しかたがなかったのよ。
他にどうすればよかったの。
これ以上の被害者を出してはいけない。
あのまま、耕一さんのもがき苦しむ姿をみるくらいなら・・・
詭弁ね。
そんな理由、免罪符にもなりはしない。
耕一さんは、死んだ。
私が、殺した。
・・・
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私はこの罪を一生背負って生きて行くだけ。すべての人を欺きながら・・・
もはやなにも映らぬ水面を見続けていた千鶴はそっと目を閉じた。
「どうして、・・・どうして私の愛した人はみんないなくなってしまうの・・・」
そうか、これが私の受ける罰なのか。
千鶴の頬を涙が伝っていった。
***
そいつは、森の奥から息を潜めその女性を見つめていた。
深夜、人気のない山奥に一人妙齢の女性がいれば、いかれた若者ならばよからぬ考えを持つだろうし、そいつもそう考えているようだ。
ただそいつはそのような輩とは身に纏う気配が決定的に違う。人が持つとは思えない、いや、もっとはっきり言えば人にあらざる者の気配と言っていい。
やがてそいつはゆっくりと身を屈めた。
「獲物・・・ダ」
千鶴がその異様な気配に気づいたのは、家に帰ろうと面をあげた時だった。
虫達の声が止んでいる。生物達の存在が感じられない。そして、感じるプレッシャー。
「なに?これは」
ふと、つぶやいた千鶴の前にそいつは降ってきた。
そう、降ってきたと言っていい現れ方だった。
向こう岸の茂みの中からそいつは跳躍してくると、千鶴の目の前5メートルの所に着地した。
ズズン
重い響きが伝わる。着地したときの振動だ。その響きはそいつの桁外れの重量を感じさせた。
熊?
千鶴の第一印象は正に熊だった。身の丈2mを優に越え、体中をやや長い剛毛で被われ、その口からは乱杭歯がみえる。
だが、その考えを千鶴は即座に否定した。二本足で立つその姿は、熊というより猿、いや人間に近い。
そしてなにより、全身から発散される禍々しいプレッシャー。
鬼!
まさか、まだ他にも鬼がいたの!?
千鶴はとまどっていた。肉親以外の鬼を今まで見たことがない千鶴は、殺人事件を引き起こしていた耕一以外、他に鬼が存在するはずがないと信じ切っていた。だから、ただえさえ愛するのもを手にけたばかりの千鶴は新たな鬼の出現に冷静な判断力を失ってしまっていた。そう、もう一つ選択肢があったのだが、それが千鶴には思い浮かばなかった。いや、正確には千鶴の深層意識がその答えを拒否していたのかも知れない。
だが、肉体の方ははこの状況に即座に反応していた。体内に宿る鬼の血が危険を告げている。急速に肉体が活性化していく。瞳が赤く染まり瞳孔が縦に裂ける。
柏木の女性達は鬼の血が活性化しても男のように肉体が変化する事はほとんどない。それでも、身体の中を駆けめぐる本質的な気はがらりと変わる。そう、外見は同じでも中身がそっくり入れ替わるかのように。しかし、そういう変化は本人が意識的に行える。鬼の力の制御とはそういうことだ。
今は違う。身体が勝手に反応している。鬼の本能、いや生き物の生存本能が己の命の危うさを告げているからだ。
「誰なの?」
気丈に千鶴はそいつに問いかけた。
落ち着いて、まず現状を認識するのよ。
千鶴は自分に言い聞かせる。
その問いかけに答えようとはせず、そいつはじっと千鶴の方を睨め付けていたが・・・
「・・・同族カ」
つぶれかすれたような声で一言、言葉を吐いた。聞くだけで嫌悪するような声だ。
やはり鬼だ。しかもそいつは鬼の血のことを知っている。
けれども、血縁者に男はいない。ましてや鬼の血のことを知っている者は、この隆山には千鶴の他には雨月寺の住職と鶴木屋の社長の足立氏しかいないはず。
千鶴には目の前にいる鬼の正体が掴めずにいた。
・・・いや、相手が誰かなどは後の事だ。今はこの鬼にどう接するかだ。
千鶴は徐々に冷静さを取り戻してきていた。とにかくどうしても確かめなければならないことがある。
「あなたは、鬼の力を制御しているの?」
望みを掛けて鬼に問う。
鬼の力さえ制御出来ていれば話は早い。相手は同じ人間だ。話し合うことだって出来るはず。
「制御?・・・俺ハ、俺ダ。」
千鶴はどう判断していいかわからなかった。
千鶴の見た鬼化した者たちは皆、再び人に戻るまで元の人格を失い本能のままに荒れ狂った。その度に失いかける理性を必死で繋ぎ止めようと彼らはもがき苦しんでいた。その者たちとは、千鶴の父であり千鶴の叔父であったが・・・
だから鬼化したとき、制御出来なかった人間は知性も理性もないただのケダモノになると思っていたのだ。
だが、目の前の鬼は問いに答えた。少なくとも知性はある。
もしかしたら・・・
「・・・カシワギチヅル」
なぜ私の名を?
