3章
夜も明けて庭から雀の声が聞こえ始めた頃、梓が家に帰ってきた。
客間の襖を静かに開けて入る梓を見た楓は内心ほっと胸をなで下ろす。
梓が外に出てから今まで、鬼のプレッシャーはもちろん正体不明の強烈なプレッシャーを再び感じることはなかった。とはいえ、鬼が近くにいないという保証はなにもない。梓までが襲われる可能性は否定できなかった。と、同時に梓不在のこの家を鬼が襲ってくることも考えられた。もしそうなったら・・・
鬼の力を解放してすら非力である事を自覚していた楓は耕一の安否を気遣いながらも、ひたすら神経を集中し付近の気配を探り続けていた。もっとも、鬼が現れたとして楓にいったい何が出来たろうか・・・
楓にとっても長い一夜だったのだ。
とにもかくにも、梓は無事に帰ってきた。だが、疲れ切った顔をして楓の横に座り込んだ彼女を見て、楓は梓の苦労が報われなかった事を悟った。
「耕一さんは・・・?」
分かり切った答えが返ってくると知りながらも、それでも聞かずにはいられない。
楓のこの問いに、梓は力無く首を横に振ると
「見つけられなかった・・・この近く、くまなく捜したんだけど・・・」
「・・・そう」
楓もゆっくりとうなだれる。
楓も耕一を捜し続けていたのだ。耕一の気配を幾度も幾度も。もしも気配の欠片でも見つけることが出来ればすべてを放り出して耕一の元に駆けつけていただろう。だが、鬼化してもいない耕一を気配だけで探し当てるなど無理な話だ。結局、何の手がかりも得られないまま朝を迎えてしまった。そしてようやく家に帰ってきた梓からの返事は・・・
信じたくない、考えたくない答えが楓の心の中に浮かんでいた。
耕一さんは・・・もういない
深夜の千鶴と耕一の密会、そして外出。たぶん、そこで二人は鬼に出くわしたのだろう。千鶴は全力で闘ったに違いない。しかし、千鶴のこの有様を見れば結果はわかる。千鶴は闘いで敗れた。千鶴が勝てない相手に耕一がかなうはずがない。そう、千鶴は耕一を守りきれなかったのだ。
そんなことないっ!
耕一さんは生きている、必ず・・・
理性が出した答えを感情が否定する。楓は目をつむり最悪の状況を頭の中から追い払おうとした。
姉さんが目覚めれば・・・みんなわかるわ
千鶴がすべてを知っているのだから・・・
「なあ、楓。千鶴姉はどう・・・?」
うつむいたままの楓に気を使うかのように梓がそっと声を掛けたのが引き金で、楓は我に返った。
「えっ、・・・ええ、呼吸も落ち着いているし熱も下がったみたい」
「そうか・・・すごいもんだな。鬼の血って」
ほっとした梓は千鶴の顔をしばらく見ながらやがて、ぼそっと小さくつぶやいた。誰が見ても重傷にしか見えなかった千鶴が一晩だけでこうも回復するとは、梓にも今ひとつ信じられなかったのだ。
「・・・おぞましい力よ」
周りの静けさ故に梓に届いた楓の声
気まずい沈黙がしばし続いた。そこに
「うっ、うーん。おはよう、おねえちゃん・・・あ、ああっ!ご、ごめんなさい。私、寝ちゃった」
かわいらしい声が響き、緊張が少し和らぐ。
今しがたまでタオルケットにくるまり横になっていた初音が目覚めたのだ。
「おはよう、初音」
「おはよう」
二人の姉は末の妹に優しく声を掛ける。
「・・・ごめんなさい。私、いつの間にか眠っちゃってて・・・」
「いいのよ。それより風邪を引かなかったかしら?明け方は結構涼しかったから」
「うん、だいじょうぶ・・・あの・・千鶴おねえちゃんは・・・?」
「千鶴姉さんはだいじょうぶよ。それよりもうすぐ6時になるわ。顔を洗っていらっしゃい」
心配そうな顔で千鶴の顔をのぞき込む初音にむかって、楓がしっかりとした口調で答えた。初音の不安を取り除こうとの配慮が読みとれる。
「う、うん!」
とたとたと部屋を出ていく初音を見送りながら、梓はこういう言葉は自分が掛けなければならなかったのにという思いを抱いた。
じっとしていると自分のいたら無さばかり気が付く。気恥ずかしくなった梓は
「あたしも朝メシの支度でもするか」
と、立ち上がった。
「梓姉さん・・・?」
「・・・その・・・なにかしてないと不安なんだ」
