現人鬼(あらびとおに)ブルース2

『鬼子母神』



 
 
 
 
 
 
 

 作:YISAN

 
 

から…から…

音が聞こえる

からから…から…

乾いた音が

からからから…

夜霧にむせぶ木立の奥より

からからからから

聞こえるそれは風車(かざぐるま)の音だった














1.

 田園の中をスカイブルーの車体がのんびりと走ってゆく。各駅停まりの電車はあと1分で目的地に到着する所にまで来ていた。
 たった2両しかないその電車の中は、目的地を前にして慌ただしさを一気に増していた。

「全員、忘れ物のないようにしろよ」

 立派な体格をしている男性が声をあげた。

「子供じゃないんですから大丈夫ですよー」
「橋本先生、心配性」

 はずんだ声が至るところから返ってくる。

「おまえらだから言ってるんだ」

 橋本も毎度の事と手慣れた受け答えをする。
 少女達の笑い声が車内を包んだ。

「先輩、お荷物お持ちしますぅ」

 カールヘアーが、わずかに開けられた電車の窓から入る風で揺れている。
 快活な少女が異常なほどに、ショートカットの少女へとにじり寄っていた。

「い…いや。いいよ、かおり。自分で持てるから」
「ああーん、梓先輩ぃ。長旅お疲れなんですからそれぐらいやらして下さいぃ」

 言い寄られてたじたじとなっているのは柏木梓。そして周りも気にしない大胆な行動に出ているのは日吉かおり。
 ちょっと前まで校内でも有名なカップルだった。
 
 

 時は5月。
 ゴールデンウィークが始まった初日、梓が卒業した高校の陸上部は恒例の新人歓迎合宿に入っていた。
 毎年行われるそれは、4月に入ってきた陸上部の新人達にとっては初の合宿である。
 隆山から2時間ばかりの国民休暇村で4日間という短期の合宿だったが、先輩後輩の親睦を深め、又夏のインターハイへ向けて本格的なスタートを切る大事な合宿でもあった。
  そしてこの合宿には、毎年卒業生が何人か参加するのが常だった。
 今年、その白羽の矢がたったのが柏木梓である。
 4人いた卒業生のうち2人は県外の大学へ進学し、一人は就職していた。地元の短大へ進学した梓が引っぱり出されたのは致し方ない事だった。
 なにより一人の敏腕マネージャーの画策がそれを決定的なものとしていた。
 梓自身はなんとしても参加を辞退したかった。ようやく忌まわしい日常から脱出できたのだ。またあの試練をあえて受けたいとは思わない。
 だが連日の如く家にまで押し掛け、家族をも巻き込んで、最後には泣き落としまでもしてきたマネージャーの説得には短大生になったばかりの少女の抵抗は無駄でしかなかった。
 かくして梓は貴重な休みを潰してこの合宿に参加する事となった。

 目的地の国民休暇村は、今年初めて行くところだった。
 毎年行っていた青少年センターが予約満杯でやむなく決まった場所ではあったが、広いグラウンドや体育館も備える一級の施設には違いない。
 なだらかな山の麓に広がる高原に点在する森や沼、それらをうまく生かした遊歩道やアスレチック広場。
 なにより周りを自然が取り囲むシチュエーションは、比較的緑が多い隆山に住む生徒達にも満足できる所だった。
 
 

 下車した駅からバスに乗り換えて15分、休暇村に到着した部員達は割り当てられた部屋へと散っていく。
 梓は個室を宛(あてが)われる事となっていた。
 強硬に相部屋を主張する者が約1名いたが、それは梓本人と橋本を初めとした顧問3名によって有無を言わせず却下された。
 不祥事が起きる事が明白な状況をあえて作り出そうなどと考える者は常識人にはいない。
 かおりはしぶしぶ、本当にしぶしぶと自分の部屋へ向かっていく。
 部屋にたどり着いた梓は、ドアをロックするとその日初めて安堵の息を漏らした。
 
 
 
 

2.

 日が真上から僅かに傾いた午後2時、グラウンドにはジャージを着込んだ乙女達の集団があった。言わずと知れた陸上部の面々だ。
 白い大地に映えるブルーのユニホームがいるその場所だけ、雰囲気が若干浮いているのはどうにも仕方がない。
 グラウンドはおろか、周りの芝生には家族連れやカップルが異常に多いからだ。
 多分、連休中はずっとこんな状態が続くのだろう。
 梓は小さくため息をついた。
 本当なら今頃は我が家で食料の買い出しや家の掃除でてんてこ舞いのはずだった。
 何故か?
 明日、梓の恋人である柏木耕一が隆山に来る予定になっていたのだ。

 あの夏から、早8ヶ月が過ぎている。
 あの時起こった猟奇事件は梓の心と体に深い爪痕を残していた。
 立ち直る事が出来たのは耕一がいてくれたからに他ならない。
 当事者の一人である耕一だったが、この青年は傷付き疲れ果てていた少女の心を立て直そうと必死になった。
 そして、少女が小さい頃から慕い、いつしか愛していたこの青年が自分を選んでくれていたと知った時、彼女はようやくその痕を癒す事が出来たのだ。
 あれから耕一はこまめに隆山を訪れるようになっていた。以前とまったく変わらぬ態度で…
 そんな耕一のさりげない気遣いが梓には嬉しかった。
 だからこそ二人きりでいる時を除いて、梓も耕一に対しては今までと同じように接してきた。
 朝に耕一をたたき起こして、顔をあわす度に口喧嘩して、自慢の料理をいっぱい作って、夜は一緒に晩酌して……

「せんぱーい。タオル持ってきましたぁ」

 ストレッチの済んだ梓の元へかおりが駆けてきた。
 梓はそちらへと視線を向ける。

 元気になったなあ…

 梓は誰に聞こえるでもない呟きを漏らしていた。
 かおりもあの事件の被害者の一人だった。そして、梓にもましてかおりの受けたダメージは大きいものがあった。
 見も知らぬ男から陵辱の限りを受けた上に鬼の姿をも見させられたかおりは、まさに精神崩壊寸前にまで追い込まれてしまっていた。
 精神科医の最先端治療に両親と梓の献身的な看護がなければ、かおりはその一生の大半を病院で過ごす事になっていただろう。
 梓にとって耕一がいてくれたようにかおりには梓がいた事が、かおりの社会復帰を可能ならしめていた。
 梓の行為は柏木の血を引く、ひいては鬼の血を引く者がしでかした行為への償いであったのかもしれない。
 だがそれ以上に、梓にとってかおりが大切な友人だった事を彼女が身に染みて知っていたからだ。
 かおりが行方不明になった時の焦燥感、呪われた部屋で見るも無惨な姿で見つけた時の怒りと悲しみ。
 あの感情を梓は忘れはしなかった。
 だから彼女は自らの心が耕一によって癒されたように、目の前で朽ち果てようとする親友を救うべく出来る限りの事をした。
 3ヶ月後、無事に退院した少女を一番喜んだのは誰でもない梓だっただろう。
 娘の将来と世間体を考え隆山を離れようとした両親を説得し高校へ復帰もさせたし、あらぬ噂をたてようとした男子校の生徒を叩きのめし警察沙汰になったりもした。大切な人を守る事がなにより尊く、大切な人の笑顔を見れる事がなによりも嬉しい。
 以前にもまして梓べったりになったかおりを、あれ以後梓はそう邪険には扱わなくなっていた。
 もっとも、煩わしいものはやっぱり煩わしいが…

「サンキュ、かおり」
「えへへー」
「で、あたしのはいいとして。みんなの分は?」
「えっ?」
「えっ、じゃないだろ。あたしは卒業した人間なんだ。先に部のみんなにタオルを配らなくちゃいけないだろが」
「私はお姉さまが風邪など引いたりしたら大変だから「いの一番」にお持ちしたんですぅ」
「他のみんなはいいのか?」
「みんな若いんだから風邪なんて引きはしません」

 ピクピク

 梓のこめかみがひくついた。

 …それじゃ、あたしは若くないのかよ。

「私にとっては梓先輩は大切なお方ですからぁ」

 満面の笑みで立ってる少女と引きつった笑みを漏らす少女。それを周りの部員たちは遠巻きに窺(うかが)っている。
 梓が卒業するまでこういう事は日常茶飯事だったため、みんなかおりのやっている事に悪意を感じる者はいない。むしろ、百合の世界に憧れる少女達だ。今後の成り行きに興味津々といった方がいい。

 かおりはかおりなりに心配してくれているんだ。そうに違いない 。

 むりやり梓は自分にそう言い聞かせる事にした。
 さっきまで沈み込んでいた気分がいつの間にか晴れていた事に梓は気づいてはいなかった。
 
 

「みんな、準備体操は済んだか?しっかり体を慣らしておかないと次がきついぞ」

 整列した部員たちに橋本は問いかけた。
 部員たちは次のメニューを思い出して苦笑いを浮かべる。

「それじゃ、10Kmランニングを始める。コースは遊歩道のEコースを使う。初めて走るコースだから最初は無理をせず自分のペースで走れ、いいな。」
「はいっ」

 メリハリの効いた返事がきれいに重なった。

「キャプテンの新庄は悪いがしんがりを頼む。マネージャー達は夕食の準備に掛かってくれ。それと、柏木、お前はどうする? 夕食班にまわってくれると俺としては嬉しいんだが」

 部員達の期待に満ちた視線が梓に集中した。
 新人を除いて梓の料理の腕を知っている者達にすれば、夕食の料理が最高級の味付けとなるか品質保証ゼロの代物となるかここが運命の分かれ目なのだ。

「走ります」

 間髪入れず梓は答えた。

 ゴメン、みんな。あたしは自分がかわいい。

 心の中で後輩達に謝りながらも、こればかりは譲る事が出来ない。
 至る所から深いため息が聞こえてくる。

「ええーっ! そんなー!!」

 マネージャーの一人が大きな声を出した。

「せんぱいー、そんなのないですぅ。みんな先輩の料理を待ってるんですよー」
「ごめん、かおり。みんなもごめん。ここ暫く入試やらなんやらでまともに走った事がないんだ。今日は思いっきり走って汗をかきたいんだよ」

 うるうると瞳を潤ませるかおりから視線をぐるりと周りに巡らせ、梓は心もとげに答える。

「そんなあ……」

 こらえろ。ここで負けたら地獄のフルコースが待っている。鬼になるんだ、梓…

 僅かの空白の後、

「わかった、柏木はランニング組だ。もともと、無理を言って来てもらっているんだ。柏木が走りたいならそのようにすればいい」

 よっしゃー

 心の中で握り拳をする梓だった。

「ううっ、せんぱいー」
「ごめん、かおり。最後の味付けはあたしも手伝うからそれで勘弁して」
「…わかりました。絶対ですよっ!」
「ああ、わかった」

 梓はかおりがついてくるなどと言い出すのではないかとヒヤヒヤだったので些か拍子抜けしていた。
 無論、かおりからすればここでのごり押しが、後々有利には働かないと計算してのことである。

「それでは始めーっ!」

 号令一下、全員一団となって遊歩道へと飛び出していく。
 梓はその先頭を切っていた。
 
 
 
 

3.

