『死』が救いになることなんて無い。

 生きてさえいれば、いや、生きているということそのものが『幸福』。

 8年前、死の淵から奇跡的に生還した時からずっとそう思ってきた。

 自殺なんて考える奴の気が知れなかった。

 畳の上で茶をすすってぼけっとしてるだけで『生きている』って実感できた。

 それがすごく幸せなことのように思えた。

 けどいま目の前に『死』を持ってのみしか救えないものがいる。

 人外の『モノ』が。

 彼女は泣いている。

 苦しいって、寒いって、助けてって叫んでる。

 本当に『死』が救いになりえないのなら、俺は……
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 『遠野志貴』は『弓塚さつき』との約束を……守れない。
 
 














『死』の救いpresented by 冬御 直矢




















 ――――ダメだ。

 彼女は、ダメだ。
 
 

 弓塚さつきはもう救えない。

 俺に残された理性までも、その絶望的な結論に負けてしまっ――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ――遠野くんなら、どんな事だって当たり前みたいに助けてくれるって信じてる。
 
 

 ――またわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?
 
 
 
 

 俺は――
 
 
 
 

 ――助けてはほしいけど、もうダメだよ。わたしはもとのさつきには戻れっこないんだから。
 
 

 ――もし戻れるのなら、わたしはどんな代償を払ってでも戻りたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 ――助けて、志貴くん。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「―――ぐ!」

 だっていうのに、なんで。

 もう彼女はヒトゴロシを楽しむ化け物でしかないってのに。
 
 

 ――また明日、学校で会おうね。ばいばい。
 
 

 なんで……あの夕暮れに染まった優しい笑顔を、

 帰り道での穏やかな会話を、

 軽い気持ちで答えたなんでもない約束を、

 思い出すんだろう。
 
 
 
 
 
 

「く……」

 血溜まりから足を滑らせそうになりながらも立ち上がる。

 弓塚は立ち上がった俺を静かに見据えた。

「まだ諦めてないんだね。……優しすぎるよ」

 一瞬、弓塚の眼光が元の色を取り戻したような気がした。

 でも、それは一瞬。

 弓塚の瞳は、すぐに血のような真紅に戻る。

「でも……もう無理なんだよっ!」

 ひゅっ。

 見えなかった。ただ風を切る音だけがした。

「ぐうっ!」

 背中をしたたかに打ちつけて、思わず呻き声を漏らした。

 一撃で路地裏の壁まで突き飛ばされたらしい。ずるり、と冷たい感触を伴って、背中が壁をつたう。

 カラン……

「ぁ……」

 衝撃でメガネが外れて、アスファルトの地面に落ちる。
 
 

 ドクン。
 
 

 心臓が一際大きく鳴った。

 視界に、黒いラクガキがのたくっていく。

 ビルの壁、アスファルトの地面、錆びかけた街灯、根元が濡れている電柱、駐車してある車、エアコンの室外機、近付いてくる弓塚。

 世界に『死』が充満していく。

「……ぐ」

 頭痛が走る。

 メガネを……かけないと。

 頭痛に顔をしかめながら地面に手を這わせる。

 メガネに手がかかってかけようとしたところで、

 どすっ

「ぐふ―――!?」

 横腹を殴られて反対側の壁まで吹き飛ばされる。

「ぐ……かはっ」

 胃液が口の中まで逆流し、苦い味が口内に広がる。

 ずきん。

 頭痛がひどくなってくる。

 ずきん、ずきん、ずきん、ずきん、ずきん。

 メガネ、メガネは……手の中には無い。

「いつもメガネをかけてたよね。ずっと見てたのに、外したところは見たことなかった」

 ゆっくりと近付いてくる弓塚。その手には俺のメガネがある。

「ふふ、メガネ、してないほうがかっこいいよ」

 不敵に笑って、弓塚はメガネを制服のポケットに入れた。

「ぐ……」

「どうしたの?頭でもぶつけちゃった?安心して。私と同じになっちゃえば、ぶつけた痛みなんかすぐに消えちゃうから」

 弓塚が歩み寄ってくる。
 
 
 
 

 ドクン。ドクン。ドクン。
 
 

 ずきん。ずきん。ずきん。
 
 
 
 

 動悸と頭痛のリズムが早くなって、何かを語るように二つの音が重なり合っていく。
 
 

 ――あれは敵だ。憎むべき、敵。

 ――殺せ。ころせ。コロセ。
 
 

 体中の血液が沸騰していくような感覚。

 脳に、体に、腕に、指に、足に、煮えたぎった血液が流れ込んでいく。

 熱い液体が体を駆け巡るたび、体の細胞の一つ一つが目の前のモノを『敵』として認識していく。

「……弓塚、ほんとにもうダメなのか?元の弓塚には戻れないって言うのか?」

 あの優しい笑顔は……もう見れないって言うのか?

