「お待たせ、翡翠。それじゃ行こうか」
お屋敷から出てきた志貴さまにはい。と返事をお返しして後に続く。
そんな私を彼は決まり悪そうに見つめた。
「あのさ、翡翠」
「なんでしょうか?」
別に忘れ物も無いはずだし、戸締りもしている。
なにかありましたか、と見つめ返した私に彼は決まり悪そうに話し掛けてきた。
「寝坊したのは悪かった。せっかく翡翠と出かけるって言うのにこれじゃ全然しまらないもんな」
「はい」
否定できない事実なのではっきりお答えすると、なにか擬音を伴うように一瞬固まられた。
「けどさ、その、後ろに付き従うのは止めてくれないかな。屋敷の中ではしょうがないにしても、外では翡翠には俺の隣を歩いてもらいたい」
「…………」
秋葉さまと姉さんがいなくなってからも、私と志貴さまの関係はそれほど変わらなかった。
志貴さまは自分のことに関して無頓着なせいか身の回りのこともそれほどできるわけではないし、私は今までどおり志貴さまのお世話をすることは嫌なはずも無い。
だからお屋敷の中では相変わらずメイド服に身を包んで、姉さんがいたころよりも幾分増えた仕事をこなしている。
久しぶりに私服に着替えたとき、枷が外されたような軽さを感じたけれど、必要なことであるし、お屋敷で身につけたことは全てが悪いことではないと思えたから。
でも、彼は私にこう言った。
「翡翠のことは身の回りの世話をしてくれるだとか命を支えてくれるだとかそういうことじゃなくて、大切な人だから」
だから、少しずつでも関係を変えていこう、と。
それを忘れたわけではない。どうしても「志貴さま」とお呼びしてしまうけれど、最近はそんなにお仕えするだけの身です。という態度を取っているわけではない。
ただ、理由があってちょっと拗ねて見せているだけ。
それは志貴さまもわかっているけど、寝坊以外に原因を思いつかれないから慌てられている。
「申し訳ございません」
「あ、いや、別に責めているワケじゃないんだ。ただ、俺としてはデートのときくらい翡翠にももう少し気楽にして欲しいと言うか、その、なんだ、そんなんじゃせっかく気合入れておめかししていて、すっごく似合っているのにもったいないと言うか……」
ぼっ
頬に血が昇って行くのがわかる。
正装とは言えそうにも無いが、きちんとまとめた服装。
格式ばったのが苦手な志貴さまにあわせて自分なりに精一杯のことをしたから、気付いて欲しかったのだけれど、いざ言われると顔が熱くなる。
「……い、いこうか」
「…………はい」
無言になってしまったまま、街への坂を下って行く。
……なにか、気まずい。
普段なら私が赤くなるとからかってこられるのだけど、どうやら志貴さまも恥ずかしいらしい。
でも立ち直られたら一方的にからかわれるだけだから、先手を打たないと。
「今日見に行くのはお芝居でしたよね」
不自然にならないように、話を逸らしてみる。
タイミングを間違えると志貴さまに付けこむ隙を与えるだけだが、今回は上手く行ったようだ。
「あ?ああ。なんだか有彦のヤツに薦められてさ。『思いっきり大笑いできっからストレス解消にはもってこいだ!!』ってさ」
「……どんなお芝居なんでしょう?」
「さあね。勝手気まま、自由気まま。ストレスと無縁のアイツが言うんじゃいまいち信憑性が薄いけど、わざわざ薦めてくるんだから損は無いと思う」
そうでしょうね。と相槌を打つ。
有彦さんは志貴さまの中学からのご学友だ。
最初にお会いしたときはその、今まで見たこともない類の方だったので戸惑ったけれど、志貴さまのことを何かと気にかけて下さっているようだし、なにより志貴さまが酷い形容をされながらも信頼されている方だ。
冬休みの旅行でもいろいろ教えて頂いたし、今度のことも何かとお世話してくださったのだろう。
「予想している物とは違うかもしれないけどね。ま、そこは見てのお楽しみって事だな」
何かうれしそうにそう締めくくられた。その笑顔に釣られて私の口元も少しほころんでいるのがわかる。
