体に与えた勢いそのままに、大地を蹴る。

 空中で思い切り体を縮める。弓をいっぱいに引き絞るように。

 木の幹に足が触れた瞬間、引き絞った弓を解き放つ。

 そしてまた空中で弓を絞る。

 あとはその繰り返し。徐々に高度を上げていく。

 目標に達する頃には、遥か上空からの奇襲となる。

 

 びゅうびゅうと風を切る音。ときおり身体をかすめる木の枝。

 我ながら、なんとも非常識な動きだ。

 

『まるで、猿だな』

 

 頭の中の、奇妙に冷めた部分が苦笑と共にこぼす。

 そう、思考は冷めていた。

 限界を超えた動きと、その行為。身体はこんなにも熱く、心臓は早鐘のようであるのに。

 俺は、冷めていた。

 

 最後の跳躍。

 自然落下に加え、真下に向けて木を蹴って、更なる速度を得る。

 死角からの、理想的な奇襲。

 “あいつ”は相変わらず立ち尽くしている。

 

「これで、終わり」

 

 風切り音にかき消され、自身の耳にさえ届かぬ、呟き。

 しかし、“あいつ”はまるでその呟きに応えるかのように、ゆっくりとこちらを振り向く。

 

 真っ赤に染まった躯。

 真っ赤に染まった髪。

 真っ赤に染まった唇。

 真っ赤に染まった瞳。

 真っ赤に染まった――微笑み。

 

「さよなら、秋葉」

 

 

 僅かな、手応え。

 

 右手のナイフが

 真っ赤に染まった胸の“点”を外れることなく

 貫き通した。

 

 秋葉の“死”を

 

 貫き通した。

 

 

 

 


かげろう

2001/05/12 久慈光樹


 

 

 

「志貴さま、あまりご無理をなされては」

「ん、大丈夫だよ」

 

 翡翠の心配そうな声も、いつものことだった。このような会話は毎朝のことで、言わば繰り返される儀式のようなものだ。

 心配そうな翡翠の声も、気遣うような琥珀さんの視線も、今では慣れたものだった。

 

 心神喪失状態の秋葉に、自らの血液を与えることは、俺自身が言い出したことだった。

 自分で言うのも情けない話だが、遠野志貴は体が丈夫な方じゃない。それどころか虚弱といって差し支えないだろう。

 とても他者に血を分け与えられるような健康体じゃないのだ。

 医学の心得のある琥珀さんには、随分と反対された。

 実際問題、もう何度も倒れたことがある。

 だが、秋葉に他者の血を飲ませるなど、耐えられなかった。

 

 秋葉。

 大切な妹であり、大切な女性。

 意地っ張りで、素直じゃなくて、かわいげがなくて。

 それでも最も大切な、俺自身よりも大切な秋葉。

 遠野の血に呑まれ、自己の無いモノに成り果ててしまったとしても。

 秋葉は俺の全てだった。

 

「ん、じゃあ行ってくる」

「はい……」

 

 秋葉に血を飲ませるのは、毎日の事だ。

 あの一件以来、あいつは話もしなければ、笑いもしない。

 ただ差し出される俺の腕に噛み付いて、血を啜るだけ。

 だが、それでもよかった。

 秋葉が秋葉で無くなってしまったとしても、ただそこに居てくれるだけでよかった。

 それだけで、よかったのに。

 

 

 

§

 

 

 

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ

 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ

 

 喉が焼けるように痛い。

 体の節々が軋む。

 体中が限界であることを伝えてくる。

 

 今座り込んでしまったら、もう二度と立ち上がれないに違いない。

 座り込んだらどんなに楽だろう。

 手にしたナイフを放り出し、横になれたらどんなに楽だろう。

 だが、それは死を意味する。

 だから座ることはできない。

 まだ、死ぬことはできない。

 

 ガサリ

 

 来た。

 地面に積もった赤い落葉。

 それを踏みしめる音に、緊張が走る。

 