 体中がアツく火照っていく最中、一縷の望みをかけて訪ねる。

 だが、そんな淡い希望も、弓塚の浮かべた微笑みにかき消されてしまった。

「うん。もう無理。でも、戻る気も無いよ。せっかく志貴くんと同じになれたんだもん。人殺しを楽しめるようなカラダに、ね」

「そんな……」

 破裂しそうに熱い体を無理矢理押さえ込んで、ぐっと拳を握りしめる。

「……嘘だったって言うのか?」

「……え?」

「苦しいって言ってたの、寒いって言ってたの、痛いって言ってたの……助けてって言ってたのは嘘だったって言うのかっ!?」

「志貴……くん?」

「俺は人殺しを楽しんだりなんか……しない。だから、弓塚はそんな事しなくていいんだ」

 ぎり、と握り締めた拳が鳴って、生温かい感触が拳を伝ってぽたりと地面に落ちる。

 ぽた、ぽた、と、紅い斑点がアスファルトに刻まれていく。

 弓塚は俺と地面とを交互に見て逡巡するような表情を向けると、突然がくりと膝をついた。

「あ、ぐっ……」

「弓塚っ!?」

 駆け寄……ろうとして足が止まる。
 
 

 ――紅。
 
 

 ――紅い、線。
 
 

「ぐ……!?」

 脳の血管が灼けるような痛みが走る。

 チリチリとライターの炎であぶられているような痛み。

 紅い……紅い線。

 血を連想させる紅い線が、いつもの黒い線に重なるようにして弓塚の体を走っていく。

 黒いボールペンの線の上を赤いボールペンでなぞったように、赤と黒がちぐはぐに重なり合っている。

 何だ……これは一体……

「さむい……こわいよ……志貴くん、志貴くん……!」

 自分の体を抱きすくめるようにして弓塚が呻く。

 つう、と、嫌な汗が背中を伝う。

 『植物の成長』なんてタイトルのビデオを早回しで見せられている気分だ。

 紅い線は弓塚の体を黒い線に沿って侵食していき、右胸のあたりに集束して『点』を形作った。

 左胸――心臓の上には、黒い線がつながる『点』がある。

 血溜まりのような紅い『点』と深淵のような黒い『点』。

 ずきん、ずきん、と気が触れそうになるほどの頭痛が続く。
 
 
 
 
 
 

 『点』だって?そんなもの見たことがない。

 ないけど……どうしてか、『点』の意味はわかる。

 本能で……本能が『識って』いる。

 あれは……『死』……あるいは『生』そのもの。

 生を受けているモノが必ずその中に内包している崩壊のスイッチ。

 モノの壊れやすい線とか、そんな生易しいものじゃない。一瞬でモノの意味を消し飛ばしてしまう『点』だ。

 それはわかった。

 わからないのは、なぜ弓塚には『死』が2つあるのかだ。

 考えろ、考えるんだ遠野志貴……!8年前のあの日から、『先生』に会ってから、お前はそうやって生きてきたじゃないか。

 紅い『死』と黒い『死』

 いつも見えているのは黒い線だ。ならば、紅い線の方が『異常』だということになる。

 今弓塚に起こっている『異常』。それは―――
 
 

 不意に、ドラマなんかでよく見る爆弾解体シーンを思い出した。

 赤いコードと青いコード。どちらかが停止スイッチでもうひとつは起爆スイッチ。

 停止スイッチのほうを切れば成功。起爆スイッチなら……ドカンだ。
 
 
 
 
 
 

 ―――かつん。

 一歩、前に踏み出した。

 掌に滲んだ汗で滑るナイフを、しっかりと握り直す。

 ―――もし、もしだ。この仮定――赤い線は吸血鬼の『死』。黒い線は弓塚さつきの『死』――が的を得ているとしたら。

 赤い『点』を突けば、弓塚の中の吸血鬼だけを消すことができるかもしれない。

 あくまで仮定。確証はない。

 だけど、このまま黙って血を吸われるよりは、限界まで彼女を助けるためにあがきたい。

 そう思って、また一歩、歩を進めた。
 
 

