現人鬼(あらびとおに)ブルース
作:YISAN
夜9時を過ぎていた。
11月も終わりかけの時期にしては暖かい夜だった。
人影のない公園の小道は、降り積もった枯れ葉によって隙間無く敷き詰められていた。
少女はかさかさ鳴る絨毯を流れるように歩いている。
少女の名は来栖川綾香といった。
1.
「あー、もうこんな時間かあ。帰ったらセバスの小言が待ってるなあ」
学校からの帰り道、ふらっと立ち寄ったアンティークショップでついつい長居をしてしまい、気が付いたら8時半になっていた。
携帯電話で屋敷に電話をしたところ迎えに行くという老執事の言葉を遮り、綾香は一人で帰ると言うが早いか電源を切ってしまった。さっきまで浸っていたショップの雰囲気を壊したくなかったのかも知れない。
夜道の公園は屋敷への近道だった。
人気のない公園も彼女にはさほど気にならない。恐怖を感じることもない。
自分の身は自分で十分守れることを彼女は知っていた。
「ひょー、かわいいおねえちゃん。夜道の一人歩きはあぶないよー」
下卑た声が掛かった。
「そうそう。僕らがエスコートしてあげるよ」
「だからさあ、いっしょにあそぼーよ」
「そうだよー。いっしょに楽しもう」
「「「きゃはははっ」」」
暗がりの茂みから綾香を取り囲むように4人の若者が現れた。どいつもこいつも一癖ありそうなチーマー系の若者達だ。
ちっ、と小さく綾香は舌打ちをした。
やっぱり、少しは遠くても大通りを歩けばよかった。
恐ろしいからではない。つまらないことに時間をとられるのが嫌なだけだった。
彼女にしては珍しいしかめっ面を、チーマー達は自分らに都合良く受け取った。
「そんなおっかなそうな顔したら、かわいいお顔が台無しだよお」
ロン毛が甲高い声でしゃべる。
「そうそう、俺達についてきたらとろけるようなお顔にしてやるぜ」
鼻ピアスの舐め回すような視線が綾香の全身にまとわりつく。
「「きゃはははっ」」
毛糸の帽子を被った二人が嬌声をあげた。
「ついていかなかったらどうなるの?」
綾香は目の前のロン毛を退屈そうな目で見つめながら問いかける。
彼らの考えてることはお見通しだ。恐怖にかられた女の子を無理矢理アジトに連れ込んで自分達の欲望のはけ口にしようとしているのだ。答えも想像がつく。
「かわいいお顔に傷がつくだけだよ」
あっさりとロン毛がいう。
ついていっても傷がつきそうだけど……
綾香は口には出さずにつぶやいた。
「やっぱりやめとくわ。家は門限厳しいのよ」
「いいのかよ、そんなこと言って」
チーマー達の雰囲気が変わった。暴力への欲望を含んだ声色になる。
「顔に傷がつくといったはずだぞ」
「そう、あなたたちのね。哈!」
「なんだとっ…がふっ!」
ロン毛はセリフを最後までしゃべれなかった。鳩尾に正拳突きを食らったのだ。くの字に曲がって地に伏す男に一瞥もくれず、綾香は後方に飛び退くや真後ろにいた帽子男の一人にハイキックを浴びせる。
側頭部に決まった男はその場に崩れ落ちた。
一連の動きが終わるまでコンマ8秒。
すっくと立つ少女はニヤリと笑った。
「こっ、この野郎!」
「レディに向かって野郎は失礼よ」
「このアマ、ただじゃおかねえぞ!」
「いくら貰えるのかしら?」
残りの帽子男がファイティングポーズをとる。
「ちっとは出来るようだがそこまでだぜ!」
一発、二発、三発と立て続けにパンチを繰り出す。綾香は紙一重でそれを避ける。
男は少女の様子を余裕の無さと感じた。が、綾香は男の動きをあまりにノロいと感じていた。勝負はあっけなく決まった。
繰り出されたパンチをいなし、男の懐深く入り込んだ綾香はがら空きのボディーに膝蹴りを叩き込む。
帽子男は綾香に覆い被さるように倒れ伏した。
だがそのために背後から迫る鼻ピアスへの対応が一瞬遅れる。
雄叫びをあげ突っ込んでくる男の手には飛び出しナイフが煌めいていた。
「くっ!」
邪魔な男を跳ね飛ばし、その反動で自分も飛び退こうとした綾香を殺気が襲う。それは全身の筋肉を収縮させた。
思わず目を瞑る綾香。
しかし、ナイフが身体に食い込む感触がこない。
目を開けた少女が見たものは彼女の脇腹直前で止まったナイフ。そしてそのナイフを握る鼻ピアスの手を掴むもう一人の青年の姿だった。
「残りの男達を拾って失せろ」
「き、貴様……」
「失せろ」
「あ、ああああ」
男が手を離すが、鼻ピアスはナイフを落としその場にへたり込んだ。
「礼を言うべきかしらね」
綾香は新しい登場人物をしげしげと観察する。
年の頃は20ぐらい。大学生か? どこにでもいそうな、どちらかといえばお人好しと言った感じのする若者だ。
「女の子がこんな場所を一人で歩くのは感心しないな」
だが、出てきた言葉はなかなか辛辣だった。
「言うじゃない。まあ、今度からは気をつけるわ」
「とにかく、ここを離れよう。同種の連中が来たら厄介だ」
「そうね」
そう言う割には二人にあわてる様子は見られない。
二人並んで公園の出口へと向かってゆっくりと歩いていく。
残された者の内、三人の男は意識を失って倒れており、最後の一人は虚ろな目であらぬ方向を見つめている。
来栖川綾香と柏木耕一はこうして出会った。
2.
「やっほー」
快活な少女が小さく手を振っている。
耕一は最初はてなという顔をし、その次に周りを見回した。周りには誰もいない。
「あなたよ、耕一」
ようやく耕一は少女の事を思い出した。
ここは、耕一が通う大学のキャンパス。
今日の講義が終わり、これからバイト先にと正門を出たところだ。
あの日、公園を出たところで綾香と耕一は別れた。二人とも自己紹介に自分の名前を言っただけに過ぎなかった。しかし、綾香はその名前から耕一の住所や大学までをも突き止めた。彼女の家の持つ力を使えば雑作のないことだった。
あの日から二日が過ぎている。そして今日、綾香は耕一の講義の終わる時間を見計らい正門で待っていたのだ。
「何の用かな? お嬢さん」
「人の名前ぐらい覚えときなさい。綾香よ、来栖川綾香」
「今、思い出した。……で?」
「デートのお誘いよ」
俺は何をしているんだろう……
小ぎれいな喫茶店でコーヒーをすすりながら、耕一は目の前の少女を見て小さくため息をついた。
「こんな、可愛い娘を目の前にしてため息なんてつく?」
「このシチュエーションが信じられなくってね」
「ふふふ」
「それで、今日はいったいどうしたんだい。わざわざ大学まで来て」
「お礼を言ってなかったからね。あの時の」
「別に礼を言われる程じゃないよ」
「そうでもないわ。あなたがいなかったら、今頃病院のベッドの上だったもの」
ミルクティーを一口含んで綾香は耕一を見つめる。
何故か無性に気になった。
あの時、綾香は耕一の気配をまったく感知出来なかった。彼女程の人間がだ。
自惚れではなく綾香は自分には格闘技を通じてそれなりのセンスがあると思っていた。
格闘技は体力や技術だけではなくセンスというか勘みたいなものが必要だと綾香は思っている。彼女はその点では非常に優れた才能を持った格闘家だった。
その綾香が耕一の接近を気付けなかったのだ。
そして、その直後に襲った殺気。
綾香をして硬直せしめた殺気はこの青年から発せられたのではないか?