 美しい着物をその身に纏い、体の周囲に陽炎(かげろう)をゆらめかせながら。

 彼女は陽炎と共にあった。

 

「あははははは」

 

 本当に楽しそうな笑い声。

 それは、童女のように無垢な、でもだからこそ残酷さに満ちた笑い声だった。

 

 

 

§

 

 

 

 離れの和室。

 かつての俺の部屋であり、今では秋葉の部屋となっている。

 秋葉に血を与えるのは、いつもこの部屋だ。

 

 繰り返される毎日。

 秋葉は何も話さない。笑うこともしない。

 日がな一日、ぼんやりと布団に座り込んでいるだけ。いつ寝ているのかもわからない。

 俺の腕から血を啜るときだけが、秋葉が生きていると呼べるときだ。

 

 その姿は儚く、まるで蜻蛉(かげろう)。

 短命ではかないもののたとえ。

 蜻蛉は美しく羽化しても数時間しか生きることができないという。

 

 だけど、それでも構わない。

 秋葉がそこにいてくれる。たとえ生きていると呼べないような状態であっても、俺のそばにいてくれる。

 ただそれだけでいい。

 

 ああ、なんだ、そうなのか。

 俺は……。

 

「秋葉、入るぞ……」

 

 和室には、布団が一組。

 秋葉がいつも座っている、彼女の唯一の場所。

 

 だが

 

 

 そこには、誰も、いなかった。

 

 

 

§

 

 

 

「ぐぁ!」

 

 秋葉の繰り出した右腕の一撃が、肩口を掠めた。

 さほど力のこもった一撃には思えなかったが、ただそれだけで左肩は抉れ、血が噴き出すのがわかる。

 

「あははははっ!」

 

 たまらず距離をとろうとする俺に、笑い声を上げながら追いすがる秋葉。

 猫が捕らえた鼠をいたぶるように残酷に。

 幼児が捕らえた虫の足をもぐように無邪気に。

 その動きは野生の獣そのものだった。

 

 熱風と共に信じ難い速度で迫る、陽炎を身に纏いし獣。

 

 大きく後ろへ跳ぶ。

 そして右足が大地を捉えると同時に、思いっきり右方向に跳ぶ。

 急激な方向転換。慣性を無視した無茶な動きに右足の腱が悲鳴をあげる。

 だがその甲斐あって、俺の姿を捉え損ねた秋葉は大きく体を泳がせる。

 俺の眼前で、だ。

 

「ふっ!」

 

 狙いは右腕。二の腕に走る線に沿ってナイフを走らせる。

 その行為になんの躊躇いも感じていない自分を、不可解に感じながら。

 

 かわされたっ!

 

 およそ考えられる限り最速の斬撃だったにも関わらず、まるでその斬撃が来るのを承知していたかのように、避けられた。

 即時に後ろに跳ぶ。

 半瞬前に俺の頭があった空間を、鋭い刃物のような爪が凪ぐ。熱風が頬を叩く。

 体を半回転させるような体勢からの左腕による一撃。

 空振りの勢いを利用してそのまま体をもう半回転させ、うつぶせになるような格好で四肢を大地につける秋葉。正に猫のような柔軟さだ。

 四つん這いになったまま両手両足で大地を蹴り、3メートル近くも後方に飛び退る。その動きは人間のものではなかった。

 

 再び間合いが離れる。

 肩に痛打を食らった俺と違い、秋葉は無邪気な笑みを浮かべたままだ。息すら乱れた様子が無い。

 

 まずいな。

 このままじゃ、ジリ貧だ。

 

 だが不思議と焦燥は感じていなかった。

 これだけの力の差を見せ付けられて、絶望に捕らわれてもおかしくない状況であるにも関わらず。

 

 いつしか。

 俺の顔にも笑みが浮かんでいることに、俺自身、この時はまだ気が付いていなかった。

 

 

 

§

 

 

 

 秋葉のいない離れ。

 主を失い、どこか寒々しい雰囲気を漂わせている。

 

