おひさま。 海燕
毎朝のこととはいえ、流石にこれは……。
「志貴〜。あさだよ〜」
脳天気な、それでいて逆らいづらい声――これは、アルクェイドか。
あぁ、助かった。翡翠じゃなくて。
この前は大変だったよな。いつの間にか秋葉は隣で寝ているし、それを見た翡翠は暴走するし。
秋葉じゃないから、まぁ、いいか。では、お休みなさい。
再び睡魔に身を委ねた。「いい加減に起きないと、襲っちゃうぞぉ〜」
物騒なことを、小声で、しかも耳元で囁いてくれる。
襲うってことは、やっぱり、アレ、だよなぁ。――待て! それは不味い!!
もうすぐ翡翠が来るんだぞ!!!
起きようと身体を起こす。いや、起こそうとした。
でも、起きられない!?
何かが身体を押さえつけている。それを跳ね除けようと手を動かす。……が、動かない。押さえつけられている!
瞼を開くと、目の前にアルクェイドがいた。
やっぱり美人だよな。
などと思った瞬間。
唇を奪われた。
あのときと同じ、純粋な求愛行動のキス。
突然の行動に反応出来なかった。
粘着質な音が途切れて、ゆっくりと唇が離れていった。
おれは大きく息を吸った。「何するんだ、いきなり!」
「そうしろと囁くのよ、わたしの本能が」何時になく真面目な顔でそう言うと、また唇を奪われた。
なんとか腕を間に入れてキスをやめさせる。「何で邪魔するのよ、こんな時間しか二人っきりになれないのに」
「それはそうかもしれないけど……」
「でも、今日はねぇ」真面目な顔も笑顔になっていく。まさに、いつもの笑顔。おれに飛びかかる時のそれだ。
「志貴とキスしたかっただけなんだよ!」
まさに悪戯する時のそれで、勢いよくおれに覆い被さってくる。
「ちょ、ちょっと待って、まだ、心の準備が」
「あたしは準備出来てるもん」この状態は不味いよな、などと諦めつつ、唇が離れるのを待つ。この状態じゃ逃げようもない。
流石に突拍子もない行動にも慣れたのか、心にはまだ余裕が残っている。
しかし、そうは問屋が卸さないらしい。
扉の開く音がして、いつものように翡翠の声がした。「志貴さま、お目覚めでござ……っ!」
言葉が途切れた。
息をのむ。
不味い。非常に不味い。言い逃れは、出来ないだろうな、多分。
唇を奪われたままの自由の利かない顔を僅かに動かして、声の方向に視線を向ける。
そこには、微笑みを浮かべた、しかし瞳は全く笑っていない翡翠がいた……。
§ § §
ぼろぼろになって玄関を出た。
ベッドの状況を見られた後、アルクェイドは翡翠に文字通り摘み出され、騒ぎを聞きつけた秋葉にベッドの上で問いつめられ、琥珀さんが止めてくれなければ今頃おれは……いや、口にしない方が良いだろう。何処で誰に見張られているか判らない。
あえて一言で言うならば、微笑む秋葉と翡翠には何があっても逆らうな、か。所詮男って生き物は、永遠に女には勝てないように出来ているのだ……。「……優しさのない家族だぜ……」
背後に翡翠がいないのを確認して、呟きながら門を出た。
当然そこには、「あ、おはようございます、遠野くん」
塀にもたれ、つま先で小石を蹴っているシエル先輩がいた。
以前は玄関で待っていたが、最近は何故か門の前で待っていてくれる。翡翠と何やらあったらしいが……翡翠の今朝の様子から考えると、怖くて訊けない。「土曜日ですね」
坂を下りながらシエル先輩が言った。
「そうだね」
当たり障りのない言葉で反す。
「土曜日ですね」
「そうだね」
「土曜日ですね」先輩の声が少し固くなった。どうやら『土曜日』が問題らしい。
「土曜日だね」
「……忘れたんですか?」固い声が冷たくなる。
土曜日。そう言われてみると、何かあったような気がしないでもない。
大切な何かがあったような気がする。
大切な……。
ふと、時計を見た。今日は土曜日。そして学期末。
しまった!「今日って、終業式!?」
ウチの学校は終業式前に大掃除をするため、平日よりも始業が早くなる。
また、普段の土曜日は、時間割の関係で平日より遅く始業する。
つまり、終業式の当日は平日通りの時間に門が閉まるということ。
いつも通りの時間感覚では、とてもじゃないが間に合わない。