「……弓塚」

 手を伸ばせば、弓塚に届く位置。――逆もまた然り。

「あ……し、志貴くん……」

 胸を抑えて苦しげに喘ぐ弓塚が、俺を見上げる。

 俺は膝を折って、地面に座り込んでいる弓塚の目線に合わせた。

「弓塚。今、助ける――!」

 紅い『点』を見定めて、ナイフを持つ右手に力を込めた―――
 
 

「……ぐっ!?」

 瞬間、俺は弓塚に正面から抱きすくめられ……首筋に牙を打ち込まれていた。

「あ――」

 体の力が急激に失われていく。

 ――『俺』が、吸われる。

 ダメだ……こんな軽いナイフでさえ持っていられない。

 がくりと両膝を落とし、弓塚にもたれかかる格好になる。
 
 

 ――結局、彼女の望んだ通り、か。まぁ、それも一つの救い……なの、かも、な……。
 
 

 白く霞んでいく視界の中、弓塚は涙を流しながら俺の血を飲み下して……
 
 

 ――え?……涙を流しながら?
 
 

「うっ……く……」

 頬を伝う涙。押し殺した嗚咽。小刻みに震える腕。

 ……なんてことだ。

 弓塚はまだ闘っている。

 自分の中の吸血鬼と。理性に襲い掛かる凶暴な本能と。

 あの時、紅い線が彼女の体に現れた時、彼女の『人間』部分が微かに復活し、吸血鬼と分離したんだろう。

 吸血鬼を抑えられるほどではないにせよ、自分の行動を認識できるぐらいに。

 本能と理性――吸血鬼と人間のせめぎ合い。彼女は泣いている。彼女は苦しんでいる。
 
 

 ――なにやってんだ遠野志貴。苦しんでる彼女を助けることができるのはお前だけなんだぞ!
 
 

「ぐう……!」

 かろうじて右手に引っかかっていたナイフを渾身の力で握り直して、弓塚に向ける。

 そして、『俺』が吸い尽くされるのとほぼ同時。

 ナイフは、紅い『点』のど真ん中を貫いた。
 
 
 
 
 
 

 賭けは、どうやら俺の勝ちらしい。

 払ったチップは……結構なモンだったが。

 スウッと弓塚の顔から苦悶の表情が消え、眠りにつく時のような安らかな顔で地面に倒れこんだ。

 規則的に胸が上下している。命に別状は……無いといいな。

 さて、人のことより自分のことだ。

 何せ、まったく体が動いてくれないときた。

 倒れている女の子の前でナイフを構えて硬直してる男。

 ……犯人に間違えられても文句は言えないな。いや、もう体に血が残ってないはずだから俺が被害者9号になるか。

 心の中で苦笑を浮かべると、視界が黒く澱んできた。

 意識も、徐々に霞がかっていく。
 
 
 
 
 
 

「強い同族の匂いを辿って来てみれば……なかなか面白いことになってるじゃないか」

 路地裏に響く、低い男の声。

 ぼやけていた意識がはっと覚醒する。

 背中に感じる、異形の気配。

 体が――既に血など残っていないはずの体が――熱く火照って、声の方向に体を向けさせた。

「ほう……おまえは……」

 その男は、俺を見てクック、と可笑しげに喉を鳴らした。

「――――」

 声が、出ない。声を出す力も残っていない。

「ククク、覚えてないか?オレだ。シキだよ、遠野志貴」

 シ……キ?誰……だ?

「その様子では暗示はまだ解けていないみたいだな。親父も厄介なことを……まぁいい。今の目的はおまえじゃない

 男は俺から視線を外し、弓塚の方へ向けた。

「オレの下僕に吸血されて、なおオリジナルの意志をもった死徒になるとは……。面白い女だな」

 その目が、静かな寝息を立てている弓塚を視姦していく。

 下僕に、吸血だって……?

「お、まえ……」

 必死に、声を絞り出す。

「ん?」

「おまえが、ゆ、みづかを……こんなに、したのか」

 男は表情を変えないまま答えた。

「正確にはオレじゃないな。オレの下僕どもが偶然この女から吸血した結果、女の霊的素養が反応して自らの体を作り変えたんだ。数十万人に1人の素質だそうだ。実に興味深いよ。―――おっと。こういう話になると知らないうちに口調がロアに変わっちまう。気をつけねぇとな