格闘家の血が綾香をここまで動かしたのだ。
「ねえ、あなたなにか格闘術やってるの?」
「へっ?」
「しらばっくれなくてもいいのよ。なにやってるの?」
「別になにも……」
「うそよ」
ティーカップをソーサーに置き両肘をテーブルについて組んだ手に顎を乗せ少女は猫のような瞳を向ける。
「うそもなにも、ほんとのことさ」
「じゃ、もしかしてあぶない職業とか……」
綾香の目が次第に細くなる。明らかにこの会話を楽しんでいる。
綾香は人との会話を通してその人柄を探ることが好きだった。
「只の大学生さ」
「私の目は誤魔化されないわよ。あなたなにか隠してるわね」
「しつこい女は嫌われるぞ」
「私は自分の知的好奇心を満たしたいだけよ。特に強い人間に対してはね」
「俺は強くなんかない」
「……」
「強い訳がない」
一瞬、青年の顔は人生の辛苦を嘗め尽くした男の顔へと変化する。
綾香は自分が会話のボーダーラインに達した事を悟った。
「ねえ、あなた独り者?」
「なんだよ。いきなり」
「もしフリーなら私とつき合わない?」
綾香は自分の口から出た言葉に軽い驚きを感じながらも言葉を続ける。
「なっ、なにを」
「あなたの事をもっと知りたいから……じゃダメ?」
綾香は、自分は身持ちが堅いとは思わないが誰彼構わずつき合うほど尻軽でもないと思っている。
だが、人に惹かれるのに理屈はいらない。
あの時だってそうだったはずだ。姉の恋人を好きになった時だって……
この青年がとても気になる。いや、惹かれている。
そう気が付いたら、行動あるのみ。
綾香は心と体が直結して動くタイプの人間だった。
しかし、
「俺には好きな女性(ひと)がいる」
そう言うと耕一は横に置いていたコートを手に取り、レシートを掴むと席を立った。
「あっ。ここは私が……」
「バイトがあるからこれで」
言うが早いか、レジへ向って行く。
後には飲みかけのコーヒーとミルクティー、そして青年の背中を見つめる綾香だけが残された。
「今日はこれくらいにしときましょうか。嫌われても困るしね」
喫茶店を出た耕一を迎えたのは、店先に停められた黒塗りのロールスリムジンとその横に立つ老紳士だった。
黒一色の背広を着込み蝶ネクタイをするその老紳士は強烈な存在感を辺りにまき散らしている。はっきり言って近所迷惑以外の何物でもない。
その老紳士は口を真一文字に結びジロジロと耕一を見ている。品定めをしているのがありありである。
耕一があえて無視して横を通り過ぎようとしたその時、老紳士は口を開いた。
「若造、今後綾香お嬢様に近づくな」
「そっちが勝手に来たんだぜ」
「かあーーーっ! 口を慎め!! あの方は貴様なんぞがお話を出来るような方ではないのだぞ」
「うへっ」
視界の範囲内にいる通行人が皆、首を縮ませながら振り向く。騒音公害も加わった。
「じいさん、ちょっとうるさいぜ。みんな迷惑してる」
平然とした顔で耕一は抗議する。
老紳士のあからさまな威圧にこの青年は少しも動じてはいなかった。
「じいさんではない。儂は来栖川家の執事であるセバスチャンという者だ」
「セバスチャン?」
思わずぽかんとした顔で老執事を見る耕一。
「あんた、外人?」
「儂は大和の国の民だ。れっきとした日本人である。」
「じゃあ、なんで……」
「この名は儂がお仕えする方から頂いた由緒正しき愛のニックネームなのだ。貴様の様な市井の凡人にはわかりもしないだろうがな」
わかってたまるかとは思ったが、老執事の陶酔ぶりに口に出すのはやめた。
「じゃあ、セバ…」
「軽々しくその名を口にするな、若造!」
もう無茶苦茶だ。
「じゃあ、どう言えばいいんだよ」
「敬語も使えぬようだな。まあいい、貴様如きは本名で十分だ。儂の名は長瀬、長瀬源四郎だ」
「あっそ。じゃあ長瀬じいさん、さよなら」
「かあーーーっ! 口の訊き方に気をつけぬか、この若造がっ!!」
「俺も若造じゃない。柏木耕一って名前があるんだよ」
道路の真ん中で対峙する二人。一触即発状態だ。
「いい加減にしなさいよ、二人とも。みっともない」
導火線についた火は、店を出た少女の声によって辛くももみ消された。
「お店の真ん前で何してんのよ。恥ずかしくってもうこのお店に来れないじゃない」
「これは、綾香お嬢様。大変失礼をば致しました。この若造に目上の者への礼儀を教えてやっておりましたもので」
「よく言うよ」
「もう、いいじゃない。セバス、帰るわよ」
そう言って綾香はさっさとリムジンの後部ドアを勝手に開けて中へ入り込んだ。
「はっ。わかりました、綾香お嬢様」
そう言って深々と礼をした長瀬が頭を上げた瞬間、彼は背後の耕一の顔面へ裏拳を放った。
目にも止まらぬスピードで繰り出された拳は、耕一の鼻先5mmでピタリと止まる。
瞬きもせずそれを見ていた耕一は微かに笑みを漏らすとくるりと向きを変え、そのまますたすたと歩き出した。
老執事は耕一の背中をしばし見送った後、止めた拳を目の前にかざしそれを見つめる。
「セバス、どうしたの?」
ウインドウが開き綾香が声を掛けた。
「い、いえ。なんでもありません」
急ぎ、運転席に座った長瀬がエンジンに火を入れると音もなくリムジンはその場を離れていった。
車内は沈黙が支配していた。
ややあって流れる景色をぼうっと見つめていた綾香に長瀬が話しかける。
「綾香お嬢様。あの男とはもうお会いにならないようにされた方が宜しいかと」
「なによ、いきなり。お説教なら聞きたくはないわよ」
少女の顔には、「また始まった」という表情が浮かぶ。
姉とちがい綾香はよく長瀬から小言を言われる。しかも長くてくどい。
綾香は長瀬の説教が苦手だった。
「説教ではございません」
「じゃ、なんなのよ」
幾分、ふてくされ気味の綾香に対し、長瀬の答えは彼女を僅かながらも驚かせた。
「……勘でございます」
長瀬は不気味さを感じていた。
先程放った裏拳は単なる威嚇ではない。
綾香とその姉に近づいてくる有象無象の輩達に浴びせかける一喝とは一線をかくす程殺気の籠もった拳は、そこいらの軟弱な若造が受け止められるものではないはずだった。腰を抜かすか、慌てふためくか、……長瀬にはどちらでもよかったのだが。
あの青年は違った。
その拳を目の当たりにして微動だにせぬどころか嘲笑さえ浮かべた。
あの若造……儂が寸前で止めるのを見切ってっおったのか……
ハンドルを握る手に力が籠もった。
3.
男はもがき苦しんでいる。
夢を見ていたのだ。
狂気に犯される夢だった。
自分の中にいる誰かが「我を解き放て」と迫る。
甘美な囁きが聞こえる。
「殺せ、殺セ、こロセ、コロセ……」
「命ノ炎ヲ見ルタメニ……」
「おい、起きろよ。うるさくって眠れやしねーぞ」
ロン毛が鼻ピアスの頭を蹴飛ばした。
ここはチーマー達のアジトのひとつであるマンションだ。
昨夜も街角で拾った少女を連れ込み仲間内で楽しんだばかりだった。
夜明けまでにはもう少しある。そんな時間だった。
「ウウ…ウ……ウ」
「 なに唸ってるんだよ。寝ぼけるのもいい加減にし…」
いきなりロン毛の顔が掴まれた。
「ぎっ…な、なにを……ううっう……い、痛い、痛い…ぎゃあああっ」
指が額に食い込んでいく。
血が噴き出し、眼球が飛び出てくる。
「どうしたんだよ。……ひっ」
隣の部屋から様子を見に来た裸の男はその場面に凍り付いた。
ピアス男がロン毛を片手で宙づりにしている。ロン毛の方はぴくりとも動かない。
その足下からは血が滴り落ちていた。
ゴトッ
宙づりになっていた男が落ちた。
ピアス男は新たな獲物の方に顔を向け、にたりと笑った。
4.