この鬼、私を知っているの? 私の知人?
頭の中を様々な名前が、顔が流れていく。だが、鬼の姿から誰かを推察することは出来なかった。
「ヤハリ・・・カシワギガ、同族カ」
「力ヲ、感ジル」
殺気がその肉体に満ちてくる。
「我ガ・・・獲物トナレ」
鬼がニヤリと笑った。
望みは絶たれた。千鶴は力を解放していく。蒸し暑い夜の空気が徐々に冷めていく。
千鶴は完全に冷静さを取り戻していた。そして冷酷さも・・・
鬼を殺す。
ただ、柏木の掟に従うのみ。それが柏木当主の務め。
己の運命を受け入れる事しか出来なかった千鶴は唯一、つい先程耕一の血にまみれたその手を汚すことにのみ罪悪感を感じていた。
このときになっても千鶴は自分が犯した過ちにいまだ気が付いてはいなかった。
***
「今夜ハ、最高ノ狩リガ、出来ソウダ」
「あなたが鬼の血に飲み込まれているのなら・・・私はあなたを殺します」
千鶴が動いた。鬼の懐へと一気に間合いを詰める。と、同時に右手を心臓にめがけ突き出す。鬼はギリギリその突きをよけた。目標を失った千鶴はたたらを踏むかと思いきや、身を捩ると突き出した右手を鬼へと振り回した。その爪が浅くではあるが鬼の腕を切り裂く。
「フハハハハッ!」
鬼は、傷ついた右腕を高く振り上げると目の前の千鶴めがけ力任せに振り下ろした。千鶴は間一髪、それをよける。
ガコッ。
鬼の爪は、水門の鋼鉄の剥き出しになった道路に食い込んでいた。
「サスガ、同族・・・デハ、ユクゾ!」
鬼は両腕を思い切り広げ、千鶴の行く手を阻むかのような姿勢をとるや、突進しながら両腕を千鶴めがけ交互に振り回した。足を踏み出す度、水門が揺れる。振り回した腕が千鶴をかすめる度、触れてもいないのに千鶴の衣服が切り裂かれていった。その鋭い爪の連打を千鶴はバックステップで避けていく。
避けられない早さではない。千鶴はそう確信した。
なんとかなりそうね。
最初、鬼の姿を目の当たりにして、千鶴はまともに戦って勝てるとは思えなかった。しかし今の攻撃で、パワーでは話にならないがスピードでは僅かに勝っていると思えた。
振り下ろされた鬼の腕をくぐり抜け、後ろに回り込んだ千鶴は振り向きざまの鬼の腹へ一撃を叩き込む。爪が腹をえぐる。
・・・はずだった。が、千鶴の細い腕は鬼によってがっちり掴まれ、その爪は僅かに腹部にささっているに過ぎない。
「オシイナ・・」
大きく腕が振り回される。
千鶴は一気に振り飛ばされ橋の上をゴロゴロと転がった。
「・・・くうっ」
僅かな呻きをあげながら顔を上げた千鶴の前に鬼はいない。
「くっ!」
寝たままの姿勢で、横っ飛びに避けたその場所へ鬼は着地した。
ズン
「はあ、はあ、はあ・・・」
ゆっくりと立ち上がる千鶴を前にして鬼は、
「ウレシイ! ウレシイゾ!!」
雄叫びをあげた。
「狩リハコウデナクテハ、ナラナイ。 命ト命ノヤリトリヲシテコソ、ホントウノ狩リダ!
