2章
 
 
 その夜、楓は微睡みの中にいた。
 耕一がこの家を訪れたここ数日、楓はほとんど眠っていない。
 耕一が来ると千鶴から聞かされた日から、眠れば必ず夢を見るようになった。今まで見た夢と同じ夢。異星の娘と一人の野武士の夢だ。
 娘は男を愛していた。男も娘を愛していた。だが、二つの想いは引き裂かれた。消えゆく命の間際、交わされた約束。いつか必ずめぐりあう。そしてきっと思い出す。その胸に必ず抱きしめる。
 その娘が自分であること、男が耕一であることも楓にはわかっていた。
 その娘が自分に呼びかける。『会いたい、会いたい』と・・・
 自分も耕一に会いたい。けれど、耕一と深く係われば耕一の中に潜む鬼が目覚めてしまう。千鶴からも釘を刺されてはいたが、それ以上に自分が耕一を破滅に追いやってしまうかもしれないという恐れが楓の中にはあった。耕一が家に来てからは「会いたい」という思いは「側にいたい」「話をしたい」という思いへとどんどん強まり、それと同時に鬼の発現に対する恐れも次第に大きくなっていった。 二つの相反する思いが小さな胸のなかで堂々巡りとなり、楓から安らかな眠りというものを奪っていた。
それにもう一つ、2日前から新たな気がかりも起きていた。
 
 けれども、人間いつまでも眠らずに居られるはずもない。楓は久しぶりに眠りについていた。
 
 
                                       ***
 
 
 ピクッ
 
 楓の睫毛が小さく動く。浅い眠りは妨げられた。
 眠りを妨げたものは、あのプレッシャーだった。
 胸の中を虫がはい回るようないやな感じ。昨日も一昨日も感じたプレッシャーだった。
 ゆっくりと目を開け見慣れた天井をぼうっと、見つめながら楓は小さくつぶやいた。
 
「・・・鬼が出た」
 
 今、この高山で起こっている猟奇殺人事件が鬼の仕業であることを楓はわかっていた。父や叔父が鬼化しかけたとき感じていたあの感覚、おぞけを震わせるようなプレッシャーを感じた次の日、殺人事件は起きていた。テレビのニュースが伝える殺人現場の状況を知ったとき間違いないと思った。
 だが、楓にとってはどうでもいいことだった。
 その鬼は耕一ではないと知っていたから。自分の中のもう一人の自分がそう言っていた。
 楓にとって問題なのはその鬼よりも耕一の方だ。鬼の波動が耕一に対してどんな影響を及ぼすかわからない。いっそ、この地に耕一がいない方が良いのでは?という思いがよけいに耕一に辛くあたる結果となっていた。側に居たいと願うその心と裏腹に・・・
 
 
      また、誰か死ぬのね・・・
 
 
 ぼんやりと考えていたとき新たなプレッシャーが加わった。楓の知っているプレッシャーだ。
 
 
      千鶴姉さん?
 
  
 鬼のプレッシャーに重なる千鶴のかすかなプレッシャー。
 
 
      どうして、千鶴姉さんが・・・?
 
 
 寝起きの頭で思考が定まらない。
 不思議に思った楓がベッドから体を起こしたとき、千鶴のプレッシャーは消えた。
 
 
      気のせいだったのかしら?
 
 
 目が覚めてしまった楓がベッドの脇に置いてある目覚まし時計を見ようと手を伸ばした時・・・
 
 ビクン!
 
 その手が止まった。
 今までに感じた事もない強烈なプレッシャー。強いていうなら心臓を鷲掴みにされたような感覚だった。その狂気に満ちたプレッシャーは楓の動きを完全に止めさせた。楓の鬼が騒ぐ。それを楓は必死になって押さえてようとしていた。
 時間にすればほんの20〜30秒ぐらいだったろう、そのプレッシャーは始まりと同じように唐突に消えた。
 
 どくん、どくん、どくん・・・
 
 さっきまで止まっていたのではないかと思えた心臓の音が、今は早鐘のように鳴っている。
 
 
      なに・・・なんだったの?
 
  
 ベッドの上で自分の胸を押さえ荒い息をついていた楓は、しばらくの間今の出来事を反すうしていたが、最初の鬼に重なって現れた千鶴のプレッシャーと、新たに出現した爆発的なプレッシャーの事をどうしても千鶴に相談せねばとガウンを羽織り廊下へと出た。何故か解らないが胸騒ぎがする。深夜にも関わらず千鶴の部屋を訪ねようとしたのは楓のそんな思いからだった。
 
 
                                       ***
 
 
 深夜の柏木家は何事もないように静まり返っていた。
 
 
      みんな、気が付かなかったのかしら?
 