「――――!」

 なんて、ことだ。

 こいつが、全ての元凶。

 街で起こっている殺人事件も、弓塚があんな風になったのも、全て。

 熱い。

 ごう、と体を炎であぶられているような火照りが体を支配する。

「それに志貴、おまえもだ。どうやったのかは知らんが、一度死徒になっちまった奴をナイフで突いただけで人間に戻すなんて芸当ができるたぁな。そんな話はロアの知識にも無いぜ。七夜の血は魔だけを狩るってワケだ。たまんねぇな。」

 男が、何か言っている。

 しと、とか、ろあ、とか、ななや、とかわけのわからない単語だらけだ。

 ただひとつ、わかるのは。
 
 

 ――こいつこそ、殺すべき『敵』だということだけだ。
 
 
 
 
 
 

 体が、動いた。これまでで一番速く。

 ひゅっ

 しなやかにナイフを一閃する。だが浅い。

 そのままの勢いで、男の脇を通り抜けて振り返った。

「……オレの邪魔をする気か、志貴。予定より少し早いが……いいさ。おまえはこの場で葬ってやる。そうすれば秋葉はオレの元に返ってくる……」

 男が、陶酔した表情で自然体の構えを取った。

 ……秋葉?なんでこいつが秋葉の名前を……。

 疑問に思う暇もなく、感覚が戦闘用に研ぎ澄まされていく。

 ――見える。あいつの『点』は、胸のど真ん中。

 じり、とすり足で間合いを詰める。

「オレを殺すつもりか?無駄だな。ロアを取り込んだオレを殺すことなど不可能だよ、志貴。オレは『死』を超越したんだ。ヒャハハ……」

 わけのわからないことを言いながら、男は余裕で胸を震わせている。

 『死』を超越しただと?面白い。ならばお前そのものの『意味』を消してやるよ。
 
 
 
 
 
 

 飛び出した。一直線に男の胸を狙う。

 ひゅっ

 突き出されたナイフを、男は身を翻してかわした。
 
 

 ……速さでは向こうが上。どうする?

 ……決まっている。何度でもやるだけだ。
 
 

 再び突進する。だが避けられる。

「ふん、どうした?その程度ではオレに触る事さえ出来んぞ」

「く……」

 確かにそうだ。俺の必死の突進を、やつは余裕でかわしている。

 でも、弓塚をあんな目に遭わせたやつを絶対に許してなんておけない。

 ……やるしか、ないんだ!

 三度の突進。

「無駄だというのがまだわから……ッ!?」

 男の声が途切れる。

 見ると、男の体に何本もの剣のようなものが突き刺さっていた。

「こ、これはっ!?教会の奴らの黒鍵か!?しまった……!気配を見逃して……」

 男は、足を地面ごと剣に貼り付けにされて、動けないようだった。

「くっ……この波動はあの娘か!おのれ……!だが、オレを殺すことは出来ん!」

「…………」

 何が起こっているのかはわからないが……絶好のチャンスであることだけは確かだ。

 突進する足を速める。

 そして、胸にある『点』めがけて、渾身の突きを放った。
 
 

 とすっ、と、抵抗無くナイフの刃が『点』を捕らえた。
 
 
 
 
 
 

「……ごっ!?」

 がくん、と男は膝をついた。

「ば、バカなッ!?転生しない!?消える……?このオレが、ロアと融合した魂が……消えるというのか!?」

 胸を押さえて、男がもがき苦しみだす。

「き、キサマッ!志貴ぃっ!に、ニセモノの分際でッ!いっ、一体オレに何をしたんだ!?」

「偽者?……さあな。俺はただ、お前を……殺しただけだ」

「ころ……?ぐ、ぐおおおおおおおお!!!あ、あきはぁっ……!!」

 断末魔の叫びを上げて、男は一瞬にして塵と化した。

 ばさっ、と乾いた音が響いて、塵の小山ができる。

 やつの体に突き刺さっていた剣は、大気に溶けるようにかき消えた。

 それとほぼ同時に、積もっていた塵も巻き起こった一陣の風とともにどこかに吹き消えていった。

「…………終わったのか?」

 答えるものはいない。晩秋の、肌寒い夜の風が静かにそよぎ始めた。

 ふっ、と体の力が抜けて、俺はその場に倒れこんだ。

 ――もう、指一本動かせない。

「……弓塚、く……」

 なんとか擦れた声を発して、俺の意識は闇に落ちていった。
 
 
 
 
 
 