カシワギチヅル。 オマエハコノ世デ、最モ美シイ獲物ダ!」
「はあ、はあ、はあ・・・やっ!」
猛然と鬼の腹目がけて突進する千鶴。 と、小さく跳躍するや、右手を鬼の顔面へ繰り出した。だが、そんなフェイントにあわてもせず鬼は空中の千鶴に蹴りを入れた。空中では避けることは出来ない。
蹴りは千鶴の腹部を捉えた。
千鶴は、格闘にはあまりに素人過ぎた。いくらスピードがあっても、攻め方があまりに単調だったのだ。
だが、それは仕方のないことだった。道場などへ行ったこともなく、ましてや鬼との格闘など昨日生まれて初めてやったに過ぎない。その時は少し手合わせしただけで警官に騒ぎを聞きつけられ撤退したため、まともな闘いにはならなかった。
千鶴は鬼の力をあまりに過小評価してしまっていた。少なくともこの場は闘うのではなく、逃げるべきだったのだ。
鬼は千鶴の動きを十分に見切っていた。そして、千鶴はたった一回の蹴りで大きなダメージを受けていた。
「闘エ! 俺ハ、マダマダ闘イタイゾ! ソシテ死ネ! オマエノアゲル命ノ炎ヲ、見セテミロ!」
腹部を押さえ片手を付きながら、それでも立ち上がろうとする千鶴に向けて鬼が吠える。
「オマエノ命ノ炎ハ、サゾヤ美シイダロウ。 今マデ狩ッタ人間ナドトハ、比ベ物ニナラヌ程ニナ」
「えっ・・・」
今、なんて言ったの?
今マデ狩ッタ人間ナドトハ、比ベ物ニナラヌ程ニナ
今マデ狩ッタ人間ナドトハ・・・
今マデ狩ッタ人間・・・
今マデ・・・
「・・・それじゃ・・・」
接近する鬼に対し、千鶴はただ惚けたようにその場に蹲っていただけだった。鬼の蹴りが再び千鶴を捉える。千鶴の身体はゴムマリのように跳ね上がった。
殺人犯はこの鬼・・・
「闘イノ最中ニヨソ見ナドスルナ」
なのに、私は勝手に耕一さんだと決めつけて・・・
鬼は、倒れている千鶴の足を掴むとまるで棒きれを投げるかのようにその身体を放り投げた。
あんなに、耕一さんは違うって言っていたのに・・・
数メートルは上がって落ちてくる千鶴の身体へ、鬼の放つ拳がめり込む。
その言葉に耳を貸さずに私は・・・
ミキッ。骨の折れる鈍い音が響き、千鶴は吹き飛んだ。
私は・・・耕一さんを・・・
ズザザザザー
千鶴の身体が地を滑りようやく止まった。その跡には赤い血がまき散らされている。
動きを止めて仁王立ちの鬼の姿を、呆然と千鶴は見つめた。
無実の耕一さんを殺した
ゆっくりと、鬼が近づく。
「うそ・・うそ・・・・うそよ」
足下にひれ伏す千鶴を見つめる鬼の目にはいらだちの色がみえた。
「いやああああああああ・・かはっ」
鬼の左手が千鶴の首を掴んだ。そして、ゆっくりと引き上げる。
足が地から離れ宙づりとなった千鶴の身体は、まるで木の枝に引っかかるボロ雑巾のようだった。
手に僅かに力を加えただけで千鶴の首はいとも容易く潰れてしまう。その状況で鬼は尚、苦悶を浮かべる千鶴の顔を睨め付けながら言葉をはいた。
「ナゼ、闘ワヌ。 モウ、諦メタノカ?
昨日ノ勢イハドウシタ。 我ガ胸ニツケタ傷ハマグレカ?」
そう、確かに千鶴は昨日鬼の胸に傷をつけた。だが、その傷は耕一にもあった。なぜかはわからない。ただはっきりしていることは、連続殺人犯が目の前の鬼であり耕一ではなかったという事実。そして、この事実こそが千鶴の闘う意志を根こそぎ奪ってしまっていた。
いまや、千鶴はただの吊り人形となっていた。
そして、その千鶴の瞳は鬼の姿を捉えてはおらず、ただ耕一との思い出だけを写していた。
消えて行く自分の命より残される私を優しい瞳で気遣ってくれた耕一さん
……
すべてを受け入れた目をして殺してくれと言った耕一さん
……
自分は違うと必死になって弁明する耕一さん
……
真実を告げられ、驚愕にむせぶ耕一さん
……
刑事と鉢合わせした時の苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた耕一さん
……
トランクスの前を両手で押さえ真っ赤になってあわててる耕一さん
……
初音に腕を掴まれ引っぱっていかれる後ろ姿の耕一さん
……
梓の創った夕飯を本当においしそうに食べている耕一さん
……
久しぶりの再会にはにかむように笑った耕一さん
・
・
・
・
撫でようとした手を払いのけ、ばつの悪そうな顔でうつむく耕ちゃん
そう、あの時から私は耕一さんが好きだった
いい、・・・もういい
愛する人を殺してまで生き続けて何があるの?
