待て!! 隊伍を乱すな!!」

 興奮した彼らには足立の指示も届かなかった。
 持ち場を捨てて千鶴に群がる青い鉢巻の男達。千鶴は莞爾(にっこり)と微笑んで、一段高い勝手の門の上にひらりと身を躍らせた。足元にかかる水に、きゃぁきゃぁと千鶴が悲鳴を上げてみせる。濡れた浴衣の裾が色っぽく足に絡みつく様を見て、咆哮をあげる野郎ども。こうなってはもはや、如何なる制止も耳に入らない。

 ――ちーちゃん、それは……ちょっと。

 えぐくないかい? 足立はため息をついた。

 一群となった男達が北西の門付近にごちゃごちゃと集まり、届こう筈もない高みに向けて水を撒く。それは天に唾棄するように、自らの上に降り注ぐだけだ。
 時来たれりとばかりに、千鶴がさっと合図の片手を挙げた。
 それに応えて一斉に西の壁の内から水が振りまかれた。虹を伴って降り注ぐ清水が、群がった男たちの青い鉢巻をあっという間に溶かし落とした。
 そして混乱の最中、門が開くと山吹の鉢巻も凛々しい若い女性達の一隊が勝手門を開け放って飛び出してきた。彼女達は一糸乱れぬ動きで壁際を駆け、梯子を支える紫の柳川軍を各個に撃破していった。

「しまった! あいつらを止めろ!」

 しかし柳川軍が援護部隊を振り向けようとしたとき、それは運悪く丁度補充のタマが届く直前だった。組織的な行動が出来ぬままの梯子部隊を蹂躙した彼女達は、敵の据えた梯子を登ると片端からそれを蹴倒したり引き上げたりして回った。
 そしてその間に、梯子部隊に対する迎撃部隊が鐘楼の上に待機を完了していた。

 丁度14:00に行われた『千鶴囮作戦および梓機動隊による電撃工作』であった。
 

               §
 

 第一次の波状攻撃は止み、耕一たちの軍はまた撤退した。しかし、彼らは彼らなりの手ごたえを得たはずだ。楓は手勢を見てそう思った。消耗がはげしい。皆かなり疲れてきていた。今回は何とか凌げたが、次もそうだとは限らなかった。

「日吉さん、お疲れ様でした。……凄かったですね」

 楓は補給作業中に、同じく作業をしているかおりに声をかけた。
 かおりはにっこりと笑って気さくに応じる。

「あはは、あれくらい何てことないですよぅ。ところで楓さん、私『ちゃんと』やりましたよね?」
「それはもう。素晴らしすぎて言葉もないくらいでした」

 かおりはにやりとした。

「それ、あとで証言してくださいね」
「……証言、ですか? いいですけど誰に?」
「そのときはお願いですよ! うふふふふ」

 その含み笑いには首をひねらされたものの、楓はかおりの開けっ広げな笑顔に無邪気な好感を抱いた。
 

               §
 

「やったじゃないか、千鶴姉! たいした戦果だよ」
「こんなに上手くいくとは思ってなかったわ!」

 別働隊の帰還と同時に歓声が上がる。先ほどの奇襲の成功で北壁の支配権はまた完全に守り手に戻った。次以降の波状攻撃にも、心構えを持ってあたれば先ほどのようには簡単に接近を許さないだろう。

「ところで梓……」
「何?」

 手桶を持って駆け回った梓はなんやかんやで全身かなりずぶ濡れだった。前線に立っていた千鶴よりも水を被っている。湿った浴衣が肌に張り付き、梓の豊満な体のラインを強調している。千鶴、指を咥えてジト目。

「……何でもないのよ」
「何さ、一体?」
 

               §
 

 14:30 第二次波状攻撃が開始された。
 今回は耕一率いる黒の軍団までもが北壁の攻撃に投入され、青紫黒の全ての鉢巻が戦場にひらめいた。先ほど以上の熾烈な攻撃に、東を守る楓の手勢のうちで補給を担当していた部隊も北壁に応援に回された。ここが分け目の総力戦になる、皆がそう思った。
 

 しかし、それが寄せ手の狙いだったのだ。

「――敵?! 一体どこから!?」

 楓は仰天した。油断していたつもりはなかった。敵影はなかったのだ。突然、一斉に梯子がかかるに至って初めて彼女達は敵の接近に気が付いた。

 ――壁沿いに密かに移動していた?北側の人が気付かなかったということは……ぐるっと回って南から……しまった!