 頬に当たる風が心地よい。
 梓は唯一人で緑に囲まれた遊歩道を駆けていた。
 梓のあまりものスピードに誰もついてゆけず、後輩達は皆はるか後ろをついてきている。
 もともと梓は短距離走がメインの選手だったが、こうやって走っているのも嫌いではなかった。
 走っているときはどんな嫌な事も忘れられる。とりわけ今は煩わしい事全てから開放されて幾分浮かれ気味で走っていたため、気が付いた時には周りには誰もいない状況となっていた。

 いけない。つい走りすぎちまった…。

 一人ごちた梓はスピードをゆるめジョギングに近い走りに切り替える。
 高校時代、梓が自分の力を出し切って走った事は一度もない。それはランニングの時ですら同じだった。
 身体を流れる鬼の血は並外れた体力を梓にもたらしている。しかし人目についてはいけない柏木家の秘密のため、梓はいつの時も力をセーブして闘う事を余儀なくされていた。
 本当に久しぶりに梓はなにも気に掛ける事なく思い切り走っていたのだ。
 
 

 ゆっくり走ることで少女は周りの景色を楽しむ余裕を手に入れていた。
 なだらかに続く道は右手に木立が連なり左手には沼がある。
 日の光を浴びきらきら輝く水面の上を、もう気の早いトンボが飛んでいる。木立からは名も知れぬ鳥達が生命を謳歌する声が聞こえた。
 うららかな春の陽気、と言うよりは些か暑さすら感じる。梓はジャージを着てきた事を後悔し始めていた。
 さあっ…と木立から風が抜ける。
 冷気が、駆ける少女を包んだ。

 から……から…

 梓はかすかに自然が奏でる音以外のものを耳にした。
 走る速度を緩め、いまや歩き出した少女は耳をすませた。

  からから…

 ついに立ち止まった少女がいる場所は、ひときわ深い木立が茂る所だった。その中に吸い込まれるように一本の細い道が分かれてゆく。
 メインコースから外れるのはその道がむき出しの土な上に、雑草が茂っている事からも容易にわかる。
 梓は何とはなしにその道を見つめていた。

「柏木せんぱーい。どうしたんですかー?」

 突然声を掛けられた梓は小さくビクッと体を震えさすと声の聞こえた方を向いた。
 後輩達が何人かこちらへ向かって走って来ている。
 梓は自分が今ランニングをやっている最中だった事を思い出した。

「いや、なんでもないよ」
「柏木先輩、走るの速すぎますよー。久しぶりだからペース配分忘れちゃったんじゃないんですか?」

 目の前に来て立ち止まった後輩達は、梓が前半あまりにも早く走りすぎたためにバテてしまったのではないかと考えたらしい。

「ははっ…面目ない」

 梓はその雰囲気に合わせる事にした。そうする方がいいと思えたからだ。

「張り切りすぎちゃったみたいだな。でも、もうだいじょうぶだよ」

 にかっと梓は笑顔を見せた。

「さあ、いこうか」
「はいっ」

 少女達は一団となって再び走り始めた。
 だがその中の一人は走りながらもう一度だけ小径を振り返っていた。
 
 

「やっぱし、柏木先輩の作る料理って美味しいですね」
「うん」
「柏木先輩、どうやったらあんなに美味しい料理が作れるんですかあ?」

 夕食が終わり宿舎のロビーで梓を取り囲むようにして数人の少女達が談笑にふけっていた。
 梓の横には当然の如くかおりが座っている。正しくは両手で梓の左腕を抱くようにしがみついている。
 話題は夕食の事だった。
 合宿初日の夕食は自分達で作る。
 これが部の伝統だった。今年もその例に漏れずマネージャーが先導して夕食を作ったのだが先の約束通り、梓が最後の味付けを行った。
 結果は当然のことではあるが好評を博した。ほんの僅かな調味料の使い方次第で料理はかくも変わるのか、という手本の様なものだった。

「あたしの場合は必要に迫られて覚えたからなあ」

 梓はぼうっと答える。
 長女の作る殺人的料理を毎日の如く食べさせられていれば自衛本能で嫌でも自分で作るようになる。
 きっかけは確かそんな感じだった。
 だが自分の作った料理が誉められればやっぱり嬉しい。いつしか梓は料理を手始めとして家事全般を進んでやるようになっていた。
 みんなの喜ぶ顔を見る事がたまらなく嬉しかったからだ。

「やっぱし、好きな人に食べさせてあげるためですか?」

 女の子同士の会話なんてこんなものだ。いつしか話題は違う方向へずれていく。いや、本題に入っていったのか。

「そうだなあ…それもあるかな」

 梓にとって料理を食べさせる相手は家族しかいない。
 家族…それは姉や妹達。だが梓にとって彼女達は愛すべき人達だった。

「やっぱし、そうなんだ。 柏木先輩、好きな男性(ひと)がいるんですか?」
「へっ?」
「馬鹿ねえ。柏木先輩みたいな格好いい人、男なんてよりどりみどりよ」
「はっ?」
「そうよねえ。私も柏木先輩みたいになりたーい」
「あんたじゃ無理よ」
「きゃはははっ」

 梓は彼女らが聞きたい事の本質がわかった。
 彼女達が聞きたいのは梓に好きな男がいるのかどうかという事だ。

「いるよ」
「えっ?」
「えーっ! 先輩、好きな人がいるんですか!?」
「ああ」

 梓はあっさりと答える。
 たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

「柏木先輩っ! どんな人なんですか? 格好いい人ですか? スポーツやってるとか? それとも……」
「ちょ、ちょっと…みんな」

 身を乗り出してくる後輩達に梓はたじたじとなる。

「おねえさまっ!」

 嬌声の中に混じって悲鳴にも近い声があがった。

「かおり…」
「誰なんです…誰なんですか!?」

 一気に周りは静まり返った。

「あの男ですか?そうなんでしょ? あの男なんでしょ!」
「…耕一の事か」
「やっぱりそうなんですね」

 つぶやくように答えた梓にかおりは畳み掛けるようにまくし立てる。

「おね…梓先輩は騙されているんです」
「男なんて……男なんて…」
「不潔で…乱暴で…小狡くて…いやらしくて…」
「かおり…」
「あの男だって同じです。あの男は梓先輩の身体だけが目当てなんです」
「かおり」
「好きなだけ弄んで、最後はおもちゃの様に棄てられるに決まってます!」
「かおりっ!」
「ひっ」

 怒気のこもった梓の声にかおりは震え上がった。だがその頬は怒りに紅潮している。

「ごめん、かおり。…でも、いくらかおりの言う事でも、あいつの事を悪く言うのは許せないよ」

 優しく、諭すように梓はかおりに言う。しかしその言葉にはこれ以上の反論を許しはしないという感情がこもっていた。

「…梓先輩は間違っています」

 それでもかおりは口を開いた。その言葉はあまりにもか弱い。

「間違ってなんかいないよ」
「どうして…そう言えるんですか」
「あたしはあいつを信じてるから……」

 だっと立ち上がったかおりはそのままロビーを逃げるように走り去っていく。
 その姿を梓はただ見送る事しか出来なかった。
 
 
 
 

4.

 ベッドに寝転がり天井を眺めながら梓は一人、物思いにふけっていた。

『あたしはあいつを信じてるから……』

 よく言えたもんだ。

 少女は目を瞑る。
 すぐに愛する青年の顔が思い浮かんだ。そしてその顔に被さるように浮かぶ姉妹達の姿も…。
 梓は姉妹達が皆、耕一に対し自分と同じ感情を抱いていることを知っていた。
 4人の姉妹は皆全てが一人の同じ青年を愛してしまったのだ。
 だが青年はその中から自分を選んだ。
 それはいったいどういう理由からなのだろう。
 ほんとうに自分を愛してくれたのだろうか?
 乙女の純潔を奪った罪滅ぼしだったのではないのか?
 幼い頃、鬼となりかけた少年を人として踏みとどませた恩義だとしたら?
 梓はどうしても理由が欲しかった。

 …やっぱり、かおりのいうように自分の体なんだろうか。

 結局、梓はその理由を己(おのれ)の体に求めてしまう。
 耕一が隆山を訪れると必ず梓は耕一と肌を重ねた。
 もちろん柏木の家でそんな事はしない。隆山から電車で小一時間かかる、梓の通う短大がある街のホテルでだった。
 耕一は従姉妹達を大事にした。隆山にいる間はその多くの時間を柏木の家で過ごす。
 他の姉妹を気遣い、家でベタベタするような事は決してしなかったし、梓もそういう事を嫌った。
 だから耕一は隆山を訪ねる前日にその街で一泊し、梓を短大で迎えた後デートをするのが常だった。それすらも梓の帰りがあまり遅くならないように気を配っていた。
 その僅かな時間、二人きりの間だけは梓は素直になれた。いや、むしろ積極的ですらあった。
 デートの時は思い切り甘え、SEXでは青年の望む体位をとり、青年が悦ぶ事ならどんな事でもやれた。
 今では耕一が言わずともその意を汲んだ行為をすることすらある。
 いつか梓に、耕一が言った事があった。

「おまえは夜になると従順になるんだなあ」

 その時は曖昧に笑って返した。
 笑う以外にどう答えればいいと言うのか。
 耕一に嫌われたくないから…
 耕一に捨てられたくないから…
 自分にはこれしか方法がないから…
 真実を告げる事など出来はしない。
 梓は愛する耕一の心が他の姉妹に移り変わる事が恐ろしかったのだ。
 もし、そうなったら…
 梓は彼女達に敵う術を知らない。
 姉も妹達も梓にないものを持っていた。
 千鶴には淑(しと)やかさがあった。いかなる時にも相手を立て、闘い疲れた男の心を癒す優しさがあった。
 楓には美しさがあった。街行く男達が皆振り返り、それでいて真の男しか近づけない気高さがあった。
 初音にはかわいらしさがあった。誰からも好かれ、男なら誰でも守ってやりたいと思わせる可憐さがあった。
 どれも梓が持ち合わせない、手に入れる事が出来ないもの。
 それらは全て女らしさの象徴だった。
 梓には耕一を繋ぎ止める方法は、男好きのする自らの体しか思いつかなかったのだ。
 もちろん耕一がそんな事を気にとめていない事は梓自身がよく知っていた。
 耕一は何時の時でも優しかった。
 以前と同じ態度をとりながらも少女を気遣う想いが伝わってきた。とりわけ、恋人宣言をした以降はそうだ。
 SEXが終わった後、青年の腕に抱かれ夢うつつの少女に向かっていつも彼は同じ言葉を口にしていた。

「愛している…」
「俺はおまえを愛し続ける。一生守り続けていく…」
「俺を信じろ。おまえを愛する俺を信じろ…」

 青年は知っていたのかも知れない。
 愛する少女の心が未だ完全には癒されていない事に。
 だが、その言葉が少女をますます不安にさせていく。
 想いの伝わらない言葉ほど虚しいものはない。