そう言い残し初音の後を追って客間をから出ていく。
客間の中に再び静けさが戻る。
楓が重い腰を上げたのはそれから30分も経ってからだった。
***
「はい、・・・そうです。・・・いえ、だいじょうぶだと思います。・・・今はぐっすり眠っています。はい、2・3日で出られると思います。 ・・・はい、ありがとうございます。それでは失礼します。」
ゆっくりと受話器を置く。
「・・・ふう」
楓はひとつため息をついた。
6時半になると楓は鶴来屋と足立社長、そしてハイヤーの運転者に電話を入れ、千鶴が風邪をこじらせているとの理由で休む旨を伝えた。梓はこういうことが苦手らしく、頭をさげて楓にやってもらったのだ。その梓は台所で朝食を作っている。まな板をたたく音がとぎれとぎれに聞こえてくる。
「用意できたぞー。朝御飯にしよう」
メリハリの効いた声が家中に響いた。楓と初音がいつもの朝と同じように同じ場所に座るとすぐ、梓がみそ汁の入った鍋を運んできた。
「ごめんな。今日はみそ汁と漬け物だけなんだ」
二人とも首を横にふる。
梓の声はいつもと変わらない。だが、楓は梓が空元気を出している事がわかっていた。梓は思っていることがすぐ顔に出る。たぶん初音も気が付いているはずだ。
その初音は不安そうな顔を隠しもしていない。梓から耕一がいまだに帰ってこない事を告げられていたからだ。無理からぬ事である。
楓の表情からは彼女が何を考えているのかは読みとれない。ここ数日の彼女の態度と変わりがなかった。
そして朝食が始まった。
だが、食事をする居間は昨日までは賑やかだったのがまるで嘘のように静まり返っている。
食卓を囲んだ三人からは時折箸と茶碗がふれあう音しか聞こえてこない。楓がしゃべらないのはいつもの事として、梓は心ここにあらずといった顔で機械的に箸を動かしているだけだし、いつもしゃべりながらご飯を食べてはいけないと千鶴に叱られる初音ですら一言も口を開こうとはしなかった。ほんとうなら耕一を中心としていつも以上に賑やかなはずだったのだ。しかしその耕一は行方不明で、千鶴は重傷でいまだに目覚めない。みんな「なぜ、どうして」と言う言葉を口に出したかったがその答えが返ってこないこともわかっていた。重苦しさだけがここにある。
最悪の雰囲気
そんな時間にピリオドを打ったのは以外にも楓だった。
「二人とも学校はどうするの」
一番に食事を終えお茶をすすりながら、楓は二人に問いかける。
昨日の今日だ。危険がないとはいえない。だが昼間人気のある間は鬼も襲ってはこないだろう。ならばここに皆がいる必要はない。むしろいない方がいい。楓はそう考えていた。
しばらく間があった後
「あたしは学校行くよ。・・・かおりの事もあるし」
「わかった。初音も学校に行きなさい」
「えっ、楓おねえちゃんはどうするの?」
「私は千鶴姉さんについてる」
「だめだよ、楓おねえちゃん。昨日も全然寝てないんでしょ? 私も学校休む。千鶴おねえちゃんは私が看るから、楓おねえちゃんお部屋で休んで」
「私ならだいじょうぶよ。それに初音、今日は大切な試験があるんでしょ。千鶴姉さんは私にまかせてあなたは試験、頑張りなさい」
「うん、・・・でも」
「それに千鶴姉さん、目が覚めて二人も学校休んでるなんて知ったら無理してでも起き出すわ。そういう人だから・・・」
「わかった。そうする。なるたけ早く帰って来るから楓おねえちゃんも無理しないでね」
「・・・うん」
コクンと小さく楓は頷いた。
楓のやつ、千鶴姉に似てきたな。話し方が・・・
梓は楓を見つめそう思いながらも、どうにも違和感が拭えない。口調もいつもと変わらないし、言ってる事も正しい。しかし・・・
最近の楓の様子は梓から見てもおかしかった。耕一が来ることがわかった時の楓はほんとうにうれしそうな顔をしていた。それが耕一が来る日が近づくにつれ陰りが見え始め、来てからは耕一を避けるような態度を取り始めた。久しぶりに会う従兄に恥ずかしさを感じているのかと思っていたところへきての昨夜の事件。耕一の事といい、千鶴への対処といいあまりに冷静すぎる、いやむしろ
冷たいんじゃないか?