 しかし、もう遅かった。かかった梯子からあっという間に寄せ手が登ってくる。不意を討たれた彼女達が応戦する前に、彼らは東壁の上を占拠して、そこに橋頭堡を築きつつあった。
 ついで、ましらのように寄せ手が一足飛びに東壁の上に現れはじめる。見れば壁の下、スタントの要領で二人組みになった土台とそれを足場に飛び上がる者、そして彼らに柄杓と手桶を受け渡す者。一気の奇襲のための見事な動きだった。

「ひたすら弾幕をはってちょうだい! あと、急いで応援を呼んで!!」

 ――間に合って!

 楓は即座に指示を出しながら自らも陣頭指揮に立つ。
 この際、味方を巻き込むのも止むを得なかった。壁の内側にある足場の位置を耕一軍はしっかり把握しているようだった。真っ先に梯子が掛けられたポイントが鐘楼の真正面だったのは偶然ではない。一瞬のうちに防衛の拠点を押さえられ、守り手側の攻撃が平地からの散水のみとなった今では防衛も容易ではなかった。

 壁の上に現れる寄せ手の数が増え、そのポイントも広域に渡りだす。東壁上の地歩を争う重要な局地戦は寄せ手が勝利を収めつつあった。
 高地を取られた段で、守り手の女性達は一気に後手に回らざるを得なくなった。壁の上から降り注ぐ飛沫に、バタバタとなぎ倒される緑の軍勢。……援軍の到着を見たのはこの時点だった。時、すでに遅し。

 ――なんてこと!

 彼女には壁の上からの散水の届かないところまで陣を下げるほかに方法がなかった。東の壁の上に次々と現れる耕一の軍を見て、楓はぎゅっと拳を握り締めた。もう、どうしようもない。壁に無数の梯子が立てかけられてゆくのを、楓は無念の思いで見守った。

 東壁、陥落。14:51のことだった。
 

               §
 

「――ええっ? 東壁が落ちた?」

 楓からの一報に千鶴は狼狽した。北壁への攻撃は未だ苛烈を極めていたが、千鶴は現状の指揮を梓に委ねると楓のところへと急ぎ向かった。東壁の前線の後退で味方の補給線が多少の混乱を呈し、人の行き来が先ほどまでの整然さを失っていた。
 千鶴は人波を掻き分けるようにして東門の前線へと急いだ。人ごみの向こう、青ざめた表情の楓の横顔を千鶴が認めたその時。
 

「総大将!?」

 千鶴に声をかける者があった。千鶴は何気なく振り向く。ショートカットの中性的な女性が彼女の前に立っていた。その瞬間、千鶴は違和感を覚えた。
 その唐突の行動にはさすがの千鶴も反応できなかった。呼ばれて振り返りざまの千鶴にその女性は柄杓の水を浴びせた。

 呆然とする千鶴。朱の鉢巻が千切れて、ゆっくりと地に落ちる。

「――ったぁ! 大将首、討ち取ったり!」

 その瞬間、違和感の正体を千鶴は悟った。その「女性」は黒い鉢巻をしていた。”彼”はその場でガッツポーズを取る。

「倒した、倒した!! やりましたよ大将!!」

 喜びもあらわに、声を限りに叫ぶ。

「でかした、七瀬ェ!! お前は漢だぁ!!」

 耕一の声とともに、おおお!!という勝利の歓声が上がる。千鶴は頭からぽたぽたと雫を滴らせながら、きょとんとしてそれを聞いていた。

 千鶴、還らず。
 時に15:03、制限時間まで残り3時間を切ったばかりの出来事だった。
 
 

―― 弦姫祭 前編 了 ――
 
 
 

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