「あいつを一番信じていないのはあたしか」

 毛布を頭まで引っ被り梓は目を閉じる。
 小一時間もたった頃、ようやく少女は微睡み始めた。
 
 

耕一さん、よろしいですか?
ああ、千鶴さん
心を強く持つのです。負けないという信念を持つのです。耕一さんならきっと出来ます
わかった
待ってくれよ、千鶴姉!
退きなさい、梓っ!
なんで、こんな事しなくちゃいけないんだよ。おかしいよっ!
あなたにも話したはずよ。耕一さんの鬼は今、不安定な状態にあるの
それがどうなんだよ?
ここではっきりしなければ取り返しのつかない事になるわ
はっきりってなんだよ…耕一をどうするつもりだよっ!
鬼を制御すればよし…さもなくば……
殺すのか? 耕一を殺すのかっ!?
それが掟よ
嫌だ! 嫌だよ、そんなの!
梓…
楓っ。楓も何か言えよ!
梓姉さん…姉さんは耕一さんを信じられないの?
楓…?
耕一さんは負けない。必ず鬼に勝つわ
楓、あなた…
私は耕一さんを信じます…
そうだ、梓…
…耕一
俺を信じろ
耕一
やっと大切なものを手に入れたんだ。負けない。負けるわけがない!
………
耕一さん。すべて終わったらみんなで墓参りに行きましょう
そうしよう、千鶴さん

…いきます
…ああ

     
     
 瞼が開き、知らない天井が視界に飛び込む。

 あの夢か…

 あの夏の終わり、悲劇を締めくくるフィナーレ。
 最後の試練を耕一が受けた時、梓は死にも勝る恐怖を体験した。
 肉体の変貌こそなかったものの愛する青年から迸(ほとばし)る鬼気は梓の身体からすべての自由を奪った。
 並の人間ならば心臓麻痺をも起こし得る凄絶なる鬼気は、そこにいた同族の女性達を遙かに圧倒するプレッシャーを持っていたのだ。
 梓は目を閉じ、耳を塞ぎ巨大な嵐が過ぎ去るのを待つ事しか出来なかった。
 静寂が訪れた後、恐る恐る瞼を開いた梓が見たものは……
 人の姿で立つ一人の青年…
 毅然とした態度でその青年を見つめる女性…
 内なる喜びを隠そうともせず涙を流す少女…
 やがて青年は勝利の微笑を一番に梓に向けた。
 その笑顔を見た時、梓は己の心に恐怖した。
 恐るべき力を秘めた鬼の血と、死を賭けて鬼と戦う耕一の姿を見る事が出来なかった自分に。
 トラウマとして残ったこの恐怖は、以後梓の鬼が表に出てくる事がなくなった事からもわかる。
 己を滅する事が出来るモノの存在に怯え、梓の鬼は殻に引き籠もってしまった。
 そして、耕一を最後まで信じ切る事が出来なかった梓の心は鬼の存在を否定せんとするがために、鬼が閉めた扉に強固な鍵を掛けてしまう。
 鬼さえいなければこのような苦しみを味わう事などなかったのだ、とばかりに。
 愛するという事と信じるという事は同義語ではない。愛するが故に信じる事が出来なくなってゆく。
 むっくりとベッドから身を起こし、梓は部屋の窓を開けベランダへ出る。
 十三夜の月が明るく周りを照らし出していた。
 5月の夜気が火照った身体に心地よい。

「耕一…」

 梓は小さく呟く。

 さあっ……

 冷たい夜風が少女の身を僅かに震わせた。
 
 
 
 

5.

 昨日と同じコースを梓は一人で走っていた。
 マイペースでただ黙々と前を見つめながら走る様は、マラソンランナーのランニングとなんら変わりない。
 無機質な走り…といったらいいのかもしれない。
 2日目から合宿は本格的な練習に入っていた。
 各部員は各々に課されたメニューを滞りなく消化していく。
 梓に課された役割は部員のコーチ…といえば聞こえはいいが、要するに顧問だけでは手の足りない指導の手伝いだった。
 だがこれとて部員達の練習が軌道に乗り出せばさほど手が掛かるものではない。
 午後になって手持ちぶさたになった梓は顧問の橋本にランニングをしたいと申し出た。
 橋本はそれを承諾した。
 梓はジャージを脱ぐとベンチに畳んで置いてグラウンドを後にする。
 少女は後輩達といっしょに練習をするのが苦痛だったのだ。
 仲の良い同期の者は誰一人いない。
 そして、かおりとはまだ仲直り出来ていなかった。
 正確にはかおりが梓を避けているといった方が正しい。
 梓はどんな人間と険悪になろうともそれを後に引きずる様な事はしない、竹を割ったような性格の持ち主だった。
 大概、翌日には笑って水に流し、以前と同じ様な関係に戻る。
 だが、かおりは今朝から梓を避け続けていた。いや、一定の距離を保ち続けていた。
 近づけば逃げる。離れれば寄ってくる。
 こんな事は一度とてなかった事だ。
 昼食の間も一言も話さないまま午後の練習に入ってしまっていた。
 他の部員も昨夜の事もありどことなく二人には近づき難い雰囲気を抱いていたため、梓は一人浮いた感じとなっていた。
 どうする手だてもない梓はグラウンドから離れる事を決めた。
 
 

 間違った態度をとってしまったのだろうか。
 少女は自問する。
 かおりが異常すぎるほど梓に好意をもっていた事はわかりきっていたはずだ。
 なぜ、あそこで答えをはぐらかさなかったのだろう。
 恋人がいるかとの問いに対し梓はいとも簡単にYESと答えた。
 自慢したかったのか? …そうじゃない、宣言したかったのだ。
 自分はあいつの所有物であるという事を。
 あいつは自分の所有物であるという事を。
 ただの独りよがりだと少女は思う。

 あいつはそう思っていないかもしれないのに。

 答えの出ない問いを少女は繰り返す。
 思考はいまや無限のループに陥ろうとしていた。

 からから…

 その音だけが妙に響いた。生命を感じない無機的な音。
 梓は足を止めた。
 そこは昨日と同じ場所だった。
 木立の広がる緑の壁に吸い込まれるように続く一本の小径。
 音はその細い小径の奥から聞こえてきた。いや、むしろ聞こえてきたと言うよりは頭の中に届いてきたと言った方がいい。
 少女は小径に足を踏み入れる。
 もし、この場にいたのが梓の一つ下の妹であったならば、おかっぱ頭のその少女はある明確な気配をそこに感じ取っていたに違いない。
 だが、幸か不幸かここにいるのは妹ではない。
 梓は引き込まれるように小径の奥へと歩みを進めていった。
 歩いて2、3分たった頃、不意に木々のトンネルは途切れる。
 ぐるりと周りを木立が囲む広場がそこにあった。
 直径10mぐらいはあろう広場は来る者とているのだろうか。雑草が生い茂り雑然としている。
 そしてその中心に一つの祠(ほこら)が鎮座していた。
 祠というのも大仰しいほどの粗末な造りである。なぜならご神体らしい石を囲むように四隅に柱が立ち雨よけ程度の屋根があるだけなのだから。
 ご神体は人が両手で抱えられるぐらいの大きさしかない。屋根まで含めても高さは1mそこそこ。
 正面が、しめ縄がしてある事でやっと判断出来るぐらいだ。
 素人目で見てもたいした祠ではなさそうに見えた。

 からから…

 聞き覚えのある音がした方に向けられた梓の視線が一点で止まる。
 いつ供えられたものだろう。枯れきった花と一緒に色あせた風車(かざぐるま)がひとつ、くるくると回っていた。
 梓の耳に聞こえてきた音はその風車の回る音だったのだ。
 ざあっと、木立を抜けて吹く風が冷たかった。
 先程まで汗をかくような陽気だったのが嘘みたいな冷たさだ。

 からからからから…

 両手で我が身を抱きながら梓はいつまでも回り続ける風車に見入っていた。
 
 
 
 

6.

「鬼子母神様?」
「ああ、そうだよ」
「ふーん」
「あなた、あそこに行ったの?」
「ええ」
「すっかり寂れていたでしょう」
「……え、ええ」

 宿舎の廊下で賄(まかな)いの女性と梓との会話。
 昼に迷い込んだ広場の事を梓は宿舎の職員に聞いてみた。
  年配の女性は地元の者らしく、すぐに梓の言っている祠が鬼子母神を祀(まつ)っている祠であることを教えてくれた。
 休暇村が出来る以前は近くに村があったため村人達がよくお参りしたらしかったが、村も寂れ廃村となってからはほとんどお参りに行く者とていなくなってしまったとの事だ。
 とにかく気になった。無信心な梓らしからぬ事だと言ってもいい。
 しばらくあの場所に佇んでいた梓だったが体の芯まで凍える寒さに我に返り、再びランニングを始め戻った時にはすでにその日の練習は終わり間近となっていた。
 その間の記憶は曖昧模糊(あいまいもこ)としている。
 あそこになにがあるのだろう。
 宿舎に戻った梓はたまたま廊下ですれ違った賄いさんに声を掛けた。
 わかった事はあの祠が鬼子母神を祀った祠であるという事だけだった。
 それ以上、調べる方法がある訳でもない。
 少女はため息ひとつつくと祠の事を考えるのを止めた。
 それよりもやる事がある。
 梓はかおりを捜すためロビーへと降りていった。
 
 

 結果は芳しくないものだった。
 依然としてかおりは梓には近寄ろうとはせずとうとう梓も匙を投げてしまった。
 なんともやりきれない気持ちのまま、夕食後のロビーで梓はぼうっと窓の外を眺めていた。

 なにしてんだろ、あたし…

 隆山には耕一が来ているはずだ。
 今頃はみんなと夕飯の最中だろう。
 みんなと……

「柏木先輩」
「んっ?」

 声のした方に首だけ向ける。3年の後輩が二人、梓の背後に立っていた。

「いいですか?」
「ああ、なんだい?」
「かおりの事です」
「……ああ」

 二人は梓の正面に座る。
 彼女らはかおりの友人だ。梓べったりのかおりだが他に友人がいない訳ではない。
 一人は吉田由紀。ショートカットのボーイッシュな外見に劣らず、明るくおちゃらけた性格の持ち主である。
 もう一人は桂木美和子。長い髪をおさげにまとめた、少し気弱で赤面症ぎみな少女だ
 クラスメートでもある彼女達はいつも同じグループを作っていた。今回の合宿でも部屋は皆同じでもある。
 もっとも趣味まで同じではない様だが。

「まだ、ダメみたいですね」
「かおりがあんなに頑固だなんて思ってもみなかった」
「あの娘も仲直りしたいんですよ」
「そうかな?」
「そうですよ。だって、あんなに柏木先輩の事好きなのにいきなり嫌いになる訳ないじゃないですか」
「好きになったり嫌いになったりするのに時間なんて関係ないよ」
「きっといきなり逃げ出したりしたものだから格好つかないんですよ」
「そうですよ。でもなきゃ、あのかおりが…」
「ねえ…」

 二人顔を合わせて意味深に頷く。

「な、なんだよ…ねえって」
「先輩一筋のかおりですよ。先輩が結婚したって諦めやしませんよ」
「うっ…」

 梓は想像してみる。それはそれでかなりイヤなものがある。

「先輩。私達にまかせてください」
「あんたらに?」
「ええ」
「私達もかおりがこれ以上意地を張るのを見たくはないですし、あの娘機嫌が悪いと私達に当たってきますから」
「ははっ…」

 梓は苦笑せざるをえない。

「先輩だってこのままじゃ気分よくないでしょ?」
「そうだよな」
「じゃ、決まり」
「でも、どうやって…」
「それは私達で考えます」
「…わかった。頼むよ」

 梓は頭を下げた。
 彼女は上下なく礼儀正しい。高校時代でも先生や先輩は当然の事、後輩にもきちんと礼は通した。これがみんなから分け隔てなく好かれる所以だった。

「先輩っ。頭を上げてくださいよ」
「そうですよ。先輩」
「あんたたちのおかげでだいぶ気分が楽になったよ。よろしく頼む」
「はいっ!」

 梓はようやくひとつ肩の荷が降りたような気がした。
 
 
 
 

7.