 
 4姉妹の中でも最も感覚が鋭い自分だけが気が付いたのかとも思いながら、梓の部屋の前を過ぎ千鶴の部屋の前まで来たとき再び先程のプレッシャーが楓を襲った。だが、今度のはそのパワーが桁外れに違う。プレッシャーの元がすぐ間近に存在するのだ。
 圧倒的な力に翻弄され、楓は息をすることも出来ない。
 
 しかし、そのプレッシャーは瞬時に消えた。
 楓は肺に溜まっていた空気を大きく吐き出した。
 
 バタン!
 
 大きな音を立てて、隣の部屋から梓が飛び出してきた。
 
「梓姉さん」
 
 びっくりしながらも楓が梓に声を掛けた。
 
「楓?・・・いったいなんだったんだ、あれは!」
「わからない・・・姉さんも感じたの?」
「当たり前だろ。あんな強い力、千鶴姉の比じゃないぜ。本気で殺されるかと思って目が覚めたよ」
「・・・おねえちゃん」
 
 一番端の部屋から頭だけのぞかせているのは初音だ。あまりの恐怖に顔は引きつり目には涙すら浮かんでいる。
 
「初音、だいじょうぶか?」
「・・・・・うん」
「安心しろ。みんな、だいじょうぶだよ」
「うん。今のなに?玄関の方になにかすごいものが来たみたいな感じだったけど・・・」
「玄関か・・・」
「楓。あたしは様子を見に行く。あんたは千鶴姉を起こしてくれ。・・・ったく、千鶴姉のやつ、あれで目を覚まさないとは鈍くささは天下一品だよ」
「姉さん、だいじょうぶ?」
「ああ、たぶん。・・・いざとなれば力を使うまでさ」
「くれぐれも、気を付けて・・・」
「ああ」
 
 力を使うことには慎重さが必要だ。誰かに見られたら身の破滅につながる。このことは、梓も楓も千鶴から幾度も教えられてきた。楓のこの言葉は、梓の身を案じると同時に、むやみに力を使うなとの意味も含んでいた。もっとも、状況が状況だから力を使うなと言葉に出して言うことは出来ない。肉体的に遙かに力の劣る楓が、梓に対して掛けられる言葉はこれぐらいしかなかったのだ。
 その事を知ってか、梓は慎重に玄関の方へと向かっていく。初音はそれを心配そうに見守っていた。
 
 
                                       ***
 
 
「千鶴姉さん」
 
 ドアをノックしながら、楓は千鶴を呼んだ。
 だが、返事はない。
 二度ほど同じ事を繰り返した後、楓はドアのノブを回した。鍵は掛かっていなかった。あれほどのプレッシャーに千鶴が気付かぬはずがない。楓は一抹の不安を胸にドアを開け中に入った。はたして、部屋の中に千鶴の姿はなかった。
 小さな不安は大きく膨れ上がった。楓はきびすを返すと部屋を飛び出した。
 
「楓おねえちゃん?」
 
 初音の声も耳に入らず楓は客間へと向かった。
 客間の前に来ると楓は耕一に呼びかけた。
 
「耕一さん・・・耕一さん!」
 
 返事はない。
 楓はためらわず襖を開けた。月明かりの中、静まり返る客間。布団はきちんと敷いてあるし耕一のバッグも置いてある。ただ、そこに寝ているはずの耕一だけがいなかった。
 楓は中に入ると明かりをつけ、もう一度部屋の中を見回した。布団には人が寝ていた後がかすかに残っている。ためらいながらもめくった布団の中を楓は凝視した。真っ白いシーツに残るいくつものシミ、そして小さな血痕。その方面には疎い楓でもここでなにがあったのか悟った。
 不安は絶望へと変わった。
 
「千鶴姉!」
 
 呆然と立ち尽くしている楓の耳に、梓の叫び声が届いた。
 声の元へと駆けつけた楓と初音がそこで見たものは、玄関を出たところの石畳の上に全身傷だらけで横たわる千鶴と、それを抱きかかえている梓の姿だった。
 