 どのくらいそうしていたのか。

 ふと我に帰る。

 誰もいない布団。誰もいない部屋。

 秋葉は、いない。

 その、意味。

 目の前が真っ暗になっていくような絶望。

 

「そんな……」

 

 俺の血を飲ませる事で、秋葉は満足していたと思っていた。だからこそもう危険は無いのだと、そう思っていた。

 いや、思いたかったのか。

 

「なんでだよ……」

 

「なんでだよ、秋葉……」

 

 

 

§

 

 

 

「あはははははっ!」

 

 ひときわ大きな笑い声をあげる秋葉。

 瞬間。

 

「ぐっ!」

 

 突如として左腕に巻き付くように出現した紅い髪。右手に持っていたナイフで瞬時に切断する。

 感覚の無くなった左腕に戸惑う。まるでドライアイスを押し付けられたような、そんな感覚。

 これは何だ? どうなっている?

 

「あはは、あははははっ!」

 

 無邪気に、本当に楽しそうに、秋葉は笑う。

 瞬時に飛びのいた俺の居た空間に、絡み合うように出現する紅の髪。

 俺を捕らえ損ねた髪のいく束かが、背にしていた木の幹へ巻き付く。

 巻きついた個所は瞬時に焼き消された。

 徐々に感覚の戻ってきた左腕。同時にズキズキと痛みが湧きあがってくる。

 

 見た目に惑わされるな。秋葉の能力は燃焼などではない。

 

 いつだったか、秋葉自身の口から聞いた。

 彼女の能力は奪取。この左腕は、熱を奪取された結果なのだ。

 

「くっ!」

 

 またしても飛び退く俺、そしてまたしても俺を捕らえ損ねる赤い髪。

 

 強い!

 

 視界に捕らえるまでもなく、隠れている俺を察知するかのように伸ばされる赤い髪。

 いや、実際に髪の毛が伸びてくるわけではないのだ。何も無い空間から突然赤い髪の姿をしたモノが出現し、襲いかかってくる。

 その能力はある種の“結界”なのかもしれない。自らの周囲に張った結界に侵入するものを自動的に感知し、赤い髪のイメージで捉える。

 恐らくあの赤い髪は秋葉の“力”の顕現にすぎない。

 そしてその“力”に捕われたが最後、体中の熱を奪われ尽くされる。自然界ではありえないほどの急激な温度低下により、凍る間もなく気化してしまう。

 

 果たして、俺にできるのだろうか。

 今の秋葉を、殺す事が。

 

 ナイフを握る手に、汗がにじむ。

 背中にも、冷たい汗が伝うのがわかる。

 

 だが、俺の顔に浮かんだ笑みは、ますます深くなっていく。

 鏡を見れば、本当に楽しそうな表情が写っていることだろう。

 

 今になって。

 やっと俺はそれを自覚した。

 

 

 

§

 

 

 

 秋葉はいない。

 

「なんでだよ……」

 

 何故? 何故? 何故? 何故?

 

 頭の中でその言葉だけがぐるぐると回り、目がチカチカして、吐き気がする。

 何が起こったのか、何が起きようとしているのか。

 解っているくせに、認めようとしない。認めたくない。

 これからどうすればいいのか、どうするべきなのか。

 解っているくせに、認める事ができない。

 

 ガタン

 

 部屋の襖に何かがぶつかる音。反射的に振り返る俺。

 眼前には。

 

 美しい着物を、美しい真っ赤な液体で染めた……

 

 秋葉。

 

 

 

§

 

 

 

 おかしい。

 絶対に、どこかおかしい。

 

 大切な妹。大切な女性。俺自身よりも大切な秋葉。

 その秋葉と殺しあっているという悪夢のようなこの状況。

 

 それなのに、俺は笑っている。

 本当に楽しそうに、笑っているのだ。

 

 まるで

 

 殺し合いを愉しむかのように!