 部屋に戻った梓はベッドに腰掛けて大きく深呼吸をした。
 一人きりになるととたんに寂しさがこみ上げてくる。そして、考える事はただひとつ。
 耕一の事。

 今頃、何をしているんだろうか。

 きっと、みんなと賑やかに時間を過ごしてるに違いない。

 千鶴姉はあいつといろいろな話をしているんだろう。
 楓は暖かいまなざしをあいつに向けているに違いない。
  初音はいつものようにあいつにまとわりついてるに決まってる。
 その中にあたしはいない…

 何故だろう。
 好きになればなるほど不安がどんどん増していく。
 絆が欲しい。
 もっと強い絆が欲しい。
 
 

 梓は耕一の子供が欲しかった。
 結婚してなかろうが、いやむしろ結婚していないからこそ梓は子供が欲しかった。
 子供が出来れば愛する青年は自分から離れられなくなる。ずっと側にいてくれる。
 少女にとって子供は青年と自分を切って離さないための大切な絆となるものだった。
 梓がSEXにのめり込んでいった背景にはこれが根底にある。
 だが耕一はSEXの時には必ずコンドームを使用した。
 梓が安全日だと言ってもそれを欠かしたことはない。

「女に対しての男の礼儀だよ」

 耕一はそう言った。
 青年は理解していた。少女は失念していた。
 柏木の人間が子を成すという事がどのような意味を持つのかを。
 血塗られた鬼の血が継承されるという事を、梓の両親がそして耕一の両親が味わった苦しみを彼らも背負うという事を…。
 梓はそんな事に気が付かぬほどにまで追い詰められていた。ただ、耕一が自分との子供を欲しがってはいないという歪んだ事実だけがすり込まれていった。
 梓は気付いていなかっただろうが、耕一は自分にとって大切な少女に危険な兆候が見られ出した事を察知していた。
 会う度に少女の浮かべる笑顔は、以前に青年が見た事があるとある女性の笑顔に似てきていた。
 去年の夏の日、少女の姉が浮かべていたあの笑顔だ。
 仮面の笑顔。凍らせた心を隠す哀しい笑顔。
 冗談めかして少女にその事を言った時、少女は手放しでそれを喜んだ。
 美しい姉に少し近づけたんだと。
 その時、青年は不安にかられる心を押し隠す事しか出来なかった。
 少女の心はその時すでに乾きひび割れ始めていたのだ。
 
 

「寝よう」

 もともと考える事が得意ではない梓は思索の行為を放棄した。

 考えるから落ち込むんだ。なんにも考えずに寝ちまえばいいんだ。
 明日が過ぎ明後日になればあいつに会える。
 そうすりゃ、嫌な事なんてみんな吹っ飛んじまうさ。

 明かりを消し、毛布を被った少女から寝息が聞こえだしたのはすぐだった。
 
 

ここはどこなのでしょう
ぼろぼろの身なりでずっと歩いてきました
最後に物を口にしたのはいつだったでしょう
もう歩けません
ここであたしは死ぬんです
死んで当たり前ですね
生きていたってあたしの住める場所なんてないのですから
鬼の血を引くあたしがこの世で生きる事なんて神様が許してはくれないでしょう
ああ、……眠い

ここに住んでいいんですか
あたしは何も出来ません
きっとご迷惑が掛かります
それでもいいんですか
……ありがとうございます
ご恩は一生忘れません
ありがとうございます

いけません
あたしはあなたの嫁になれるような女じゃありません
あたしは鬼の血を引く女です
幸せを求める事など許される女じゃないのです
……ああ、あなたさま
信じます
あなたさまを信じます
あたしをお嫁にしてください

見てください
珠のような男の子です
あなたさまのやや子です
立派に育てます
だれにも負けない立派な男子に育てます



鬼の子は………やっぱり鬼だったんですね
 
 

 梓はベッドから跳ね起きた。

「ゆ、夢?」

 あまりにもリアリティーがありすぎる。まるで自分が夢の中の人物と一体になったが如き感じだった。
 寝間着が肌に張り付いていた。それほど汗をかいていたのか。
 夢の内容にはまるで覚えがない。
 ただ、この夢が自分にとって無関係ではないという事だけが漠然と理解出来た。それは鬼の直感といっていいのかもしれない。
 結局、明け方まで少女は一睡もする事が出来なかった。
 
 
 
 

8.

 指導も一区切りついた梓は、昨日と同じようにまたランニングに出ていた。
 まんじりともせず朝を迎えた梓だったが、朝食が済みグラウンドで汗をかきだした頃にはもう夢の事は忘れていた。
 心に引っかかるものはあったが、日の光の下で身体を動かしているうちにとるに足らない事の様に思えてきたのだ 。
 かおりとは相も変わらずだが、心強い後輩の二人がいる事で多少は気が楽だった梓は、そつなく午前中はコーチの仕事ををこなしていた。
 けれども指導ばかりじゃそのうち飽きがくる。とはいえ、グラウンドで後輩に混じってストレートを走るなんて面映ゆい梓は、午後になると気分転換を兼ねて再び遊歩道を駆ける事にした。
 
 

「柏木せんぱーい!」
「んっ?」
「せんぱい、待ってくださーい」
「ああ? なんだ、由紀に美和子じゃないか」

 これまでとは打って変わってのんびりとコースを走っていた梓に途中で二人の後輩が追いついた。かおりとの仲裁役を買って出た例の二人だった。

「ふう、ふう、ふうっ、先輩早いですねー」
「ははっ」
「二人ともメニューの方は済んだのかい?」
「あはっ、さぼっちゃった」
「こらっ…」
「先輩、ご一緒してもいいですか?」
「んっ、いいよ」

 後ろについた二人に合わせるため梓はピッチを幾分落とした。物足りないスピードではあるが、やっぱり一人よりは仲間がいる方がいいものだ。

「なあ…」
「はい? 何ですか、柏木先輩」
「昨日の夜の事だけど……、どうするつもりなんだ?」
「任せ下さい、柏木先輩」
「最後の一つが片づけばすべてオッケーですから」
「最後…?」
「細工は流々、仕上げをご覧じろ…ってね」
「…そっか」

 聞きたい事はまだあったが梓はこれ以上の質問をするのは止めた。二人を信用したのだ。それ以上の質問は無意味な事だ。
 そう思った梓は視線を前方へと向けた。
 昨日も一昨日もこの道を走った。既にコースの概要は頭の中に入っている。
 梓は走るスピードを緩めていた。あの沼を過ぎると、そこには…

「先輩、どうしたんですか?」

 急に立ち止まった梓に由紀が声を掛けた。

「いや……」
「…柏木先輩?」

 美和子も少し心配そうな顔である。

「先に行っててくれないかな」

 そう言って、梓は小径へと入り込んでいった。

「先輩」

 そう言われて「ハイ、そうですか」で行く者はそうそういないだろう。
 二人の後輩は木立に見え隠れする先輩の後を追った。
 
 

「先輩、ここは…?」
「ん、ああ…」

 汗ばむくらいの陽気の木立の外とは打って変わって、肌を撫でる風に寒気すら覚えるのは今までと同じだ。
 祠のある広場に初めて入った二人は物珍しげに周りを見回していた。

「なに、この祠? ただの石じゃない」
「あんまり変な事は言わない方がいいわよ。祟るかもしれないから…」
「お、驚かさないでよ。美和子」

 祠を覗き込んでいた由紀は思わず身をのけ反らせて二、三歩後ろへ下がる。

「ふふふっ」
「美和子ってばー」
「冗談よ、由紀」
「もう…」

 梓に笑われた由紀は頬を膨らませてむくれた。

「これは、鬼子母神様だよ」
「きしぼじんさま?」
「って、宿舎の人が言ってたな」
「先輩、きしぼじんさまってなんですか?」
「…さあ?」

 鬼子母神という名を聞いてはいても、その意味を知らない梓は祠を見ながらあっさりと両手を上げる。

「鬼の子、母の神って書いて鬼子母神(きしぼじん)っていうのよ」
「美和子、知ってんの?」
「ええ」
「あたしも知りたいな」

 祠を漫然と見つめていた梓は美和子の方に首を向けた。

「ええっと、確か元々はインド神話が出典で……昔、国の平和と人間を守る美女の鬼神がいたんです。名前はハーリティ…」

 美和子が語る鬼子母神の話とはこうだ。
 
 

 ハーリティには500人の子供がいた。しかし、彼女とその一族は人間の子供が常食であったため、人々は子供をさらわれないように大変な苦労をしていた。とはいえ、相手は何しろ鬼神であるから人間には太刀打ちできない。子を奪われた母親は嘆くしかなかった。
 そんな人々の苦しみを知った釈迦はハーリティの一番末の子供を隠してしまう。子供がいなくなった事に気づいた彼女は半狂乱になり世界中を探し回ったが、どうしても見つけだせなかった。途方に暮れた彼女は最後に釈迦へ助けを求めた。
 子供を探してくれと懇願する彼女に釈迦は

「お前は500人も子供がいるのだから一人ぐらいいなくなってもいいではないか」

 という。ハーリティは泣き崩れながら

「とんでもない。どれも私がお腹を痛めて生んだ子で、みんな大事です。子供さえ無事でいてくれれば、私はどうなっても構いません」

 と答えた。

「大勢のうちのたった一人を失ってもお前はこのように嘆き悲しむのだ。一人二人しかいない子供を失った人の親の苦しみをお前はどのように思うか」

 釈迦の言葉にハーリティはこれまでの自分の行いに気づき、誓いをたてる。

「親の悲しみを身をもって知りました。今後はたとえどんなに飢えても絶対に子供は食べません」

 こうしてハーリティは末の子を返してもらい、その瞬間から子供の守り神になったのである。
 
 

「この手の話が日本人は好きですから、全国に鬼子母神の話が広まったんですよ」
「ふーん」
「最初は子供の守護神だったんですが、今では子宝と子育ての神として信仰されてますね」
「あんた、物知りだなあ」

 梓は意外そうに美和子を見た。
 梓が在学中の時の美和子は、どちらかといえば地味目で梓もあまり話をした事はなかったからだ。

「美和子はこの手の話、好きですから。本人は気は弱いのにね」
「由紀ったら、もう」
「あははっ」

 からかわれて頬を染めている美和子をよそに、梓は再び視線を祠の方に向ける。

「でも、なんでこんな所に鬼子母神があるんだ?」
「多分、この地方が貧しい所だからですよ」
「……そうか」

 ようやく少女は納得がいった。この祠の意味するところが…
 土地が痩せ、大した収穫が上がらない場所で子供が育つのは大変である。昔は出生率も成人率も恐ろしく低かったはずだ。そのような場所では人々は神にすがるしか方法がなかったのだろう。

「でも、なんで先輩がこんな所を知ってるんです?」
「あたしも昨日見つけたんだ」
「そうなんですか」

 そう言いながら由紀はぐるりと広場を取り囲む木立を見回した後、一人納得するように頷いた。

「でも、なかなかの雰囲気じゃない」
「由紀もそう思う?」
「ええ、美和子」
「問題、片づいたわね」
「そうね」
「なんだい? 問題って」
「ああ、なんでもないです」

 二人して視線を交わし頷き合ってる由紀と美和子を、梓は不思議な顔で見つめた。

「それより、ここって冷えますね」
「あんたもそう思うかい」
「ええ、身体が冷えてきちゃった」
「それじゃ、行こうか」
「はいっ」

 三人は広場を後にする。
 静けさを取り戻した広場では、残された風車が風に吹かれてからからと乾いた音をたてていた。
 
 
 
 

9.