PULLLL…PULLLL…PULL、ガチャ
「はい、柏木です」
『もしもし、耕一さんですか? 千鶴です。おはようございます』
「ああ、千鶴さん。元気でしたか? 夏休み以来ですよね」
『ええ、みんな元気にしてますよ。耕一さんが帰られてから暫くは落ち込んでたりしてましたけど……』
うそつけ、一番落ち込んでたのは千鶴姉じゃないか。と、梓のちゃちゃがかすかに聞こえてくる。
『うるさいわねえ!ちょっと黙ってなさい。大事なお話があるんだから』
あいかわらずの二人の掛け合いに耕一の顔はほころんだ。
従姉妹達のいつもの声を聞くことが耕一にとっては一番の幸せなのだ。
「大事な話って?」
本人をほっぽらかしていつまでも続きそうな口げんかに終止符を打つべく、耕一は本題を促した。
もっとも、話の内容には見当が付いてはいたが。
『あの、朝早くから申し訳ありません。今朝のニュースを見られましたか?』
やはりそうか
「ええ、大量殺人事件でしょ」
『はい。そうです』
今朝からテレビはパニックだった。
男女併せて4名もの人間がマンションの一室で殺されていた。その現場は耕一のマンションから近い場所だ。
しかも、死体の状態が尋常ではなかった。人の力でやったとは信じられぬ程にそれらの身体は破壊されていたらしい。
猟奇殺人、猛獣脱走、リンチ殺人等々、毒々しいタイトルが画面を乱舞している。
従姉妹達が心配して電話を掛けてくるだろうと耕一は予想していた。もっとも朝の起き抜けからだとは思わなかったが。
『それで…あの…その』
「だいじょうぶだよ。鬼とは関係がない」
『えっ? あっ、そ、そうですか。でも…』
「鬼の波動を感じなかった。犯人は鬼じゃないよ」
『そうですか……』
「もちろん、俺でもない」
『そっ、そうですよね。耕一さんであるはずがありませんよね』
「悲しいなあ。千鶴さんは信じてくれないんだあ」
『そっ、そんなことないですよ。私は信じてました。…でも』
「だいじょうぶ。俺はもう誰も悲しませるような事はしない。もう、誰の涙も流させはしないと誓ったんだ」
『ええ…ええ、そうですよね。耕一さんは約束を破るような人じゃありませんものね』
・・「チョットカワレヨ」「ア、アズサ、マダハナシテル」「イイカラ」・・
『耕一か。ほんとに鬼じゃないんだな? 間違いないな!?』
「ああ、そうだ。くどいぞ、梓」
・・「ア、コラハツネ」「アズサオネエチャン、カシテ」「モウ、ホラ」・・
『耕一おにいちゃん。だいじょうぶ? ほんとにほんとにだいじょうぶ?』
「ああ、安心していいよ初音ちゃん。俺は初音ちゃんに嘘なんかつかないから」
『うん、わかった。あ、楓おねえちゃんに替わるね』
『耕一さん』
「楓ちゃん、心配しなくていいよ。俺はもう二度と俺を見失ったりしない」
『……信じます…千鶴姉さんに替わります』
『もしもし、耕一さん。あの、お身体に気をつけて下さいね。もしも、おかしな事があったら連絡を下さいね。必ず下さいね』
「ああ、もしもそんな時がきたら必ず連絡する。だから、みんなも大げさに騒がないでよ。あ、それと正月にはまた行くからその時はよろしく」
『はい、わかりました。…それと「行く」じゃないですよ。「帰る」です』
「そうだったね。帰った時はよろしく」
『ふふっ。待ってます。それじゃ、もう切りますね』
ツー、ツー、ツー
無機質な電子音が聞こえる。
そっと耕一は受話器を置いた。
「ごめん、千鶴さん」
嘘だった。
昨夜の事件。あれは紛れもなく鬼が犯人だ。
耕一は犯行時刻とおぼしき頃、微かではあるが鬼の波動を感じ取っていた。
二度と経験したくはない、哀しみと苦しさを与える忘れがたき波動だった。
朝のニュースで事件を知った時、耕一はすべてを自分一人でけりをつけようと決心した。
呪われた鬼の血に翻弄された従姉妹達をこの事件に巻き込むわけにはいかない。
耕一はベッドの枕元の棚に置いてある写真立てを見つめた。
その中には耕一が守るべき人たちが写っている。
そしてリバーシブルになっているその写真立ての裏では、彼が愛した女性(ひと)が彼のためだけに微笑んでいた。
5.
「はあ〜い、耕一」
「あんたも暇だなあ。塾とか習い事とか行ってないのかよ?」
「私には必要ないもん。それに愛する男に会うためならば暇がなくても作るわよ」
あの日から5日目、綾香の攻勢は連日に及んでいた。誰もが振り返るような美人の女子高生だ。今ではキャンパスの華になってしまっている。大学の友人からは、やれ浮気者だ、やれ逆玉だとやっかみ半分に遊ばれ耕一は些か辟易していた。
耕一にとって、この状況は極めてマズいと言わざるをえない。
キャンパスライフに支障を来しだしたうえ、学業とバイトに明け暮れるこの青年にとって自由な時間を綾香によって制限されたからだ。
例の犯人はあの日以降なりを潜めてしまい、手がかりはまったく掴めていない。警察は相当、苦労しているようだった
耕一は連日、バイトが終わってから未明まで街を徘徊し鬼の波動を探っていたが、これもまた徒労に終わっている。
ずばぬけた鬼の体力を持ってはいても、精神的に限界に近づきつつある。つまるところ寝不足だったのだ。
ならば綾香を突き放せばいいのだが、それが出来ないのが耕一の耕一らしいところだ。
「ねえ、デートなんだからもう少しましなところに行きましょうよ」
「俺は別にデートだなんて思ってない」
仏頂面で答える青年の左腕には、猫のような雰囲気を持つ少女の右腕が絡まっている。
「君が勝手に付いて来てるだけだろ」
「綾香って呼んでって言ったはずよ」
「いいだろ、そんな事」
「あ・や・か」
「……ああ、綾香」
「そうそう」
「……はあ」
「もう。ほんとは嬉しいくせに」
最初の三日間こそ、綾香につき合い喫茶店や公園などでバイトが始まるまで時間をつぶしていたが、昨日今日と当てもなくぶらぶらと街を歩いている。耕一はこの間も街中で鬼の波動を追い求めていた。
犯人を見つけられないいらだちが青年を無口にしていく。
「ねえ、疲れて来ちゃった。そこの公園で少し休まない?」
「……ああ……そうだな」
「もう……」
小さな公園の小さなベンチに二人は腰掛ける。
会話がない。
「私、なにか飲み物買ってくる」
「……」
少女は公園の外のコンビニへと小走りに駆けていく。
なぜあの娘は俺に付きまとうんだろう。
少女の後ろ姿を見ながらぼんやりと耕一は考えた。
やはりあの時、放っておけばよかったのだろうか。
たまたま通りかかった公園で、たまたま見かけた少女。生命の躍動に溢れた少女の後ろ姿に見取れていた青年は、その少女を取り囲もうとするチーマーの群に気が付いた。そして乱闘になった時、彼はとっさに少女を助けてしまった。
自分の目の前で誰かが傷つく事を、輝く命が犯される事をこの青年は許す事が出来なかったのだ。
もういやだ。もうたくさんだ。
あの時と同じ轍など踏みたくはない。
自分が無力であったが故に、愛する女性(ひと)を苦しみと哀しみのどん底に叩き込んでしまったあの時と。
駆けていく少女の後ろ姿と女性のそれがオーバーラップした。似ても似つかぬ姿だというのに。
耕一はいつの間にか眠っていた。
「なんで、あなたなんかを好きになっちゃったんだろうね」
「好きな人がいて、こんなにつっけんどんにされてるのに」
「なぜなんだろうね」
ベンチで横になって眠っている青年の頭を太股の上に乗せ、彼の顔をのぞき込みながら綾香は囁きかける。
その横には冷えてしまったコーヒー缶が二本。
「最初は興味半分だったんだ。格闘家としてのね」
「でも、あなたは他の人となにか違った」
「あなたは誰にも打ち明けられない苦しみを持ってる。大きな悲しみを背負ってる」
「それでもあなたは生きている。前向きに、一生懸命に」
少し前、好きになった少年の顔が思い浮かぶ。姉が愛した、姉だけを愛した少年。あの少年もどんなことにも全力で体当たりする一直線な人間だった。
けれども、片想いにハッピーエンドはなかった。
「あなたは強いわ。とてつもなく強い」
「私は弱い。どうしようもなく弱いの」
「一人で生きていけるほど強い人間じゃないの」
「私を守って、私だけを守り続けて……お願い」
地位も、名声も、資産も、美貌も、そして実力すらも手に入れた少女の心の叫びは、疲れ切って眠る青年に届いたのだろうか。
「くフふふ……見つけタ……最高の狩リがコれで始メられル……」
夕暮れが訪れる公園の茂みの向こうから一人の男が凝視している。
そいつの鼻にはピアスが光っていた。
6.