初めて見る楓の態度に梓は戸惑いを隠せなかった。
「それじゃ、いってきます」
「戸締まり、きちんとな。千鶴姉、たのむよ」
「ええ、いってらっしゃい」
二人並んで門を出ていく。楓はそれを見送っていた。
二人の姿が見えなくなってもしばらく門を見つめ続ける。
この門から耕一は出ていったはずだ。帰ってくるのもこの門からなのだ。
そっと目をつむる。耕一の声が聞こえる、耕一の姿が見える、そんな気がした。
「ただいまー。ごめん、ごめん。夜中に散歩に出たのはいいけど、道に迷って野宿だよ。まいったな」
ひょっこり耕一が姿を現す。いたずらを見つかった子供のようなはにかむ笑顔で・・・
「・・・耕一さん、おかえりなさい」
笑顔で迎える自分がいる。
そんな姿が見えた。
ただの幻だ。耕一さんは・・・
楓は小さくかぶりを振ると家の中に入っていった。その足でまっすぐ客間に向かう。千鶴の寝ている布団の横に昨夜と同じように座ると再び千鶴の顔を見つめた。
「姉さん、早く目を覚まして・・・耕一さんに何があったの」
楓の口から漏れた言葉は千鶴の耳に届いたのだろうか・・・
***
千鶴が目を覚ましたのは昼も過ぎた頃だった。
「う、ううっ」
千鶴の顔が歪み、呻きがもれる。
楓は身を乗り出し、千鶴の顔をのぞき込んだ。
「姉さん、・・・千鶴姉さん」
「う、・・・楓?」
「姉さん、だいじょうぶ?気分は悪くない?」
「こ、・・・ここは?」
「家よ」
「なぜ、ここにい・・・うっ」
体を起こそうとした千鶴は激痛に顔をゆがめた。
「無理しちゃだめ。大けがしてるんだから」
「けが・・・?」
意識がまだはっきりしていないせいか千鶴は自分の体がどうなっているのか理解出来ていないようだ。楓は身を起こそうとした千鶴の肩を押さえるとゆっくりと布団に寝かせ毛布を掛けた。
「ええ、傷はふさがってるけど安静にしてたほうがいい」
「私・・・」
「姉さん」
楓は千鶴の言葉を遮り、その瞳をまっすぐに千鶴に向け、一番に知りたい事を口に出した。
「耕一さんは何処?」
「耕一さん?」
「ええ、・・・耕一さんはどうなったの?」
「耕一さんがどうかしたの?」
「姉さん?」
「耕一さん、大学じゃないの?こちらに来ているの?」
耕一の名前を聞いた途端、ぼんやりとしていた千鶴の瞳に急速に光が甦る。
「楓!耕一さんになにかあったの?・・・楓、教えて!」
「姉さん、覚えてないの?」
「覚えて?」
「それじゃ、昨日の晩何があったのかも・・・?」
狼狽する千鶴の姿に、楓は姉の心の中に占める耕一の大きさをうかがい知ることが出来た。記憶ははっきりしていないようだが、それでも耕一の事を心配する千鶴を見ることに、楓は言いしれぬ苦痛を感じてしまう。
そして、千鶴の受け答えが示す事実・・・
「・・・わ、わからない。思い出せないの・・・」
返ってくる答えは想像出来た。
千鶴は記憶を失っている。
それでも楓はなおも質問を繰り返した。
「姉さん、ほんとに思い出せないの?」
「・・・ええ、・・・それよりも楓、耕一さんは?」
「昨日からいないの」
「・・・耕一さん、大学にも行かないで何処に・・・?」
「姉さん・・・」
端からここに耕一がいなかったような口振りに楓はとまどってしまった。傷ついた自分の体より耕一が心配なくせにその耕一の記憶がすっぽりとない。矛盾していると思う。どちらにしても今の千鶴と話をしても耕一の所在はわからない。千鶴が目覚めればすべてわかる、そう思っていた楓の落胆は大きかった。だが楓はそんな事をおくびにも出さない。耕一は大事だ、だけど今は目の前にいる千鶴の事も心配だ。もし耕一がこの地で行方不明になっているなどと今の千鶴が知れば無理にでも起き出して捜しに行きかねない。楓は気持ちを整理し千鶴には話をはぐらかす事にした。そのとき、
<ほんとうに思い出せないの?>
心の奥底にいるもう一人の自分がささやく。
楓はその言葉を否定するかのように大きくかぶりを振ると、
「耕一さんとはすぐに連絡がとれるわ。それより姉さんは少し休んで。鶴来屋の方には今朝のうちに連絡を入れておいたから・・・
2,3日はだいじょうぶよ」
「・・・鶴来屋にはどういう風に伝えてあるの?」
「風邪をひいて熱が出たって。足立さんがここのところ休みも取れてなかったし2,3日ゆっくりしなさいって」
「そう・・・そうよね。私がいなくても問題ないものね」