「きもだめしーっ!?」
「わあ、先輩声が大きいです」
「わわ、ごめん…」

 夕食も済み、みんなが部屋へと戻っていった頃、梓の部屋を由紀が訪ねてきた。
 由紀と美和子が考えた計画とは、肝試しを行って梓とかおりを仲直りさせようというものだった。
 先にかおりは美和子が宿舎から連れ出しているらしい。
 計画は既に動き始めているようだ。

「あんた達の行為はホントにありがたいと思ってる。けど、肝試しとは…」
「ダメなんですか? それとも怖いとか?」

 怖い。

 違う意味で恐ろしく怖い。
 あのかおりだ。禁断の世界に足を踏み入れそうだ。いや、間違いなく踏み入ってしまう。

 あたしの身体に触れていいのは耕一だけなんだから。

 だが、それを口に出すのは思い切りはばかられる気がした。せっかく仲を取り持ってくれた二人の後輩にも悪い。

「先輩…」
「…わかったよ」
「それじゃ行きましょう。」
「行くって?」
「ここじゃ、肝試しなんて出来ませんよ」
「そりゃ、そうだ」
「いい場所見つけたんですから」

 二人は窓の外のベランダから地面に飛び降りると、他の者に気が付かれないようにそっと宿舎から抜け出した。
 夜も更けているのに冷たさは感じない。
 雲一つない空では、十五夜の満月が天上に上り詰めるところだった。
 
 

 遊歩道をてくてくと歩いて行くと彼方に懐中電灯の明かりが見える。かおりと美和子だ。

「待ったー? 美和子」
「ううん、少しだけ」
「……やあ…かおり…」
「………」
「さっ、行こうか」
「うん」

 四人はそろって歩き出す。かおりは一言も口を聞かず、梓としては居心地の悪いこと甚だしい。
 間が持てなくなった梓が口を開いた。

「肝試しってのはどこでやるんだ?」
「祠のある広場ですよ」
「あ…あそこか?」
「ええ、雰囲気がばっちりですから」

 嫌な予感がする。
 なんといったらいいのだろう。強いて言えば、誰もいない道路で誰かに付けられているような感じだ。

「あそこは……止めた方がいいんじゃないのかな?」
「なんでです?」
「だって、祟るとか言ったのは美和子だろ」
「ああ、大丈夫ですよ」
「なんで言い切れるんだ?」
「神様が祟る訳ないじゃないですか。いたずらさえしなければ大丈夫です」
「そ、そうか…」
「もしかして柏木先輩、お化け苦手ですか?」
「そ、そんな事はないけど…」
「じゃあ、問題なしです」
「…ふう」

 梓は諦めた。
 祠までは宿舎から歩いて20分ほどかかる。
 遊歩道を通ればまだ時間はかかるのだが、由紀達は近道を見つけだしていたらしい。
 夜といっても満月が煌々と照らしているため、歩くのに不自由はしない。薄ぼんやりだが人の表情すらも見て取れるほどだ。
 梓は歩きながらかおりの顔を横目で窺った。
 ひたすら前を向き、横にいる梓には視線すらもよこさない。

 まだ、怒ってるなあ…

 それでもかおりがこの肝試しに付いてきたのは二人の友人のためなのだろう。
  その二人は先を歩きながら、無言で後ろをついてくる二人を特に気を留める事もなくおしゃべりに興じている。
 やがて目的地を目の前にした沼を通り過ぎる頃、辺りにはうっすらと霧が立ちこめてきだした。

「今時、珍しいですねえ」
「うん。この辺りだけみたいだから地形的な問題じゃないのかな」
「でも、気分出てきたじゃないですか」
「そう言うか?」

 広場へ向かう小径の入口に着いた面々は、昼とは違うその異様さに思わず息を飲んだ。
 深い木立は満月の明かりさえも通さず黒い壁となって立ちはだかり、小径の奥は霧に霞んでよく見えない。

「ホントに行くのか?」
「…そ、そのために来たんじゃないですか」

 梓の問いに対し、由紀の答えは1オクターブ声が高い。

「なんのためにこういう機会をつくったと思ってるんです」

 由紀に耳元でこう言われては、梓も返す言葉がない。それからおもむろに由紀は努めて明るく声を出した。

「それじゃ、手順を説明するわよ」
「先輩とかおり、私と美和子のペアで祠に行きます。先ず、先輩達が先に出て10分後に私達が出発。目的地は祠の前。先輩達はそこで私達が着くのを待ってもらいます。私達が着いたら先輩達は戻って、今度は私達が10分間ほど祠の前に留(とど)まってから帰ります」
「10分…」

 梓にとっては気が遠くなるような時間だ。

「柏木先輩、頑張って下さいよ。こういう状況ならかおりも先輩を頼らざるを得なくなります。気まずい関係だって必ず元に戻りますよ」
「そ、そうかな」
「そういうものですよ」

 美和子はそっと梓に囁いた。梓は冷や汗を流しながらそれを聞いていた。

「かおりもそれでいいわね」
「…ええ、いいわ」
「じゃあ、早速始めましょう」

 梓は腹をくくった。右手に懐中電灯を持つとかおりの方へ左手を伸ばす。

「…いくぞ、かおり」
「……」

 何も言わず、かおりはその手を握った。
 木立の中へ続く小径へ二人が足を踏み入れる。
 その姿はあっという間に、残された後輩達の視界からかき消えていった。
 
 

「行っちゃったね」
「ええ」
「ほんとにこれでよかったの?」
「うーん。…まあ、いいんじゃない?」
「柏木先輩、ちょっとかわいそうだったね」
「いいじゃん、女同士なんだし。それに、別に減るもんじゃないしさ」
「それにしても、かおりも策士よね」
「…うん。柏木先輩がからむとどんな事だってやりかねないわね」

 なんと、この肝試しはかおりによって計画されたものだったのだ。
 愛する先輩の恋人宣言にキレたかおりではあったが、そのままという訳にはいかなかった。かおりが梓を忘れられる訳がない。もしも別れるなんて事になったら、考えるだに恐ろしい。
 かおりはついに一計を案じ、実力行使に出る事に決めた。
 用意周到に計画された作戦は、二人の友人を巻き込んで翌日から実行された。梓を無視して不安を煽り、由紀達を梓に接触させお膳立てを作る。
 要は二人きりになれる空間、誰にも邪魔されない状況を作り出せさえすればいいのだ。
 梓の性格を逆手にとった、巧妙な計画だった。
 そして、二人の後輩がこのとんでもない計画に乗った理由は…

「まあ、いいじゃん。私達もこれで財布の中身が潤うんだし」
「…そうね。お昼の学食、1ヶ月おごりだもんね」
「そういうこと」

 と、いう訳だ。

「でも、かおりの演技。すごかったわね」
「ええ、端から見てておかしくって…」
「ふふふ、柏木先輩もころっと騙されてるんですもの」

 二人は声を押し殺して笑った。

「それじゃ、帰りましょうか。こんな気味悪い所、長居は無用だわ」
「ええ」
「明日の朝が楽しみね」
「ふふっ」

 二人は来た道を小走りに帰ってゆく。
 それを待っていたかのように木立は深い霧に飲み込まれていった。
 
 
 
 

10.

 木立の中を歩き続ける間、二人を不気味な沈黙が覆っていた。
 かおりは一言も話さない。
 梓はかおりにかける言葉をずっと探していたが、結局何を言っていいのかわからず仕舞いだった。
 そんな中、梓は僅かに体を震わせた。
 木立の奥へ行くに従って少しずつ気温は下がっているようだ。
 周りは闇に包まれている。生命の気配をまったく感じないのはその寒さ故なのか。
 やがて、木立を抜けた二人は祠のある広場へと出た。
 広場は夜霧に満たされていた。
 木立が見えるのはこちら側半分しかない。向こう側の木々は霧に飲まれて乳白色の背景を広げていた。
 その中に浮かび上がるように祠が見える。
 何故?
 霧に包まれ月の光は届いていないはずなのに、乳白色の世界が広がる?
 不気味に立つ祠のディティールがどうしてこうもはっきりと見える?
 梓はそのあまりのシュールさに立ち竦(すく)んだ。
 
 

 ふいに梓の左手首が掴まれた。
 と、同時にかおりを握っていた手から彼女の右手が離される。そして、その手は梓を背後から抱きしめたのだ。
 梓の体にその身を密着させ、かおりは愛しい人の耳に息を吹きかける。

「お・ね・え・さ・ま……」
「か、かおり…おまえっ…」

 梓は絶体絶命の危機に直面した。

「どうしたんだ。かおりっ!」
「おねえさま、この時を待っていました」
「!?」
「この二日間どんなに辛かったか、わかりますか?」
「おねえさまのお側にいられなくて、私は身が張り裂けるようでした」
「おまえ、もしかして…」
「ここは私とおねえさまの二人だけです」
「…誰も邪魔は入りません」
「だましたのか! かおりっ」

 梓は顔を紅潮させて叫んだ。
 逃げようにもしっかりと抱きしめられて抜け出すことが出来ない。
 最悪だ。
 怒るより前に梓は己を呪った。かおりがこういう性格の人間だったのをすっかり忘れていた。そんな事にも気付かずに、のこのことついてくるなんて馬鹿もいいところだ。
 とにかく、この場から逃げ出さなくてはいけない。このままじゃ、ほんとうに籠絡されてしまう。