耕一さんはもういない。この世にはいないのに・・・
死ねば逢える? 耕一さんに逢える? 逢えたら、また優しく私を包んでくれる?
「ツマラン!闘ワヌ同族ナド、人間以下ノ存在ダ。
我ガ楽シミヲ奪ッタ罪、ソノ命デ購エ!」
抵抗の意志すら見せぬ千鶴に、いらだちを極限まで募らせた鬼がついに動いた。抜き手に構えた右手を千鶴の心臓目がけ繰り出そうとした。まさにその時、
バシャーン
巨大な水柱が水門池に立った。
***
そのモノは鬼の前に水しぶきをまき散らしながら舞い降りた。
ストッ・・・
まるで、重みを感じさせない着地。
鬼は、そのモノの姿を認めると、構えを解き千鶴を後ろへ放り投げる。
棒きれか何かのようにのように転がり、欄干へぶつかって千鶴は止まった。
鬼は千鶴に一瞥もくれず、この場に乱入してきたモノを凝視する。
千鶴は時として薄れる意識の中、ぼんやりとこの光景を見つめていた。
そのモノはすぐ前に立つ鬼の後ろ姿よりも一回りも大きかった。
そしてはるかに人間の形に近かった。
月夜の下で爛々と深紅に輝く二つの目。その目の中に見えるものは純粋な狂気。ただ、狩るためだけに存在する狩猟者の本能そのもの。
鬼は小さく震えていた。地上最強の力を持つ己を脅かす存在に対する恐怖の震えだった。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
モノが小刻みに息を吐く。やがて、大きく息を吸い込むや、
「グオアアアアアアアアーーーー」
咆吼をあげた。
心臓を鷲掴みにするような咆吼。強者の弱者に対する絶対的な支配。いや、生きとし生ける者の生への執着を放棄させるような叫びだった。
鬼の震えが止まった。震える事さえも出来ないのだ。
ゆっくりとモノが鬼へと近づく。微動だに出来ずただ立ちつくしていた鬼が弾かれたように動いた。身を翻すや一気に逃走しようとする。鬼に出来る事は、全力で逃げ出す事だけだったのだ。むしろ、逃げ出せただけでも大したものだ。千鶴に至っては、身体を動かすどころか呼吸する事すらもままならな
かったのだから。
だが、それは無駄なことだった。2〜3メートルも動かぬうちに、鬼は後ろから襲ってきたモノに捕まった。
巨大な身体が疾風の如く動き、鬼に追いついたモノは鬼の右腕を掴むや右や左へと振り回す。
「グギャ、・・ベッ、・・・オグッ」
その度に鬼は地面へと叩きつけられる。口からは血反吐を吐き、掴まれていた腕は在らぬ方向を向いていた。
一方的な攻撃だった。
ビキッビキッ・・
「ギャアアーーーー」
ピチッ
モノは、両手で鬼の腕を引きちぎりその腕を池へと投げ捨て、鋭い爪で鬼の身体を幾度もえぐる。
いまや、全身血塗れとなった鬼はそれでも逃げようともがいていた。残された両足と左腕をばたばたと動かし、這い蹲り回る。その鬼の頭をモノの手が掴んだ。
「グッ・・・ググッ・・・ガアーーーーーーー・・・・」
グシャ
千鶴には見えた。鬼の身体から吹き出す眩い光、白とも青とも赤ともいえる神秘的な光が・・・
その光はもやのように辺りに立ちこめると、やがてゆっくりと夜の闇に消えていった。
エクスタシーさえ感じるような光景だと千鶴には思えた。
消え去った光を名残惜しそうに見つめていたモノが、千鶴に顔を向けた。一歩、一歩ゆっくりと近寄る。
千鶴は不思議と死への恐怖を感じなかった。
圧倒的ともいえる力を目の当たりにして千鶴が思っていた事。それはこのモノへの畏怖、そしてこのモノが自分の望みを叶えてくれる存在であるという確信。
このモノは待ち焦がれた「鬼」であった。
千鶴の心の奥底に眠るもう一人の自分がつぶやく。
<我が願い、ようやくかなう>
千鶴の側に立ち、彼女を見下ろす「鬼」を、千鶴は恍惚とした表情で見上げた。
満月の月明かりの下、浮かび上がる「鬼」のシルエット。
その「鬼」の頭には2本の立派な角があった。
「鬼」の右腕が天上高く、振り上げられる。
・・こ・・・ろ・・・し・・・て・・
千鶴の視界を、黒い影が被った。
(つづく)