 暗い闇の中で、人の話し声が聞こえる。

「で?どーすんの、この子?教会に報告する?」

「……教会には報告します。『第七聖典で、ロアは魂ごと滅びた』と」

「自分の手柄にしちゃうわけね」

「……そう思うのなら、思えばいいです」

「そうするわ。それにしてもまさかこんな子供がロアを倒しちゃうなんてねぇ……世の中わかんないもんだわ」

「獲物を横取りされて、悔しいですか?」

「ま、ね。それもあるけど……この子の『能力』に興味が湧いてきたわ。死徒の中の吸血鬼だけを消すなんて離れ業を演じただけじゃなくて、あのロアでさえもナイフ一発で滅ぼしてしまう『能力』」

「……もしかして、自分の下僕にするつもりですか!?」

 じゃき、と金属が触れ合う音がする。

「そんなわけないでしょう?生まれてこの方、私は人の血を吸ったことが無いのが自慢なんだから」

「どうだか」

「…………」

「…………」

「ふぅ、どうでもいいけど、さっさと助けないとその男の子、死ぬわよ?」

「貴女が居るうちは安心して治療ができません」

「……わかったわよ。行けばいいんでしょ、行けば」

「そうです。さっさと私たちの前から消えてください」

「……シエル、ロアがいなくなったってことの意味、自分でわかってるわよね。あなたでは、もう絶対に私には勝てないわ」

「…………」

「まぁ、今回はその男の子に免じて退いてあげるわ。もう二度と会うこともないでしょうね。それじゃ」

 唐突に、気配がひとつ、消えた。

「…………」

 訪れる静寂。

 一瞬、視界が明転して青い色が見えた瞬間、今度こそ俺の意識は闇に沈んだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「……なんかおもしれーことねーかなー」

 月曜日の昼下がり。

 俺の席でうだうだと愚痴をたれる男が一人。

 言うまでもない、乾有彦その人である。

「自分の席でやれ、そういうのは」

「……親友甲斐がないねえ。愚痴ぐらい聞いてくれてもいいんじゃないのカナ?遠野君」

「暇人の愚痴に相手してるほど心は広くないんでね」

「ひでーな、オイ」

 かかか、と大口を開けて笑う。

「日常生活には刺激が必要なのだよ。『満ち足りた生活を得た人間の永遠の命題は、退屈をどう紛らわすかだ』と偉い人も言うておられる」

「……聞いたことがないんだが」

「そりゃそうだ。今俺が考えたからな」

 ……こいつは。

「……首締めて良いか、有彦」

「そいつはノーサンキューだ」

 有彦の首に伸ばした腕を、自分の腕でブロックする有彦。

「……大体刺激ってなんだよ」

「日常に潜むイベント!学内イチの美少女と廊下の曲がり角でぶつかる!美人の転校生が来てなんと席は自分の隣に!」

「……あほくさ。大体美人だ美少女だと……先輩はどうしたんだよ、お前。狙ってたんじゃないのか?」

 俺が言うと、有彦は怪訝な顔をした。

「先輩?誰のことだよ?」

「はぁ?何言ってんだよ。俺たちの共通の先輩って言ったら……」

「言ったら?」

「…………」

「…………」

「……誰だっけ」

「……お前ね」

 有彦が呆れきった表情を浮かべる。

「あれ?ちょっと待てよ……あれ?」

 誰か……そう、ちょうどこんな昼休みに、有彦と誰かもう一人いたような……。

「…………」

 ……思い出せない。

「おかしいな……」

 何か……そこだけ切り取られてしまったかのように、記憶がすっぽりと抜け落ちている。

「おいおい、しっかりしろよ遠野。まだ白昼夢を見るには若すぎるだろ」

「ん……」

「ま、睡眠はよくとるこったな」

 有彦はそう言うと、さっさと自分に席に帰っていった。

 ……愚痴を聞いてもらいたかったんじゃないのか、あいつは。

「……ふう」

 確かに、疲れてるかもな。

 色々非常識な事がわけのわからないうちに解決――したのかどうかはわからないが、俺の中では――してしまって、気が抜けたのかもしれない。

 弓塚は助かって自宅療養中だし、街を騒がせていた(であろう)吸血鬼も消えた。

 わからないのは、あの場で意識を失ったはずの自分が、次の日の朝には自分の部屋で寝ていたことだが……

 闇の中で聞こえた謎の声と関係があるのだろうか。

「―――……」

 窓の外に目を向けてみる。

 抜けるような――とまではいかないものの、おおむね晴れ。青いキャンバスに散りばめられた白い雲が、秋の空をなおさら高く見せていた。

 平和、って、言っていいんだろうな……。

「……なに言ってんだか」

 自嘲的に呟く。

 別に今まで平和じゃなかったってわけじゃない。偶然吸血鬼、なんて異分子が紛れ込んで、偶然俺や弓塚が巻き込まれただけ。

「…………」

 本当にそうか?