「かおり、見損なったぞ。まさかこんな事までするなんてっ!」
「おねえさまが悪いんです。私の想いを知っていながら、あんなくだらない男に夢中になるおねえさまが!」
「帰るっ!」
「どこへ?」
「宿舎に決まってるだろ」
「私は帰りません」
「勝手にしろ」
「私一人では帰れません。宿舎に帰る道を知らないんですから。それにこんなところに一人でなんてとてもいられません」
「いっしょに帰ればいいじゃないか」
「ええ、すべて済めば……」

 少女の額を汗が滴(したた)り落ちた。
 
 

 広場は霧に包まれている。
 だがその霧はまるで自らが意志を持つが如く少しずつ移動していた。
 祠を取り巻くように円を描きながら、木立をなぞるようにゆっくりと…
 何かが目覚め始めていた。
 
 

 梓の背中にかおりの双丘が押しつけられる。

「ひっ」

 少女は体を突き抜ける電気にひくついた。

「おねえさまの事は誰よりも私が一番知っています」
「何をどうすれば悦ぶか…」

 後輩の左手が先輩の脇腹をやさしくなでた。

「ああっ」

 たまらず、梓は声を上げた。

「おかしいよ、かおり…こんなの間違ってるよ…」
「女の事は女の方がよくわかるんです。男からじゃ得られない快感をおねえさまに与えてあげます」

 かおりの右手が梓の豊満な胸を揉んだ。
 青年の無骨な愛撫とは比べものにならない繊細さ。だが、それが少女の快楽指数を急上昇させる。

「あんな男の事なんか忘れさせてあげます」
「ダ、ダメッ…いけな…い…かおり…」

 梓の声に喘ぎが加わり始めた。
 
 

 急速に広場に何者かの気配が広がっていく。
 殺気ではない。
 狂気でもない。
 強いて言えば、それは……
 その気配が広場に満たされると同時に霧が周囲の林毎全てを覆い隠す。
 まるで、これから起こる事を包み隠すように。
 …………
 ……
 …
 そして、環が閉じられた。
 
 
 
 

11.

 梓は身体を襲う寒気に我に返った。
 かおりの攻撃はなおも続いていたが、そのテクニックがもたらす痺れとは明らかに違うおぞけに思わず身震いする。

 からからからから

 音が響いた。
 聞き覚えのあるそれは、風車が回る音だ。
 梓は祠の方をゆっくりと向いた。
 真っ赤な風車がくるくると回っている。

「…!」

 その光景をぼんやりと見ていた梓の目がかっと開かれた。
 どうして風車が回るのだ?
 霧が立ちこめるこの広場には風など一切吹いてはいないのだ。

「…かおり」
「おねえさまぁ」
「かおりっ!」
「えぇ? なんですかぁ、おねえさまぁ」

 梓の胸にしなだれかかっているかおりは、鼻から抜けるような甘い声を出した。

「目を覚ませ、かおり! なんか様子がおかしい」
「え、ええっ?」

 かおりもようやく正気に戻ったようだ。
 先程とは明らかに違う周りの雰囲気に後輩の少女の体が固くなる。

「ここは変だ。とにかくここから出よう」
「は…はい」

 梓はすっと立つと、まだ固まって座っているかおりの手を取って無理矢理立ち上がらせた。
 そして後ろを振り向き、小径に向かって駆け出そうとしたが…

「そ…そんなバカな」

 そこにあったはずの小径がない。そこには鬱蒼と茂った木立があるだけだ。
 二人の少女は右へ左へと首を振り出口らしいものを見つけようとした。それが徒労に終わるとわかっていてもだ。
 二人がいる場所は小径から広場に入ってすぐのところだった。小径は二人の後ろにしかあるはずはない。

「お、おねえさま…」

 いまや脅えきったかおりは梓の腕にすがりつく事しか出来ない。
 見渡す限りの視界にはぐるりと木々が立ち並び、その向こうには白い霧が立ちこめていた。
 死とも呼べる程の静寂が支配するその広場で唯一、風車の回る音だけがこだまする。
 梓は震える後輩の体を抱きしめたまま立ち尽くすのみだった。

「……ソ…ボ………ア……ボ……ソボ……」

 それは前から聞こえてきた。
 後ろから聞こえてきた。

「…アソ………ア……ボ……ソボ」

 いや、右から聞こえる。
 そうではない、左からだ。

「 アソ…ア…ボ…アソ…ボ……アソボ…」

 大地から湧き上がってくるのだ。
 違う、空から降って来るのだ。

「アソ…アソボ…アソボ、アソボ」

 抱き合う二人を囲むように声はすべての方向から聞こえてきた。

「お、おねえさま!?」
「かおり!」

 声の聞こえる方向を確かめようと四方に視線を送る二人は見た。
 茂みの中から小石が飛び跳ねだしている。
 ぴょんぴょんと跳ねる石の数は、一つ、二つ、三つ、四つ、・・・
 いくつもの小石が生き物のように飛び跳ねる様は、魚の群がいっせいに水面からジャンプする様子を思い出させる。
 木々がざわめきだした。
 枝がしなりこすれた葉がかさかさと鳴る。
 ちぎれ飛んだ木の葉が霧の漂う広場を飛んだ。それはそよとも風が吹かないこの広場を鳥のように空を舞った。

「アソボ、アソボ、アソボウ、アソボウヨ」

 明確な意味を持ち始めたその言葉はまるで小さい子供のおねだりのように聞こえた。
 いや、聞こえるのではなく直に感じるその言葉を少女達はどう理解すればいいのだろう。

「おねえさま、怖い」
「だ、だいじょうぶだ。かおり」

 かおりを抱く梓の腕に力がこもる。

「…アソボウヨ…イシケリシテアソボウヨ…カクレンボシテアソボウヨ…カゴメカゴメシテアソボウヨ……」

 広場に満ち満ちている濃密な気配を梓は感じ取った。

「ヒトリジャアソベナイヨ…ヒトリジャイヤダヨ…ヒトリジャサビシイヨ…」

 梓が知っているこの気は…

「ダカラ……」

 紛れもない……

「イッショニ、アソボウヨ」

 鬼の気だった。

「いやあーっ!」

 あまりの恐怖にかおりが絶叫した。
 ただ飛び跳ねていただけの小石が弾かれたみたいに宙を飛んだ。舞い散る木の葉が竜巻みたいに渦を巻いている。
 梓は泣き叫ぶかおりを強く抱きしめながら、気の根源を見つけだそうと目を凝らす。
 濃密な気配でありながら漠然としか存在しない鬼の気に梓は当惑していた。それは梓が今まで出会った鬼達とは明らかに印象が違っていたからだ。
 少女が出会った鬼とは即ち、父であり、叔父であり、殺人犯であり、そして愛する青年であった。
 その誰もが放つ鬼気は殺気と狂気に満ち満ちていた。
 だがこの鬼気にはそれがない。鬼の放つ気でありながら禍々しさがまったく感じられなかったのだ。
 なんとかなるかもしれない、と梓は思った
 けれどもかおりにとっては、この状況自体がパニックとなるに十分すぎるものであった。

「落ち着け、かおり。落ち着くんだ!」

 ただ喚くしかないかおりをなだめようと梓は声を張り上げる。

「くるな! あっちいけっ! このバケモノっ!!」

 梓の胸に顔を埋めながらかおりが叫んだその刹那、

 ゴッ……

 気は一変した。
 
 

「ナ…トイ…ッタ」

 女の声がこだました。

「ナント…イッタ?」

 先程とは比較にならない鬼気が少女達を襲った。

「あ…あああ……あ」

 かおりの様子が変わる。いましがたまで泣き喚いていたのがいきなり静かになった。

「…バケモノトイッタ」

 鬼気は尚もその強さを増してゆく。

「い…い……いや…いやあ…いやあ」

 かおりの全身が震え出した。

「ユルサナイ…ユルサナイ…」

 魂すらも凍らせるような冷気が肌を刺す。

「かおり! どうした、かおりっ!」

 ガタガタと震える少女の肩を掴んで梓は叫んだ。

「い…い…いやああああああああああああああああああ」
「助けて! お願いっ…もう、酷い事しないでぇ………なんでもします……しますから…くさり…を…解い…て……」

 大地に伏して頭を抱え込み少女は嗚咽を漏らす。
 かおりをあの悪夢が再び襲ったのだ。
 少女を再起不能寸前まで追い込んだあの夏の事件。立ち直ったかに見えた彼女の心には、あまりに深い痕が残っていた。
 あの時浴びた鬼の気と同じ鬼気を受けた事によって、かおりは再び精神混乱に陥ってしまう。

「やめろーっ!」

 梓は吠えた。祠に向かって。
 いまや気の発信源は梓にもわかった。
 恐るべき鬼気を噴き出しているのはあの祠、正しくはご神体の石からだ。

「かおりが何をしたって言うんだ。やめろ! やめろっ! いますぐやめるんだーっ!!」

 かおりの頭を抱え込みながら、梓は猛然と石を睨んだ。

「ユルサナイ……ユルサナイ………バケモノト…ヨンダコトヲ…」

 小石と木の葉が舞い飛ぶ中でご神体は不気味に冷気を吐き出し続ける。
 いまや広場を埋め尽くす鬼気は梓ですら息苦しさを覚えるほどとなった。
 かおりはついに言葉をしゃべる事すらかなわなくなっている。

「やめろ…やめてくれよ……かおりが…しんじゃ…う……」

 かおりの体を少しでも鬼気から庇おうと彼女の上に覆い被さりながら梓は懇願した。もうこれ以上はかおりの精神が保たない。
 だが、襲い来る鬼気に終わりはなかった。
 ついにかおりは意識を失ってしまう。

「かおりっ! かおりーっ!!」

 だが、横たわる少女は、身体が時々ぴくぴくと痙攣するにすぎない。

「……よくも…よくも……よくもっ!」

 梓はゆらりと立ち上がった。
 少女は全身に殺気をはらんでご神体を見据えた。

「……………つぶす……」

 ゆっくりと梓は歩を進めた。
 ごおごおと押し寄せる鬼気は凄絶さを極める。風も吹かないのに梓の髪が気の対流になびいた。
 ご神体へと近づく梓を小石が、木の葉が襲って来る。
 弾丸のように飛んでくる小石をある物は避け、ある物ははたき落とし、そしてある物は当たるにまかせながら少女は一歩一歩と祠に近づく。
 木の葉が梓の頬を切り裂いた。しかし梓は流れる血を拭いもしない。
 ご神体の目の前まで来た梓は右の拳を高く振り上げた。

「…ぶっ潰してやるっ!」

 拳は一気に振り下ろされた。
 裂帛の気合いをこめた一撃はご神体を打ち砕くはずだった。だが…
 梓の拳はご神体から10cmまでせまったところでピタリとその動きを止めてしまう。