耕一と別れてからも綾香は一人で公園のベンチに座っていた。
一人でいたい。
そんな気分だった。
家に帰れば姉と顔を合わすことになる。
いつもぼうっとして何も考えていないような姉だが人の微妙な変化には誰よりも敏感だ。
自分の醜い感情を大好きな姉に知られるのがこの少女には我慢が出来なかった。
ガサガサ
茂みの鳴る音が響いた。
綾香は音のした方向を振り向いた。
暗がりから一人の男が出てくる。
「また会ったな、ねえちゃん」
鼻にピアスをした男が少女に声を掛けた。
「どなただったかしら?」
すっとベンチから立ち上がり、一歩前へ出て綾香は言った。
この男が誰かを忘れる訳がない。
「付き合いなよ。ねえちゃん」
「あの時も言ったはずよ。家は門限が厳しいって」
綾香は全身をじわりと戦闘態勢へと移行していく。
格闘家の勘が告げる。
危険……危険だ
あの時とは何かが違う。
「嫌でも付き合ってもらう」
やるか、退くか……少女は迷う。
やる!
ダッシュを仕掛け一気に間合いを詰めるとフェイントに左のジャブを繰り出す。
男の体勢が崩れた。
間髪入れず、右のストレートが顔面目がけて飛んだ。
決まった。と思った。
だが男は不利な体勢から首を捻りそのストレートを避けた。
勢いを利用し少女は男の後方へと抜ける。
「動きが全然違うじゃない」
綾香の目論見は崩れた。
半端な攻め方じゃダメだ。
間合いを空け様子を見ようとする少女へ男はゆっくりと近づく。
無防備もいいところだ。
「他の連中はどうしたのよ」
時間稼ぎの問いにあっさりと
「殺した……みんな」
男は言い放つ。
「…っ!!」
殺人犯!?
今、世間を一番騒がしている男が目の前にいる。
「遠慮は要らないみたいね」
「おまえは殺さない……今すぐには」
全力でいく。
少女は決めた。
戦闘範囲に鼻ピアスの男が入り込んだ。
綾香は再び動いた。
男の内懐に入り込むや左胸、肝臓、鳩尾へ三連打を叩き込む。すべて急所といえるところだ。
三発とも決まった。
男はのけぞった。
そこへ綾香の必殺技、渾身のハイキックが炸裂する。綾香の右足は男の右耳下、首の付け根にめり込んだ。
頸椎骨折も辞さない一撃だった。
「……!」
ぐらりと傾いたのは男ではなかった。
綾香の足首は男の手にしっかりと握られている。
片足の不自然な体勢の綾香はバランスを崩してしまった。
男はそのまま彼女を逆さに吊り上げる。
「今のは痛かったぜ」
「なっ、なぜ倒れないの!?」
「さぁ、なんでだろうねぇ」
「離せ! このバケモノっ!!」
「いいこと言うな、ねえちゃん。そうさ、俺はバケモノさ」
男は無造作に放った軽い蹴りで、綾香を失神させた。
「これでエサは出来タ」
「アトハ、奴ガ食イツクカ…」
倒れ伏した少女を舐めるように見る男の目は深紅の光を放っていた。
7.
PULLLL…PULLLL…PULL、ガチャ
「はい、柏木です」
『やっと帰ってきたか』
「誰だ。あんた」
『あんたの大事な女は預かった』
「何を言ってるんだ?」
『綾香って言うんだってな。横で怖い顔して俺を睨んでるぜ』
「おい、どういう事だ!? 綾香と俺は何の関係もないぞ」
『膝枕までされてた男が何を言うか』
『いいか、よく聞け。港新町の第7埠頭の一番東端にある第23番倉庫に来い。そこで待ってる』
『警察を呼んでもいいが結果はわかるな。あんたが来るんだ』
「ちょっと待て。何故俺なんだ? 俺に何の用があるんだ」
『あんたには感謝してるんだぜ。俺の中に眠る力を目覚めさせてくれて』
『だから、お礼によ、あんたをぶち殺してやる。あんたの命の煌めきはさぞや綺麗だろうよ』
「なっ…!?」
耕一は愕然とした。
こいつ…鬼なのか?
だが、いったい何者なんだ?
しかし男は耕一に考える時間を与えてはくれなかった。
『そうだ。ただ来るだけじゃお互い緊迫感ってものがねえな。いい考えがある。5分ごとにねえちゃんの着ている服を一枚ずつ剥ぎ取ろう。すっぽんぽんになったらやることはひとつだろ。5分ごとに一回ずつ犯してやるよ』
「なにをするんだ! やめろ!!」
『ひい、ふう、みい、……全部で6枚、30分だな』
「やめろ、貴様!」
『ねえちゃんがなんか言いたいそうだぜ』
『耕一! 来ちゃだめ!! こいつは例の殺人犯なの。私じゃ倒せなかったバケモノなのよ。私はいいから絶対来ちゃだめ!!!』
「綾香!」
『泣かせるねえ。今、午前零時30分。ゲームスタートだ』
「おい、待て。おいっ!」
ツー、ツー、ツー
「くそっ!」
耕一は受話器を投げつけた。
何でこんな事になっちまったんだ。
耕一には訳がわからなかった。
奴が殺人犯であり、しかも鬼である事は間違いない。
そうである以上、ケリは必ずつけねばならなかった。
だが、どうしても耕一には犯人と自分との接点が思い付かない。その上相手の力が未知数だった。
まして敵地に乗り込むのだ。何の罠が仕掛けてあるかわからない。
まともに向き合えば負ける事はないと思えるが、今回はどうなるか見当が付かなかった。
自分が負けるわけには絶対にいかない。
もしも負ければそれは自分の死を意味するだけではない。遠く離れた従姉妹達が動き出すという事なのだ。
彼女たちを巻き込む事だけはなんとしても避けねばならない。
耕一の心は揺れていた。
そしてもうひとつ。
綾香を助けに行くとしてどうやって鬼を倒すか?