「千鶴姉、千鶴姉! しっかりしろ! いったいなにがあったんだ、千鶴姉!」
 
 気を失いぐったりしている千鶴に梓は必死に呼びかけている。  
 
「千鶴姉さん!」
「千鶴おねえちゃん!!」
 
 二人とも千鶴の元へ駆け寄った。初音は梓に抱きかかえられた千鶴を揺すって、
 
「千鶴おねえちゃん!・・しっかり、しっかりしてよう・・・」
 
 涙声になりながら叫んでいる。
 梓はといえば、何度呼びかけても返事のない千鶴を前にして何をどうしていいか解らずただおろおろとしていた。
 
「二人とも落ち着いて」
 
 楓の凛とした声が響く。
 動揺している二人を余所に、楓は千鶴の腕をとって脈を診ていた。
 
「脈もあるし、しっかり息もしてる。気を失っているだけよ。だから初音、身体を揺すったりしないで。梓姉さんも落ち着いて」
「・・・あ、ああ」
「ひぐっ、・・・うん」
 
 楓は二人に声を掛けながら千鶴の外傷を診ていた。服はびりびりに破け、肌が剥き出しになっている所は擦り傷や切り傷だらけだった。一番酷いのは胸であり、露わになった乳房に残る傷からは大量の出血があったらしく、服は真っ赤に染まっていた。もっとも、今は出血は止まっているようだ。頭部には大きな外傷は見あたらない。
 
「梓姉さん、千鶴姉さんを家の中に運んで」
「楓、あんた・・・」
「梓姉さん、お願い」
「わ、わかった。千鶴姉の部屋に運べばいいんだな?」
「いいえ、客間よ」
「客間には耕一が・・そういえば耕一はどうしたんだ」
 
 この場にいないもう一人の人物にようやく梓は気が付いた。
 
「・・いないわ」
「いないって・・・、いったいこんな夜中にどこにいってるんだ!?」
「わからない」
「わからないって・・・おかしいじゃないか!」
「梓姉さん!今は千鶴姉さんが先よ」
「あっ・・・あ、ああ。・・・でも、どうして客間なんだ?」
 
 ゆっくりと千鶴を抱きかかえたまま立ち上がった梓は家の中に入りながら尋ねた。
 
「畳の部屋の方が看病しやすいから・・」
「そうか」
 
 楓にそう言われて梓は納得したのか千鶴を客間へと運んだ。その後を初音がおどおどとついていく。
 
 客間の耕一の布団に寝かされた千鶴を前に、楓はてきぱきと二人の姉妹に指示を出した。
 
「梓姉さん、救急箱と水と氷を持ってきて。初音は千鶴姉さんの替えの下着を・・・」
「それより、医者だろ!こんな大けが、あたしたちでどうにかなる問題じゃないだろ!!・・・楓、あんた
いったい何を考えて」
「梓姉さん」
 
 勢い込んでまくし立てる梓のセリフを楓はピシャリと遮った。
 
「これを見て」
 
 楓によって上半身裸にされる千鶴。その慎ましやかな胸の膨らみには大きな3本の平行に並んだ傷があった。鬼の血のなせる技か、恐るべき回復力で既に出血は止まっていたその傷は、明らかに何者かによる掻き傷だとわかる。
 
「ひっ・・」
「うっ・・・」
 
 その傷を見た梓は絶句し、初音に到っては目を背けた。そんな傷跡だった。
 楓はそんな二人に一瞥をくれると、こう言った。
 
「鬼の爪痕よ」
「鬼の・・・?」
「ええ、たぶん。・・・千鶴姉さんは、どういう訳かわらないけど鬼に襲われたのよ。こんな事、お医者さまや警察にどうやって説明するの?
 ・・・それに、千鶴姉さんの立場もわかってあげて」
 
 楓が言いたいのは千鶴の鶴木屋会長としての立場だった。
 深夜に女性が襲われた。それだけでもショッキングな事件だが、その女性が鶴木屋グループの女会長だとしたら、マスコミがどう取り上げるか予測がつかない。柏木耕平の元、強い結束力を誇ってきた鶴木屋グループとはいえ、ここ数年相次ぐ会長の不可解な死と若い女性会長の登場により、その足並みに乱れがみえるようになった。もし、マスコミが大きく取り上げれば役員会もこれ以上黙ってはいない。結果、千鶴の立場は危ういものとなる。
 楓はそう考えていた。
 