「!?」

 少女の黒い瞳を驚愕の色が染めた。
 そう、見えない何かによって梓の拳は食い止められてしまったのだ。
 梓の身体を流れる柏木の血をもってしても突破出来ない力の壁。だがそれは鬼の力でなら打ち破れたかもしれない。
 では、何故その力を使わなかったのか?
 使わなかったのではない、使えなかったのだ。
 この場に及んでも梓の鬼は目覚めようとはしなかった。
 昔なら感情がたかぶった時などは、少なからず鬼が姿を現していた梓だった。姉からくどいほど諭され鬼の力に気を付けろと言われていても、激昂したら鬼の力が漏れだしてしまうはずなのに、この危地ですら鬼はその姿を隠したままだ。
 あの日のトラウマがいまだに尾を引いているのは疑いようのない事だった。
 だがそれでも、拳はほんの少しずつではあるがご神体へ向かって近づいていた。
 それがどれほど驚くべきものであるといえようか。鬼の力を使わずして、梓の力はご神体を取り巻くプレッシャーを圧倒していた。
 しかし、この状況下ですら梓はいま自分が例えようのない危機に瀕していると感じとっていた。生存本能が警告を発し続けている。
 拳を受け止めた未知なる力は、ただ見えない壁となって立ちはだかっているのではない。もしも力を緩めたら最後、そのプレッシャーは少女の魂さえも押し潰してしまうに違いない。
 圧(お)すしかない。力で圧倒し、ねじ伏せてしまうしかこの闘いに勝つ方法はない。
 まさにこれは命を賭けた死闘と呼ぶに相応しいものだった。
 呼吸をする事も忘れ梓は渾身の力を拳に集中させる。人と鬼との境界の力が一点に集約されつつあった。
 拳はいまや、ご神体にあと5cmのところにまで接近していた。

 ふいに梓の両頬に何かが触れた。
 氷よりも冷たいそれは人の手のひら。
 少女の後ろから伸ばされたそれは、彼女の頬から耳元を撫でてやがて首筋へと降りてゆく。
 梓はその冷たさに身悶えながら、それでも拳の力を緩めようとはしない。
 やがて首の付け根にまで到達した手のひらの指は、ゆっくりと少女の首を両方から包み込み……一気に締め上げた。

「ぐはっ…」

 それは万力で締め付けられるが如き強さだった。

「……か…はっ……」

 誰が梓の首を絞めるのだろう。少女は振り向きそれを確認する事は出来ない。
 己が拳は目の前のご神体めがけて繰り出され、その力を抜くのは死ぬ事に等しい。後ろを振り返る余裕などありはしなかった。
 だが梓には、誰が後ろにいるのかわかっていた。何故ならこの場所には梓の他にはもう一人しかいないからだ。
  梓の首を絞めているのは……かおりだった。
 後輩の少女は我が手で愛しき人を絞め殺そうとしていたのだ。たとえそれが本人の意志でないにしてもだ。
 それが証拠に、かおりの光ない瞳からは涙が止めどなく流れ、だらしなく開いた口から聞こえるのは

「お…ね…さ…ま……たす…け………て」

 哀願の声だ。
 広場の主に身体を乗っ取られたかおりは、元が非力とは思えないような恐るべき力でぐいぐいと梓の首を締め付ける。
 脳内に流れ込む血液が遮断され梓の意識は朦朧とし始めた。
 瞼がゆっくりと閉じられてゆく。視界は黒くなるはずなのに見えるのは目映い白。
 拳は止まり、そして押し戻され始めた。
 この状況になってすら鬼は目覚めてはくれない。

『耕一…こういち…こういち……たすけて!こういちーっ!』

 かすれてゆく少女の魂が最愛の男性(ひと)の名を呼んだ。

『梓っ! 力を使え!』

 唐突に聞こえてきたのは青年の声。

『鬼の力を開放させるんだ』
『…だめだよ、こういち…ちからがでないんだ』
『自分を信じろっ! 自分の力を信じるんだ』
『しんじれないよ…じぶんなんてしんじれないよ』
『大丈夫だ。お前には俺がいる。いつだって俺がおまえを守ってやるから』
『俺を信じろ。お前を愛する俺を信じろっ!』

 どっと流れ込んでる耕一の心。
 どれだけ梓を愛しているか。どれだけ梓を大切に想っているか。
 その想いは干涸らびてひびだらけだった少女の心にとくとくと浸みこんでゆく。

『こう…いち』
『俺を愛するお前自身の心を信じるんだっ!』
『こういちーーーーーーーっ!』

 梓の両目が開かれた。
 爛々と輝くその瞳は深紅。
 今、現人鬼(あらびとおに)の真なる力が覚醒した。
 
 
 
 

12.

「きゃあ!」

 凄まじいプレッシャーがかおりを後方へ吹き飛ばす。覚醒した梓の鬼気は質量すらも伴って全周囲に広がっていった。
 草むらに倒れ込んだ少女は二度と立ち上がろうとはしない。
 冷え切っていた周りの温度が上昇した。梓の放つ気は彼女の熱い想いと同じように熱波となって大気を震わせるのだ。
 脳細胞に、止められていた血液がどっと送り込まれた。
 朦朧としていた意識が一瞬で回復する。
 梓の赤い瞳は見た。
 目の前にあるご神体の石にだぶるように浮かぶ女の姿を。
 昔の農民が着るような衣装を纏ったその女は、振り下ろされた梓の拳を両手で真正面から受け止めていた。
 憤怒の形相を浮かべる女に向かって少女はありったけの力をその拳に注ぎ込む。
 再び動き始めた拳は徐々にその移動速度を速めていった。
 ご神体から噴き出す冷気と梓が放射する熱気がぶつかり合い、濃密な霧を発生させた。
 それは拳をその中心として大きく渦を巻いていく。
 拳が女の胸に触れた。それは取りも直さずご神体に触れた事を意味した。
 梓は力を緩めない。いや、それ以上に気を込める。
 だがご神体はピクリとも動かないではないか。
 大の大人が蹴り飛ばしただけでごろんと横になりそうな石なのに、ご神体は梓の渾身の力で押しても動こうとはしないのだ。
 だが、それでも拳は突き動く。
 そう、ご神体にめり込みながら……
 地に根でも生えた如く動かない石に強大な力で押しつけられた梓の拳は、その行き所を触れた石の内部に求めた。
 1ミリ1ミリと、まるで粘土に指を押し込んでゆくみたいに梓の拳はご神体に食い込んでいく。
 女の顔が苦悶に歪む。それもそうだろう、石にめり込む拳は女の胸にめり込んでいるのだから。
 ご神体の表面に無数のひびが入り始めた。ぴしぴしという音すらも聞こえる。
 やがて、拳が半分隠れるほどめり込んだ時、女が声のない叫びを上げた。
 均衡が崩れた瞬間…

 ドゴーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン

 大気が、大地が鳴動した。
 
 

 梓は自分が起こした爆風に撥ね飛ばされた。2mも飛んだ少女は、そのまま仰向けに地上にひっくり返ってしまう。

「はあはあはあはあはあ……」

 生も根も尽き果てた。もう、力のひとかけらも出ない。
 目をつぶった少女はだらしなく手足を伸ばして、その身を草の上に投げ出していた。
 禍々しい気は消滅した。
 周りに僅かの鬼気すらも残ってはいないと感じた少女は、全身に枯渇した酸素が行き渡るまでその場を動かなかった。
 やがてそっと目を開ける。
 見えるのは満天の星空と、天頂に輝く満月だった。
 あれだけ厚く覆っていた霧は嘘のように消えて無くなり、5月の澄んだ夜空だけが広がっていた。
 ゆっくりと身体を起こした梓は側に倒れている後輩の少女に四つ這いで近寄っていく。
 少女の胸は規則正しく上下していた。
 そして、その寝顔には苦悶の影は少しも見えない。

「かおり……」

 そっと、呼びかけた。

「…んっ、おね…さ…」

 かおりは小さく寝言を返した。

「…よかった」

 かおりは無事だ。
 梓はほっと胸をなで下ろした。少なくとも外傷や精神障害はなさそうだ。
 安堵した梓はよろけながらゆっくりと立ち上がった。
 そして周りを見渡した少女は広場の変わり果てた姿に愕然とする。
 生い茂っていた雑草は同心円状にきれいになぎ倒されていた。
 ぐるりと囲む木々の葉はその多くが落ちてしまっている。そして…
 祠は存在しなかった。
 極限まで集約された梓の鬼気は拮抗する敵対力を失った瞬間、物理的なエネルギーとなって爆散したのだ。
 それはご神体とその祠を巻き込む、梓の拳を中心とした直径1m半の空間を高密度のエネルギーで満たし、その周りに爆弾並の爆風を起こさせた。
 それが証拠に、祠のあった場所には直径1m、深さ30cm近いクレーターがぽっかりと口を開けている。
 梓は後ろを振り向いた。そこにはさっきまで失われていた広場からの出口があった。
 夜風が少女の頬を撫でる。緑の林の匂いの混じった、優しい風だった。
 もう一度、祠のあった場所を振り向いた梓は、よたよたと新しく出来たクレーターの方へと近づいていく。
 その端に立った梓はクレーターの底にうっすらと光を放つものを見つけた。身を屈めそれを拾い、付いていた土を払い落とす。
 梓はそれに見覚えがあった。
 家で見た事があるそれは、以前は叔父が持っており今は初音がその所有者になっている。
 大きさこそ小さいが、紛う方無きそれは鬼の角だった。
 不意にその角が大きく光を放った。
 暖かな光はどんどんと光量を増していく。
 梓は手のひらにのせたそれを恐ろしいとは感じなかった。
 やがて、光は梓を包んだ。
 
 

 それは哀しい記憶だった。
 昔、一人の女が隆山からこの地へと、戦乱に追われ流れてきた。
 のたれ死に寸前だった女は寒村に住む一人の男に拾われた。
 命を救われた女は恩返しにその家で働き始める。
 女の働きぶりに感じ入った男は女を嫁にしたいと申し出た。
 周りの者はそれに反対した。女も申し出を断った。
 だが、男は女を生涯守ってゆくと誓い、そして女も男の想いを受け入れた。
 やがて二人に男の子が産まれた。
 その子が三つになった時、事件が起こった。
 夜な夜な村の家畜を何者かが襲うようになったのだ。
 そしてついには村人さえも襲われた。
 村の者は女の子供を犯人と決めつけた。
 鬼の棲む隆山から来た女の子供が襲ったのだと。
 男は違うと言い張った。村八分もいとわなかった。男にとっては女も子供も家族だったからだ。
 だが、女はそうは思わなかった。女は鬼の血を引いていたから…
 悲劇は起きた。
 ある日、女は子供を連れ出すとその首を絞めて殺してしまった。
 男は女を責めず、自分の非力さを泣いた。
 しかし、犯人は別にいた。この地にはいないはずのヒグマが犯人だったのだ。
 嘆き悲しんだ女は、自分が殺した我が子の眠る墓石の前で首を掻き切って自害した。
 村人達は罪を悔い、その母子を弔うために祠を建てて祀った。
 それがこの祠だった。

 幼子の最後の記憶が梓の心に流れ込んできた。
 日の暮れる広場、手に赤い風車を持って無邪気に遊ぶ幼子。
 その子の頬を撫でた手で母は首を締めた。
 断末魔の中で、子は鬼へと変身する。
 体内に流れる鬼の力で女は鬼と化した我が子の首を絞め続けた。
 だが、子鬼は力尽きる直前、母の頬を流れる涙をその醜い手でふき取った。子は体内に眠る鬼を調伏していたのだ。
 冷たくなる我が子を抱いて何時までも女は泣いた。
 呪われた鬼の血に翻弄された哀しい女の末路だった。