自らの力を綾香の前で解放する訳には絶対いかない。
鬼の血の秘密は誰にも知られてはならないのだ。
……綾香を諦めて鬼を屠るか
耕一が姿を現さなければ男は綾香を殺すだろう。
それから男を殺せば真相はすべて闇に埋もれてしまう。
一瞬、そんな考えが浮かんだ。
「ダメだ! そんな事出来やしない」
大きく首を振ったその視界に写真立てが飛び込んだ。
いつ、裏返したのだろう? 幸せそうな笑顔を浮かべる女性が唯一人立っている。
彼女はその笑顔を一度失った。笑顔を奪ったのは耕一だった。だが、彼女に再び満面の笑みを与えたのも他ならぬ耕一自身だ。
あの時、耕一は誓ったのだ。
もう誰にも涙は流させないと……
「行くよ、俺」
耕一は壁に掛けてあったダッフルコートを羽織ると部屋を飛び出す。時刻は零時33分だった。
マンションを出て大通りに向かおうとした青年を、車のライトが照らし出した。
眩しさに手をかざした耕一に、車から降りてきた老執事が声を掛ける。
「若造、聞きたい事がある」
「なんだ、じいさんか。……そうだ、ちょうどいい所で会った」
「綾香お嬢様は何処だ」
「……」
「貴様なら知っているはずだ」
「……ああ」
「何処にいる」
「……港新町、第七埠頭、23番倉庫」
「そうか」
長瀬は運転席のドアを開けると素早く中に入り込む。
「ちょっと待ってくれ」
耕一はあわてて閉じたドアの横へ走った。
「邪魔だ。どけ」
音もなく開いたウインドゥの中から発っせられた言葉は無碍もない。
「俺を連れていってくれ」
「……何故に?」
「綾香は誘拐されたんだ。犯人は俺に来いと言っている」
視線で人を凍らせる事が出来るなら今の老執事がそうだろう。
長瀬は吐き捨てるように答えた。
「やはり、貴様か」
「……」
「足手まといになるだけだ」
再びウインドゥはせり上がった。
時間がない。
耕一は右掌を閉じきったウインドゥに張り付けた。
半眼でそれを見つめていた長瀬の目が大きく開かれてゆく。
ウインドゥはたわみだしていた。
長瀬の乗るこのリムジンは外見こそ普通のロールスリムジンだが、中身は来栖川警備保障の指揮の元、大改造が掛けられていた。テロリストの襲撃にも耐えられるよう万全の対策がとられていたのだ。
車体に張られた装甲板はNATO軍採用のアサルトライフルの鉄鋼弾を弾き返し、厚さ1cmもある特殊強化ガラスで出来ているウインドゥは至近距離からの44マグナムをもくい止める。
そのウインドゥが悲鳴を上げたのだ。
そして……
ピシッ
小さなひびが入ったと思った瞬間、運転席ドアのウインドゥは粉々に砕け散った。
突き出された右手はハンドルをがっちりとホールドする。
「頼む……」
「……」
長瀬の右手がスイッチを入れた。助手席ドアのロックが外れた。
「乗れ」
耕一は巨大な車のボンネットを軽く飛び越えると助手席へと滑り込んだ。
8.
耕一がシートに座りシートベルトをする間もなくリムジンは急発進した。
背中がどうっとシートに押しつけられる。
「うわっ」
車は音もなくスピードを上げた。
音もなく?
耕一は運転席を横目で盗み見る。
割れたウインドゥはいつのまにかピタリと閉じていた。
「予備ウインドゥがあるのだ」
老執事は独り言のように言った。
大通りに出るや、長瀬は備え付けのマイクを握ると誰かに対して矢継ぎ早に指示を出した。
倉庫周辺を封鎖しろ、それ以上は手を出すな、警察にも連絡するな、後は自分が動く。と
車は街中を猛スピードで驀進する。
長瀬のドライブテクニックはプロ顔負けだった。
流れるように周りの景色が後ろへ飛んでゆく。
だが、室内は静寂が包んでいた。
「何故、俺のマンションの前にいたんだ?」
間が持たない耕一は長瀬に問いかけた。もとより答えが返ってくるとは思っていない。
「昨夜7時過ぎ、綾香様の消息が途絶えた」
耕一は軽い驚きを覚える。
「警備保障の者がすぐさま動き出したが本人の行方は知れず……見つかったのはガードの者2名の死体だけだ」
「ガード?」
「綾香様にはあの日以後、常にガードの者が就いていた。儂が指示を出したのだ」
やはりそうか。
耕一は綾香といるとき、常に尾行者の存在に気が付いていた。敵意が無いので放っておいたのだが、あれがそうだったのだろう。
「失踪直後に貴様を拘束しろとの意見も出たが儂が止めさせた」
「……!」
「貴様は正体が知れんが少なくとも直接殺人をするような人間ではないだろう」
長瀬からすればまだまだ目が離せない綾香だが、人を見る目はある事を知っている。危険な雰囲気を持つ人間と、本当に危険な人間の区別はつけられたはずだ。
その綾香が自分から近づいていった人間なのだ、この青年は。
ただ失踪しただけならばこの青年が絡んでいる可能性は高かったが、人が殺されたとなると間違いなくシロだ。しかし本人ではなく関係者の線がある。
長瀬は耕一の関係者、特に彼に敵対する者が綾香に接触を図ったのではないかと考えたのだ。
ならば、青年は必ず動き出す。
長瀬はそれに賭けた。
「儂の勘は初めて会った時から貴様を危険な人物だと判断していた」
外れることを願っていたがな。と小さく呟き、先を続ける。
「死体が見つかった時点で、儂はこのマンションの前で貴様が動き出すのを待つことに決めたのだ」
「……そうか」
「今度は儂の番だ」
真正面を見据えハンドルを握りしめながら長瀬は耕一に問い質す。
「若造、貴様何者だ?」
「俺はただの大学生さ」
「貴様の経歴については全て調べ上げた。過去に犯罪歴もなければ思想心情的にも真っさらだ。大学でサークルに入っている訳でもない。強いてあげれば従姉妹に地方の温泉の旅館の会長がいるくらいだ。なのに貴様が時々かいま見せる危険な雰囲気はなんだ?
並の人間にはあの雰囲気は出せん!」
「……」
「言いたくなければそれでいい。だが犯人はどうだ? 貴様と奴の間に何がある?」
「奴の事はほんとに何も知らない。身に覚えがないんだ」
「ふむ」
「ただ、奴が例の大量殺人犯なのは間違いない」
「なんと!」
「しかもあの変態野郎! 早く着かないと綾香の身ぐるみ剥ぐと言いやがった!」
「なんだと!!」
耕一の頭がヘッドレストにめり込んだ。
800馬力を越えるエンジンが吠え、リムジンはロケットの如く加速する。
コンスタントに時速140kmを指していたメーターの針はあっという間に180kmを越えた。
「貴様! それを早く言え!」
「……すまん」
「綾香様は儂が命を賭けてお守りせねばならないお方だ。かすり傷ひとつ、つけさせるわけにはいかん……いいか若造!