そして、再び黙って歩く。でも、今度の沈黙に気まずさは無い。
――幸せだな。
改めて、そう感じた。
遠野のお屋敷に来てからのうれしいことはすべてこの人がかかわっている。この人が一緒にいるときが私と秋葉さまの幸せなときだった。
8年ぶりに彼が戻ってきた時は姉さんも幸せだったと思う。
いまその幸せを享受できるのは私一人しかいない。
お屋敷での唯一の幸せを独占しているかと思うと申し訳無い気分になるときがある。でも、これは私だけでなく姉さんが、そしてもしかしたら秋葉さまが見た夢そのもの。
私は三人分の夢を叶えているのかもしれない。
一緒に出かける約束をして。
起きるのが遅いと少しだけ拗ねて見せて。
恋人として隣を歩いて欲しいとお願いされて。
何でも無い話をして。
隣にいることを何よりもうれしく思って。
夢の中でも見られなかったそんな日々を、私は過ごしている。
「――あ」
「志貴さま?」
ふと、彼が立ち止まった。
何か気になるものがあるらしく、一箇所をじっと見つめている。
「――?」
彼の目線を追った。
そこは小さな公園で、よく似た少女達が遊んでいる。おそらくは双子なのだろう。
一人は活発によく動いている娘。
もう一人は大人しそうで、活発に動いている方に引っ張られている。
「ほら、おそいおそい!!」
「待ってよ。わたし、そんなに速く走れない」
とても楽しそうな風景。
私と姉さん持てなかった幼い日。
私がこんな日々を共有したのは志貴さまと秋葉さまとで、姉さんとはこんな風に遊んだ記憶は、ない。
それでも、どこか在りし日の私達を見たような気がした。
「えー?もう見つかっちゃったの?」
「だってじっとしていないんだもん。すぐわかるわよ」
どうと言うことの無い遊びをとても楽しそうに続けている子供達。
見ていて少しうやらましくてとてもほほえましいけれど、道端でいつまでも見つめているのは少し、変かもしれない。
それに、そろそろ本当に時間に余裕がなくなってきている。
「志貴さま、そろそろ急がないと……志貴さま?」
応えはない。
少女たちをじっと見つめている彼の手はきつく握り締められていた。
聞くまでも無い。
姉さんのことを思い出しているのだろう。
あの日、屋敷に帰ってきた私は冷たくなっていた姉さんの躯を見て半乱狂になった。
その私をなんとかなだめ、落ち着かせてくれたのは彼だったが、姉さんのいまわの際を見届けた志貴さまも、心に深い傷を負っていた。
――何で助けられなかったのか。
――何で気付いてやれなかったのか。
いつもは何でも無いように振舞っておられても、こんな、ふとした拍子にそんな後悔にとらわれてしまう。
「…………」
ぎゅっと、拳を握り締める。
姉さんのことも、秋葉さまのことも、志貴さまが負い目に感じることではない。
けど、理屈を言ってもそれは慰めにはならない。
私と同じように、二人の想いを背負っているから。
「あ、悪い。ちょっとぼんやりしてしまった」
「……いえ」
何でも無かったようにようにこちらを向いて笑顔を浮かべられる。
ばつの悪そうな、どこかに無理のある、笑顔。
「そうだったよな、いいかげん急がないと開演に遅れ……どわっ?」
何を言ったらいいかわからなかった。
どんな顔をすればいいのかわからなかった。
だから、何も言わずに腕を取ってそのまま引っ張った。
「ちょ、ちょっとちょっと翡翠?」
幼いころの私にとってこの人は日溜りだった。
八年経って再会したときは日溜りのままに、お屋敷に風を入れてくれた。
私に、世界を広げて見せてくれた。
メイド服から着替えさせて。
お屋敷から連れ出してくれて。
遠野に関わりの無い人にあわせてくれて。
恋を、教えてくれた。
だから、閉じこもりそうになったときは私が彼を引っ張り出す。
理屈にならない理屈で。
ただ、出てきて欲しい。そう思った気持ちのままに。
導かれるままに踏出しつづける一歩を添えて、笑顔を浮かべる。
「そうですよ。遅れてしまいますよ、――志貴!!」 |