 女は母として腹を痛めて生んだ我が子を信じ切れなかった。
 女は妻として命を賭けて家族を守ると言った夫の言葉を信じられなかった。
 我が子の骸が眠る広場で女は罪を犯したその手で自分の首を切った。
 墓石を真っ赤に染め上げながら、死んでいった我が子をいつまでも守ると誓って…
 生まれた我が子が鬼子であっても、守護する母は神となる。これぞまさしく鬼子母神。
 もう一つの鬼子母神伝説のこれがすべてだった。
 
 

 光の止んだ鬼の角を少女は見つめた。
 その角は子鬼の角。
 梓はぎゅっと手のひらを握りしめた。
 子鬼の想いが伝わってくる。
 子鬼は寂しかっただけなのだ。独りぼっちでこの場所に何百年も居続けて…。
 母の想いはあまりにも強く、我が子の魂をこの地に縛り付けてしまい…犯した罪の償い故に、母は自らが地縛させた我が子の魂を必死に守ろうとした。
 母は自らの想いが我が子を苦しめている事に気付いていたのだろうか。幼子は安らかな浄化を望んでいたのだ。
 この広場に梓が強く惹かれたのは彼女の中にある鬼の血が子鬼の魂に惹きつけられたからだ。
 子鬼は魂の煉獄から開放してもらう救いの手を梓に求めたかったのかもしれない。
 梓は握った拳に力を入れた。
 鬼の角は拳の中で小さく砕け、砂となっていく。

「お母さん…あんたを憎む事なんてあたしには出来ないよ」
「だって、あんたはあたしと同じなんだ」
「愛する人を信じる事が出来ず、大切な人を失ってしまう」
「失ってから守ったってダメなんだよ。ますます不幸になっていくだけじゃないか」
「きっと、あんたの子供はあんたを恨んでなんかいないよ」
「信じようよ。あんたの愛したあんたの子供を」

 梓はそっと手のひらを開いた。
 砂となった鬼の角が夜風に乗って空へと飛んでいく。
 月光を受けてきらきらと輝く砂の粒は、子鬼の放つ魂の煌めき、命の炎だった。
 いまようやく子鬼の魂は呪縛から解き放たれ浄化する事が出来たのだ。
 幻想的な光を放って舞い散る砂の粒を梓は陶然と見上げる。

「でも、あたしはあんたみたいにはならないよ」
「あいつを信じるんだ。もう、迷わないよ」

 あの時、梓の耳に聞こえた耕一の声。
 一生守り続けていくと言った青年の言葉に嘘はなかった。
 深く、強く愛されている。
 確信が自信を植え付ける。

 あたしは耕一が好き。世界中の誰よりも耕一が大好き。
 それでいいじゃない。
 それが一番大切なんだから…

 少女の瞳は高く高く飛んでゆく光の粒をどこまでも追っていった。
 
 

「ありがとう、楓ちゃん」

 繋いだ手を離しながら青年はすぐ横に立つ少女に言った。
 おかっぱ頭の少女は、言葉でなくその頭を小さくふるふると振るだけで答えた。
 梓を救ったのは楓だった。
 夜の団らんをみんなと過ごしていた楓は、梓が危地にさらされた事を悟るや耕一の手を取り客間の縁側へと走った。
 遠く離れていても血を分けた肉親の魂の叫びは楓なら感じ取る事が出来る。
 縁側で満月を見上げた少女は、耕一に姉を救ってくれと頼むや意識の触手を梓へと伸ばした。
 そして梓の心を捕まえた直後、手を繋ぐ耕一の心にリンクさせたのだ。
 耕一は梓が置かれた状況を知ると、自分の心の全てをさらけ出し梓に呼びかけた。
 二人の心が一つとなった時、闘いの行方は決まった。

「よかった…これで、もう梓は大丈夫だよ」

 その言葉にどれだけの想いが秘められているだろう。
 梓の心と耕一の心、二人の心に触れた楓は彼らの絆の強さを知る。そこにはもう自分が入り込む隙間などなかった。

「さあ、部屋に戻ろう。体が冷えるよ」

 楓はかぶりを振った。

「もう少し、ここにいます」
「…そうか」

 青年はそれ以上の言葉をかけずにその場を去った。耕一も楓の想いを知っていたからだ。そして、その想いに自分が答えてやれない事も…。
 少女は天頂に浮かぶ月を見上げる。
 その頬を一筋の雫が伝わって落ちた。
 それは500年も昔に時を越えて再会を約束した武士(もののふ)との…
 近い将来に義兄(あに)と呼ばれる存在になる青年との…
 決別の涙だった。
 
 

 暫しの間広場の中心に佇んでいた梓は、やがてきびすを返すとかおりの側へ足早に歩いてきた。

「よいしょ」

 梓はかおりの体を優しく抱き上げる。

「あん…おねえさまったらぁ……」

 どんな夢を見ているのだろうか。腕の中でかおりは心地よさそうに身をよじった。

「さあ、帰ろうか」

 かおりに聞かせるように梓は呟いた。
 広場の出口まで来た少女は足下に朽ちた風車が落ちているのを見つけた。あの爆発に飲み込まれなかったようだ。
 そっとかおりを草むらに寝かせると、梓はその風車を拾いすぐ横に突き立てた。
 何故だかはわからない。でもそうするのがいいと思えたのだ。
 そして、もう一度かおりを抱き上げた梓は慎重に歩き始めた。

 からからから

 風車の音が聞こえる。
 立ち止まった梓はそっと後ろを振り返った。
 広場の真ん中に立つ女の姿。その腕には幼子が抱かれている。
 幼子は手を振った。その手の中で赤い風車がくるくると回っていた。
 女は梓の顔をじっと見つめている。
 梓は首を横に振った。そして、にかっと笑顔を浮かべた。
 女の瞳にはもう迷いの色はなかった。
 梓は元の方に向き戻ると木立の中へと足を踏み入れていった。
 梓が消えていった出口に向かって、残された女は深々と頭を下げ、その姿を薄れさせていった。
 全てが消えた後、広場に静寂が訪れる。ただ、からからと回る風車の音が響くだけだった。
 
 
 
 

13.

 規則正しい揺れと車窓から吹き込んでくる風が心地よい。
 あちらにもこちらにも疲れて居眠りをする女子高生の姿が見られた。
 梓達はいま帰りの電車の中にいる。
 梓は窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら昨夜からの事を思い出していた。
 真夜中に宿舎に帰ってきた梓は、2階の自分の部屋にジャンプして戻るとかおりを自分のベッドに寝かせ、朝目を覚ますまで側に付き添った。
 かおりが目覚めた時、どのようなショック症状が出るとも限らなかったからだ。
 だが、目覚めたかおりは昨夜の事を覚えてはいなかった。正確には広場に着いて異変が起こってから後の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。
 梓の鬼気が邪気を吹き払ったのか、それとも鬼の母子の詫びのつもりなのかはわからなかったが、梓はこれ幸いとかおりを言いくるめる事にした。
 つまり、せまってきたかおりをど突いて気絶させてから背負って帰ってきた。と…
 梓にとっては最大の問題事であるかおりが無事であった事は不幸中の幸いであった。もしもこの後輩の身に何かあったら、彼女にも彼女の両親にも申し訳が立たないところだったからだ。
 心配がなくなれば、今度は猛然と腹が立つ。朝食さえも抜きにして散々かおりを叱り続けた梓は、それでも収まらない怒りの矛先を二人の共犯者に向けた。
 合宿最終日の今日、梓は打ち上げの寸前まで由紀と美和子にコーチとして張り付き徹底的に絞り上げたのだ。たぶん二人にとっては1ヶ月のランチ代でも割が合わない取引となった事だろう。
 そして午後2時に三三七拍子で合宿は無事終了。こうしてみんな揃って帰りの電車の中という訳だ。
 
 

 梓は進行方向に背中を向けて座っていた。
 あの祠のあった林は遙か後方となり、もうその場所さえもわからない。
 あの母子はどうなっただろう。
 頬杖をつきながら梓は考える。
 命まで取られかけたのに梓は不思議と彼らを憎む事が出来なかった。むしろ感謝の念さえ感じる。
 もしも、彼らに出会わなかったら自分はいつまでも答えのでない無限の迷路をさまよい続けていただろう。
 愛するという事と信じるという事は同義語ではない。信じる事から愛は始まるのだ。
 踏み出す最初の一歩を自分は間違っていた。
 梓はそう思う。
 その事をあの母子は身をもって教えてくれた。
 そして、あの時届いた耕一の声…

 やっぱりあいつとあたしは見えない赤い糸で結ばれているんだ。
 どんな時でも、あいつは必ず自分を守ってくれるに違いない。

 少女の顔は自然とにやけていた。

「梓先輩っ! どうしたんですかぁ? 思い出し笑いなんかしてぇー」
「ひえっ!」

 隣の席にいつの間にかいる少女。

「な、ななんでもないよっ」
「おかしいんだあ? 梓先輩ったらぁ」

 今朝、こっぴどく怒られてから梓に近寄る事も出来なかったかおりだ。

「ふふふ…」
「はははっ…」

 笑い声が二人の間に漏れた。

 やっぱり、かおりは憎めないなあ…。どうしてこの娘にあたしは弱いんだろう。

 屈託のない後輩の笑顔を見て梓はそう思う。

「梓先輩ぃ。こっちの席に座りましょうよ。風があたって気持ちいいですからぁ」
「んっ、そうだな」

 反対の席に二人は移動した。梓は窓側、その横で肩に頭を乗っけて寄り添うようにかおりが座る。
  全開にした窓から入ってくる風が二人を包んだ。緑の匂いをいっぱいに含んだ風だった。
 たちまちの内にかおりからは寝息が聞こえ始めた。
 その様子を確かめた梓は電車の進行方向を見つめる。田植えが始まる前の水を張った田んぼが向こうまで見えた。その先には新緑に萌える山々が連なっている。
 そして、あの山の向こうに我が家がある。
 あそこには自分を待ってくれる人達がいる。
 大切な家族が…。
 愛する男性(ひと)が…。
 少女は目をつむる。

 夕食は何を作ろうか?
 あいつの好きな卯の花のおひたしに、肉じゃがは外せないな。鶏の唐揚げに、シーフードサラダも付けよう。
 昨日は初音達は何を作ったんだろう。同じもんじゃまずいだろうな。
 でも、あたしの腕にはまだ5年は及ばないけどな。
 
 

 からからから…

 あの音が聞こえたような気がした。
 梓はそっと瞼を開ける。
 遙か遠く、空の彼方から聞こえた音は、5月の暖かい風に乗ってやさしく楽しく回る風車の音。
 少女は何もなかったかのように再び瞼を閉じた。
 
 

 柏木梓、鬼の血を引く心優しき少女。
 彼女が浮かべた笑みは、この青空のようにどこまでも澄んだ幸せな微笑みだった。
 
 




-了-


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