綾香様にもしもの事があれば貴様もただで済むと思うな」
「そんな事、言われなくてもわかってるさっ!」
再び静けさが舞い戻った。
スーパーリムジンはエンジン音は疎か風切り音さえも外界から遮断していた。
「……綾香様は儂が大恩ある大旦那様のお孫様だ。今、儂が生きていられるのは大旦那様のおかげなのだ」
若い頃、長瀬は正義感に溢れた少年だった。ただ、その正義感を貫くために少年は力を常に行使した。彼は紛れもなく強かった。
やがて戦争が始まり彼も赤紙の元、軍に召集され大陸へと渡る。そこで彼が見たものは正義という名を借りた略奪と殺戮だった。そしてソビエト軍の侵攻、敗戦。命辛々逃げ帰った日本にはもはや正義は存在しなかった。
生きる意味を失い毎日ストリートファイトに明け暮れていた長瀬をして唯一、その眼光だけでねじ伏せた男がいる。
それが今の来栖川グループの創始者、そして現会長である綾香の祖父であった。
彼のおかげで長瀬は自分の存在する意味を知り、新しく生きる目的を得た。長瀬は戦後の日本を生き残ることを許されたのだ。
その会長の孫である二人の姉妹は長瀬にとって何物にも代え難い至高の宝物であり、他の全てを犠牲にしても守るべき存在だった。
「お嬢様達の幸せを見届けることが、儂が大旦那様から言い使った役目なのだ」
二人の男が己の責務を果たすべく突き進む。
一人は少女の未来を守るために……
一人は少女に涙を流させないために……
目的地は目の前だった。
9.
リムジンはある倉庫の前に停まった。
フロントライトが消えエンジンが止まる。
時刻は零時54分。普通ならどんなに急いでも50分は掛かる道のりを、わずか20分あまりで着いた事になる。
耕一と長瀬はドアを開け外へ出た。
夜風が身に染みた。
耕一はこの倉庫に着く直前、幾台もの車が散らばって停まっているのを目にしていた。中には屈強な男達の姿が見える。
この包囲網を突破するのは容易じゃないな。
耕一はそんなことを考えていた。
……もっとも、人間に限ってだが。
来た道を見つめていた青年は倉庫を振り返る。
老執事は既に歩き出していた。
「なあ長瀬のじいさん。あんたは外で待っててくれないか」
振り向きもせず長瀬は一言だけ言い放つ。
「貴様こそ邪魔をするな」
何を言っても無駄だろう。
出たとこ勝負でいくしかないか……
巨大な鉄の扉を開いて中に入った二人は、お互い何も言わず左右へと別れていった。
広い倉庫の中はいくつにも区切られている。
四つ目の部屋の扉を開いた耕一は捜し求めていたものを発見した。
10m四方の何もないがらんどうの部屋の奥に二人はいた。
少女は両手首をロープで縛られ天井に備え付けてあるホイストに半宙づりになっている。両足が辛うじて地面に付き、両手は頭の上高く伸ばしきった状態の姿は犯人の嗜虐心を如実に表していた。
その犯人は彼女のすぐ横に立っている。
鼻にピアスを付けた男。
耕一はようやく犯人が誰であるかを知った。
「早かったなあ」
男の声に少女がはっと顔を上げる。
「こ、耕一!」
「綾香!」
その声も届かぬ内に綾香は身を捩ろうと藻掻いた。
それもそうだろう。
宙づりにされた綾香の学生服はボロボロに引き裂かれ残骸をその足下にとどめていた。
綾香の身を守るものは、その腰で申し訳程度に、だがその存在を強烈にアピールしている小さなパンティだけだったのだ。
後ろを向く事で恋する男の視界からその裸体を隠そうとする少女の顎を、男は片手で押さえ無理矢理前を向かせる。
「おまえの恋人だろ? 毎日乳繰り合っている仲だろが。もっとたっぷり見せてやれよ」
藻掻くのを止めた綾香は、そのかわりに男を睨み返す。
「言ったはずだ。俺と綾香は何の関係もない」
「そうか? ならばお初にお目にかかりますって訳だ」
下卑た笑いを見せて男は言った。
「約束通り来た。さあ、彼女を放せ」
「約束? 俺がした約束はあんたを殺す事だ」
「貴様……」
「何をする気!? 耕一に手を出したら許さないわよっ!」
男を睨んでいた綾香は殺すという言葉に即座に反応した。身を激しく捩り、男の手から逃れようとする。
「おお、怖い」
男は手を離すと綾香の反撃の届かない所へ避けた。
自由になった綾香は、今度は耕一の方に身を乗り出して叫んだ。
「耕一、逃げてっ! こいつは並の人間じゃないわ。殺される前に逃げるのよ! 耕一っ! 耕一!?」
呼びかけられた耕一の方は一歩も動きもせず男の方を見つめている。
おかしい。
耕一は犯人を目の前にして納得がいかなかった。
男からは鬼の波動が感じられない。
鬼じゃないのか?
だがそれなら都合がいい。
力を解放しなくても勝てるだろう。
「あんたには殺す前に改めて礼を言っとくよ」
「何の礼だ?」
「あの時、あんたが俺の手を掴んだ時、俺は心底ブルっちまった。死んだと思ったよ」
「だがな、その恐怖が俺の中に眠る獣を目覚めさせてくれたんだ」
「奴は俺にこう言った」
「コロセ、コロセ! コロスンダ!! ってな」
「みるみる力が沸いてきたぜ」
「俺は無敵だ。誰も俺に敵う奴はいない」
「あんたもそうだ。俺の前にあんたは血反吐をはいて這い蹲るんだ」
どうやら耕一の鬼が奴の中に眠っていた鬼を目覚めさせてしまったらしい。
だが、それなら何故奴の中に鬼がいたのか?