「でも、千鶴姉をこのままにしておく訳には・・・」
「だいじょうぶよ」
「どうして、そんなことがわかるんだよ!」
 
 いらだちからか、梓の声が怒気を帯びて大きくなる。
 
「梓おねえちゃん。大声をあげないで・・」
 
 千鶴が心配な初音が、梓を諫めた。
 
「でも楓おねえちゃん、梓おねえちゃんの言うことが正しいよ。私もお医者さんに診てもらった方がいい
と思う」
 
 初音の問いに楓は小さく頭を振った。
 
「必要ないわ」
「楓!」
「楓おねえちゃん!」
「わかるのよ・・・私の、・・・私の中の鬼の血がそう言っているから・・・」
 
 楓は感覚的に千鶴が危機的な状況にないことがわかっていた。
 傷は浅くはないが命に係わる程のものでもない。僅かに解放した力で楓は千鶴をスキャンしていた。
 
「千鶴姉さんはだいじょうぶ。・・・だから、早く救急箱と着替えを持ってきて」
 
 楓の有無を言わさぬ言葉で、梓も初音もしぶしぶ立ち上がった。
 
 柏木の血の秘密は決して人に知られてはならない。
 今は亡き叔父や、千鶴が常々口にしていた言葉だ。
 柏木家の人間は代々、医者というものに細心の注意を払ってきた。とりわけ、医学が発達し遺伝子レベルの解析が可能となった現代、千鶴達の父や叔父は医者を完全に避けた。鬼の血故か大病などしたこともなかったが少々の怪我でも決して医者に診てもらおうとはしなかった。彼らが死んだとき司法解剖すらもさせなかったぐらいだ 。
 
 千鶴の大怪我に対して非情な態度をとったことに楓は嫌悪していた。
 
 
      こんなときにも家の事を考えてしまう・・・私も千鶴姉さんとおんなじね
 
 
 楓は気付いていなかった。ここまでして千鶴を医者に診せずにいたもう一つの理由を・・・。もう一人の自分が彼女を引き留めていたことを・・・
 
 
                                       ***
 
 
 血を拭い、消毒液をつけ、包帯を巻く頃には、一番酷かった胸の傷もある程度ふさがっていた。肋骨が折れていたようだが、この家ではこれ以上手の施しようがない。しかし、内臓に刺さっているようにも感じられなかったので、楓はこのままにしておくことにした。
 額に濡れタオルをのせ、毛布を掛けたとき梓がポツリと聞いた。
 
「なあ・・・耕一はどこに行ったんだよ」
 
 落ち着いた寝息をたてる千鶴を見て梓も少しは気が休まったのだろう。
 
「バッグはあるんだ。いきなり帰ったなんてことはないだろ」
 
 思ってもみないが、それでも梓は口にした。
 
「耕一おにいちゃんはそんなこと絶対にしないよ」
 
 初音が断固として否定する。
 
「わからない。・・・でも、たぶん千鶴姉さんといっしょだったと思う」
「えっ?・・・じ、じゃあ耕一も、もしかして」
「わからない」
「さっきの、あのすごい力の奴にか?」
「わからない」
「もしかして、そいつが例の殺人犯か?」
「・・・」
「かおりも、もしかしてそいつに?」
「・・・」
「奴が鬼なのか?」
「・・・たぶん」
「・・・・・耕一を探しにいく!」
「梓姉さん、待って」
 
 少しずつテンションが上がる梓を静めようと楓が声をかけた。が、
 
「楓!!あんた、耕一が心配じゃないのかよ。千鶴姉の事といい、耕一の事といい、よくあんたそんなに落ち着いていられるな!」
 
 ついに梓がキれた。
 梓にしてみれば、楓の態度はあまりに冷淡に感じたのだ。
 
「心配ない訳ない・・・私だって今すぐにでも耕一さんを探しにいきたい。でも千鶴姉さんがこんなとき、みんなが動揺してしてどうなるの!」
 
 言葉にこそしないが、楓は梓を責めていた。こんなときだからこそ一番上の梓には落ち着いた行動をとってもらいたかった。
 
「・・ごめん・・・あたしが、一番しっかりしなくちゃいけないんだよな・・・」
「ううん、言い過ぎた・・」
 
 自分の非をきちんと認めるのは梓の良いところだ。
 
「でも。・・やっぱり、耕一が心配だよ」
 
 梓は立ち上がり襖を開けた。
 
「楓、初音、千鶴姉を頼むよ」
「梓姉さん。・・決して無理はしないで・・・」
「ああ。近所の辺だけ探すようにする」
 
 静かに襖が閉められた。静寂が楓と初音を包む。
 
「楓おねえちゃん。・・・耕一おにいちゃん、だいじょうぶかな・・・」
「・・・ええ、きっと」
 
 楓の言葉は初音に向けられたものではなかった。自分自身に言い聞かせるような言葉だった。
 
 時間だけが過ぎてゆく。
 うつらうつらとする初音にタオルケットを掛けてやり、楓は正座で布団の横に座っている。
 千鶴は規則正しい寝息をたてていた。
 楓はその千鶴の寝顔を刺すような厳しい瞳で見つめ続けている。
 
 やがて、夜が明けた。
 
 
 
                                                                                               (つづく)
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