いわゆる『遅刻決定』ってヤツですか?「だから言ったじゃないですか、土曜日ですね、って」
シエル先輩が呆れたように言う。
「空が青いなぁ。ねぇ、こんな日は海に行きたくならない?」
「韜晦している暇があったら急ぎましょう。早く行かないと、余計な仕事をさせられますよ」空を見上げるおれの襟を掴んで、シエル先輩が歩き出す。
先輩に引きずられながら、頭に浮かぶ物事を流れ出るままに口にする。「お昼はカレーが良いかなぁ。そう言えば学食って今日は……」
「歩いてください、遠野くん!」
§ § §
「だから言ったんですよ、早く行かないと〜って」
シエル先輩の言葉はかなり冷たい。視線が痛いのは気のせいじゃないだろう。
遅刻のお仕置きは職員室の資料整理(の手伝い)。昼過ぎに片づけたとはいえ、余計な仕事をさせられた事にかわりはない。
おれが急いでいたら手伝わずに済んだのは確かなわけで。
だから、今日は残りの時間を全部シエル先輩と過ごす。少しばかりの罪滅ぼしだ。もちろん朝のアレの罪滅ぼしもかねていたりする。
週末の午後、しかも長期休暇が始まる所為か、街にはいつもより学生の数が多いようだ。そんな中を、2人で歩いている。「せっかくのデートだっていうのに、これじゃ台無しじゃないですか」
「まだ時間はあるよ。今日が終わるまで、まだ11時間残っているんだから」今日は一日中デートする約束をしているんだし、遊ぶ場所も沢山あるから問題ないだろう。この街に無ければ違う場所に行っても良いし。
「先輩、何処に行きたい?」
「そうですねぇ、お茶でも飲みましょうか。お昼も済ませていませんし」先輩の指さす先には一軒のファミリーレストラン――『ファミレス』と略すと秋葉がうるさい――があった。何でも、ケーキとパイなどのサブメニューが美味しいらしい。それを先輩に言うと、
「それじゃあ、そこにしましょうか」
抱えたままの腕を引かれた。
引きずられる。
止められない。
もう、どうにも止まらない。「パイでもケーキでもカレーでも、そんなモノは何でも良いんです。とにかく早く行かないと見つかりますよ」
「誰に?」
「口に出したら、きっとその本人が来ちゃいますから教えません」
「それってやっぱり……」その名を口にする寸前、首筋に妙な寒気がした。
横に動かなければ危ない。横に避けろ。今すぐに。
頭にそんな声が響く。いや、叫びと言うべきか。
何故かその声に従う気になった。避けた方が良い。自分の感覚とその声が一致していた。
シエル先輩も異様な気配に気付いているようだった。あの夜の冷たい顔でおれを見た。「……遠野くん、アルクェイドが何かヤバイこと考えてるようですよ。用意出来てますか?」
「不意打ちで良ければ」そう返した直後。
「しぃ〜きぃ〜」
遠くで声がした。その声は、まるで救急車やパトカーのサイレンが近づくように、徐々に大きくなっていく。
声の持ち主が誰かは思い出すまでもない。今朝もその餌食になったのだから。
そうこうしているうちに声が近づいてきた。そして足音も大きくなっていく。
組んでいた腕を解き、眼でタイミングをあわせて離れる。
次の瞬間。「みつけたよぉ〜」
おれと先輩の間をその声と共に金色の流れが通り過ぎていった。そしてその先にはレストランが……。
思わす目を閉じた。
闇の中で聞こえたのはガラスの飛び散る音、そして怒号と悲鳴。
おれの思ったとおりなら、この程度で諦めるようなヤツじゃない。
先輩と顔を見合わせた。そろってため息を吐く。
急いでこの場を離れた。
離れたところでまた追ってくるんだろうが、この場に止まるよりはマシなはずだ。
§ § §
「何を考えているんでしょうね、あのあ〜ぱ〜吸血鬼は」
ストローから唇を離してシエル先輩は言った。
「避けなかったら、遠野くんが死んでたじゃないですか」
大層ご立腹らしい。その証拠に、先輩の傍らには積み重ねられた皿の山がある。
「それにしてもよく食べられるね、そんなに……」
「怒るとお腹が減るじゃないですか」なおも食べ続ける先輩に、ウェイトレスが追加の皿を運んできた。
追加で5皿? カレーを?? 大盛りじゃないのか、その皿は???