男の脅し文句を聞いていたのか、いなのか。耕一は確かめなければいけない事を口に出した。
「貴様、隆山の出か?」
男は自分の喋りに水を差されたのが気にくわないのか、些かムッとしながら答える。
「隆山? 知らん。俺は北海道さ」
「……そうか」
「人を殺すのはいいぜえ。人はな、死ぬ時に炎を吹き上げるんだ。きれいだぜ。思わずイっちまうぐらいにな」
「何故、この女を犯さなかったのか教えてやる。女を犯す事より、人を殺す事の方が快感だからさ。ましてや、あんたみたいな凄い奴を殺したらどれだけの快感を味わえるか」
「こいつは、あんたを殺した後に、存分に犯してからくびり殺すのさ」
「かあーーーっ!」
耕一の背後から怒声が轟く。
「そうはいかん!綾香お嬢様は返して頂く」
「セバスチャン!」
現れたのは長瀬だった。
「綾香お嬢様、大変お待たせ致しました。もう、大丈夫でございます」
扉を開けて中に入ってきた老執事は、目の前に立ちふさがる青年の肩を掴むと邪魔だと言わんばかりに横に押す。
「じじい。あんた誰だ?」
「綾香お嬢様…なんというお姿で…私が到らぬばかりにこの様な目に」
「セバス、こいつはバケモノよ。私じゃ、まるで歯が立たなかったの。気を付けて」
全裸に近い姿ながらも綾香からは絶望の色合いは見えない。
少女の様子から、最悪の事態にまでは到っていない事を確認した老執事は、その身体に殺気を纏わせつつ男に向かい合った。
「小僧。貴様の相手はこの儂がしてやる。綾香お嬢様への仕打ち、五体満足ですむとは思うな」
「じじい、命は大切にするもんだぞ。大人しくすりゃあ、殺すのは最後にしてやる」
誰何の声を無視されたままだった男はそれを気にする風もなくいけしゃあしゃあと言ってのける。
「おい、若造。奴を儂が引きつけているうちに綾香様を助けて逃げろ。それくらいは出来よう?」
耕一に耳打ちするや、長瀬は弧を描くように左へと回り込みながら上着を脱ぎ捨て蝶ネクタイを引き抜く。Yシャツのボタンを外し、両腕のカフスをむしり取った長瀬はファイティングポーズをとって言い放った。
「来いっ! 尻に青痣が残る小僧よ!! 貴様に世の中の礼儀を教えてやる」
「じじい! そんなに先に死にたいかあ!!」
男は猛然と長瀬目がけて突っ込んだ。あまりに早いその動きは確かに人間離れしていた。
それもそのはず、男の瞳は赤く染まりはじめていたのだ。
「ふんっ!」
男の繰り出した右拳は誰の目にも見えなかった。だが、長瀬はそれを左腕ではじくと右拳で男の頬を殴り倒した。
ズガガガッ
ひっくり返った男はゴロゴロと転がってゆく。
「ぐぐぐ…じじい、舐めたマネをしてくれる」
ゆらりと立ち上がった男の顔にダメージの影は欠片も見えない。
「バケモノか? 貴様」
長瀬は驚かざるえなかった。驚異的なスピードもさることながら、あのパンチを受けてノーダメージで立ち上がる男が纏う気は人とはいえなかったのだ。
「だが、効かんぞ。どうするじじい?」
「ふん、知れたこと。倒れるまで殴り続けるまでだ」
「じゃあ、やってみな」
両手を広げおいでおいでをする男に、長瀬はゆっくりと近づいていった。
男が地面に転がると同時に、耕一は8mの距離を二歩で跳び綾香の脇に着地していた。
すぐさま、両腕を縛るロープを引きちぎる。
どさりと綾香はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫か?」
「え、ええ……」
耕一は来ていたダッフルコートを脱ぐと裸の少女にそっと掛けてやる。
「来ないと思ってた」
「女の子を待たすと後が怖いからな」
「…バカね……でも、うれしい……」
コートの前を両手で掴み豊かな胸を隠す少女の頬が赤いのは恥ずかしさだけなのだろうか
「立てるか?」
「……なんとか」
「じゃ、逃げるぞ」
「ダメ! セバスを助けるわ」
瞳に強い意志の光を取り戻した少女は老執事の方を振り向く。
「無茶だ」
「セバスだけじゃ奴には勝てないわ」
「あのじいさんなら大丈夫だ」
耕一は確信をもって言った。
「何故? セバスは私と同程度の力しかないわ」
綾香は納得できない。
綾香ほどの人間になると相手がどの程度の実力を持っているか、また闘っている相手が手を抜いているかぐらいはわかる。長瀬とよく組み手をする綾香は、その時長瀬が手を抜いていない事を知っていた。組み手において綾香と長瀬はほぼ互角な実力を持っていたのだ。
「経験の差だろ。見ろ」
耕一は目の前で闘う長瀬が纏う闘気が並大抵のものではないと感じていた。
殺気というのもおこがましい。強いて言うなら必殺気。
本当に命を賭けた闘いをした事がある者だけが纏うことが出来る闘気。
長瀬は犯人である男が尋常でない力を持つことを見抜いていたのだろう。
老執事は犯人との闘いを生きるか、死ぬかの闘いと決めたのかもしれない。
この闘いに綾香は邪魔な存在でしかなかった。綾香もそれを認めざる得ないと感じた。
しかし同時に、耕一はこの闘いの状況が信じられなくもあった。
不完全とはいえ鬼の持つ力は人を軽く凌駕する。その男を相手に長瀬は一歩も退かずに闘っていた。
生身の人間でここまで闘える者がいる。その事に耕一は驚きを覚えたのだ。
だが、当の長瀬にも余裕が在ったわけではない。一発でも攻撃を食らえば、1回でも掴まればそれで終わりだと長瀬は考えていた。
長瀬は相手の繰り出す攻撃を格闘家の勘で躱しながら、確実にカウンターを返すことで少しずつ相手にダメージを与えていったのだ。
「小僧。貴様は闘いのなんたるかを知らぬ。貴様に勝機は訪れん。大人しく儂の拳に倒れるがいい」
「何故だ!? 何故当たらないんだ! 俺の力はこんなもんじゃない。俺はもっと殺しまくるんだあー!!」
最早、闇雲に放たれただけの拳の連打をすべて受け流し、長瀬は男の腹めがけミドルキックを繰り出す。
「おぐおあ……」
腹を押さえてその場に蹲る男の赤い目から涙がこぼれ落ちた。
「ぐ…ぐ……ぐぐ……ぐぐぐあ……」
男の口からくぐもった唸り声がこぼれる。
「チからを……チからヲ……モットチカラヲヲヲヲヲヲヲー」
本当の狂気が目を覚ました。
10.
耕一にはこの闘いの行方が見えた。
不完全な覚醒が幸いしたのか、男の攻撃には既に力はなくなり鬼の力は次第に弱まってきている。
長瀬一人でけりがつく。耕一はそう思った。
残るは、事が終わった後の男の処遇の問題だけだ。
鬼の血が世間にばれることは防がねばならないが、この状況で男を殺してしまう訳にはいきそうにない。かといってこのままほっておけば、警察に身柄を確保されてからが厄介になる。刑務所で暴れられたら事は重大だ。
手足の一、二本ぐらい引き千切っておくか。
そんな物騒な事を考えながら耕一は綾香の方を向き直り静かに声を掛けた。綾香はじっと闘いの行方を見守り続けていた。
「綾香、もう終わりだ。すべて決着がつ…」
耕一の身体がぞくりとした。
背中を濡れた手で撫でられるような感触がする。
鬼だ。
鬼が目覚める。
耕一はゆっくりと振り返りつつ立ち上がった。
綾香には目前で起こっている事が信じられなかった。まるで出来の悪いB級ホラーの映画を見ているような気分だ。
蹲っていた男の身体は痙攣を始めるや、その肉体が爆発的に膨張した。
「グ…ググ……グガガガガアアアア」
唸りと共に手足は丸太の如く膨らみ、身長が一気に伸びた。着ている服は破れ飛び、全身があらわになる。その腹筋はまるで金剛像のように堅く盛り上がり、顔は異様に変形していった。
どこかでこのような姿を見たことがある。綾香はそう思った。あれは何処だったろう。
そうだ、姉の部屋に置いてあった本の中にそっくりな絵があった。あれは……鬼だ。
でも何故? 鬼がこんな所に?