自嘲気味に千鶴がつぶやく。これ以上耕一の事に深入りせずに済んだことにほっとした楓であったが、心中複雑でもある。耕一と鶴木屋、ふたつの話題に対し千鶴の意識は鶴木屋の方に向けられたのだ。やはり、千鶴にとっては鶴木屋の方が大事なのだろうか。楓には千鶴の気持ちがわからない。
そして、弱気になってしまっている千鶴にどう接するべきかも同じようにわからなかった。鶴来屋においての千鶴の立場はいまだに確固としたものではなかった。経営に関する相談事など楓は受けたこともなかったが、経営者トップの交代にまつわる一連の悪夢とも思える出来事は楓も身をもって知っている。千鶴が妹たちを守るため、我が身を削るような思いをしている事もわかっている。つまり鶴木屋を気に掛ける千鶴の態度は、詰まるところ家族を守るために他ならないからだ。
だからこそ楓は自分の存在価値を見失いないつつある千鶴になにか言ってあげなくてはと思ったが、・・・なにを言っても空々しく思えた。
「姉さん、気弱にならないで」
「え、ええっ・・・ごめんなさい。・・・楓、ありがとう」
こう言うのが精一杯だった。だが、千鶴はそれを額面通りに受け取り自分の言葉が楓に要らぬ心配を掛けたと思った。千鶴には楓の心使いが嬉しかった。
「家族じゃない」
「そうね」
楓ははにかむように素っ気なく答え、千鶴もその答えに相づちをうった。
「姉さん、お腹空いてない?」
気恥ずかしさを払うかのように楓が声を掛ける。
「えっ?」
「梓姉さんがお粥を作ってくれてるの」
「そういえば梓と初音は?」
「学校。私が無理矢理行かせたの」
「みんなに迷惑かけたわね」
「そんなことない・・・お粥暖めてくる」
腰を上げかけた楓に向かって千鶴は声を掛けた。
「今はいいわ・・・食欲ない」
「・・・そう・・・でもお薬を飲むのに空腹じゃ体に悪いわ」
「・・・わかった。それじゃ少しだけもらうわ」
コクンとひとつ頷くと楓は客間を出た。
一人取り残された千鶴はぼんやりと天井を見つめながら今までの事を思い出そうとしていた。
「何があったの?・・・ なぜ私は怪我をしているの?・・・ なぜ客間に寝ているの?・・・ なぜこんなに胸が苦しいの?・・・」
一生懸命思い出そうとしても昨夜の事はおろか、ここ数日の記憶がはっきりしない。いやすっぽり抜け落ちてるといっていい。
瞼を閉じた。真っ暗で何も見えない。でも、その中に浮かぶ一人の男性のシルエット・・・
「耕一さん・・・会いたい」
千鶴の口から嗚咽が漏れた。
程なく楓が小さなお盆に載ったお粥を持ってきた。
千鶴は2,3口程、匙にすくって口にしたが、すぐにその匙を置いた。
「ありがとう。もういいわ」
「もう少し食べた方が・・・」
「ごめんなさい・・・」
「・・・そう」
楓はお盆を横にやると錠剤と湯飲みを手渡した。
「鎮痛剤よ。睡眠効果もあるから・・・」
痛みなどほとんど感じなかったが、楓が暗にもう少し寝て休めと言いたいのだと気が付いた千鶴は、何も言わずそれを受け取ると口に運んだ。
コクッと飲み込み、横になって目をつむる。二人ともなにも言わない。あまりに静かな時間が過ぎてゆく。
しばらくして千鶴は誰に言うともなくぽつりとつぶやいた。
「私・・・なにをしていたのかしら」
薬が効き、眠りの世界に落ちてゆく千鶴の耳に遠くから声が聞こえた。
「それを知っているのは、姉さんだけ」
その言葉は、千鶴の横で彼女を見つめる楓から発せられたものだった。
眠ってしまった千鶴の顔をしばらく見続けていた楓だったが、やがてその口がほんの小さく動き始める。まるで誰かと話をしているみたいに・・・
<ほんとうに思い出せないの?>
「あんな怪我をしているのよ。記憶が途切れていてもおかしくない」
<ほんとうに思い出せないの?>
「姉さんの目を見ればわかるわ」
<ほんとうに思い出せないの?>
「きっと、そうよ・・・」
<ほんとうは思い出したくないのよ>
「ちがう・・・」
<ほんとうは忘れてしまいたいのよ>
「・・・ちがう」
<だから話してはくれない>
「・・・」
<話すということは思い出すということ>
「・・・」
<私は知りたい・・・あのひとのことを>
「あ、・・・」
<すべてを>
「・・・いや」
<だから>
楓の腕が千鶴の頭へとのびる。そうっと額に手のひらを乗せた楓の姿は、側に誰かいれば病いに倒れた姉の熱を妹が診ている、そんな微笑ましい光景に見えたはずだ。
ゆっくりと瞼が閉じられた。楓は何者かに抗うように幾度も息を吐く。
その呼吸がピタリと止まる。周りの空気が僅かに冷え込んだ。
<教えて・・・姉様>
楓の両目が開かれる。
深紅の瞳が千鶴を捉えた。
(つづく)