 もし俺や弓塚が巻き込まれなかったとして、吸血鬼なんて化け物がうろついてる街が――世界が、平和だなんて言えるのか?

「――結局」

 世界が平和だなんて夢想。死なんていつも自分と隣り合わせ。

 俺や周りの皆がのほほんとしすぎてるだけってことか。

 それでもまぁ……命の危険に直面して無事に今生きてるってことは、素直に喜んでいいんだろう。

 どちらにしろ、生きてること自体が楽しいって俺の感覚が変わるわけじゃないしな。

「――ん?」

 目線を空から下にずらすと、人影が目に入った。

 校庭のど真ん中に突っ立って、かけたメガネ越しにじっと校舎を見上げている女性。

 うちの制服を着てるから別に気にすることじゃないんだけど……

 違和感。

 なにか、おかしい。

 ふわっと彼女の青い髪が風になびいて、彼女を見ていた俺と目が合った瞬間。

「――あっ」

 曖昧な記憶とその女性の姿とが合致して、同時に、彼女は忽然と姿を消していた。

 ひゅうっ、と風が校庭の砂を巻き上げた。

「……シエル、先輩」

 その人物の名前を呟く。

 何か、とても楽しかったことを失ってしまったような漠然とした喪失感が、俺の心に去来した。

 彼女は、二度と自分の前に姿を見せることはない――そう、直感した。

 なぜかなんて、知る由もない。

「……くそっ」

 不可解だ。悪態のひとつもつきたくなる。

 最近、不可解なことが多すぎる。

 急な遠野の家への召還、現実に現れた吸血鬼、急に現れて消えてしまった妙な名前の先輩とそれを疑問にも思わなかった自分……。

 思わず、重い溜息をひとつ吐いた時、

 がらっ、と教室の扉が開く音がして、教室に悲鳴にも似た歓声が湧き起こった。

 何事かと、窓のほうを向いていた俺は首を廊下側に向けた。

「あっ、もう出てきて大丈夫なの!?」

「どうしたの?心配してたんだから!」

「そーそー、なんか……さんがいないと盛り上がりに欠けるんだよねー」

「よかったよかった」

 誰かが教室に入ってきたらしいが、歓声と人ごみにかき消されて誰かはわからない。

「ちょっと、ごめんね」

 喧騒の中、か細いながらもよく通る声が響いて、人ごみがまるでモーゼの十戒のように割れた。

 そこにいたのは……

「……弓塚」

 弓塚がいる。俺の、目の前に。

「遠野くん、こんにちわ」

 あの日と変わらぬ笑顔で、弓塚は口を開いた。

 周りの生徒たちは、水を打ったように静まり返る。

 俺はそんなこと気にもかけず、ただ呆然としていた。

「……弓塚、お前……」

「うん、もう体は大丈夫だから。学業復帰」

 体は大丈夫ってお前、それは。

「弓塚、お前……覚えてるのか?」

 あの夜のこと。吸血鬼のこと。……人を殺したこと。

 テレビでは、確か事情聴取で何も覚えていないと言っていたはずだ。

「……ううん。覚えてないよ」

 でもね、と弓塚は付け足した。

「でも、何か私が大変なことに巻き込まれて、それを遠野くんが助けてくれたってことだけは覚えてる気がするんだ」

「……弓塚」

「だからね、ありがとう遠野くん。約束、ちゃんと守ってくれて」

 満面の、まさにそんな表現が似合いすぎるぐらいの笑顔を浮かべて、弓塚はそう言った。

 見ているこっちが照れるくらいに、眩しい笑顔。

 すべてを忘れて、都合のいいことだけ覚えていて、極上の笑顔を浮かべる彼女。

 いや、きっとそれが一番いいんだ。誰も弓塚を責めることなんてできやしない。あんな記憶を引きずったまま生きていくなんて、苦しすぎる。

 都合が良すぎる?それでいいじゃないか、何の不都合がある?昔からこういうだろう。

「……約束、したしな。なんにせよ……お帰り、弓塚」
 
 

 ――終わりよければすべてよし、ってね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 余談であるが……この後、クラスの連中に『ドラマのワンシーンみたい』だのと散々冷やかされたのは言うまでもない。

 どうやら、これまでより少しだけ騒がしい日常が、俺を待っているらしい……
 
 
 

Satuki Yumiduka Happy Ending"Daily life as the place"
 

Fin……


 
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