思わず胃を押さえた。見ているだけで胸焼けをおこすというのはこのことか。
それにしても、おれには先輩が怒っているようには見えない。拗ねているだけ。そんな感じだ。
……正直に言おう。いまの先輩は非常に可愛い。
年上に対してこんな言葉を使うとは思わなかった。でも、幸せそうに――一応ご立腹のはずだが――カレーをパクつくその姿を言い表すにはこれが一番良い、そんな気がする。
視線を転じて店内を見る。アルクェイドの突撃から逃げ出したおれと先輩は、小綺麗な店先に引かれてここに入った。
コンクリート打ちっ放しの外観とは裏腹に、店内はランプに照らされて結構良い雰囲気だ。
どことなく、喫茶店よりも大正時代の『カフェ』という雰囲気。ウェイトレスと言うよりも、メイドと言った方が良い制服といい……この店って、どういうコンセプトなんだろう。
流石にこういう店で抹茶を頼むわけにもいかない。というよりもメニューにない。
仕方なくコーヒーを頼んだのだが、これがまた苦い。そして香りがきつい。メニュー曰く、イタリアン・ローストというやつらしい。
嫌いなわけじゃないが、コーヒー自体を飲み慣れないのも確か。まぁ、ここではこういったものが普通なのだから気にしないことにする。
和菓子に抹茶が欲しいなぁ、などと思いつつ、目の前のパイにフォークを刺した。「それにしても平和ですね。彼女がいないだけでこんなにゆっくりと時間が流れるんですから、いっそひとおもいにとどめを……」
「でも、おれを助けてくれたんだから、そう無碍にも出来ないよ」
「それは……そうですけど……」先輩はフォークをくわえたまま上目遣いでおれを見た。
「遠野くん、そんなに浮気したいんですか?」
「いや、別にそう言うわけじゃ……ないけど」
「……なんですか、その間は? その間が怪しいです。そりゃあ確かに、わたしよりはスタイルも良い……かもしれないし、積極的ですから、遠野くんも悪い気はしないと思いますけど……」先輩はくわえていたスプーンを握りなおした。先端を上に向け、身を乗り出して力説する。
「遠野くんはわたしの彼氏なんですから、たとえ誰であっても浮気なんかしちゃ嫌ですからね」
「いや、そのつもりはないけど……」
「――無くてもダメです。しっかりと約束してください」顔を真っ赤にして力説するその姿は、まさに可愛い。少しくらい悪戯心を出しても文句は言われない、よな?
先輩が身を乗り出しているのを幸いに、おれはその唇を奪った。
一瞬だけ触れ合わせて離れる。
よくもこんなことが出来たものだと自分を誉めてやりたい。
自己満足に浸りながら先輩を見ると――動かない。
固まっている。そして面白いように顔の赤みが広がっていく。
耳どころか首筋まで真っ赤に染まった。「な、な、な、なにするんですか、突然!」
身体を戻して唇に指先を添えながら先輩が言う。
「こ、こ、こんなところを誰かに見つかったら」
「声が大きいと簡単に見つかると思うけど」先輩が声を詰まらせた。
少し悪戯が過ぎたかもしれない。「ごめん、先輩」
「謝るくらいなら最初からしないでください」嬉しいですけど。先輩はそう言ってうつむいた。
周りの面子が濃いだけに、先輩のこういった反応はまるで一服の清涼剤のようだ。「そろそろ出ようか」
先輩の反応が変わらないウチに、店を出ることにした。時には主導権を握ってみたくなることもあるのだ、おれでも。
§ § §
シエル先輩との束の間の逢瀬を終えて屋敷に戻ったときには既に門限のかなり後。
当然、玄関では微笑みを浮かべた翡翠が、リビングでは怒りのあまり笑顔を作りざるを得なくなった秋葉が待っていた。
ついでに琥珀さんには自白剤入りのお茶を飲まされて、何故遅くなったのか根ほり葉ほり質問された。
審問官が増えたということは、この後のおれの運命は言うまでもない、だろう。