姉の影響を受けオカルトに免疫がある綾香をして、あまりの衝撃に思考が定まらない。
そのすぐ側でもう一人の男も変貌している事にすら気が付かない程に。
長瀬は我が目を疑った。
倒れ伏していた男はあっという間に変身し終わるや、のそりと起き上がる。長瀬を大きく上回る身長は優に2mを越えた。その鼻にはピアスの欠片がぶら下がっている。
その身体は人の形をしたバケモノ。いや、本当の鬼だった。
鬼は、大きく息を吸い込むと一声吠えた。
「グガアアアアアアアアーーーーーーーーー」
身も凍るとはこのことだろうか。長瀬は鍛え抜かれたはずの肉体が硬直してゆくのがまざまざと感じられる。それはまるで肉体が生きることを放棄するかのようにだ。
生きた恐怖がそこにあった。
そして確実な死も……
長瀬を見据えた鬼は首をコキコキと捻ると自分の手をしばし見つめた。
やがて満足したのか再び長瀬の方へ向き直るや、乱杭歯のある口を歪める。さしずめニタリと笑ったのだろう。
禍々しい狂気をまき散らしながら鬼は一歩一歩と長瀬に迫る。
長瀬は渾身の力を振り絞り、おそらく生涯最後となるだろう一撃を加えるべく構えを取った。
「綾香様、申し訳ございません」
そう呟いた長瀬は鬼の影に隠れて、もうひとつ異質な気が現れた事に気が付かなかった。
「相手が違うぞ」
強烈な意志を持った言葉が響く。
綾香のすぐ目の前に立つ青年の後ろ姿に、彼女は大きく戸惑っていた。
耕一である。が、耕一でない。
外見はそっくりそのままで、中身がまるきり違っている。
いままでの穏やかな気配は微塵もない。あるのは触れる物すべてが切り裂かれるような刃の如き闘気。
側にいるだけで押しつぶされそうになるプレッシャーに綾香は身動きすら出来なかった。
鬼を挟んで向かいにいる長瀬は、眼前の鬼をも凌ぐプレッシャーの出現に動揺を隠せないでいた。
しかもその発信源は綾香のすぐ側にいる例の青年からである。
あの若造なのか? 長瀬には信じられない。
それほど今の耕一が放つ気が凄まじいのだ。
動きを止めた鬼が後ろを振り向く。
その影から現れた青年の瞳は深紅の輝きを放っていた。
長瀬は自分の出る幕が終わった事を悟った。
「貴様の相手は、俺だ」
耕一は冷酷に言い放つ。
「俺が貴様を殺す」
あまねくこの世に死を授ける二匹の獣はしばし無言で向かい合った。
「……来い」
「グアアアアアーーーー!!!」
巨体が部屋を揺さぶりながら耕一めがけて突進する。右手を前へと突き出した鬼は耕一の頭を握り潰そうとした。
ドスゥ
何かが突き刺さる音が響く。
耕一の右腕が鬼の腹に潜り込んでいた。
左手は鬼の右手首をがしっと掴んでいる。掴まれた方の手首は異様なかたちにひしゃげていた。
耕一は鬼の顔を真下から見上げながら言った。
「この世界に鬼は似合わない」
ズブズブッ
肘まで鬼の腹に埋まっていた腕が少しずつ引き出されていく。
やがて出てきた手のひらには赤黒い固まりがひとつ。
どくどくと鼓動するそれは鬼の心臓だった。
鬼はそれを信じられないといった顔で見ている。
耕一は鉄の如く堅い胸板を避けて腹に手刀を叩き込むと、そのまま肋骨の内側を心臓めがけて貫いたのだ。
「グギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
断末魔の叫びが響く。
「眠れ……永遠に」
グシャ
心臓はただの肉の固まりと化した。
ずずんと倒れる鬼の姿を耕一は恍惚とした目で見つめ続ける。
やがて、鬼の肉体は急速に元の人間へと戻っていった。
後に残されたのは血だまりの中に倒れる貧相な男の姿だけだった。
誰一人、言葉を出す者はいない。
綾香はその瞳を大きく開き、微動だにせずに耕一の後ろ姿を凝視している。
長瀬は耕一に向けられていた視線を死体へと移し一瞥した後、小さく「ほうっ」と息をついた。
耕一は足下に倒れていた死体を見つめていたが、その目はいつのまにか血に染まった自分の右手を睨み付けていた。その手には潰れた心臓が握りしめられている。
やがて耕一はその心臓を無造作に死体の上に投げ捨てると扉へと向かって歩き出した。が、その歩みはすぐに止まる。
いつの間にか耕一の前に長瀬が立っていた。
二人の男が向かい合う。長瀬は右手を差し出した。その手には真っ白なハンカチーフが握られている。
「これで拭け」
耕一はなにも言わずにそれを受け取った。長瀬は言葉を続けた。
「礼を言わせてもらう」
「言われる筋合いは無いさ」
「後始末はこちらで行おう」
「すまない」
「これで貸し借り無しだ」
「ああ」
長瀬は道を開けた。それを待って耕一は再び歩き出した。
「それと……」
離れてゆく耕一の背に長瀬は独白するように口を開いた。
「儂等は夢を見たのだ。朝起きればすべて忘れる夢を……」
「……そうさ」
「こういち!」
綾香の声が耕一の耳に届いた。まるで飼い主に捨てられる仔猫のようだと感じた。
止まり掛けた歩みは……すぐに元に戻る。
やがて耕一の姿は扉の向こうへと消えた。
一度も綾香の方を振り返らぬままに。
その姿を見送った長瀬は綾香の側に足早に近づくと、そっとかがみ込んだ。
「綾香お嬢様。お怪我はございませぬか?」
「ええ、大丈夫よ」
「それでは、私の背に負ぶさってくだされ。外に車が用意してあります」
「……お願いするわ」
「御意」
耕一が掛けてくれたコートを身に纏い扉を見つめ続ける綾香の目の前に大きな背中が現れる。綾香は長瀬の背にその身を預けた。
すっくと立った長瀬は、今ひとたび死体を一瞥すると胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「綾香お嬢様は、無事確保した。これより撤収する。後の始末は頼む。痕跡を残さぬように」
「……それと、いまこの倉庫から出た若者には一切関知せぬ事。その存在は無視せよ」
指示を出し終えた長瀬は、綾香に負担が掛からぬようゆっくりと歩き出した。
一言も口をきかぬ綾香に長瀬は諭すように、しかしきっぱりと言った。
「あの若者はあまりに重い業を背負い、計り知れぬ辛苦の道を往く者です。綾香お嬢様では釣り合えませぬ」
そうだ。
耕一と共に生きていく事が出来る者は耕一と等しく強い者でなければならない。
綾香はわかってしまった。今の自分ではあの青年を支える事は決して出来ない。身体も心も弱いのだ。
愛する女性(ひと)がいると彼は言った。その女性もきっと強くそして哀しい女性なのだろう。
今の自分じゃダメだ。でもいつか、あの人が救いの手を必要とした時、支えになれる人間になろう。
「セバス、やっぱり下ろして。自分で歩くわ」
少女は自分の足でこの建物を後にした。
11.
「寒いな」
倉庫の外に出た耕一は体を震わせるとそう呟いた。
コートは綾香に渡してしまい、今はジーンズと血にまみれたセーターという格好だ。
12月になった港は海から凍るような風が吹いて来ていた。
血に濡れた手をポケットに突っ込むと耕一は倉庫の方を振り返る。
耕一が外に出るのと入れ違うように幾人もの男達が倉庫の中へと入り込んでいった。彼らは耕一に目もくれなかった。
あのじいさん、やってくれるな……
耕一は綾香と長瀬がこの出来事を口外しないだろうとは漠然と思っていた。鬼の秘密を握られる事を心配しなかった訳ではない。あの時、綾香と長瀬の行動次第では、耕一は彼らを抹殺してこの倉庫から脱出するつもりだった。
だが長瀬は言った。「これは夢だ」と。
彼らはすべてを知った上で、それを忘れると誓ったのだ。護衛の者たちの行動は彼らが約束を守る事をはっきりと示していた。
憂いのひとつは消えた。けれども、もうひとつの憂いは残った。
鬼の制御。
耕一は自分の中に眠る鬼を完全に制御仕切れていると思っていた。
だがあの時、覚醒した鬼との対決の瞬間。耕一は言いしれぬ高揚感を感じていた。
鬼の命が消える時、耕一には鬼の体から飛び散る美しい光の乱舞が見て取れた。命の炎をこれほど美しいと感じたことはなかった。
エクスタシーさえ感じた瞬間、耕一の心は鬼が支配していたのではないだろうか。
目の前で朽ち果てた鬼の残骸を見たとき、耕一にはそれが自分自身に思えた。
自分もいつかこうなるのかもしれない。
あの時、自分はこう言った。
「この世界に鬼は似合わない」
あれは自分が言った言葉なのか、それとも遥か昔のもう一人の自分が言ったのだろうか。
空を見上げる。
天上高く煌めく星達。
あの女性(ひと)に会いたい。
彼女なら答えを知っているかもしれない。
柏木耕一、未だ鬼の制御成らず。
現人鬼(あらびとおに)はゆっくりと夜の街の闇へと消えていった。