 

 

 赤い髪による攻撃に飽きたのか。

 再び自らの体で襲い掛かってくる秋葉。

 

 思わず俺は叫んでいた。

 

「やめろ! こんなことはもう、やめろ!」

 

 やめる?

 何をやめるんだ?

 

「どうして俺とお前が殺しあわなくちゃいけないんだよ!」

 

 こんなにも愉しいのに?

 こんなにもぞくぞくするのに?

 

「やめろ! 秋葉!」

 

 そういえば

 

「やめろ!」

 

 問答無用で襲い掛かってきた秋葉に応戦してから、『やめろ』と叫んだのは

 

「やめろーー!」

 

 これが初めてじゃなかっただろうか?

 

 

 

§

 

 

 

「あ、秋葉……?」

 

 着物に付着しているのは、間違いなく、血だろう。

 よく見れば、幼子のような笑みを浮かべるその唇も、真っ赤に血塗られている。

 秋葉に何が起こったのか、何をしてきたのか。

 その様子を見れば、一目瞭然だった。

 

 

『死は救いにならない』

 

 こんな時なのに、ふと、そんな事を思い出した。

 “死んだ方がまし”

 そんな状況は確かに存在する。

 理性はなく、罪の意識もなく、ただいたずらに人を殺し続ける。

 そんな状況下に立たされたら、俺だって死んでしまった方がましだと考えるだろう。そうなる前に、殺して欲しいと、そう思うだろう。

 

「だけど」

 

 だけどそれでも。

 そばにいてほしかった。そばにいたかった。

 

『死は救いにならない』

 

 奇麗事。

 そう、そんなことは奇麗事だ。ただ、理由が欲しかっただけ。

 俺は、ただそばにいてほしかっただけなんだ。

 秋葉に、そばにいてほしかっただけだけなんだ。

 そんな簡単なことがわからなかったなんて。

 手遅れになってみて、初めてそんな簡単なことに気がつくなんて。

 

「はははは……」

 

 可笑しい。

 

 やっぱり俺は、バカだな。

 

「なあ、秋葉」

 

 

 

§

 

 

 

 紅赤朱。

 人ではないモノ、人から外れたモノ。

 陽炎を纏い、ヒトという種を脅かす、異形の存在。

 

 狩らねばならない。

 

 自然の摂理から外れた存在は、狩らねばならない。

 

 

 殺せ・殺せ・殺せ

 殺せ・殺せ・殺せ

 

 コロセ・コロセ・コロセ

 コロセ・コロセ・コロセ

 

 

 コロセ

 

 

 

§

 

 

 

「なあ秋葉、もう、ダメなのか?」

 

 戻れないのか?

 蜻蛉のように儚くとも、いっしょにいることができた日々には。

 もう、戻れないのか?

 

「あははははっ!」

 

 恐らくは俺の言葉の意味など解してはいないのだろう。

 無邪気な笑い声。

 

 血。

 秋葉は血に染まっていた。

 血。

 他者の血。

 誰かの血。

 

 そこで、気がついた。

 あれは、誰の血なのか?

 

 人の多くいる場所、例えば駅前。秋葉がそこまで行って見ず知らずの人間を襲い、血を啜ったとは時間的に考え辛い。

 朝は確かに、秋葉はあの離れにいたのだから。

 では、誰の血なのか?

 

 考えたくなかった。

 いや、考えないようにしていた。

 俺は、本当に辛いことは考えたくなかったんだ。

 

 本当は、考えるまでもない。

 すぐにわかることだ。

 

 一番近くにいる人の血。

 

 翡翠。

 琥珀さん。

 

 どちらかの、いや、ひょっとすると二人の……。

 

「あきはぁぁー!」

 

 零れ落ちた水は、もう、元には戻せない。

 もう何もかもが、取り返しのつかない結果になってしまっているということを、俺は知っていたのかもしれない。

 離れの部屋で、血に染まった秋葉を見た、そのときから。

 

 右手に掴んだナイフの冷たさが、俺自身の心の冷たさのように感じられた。

 

 

 

 

 そして今。

 俺たちは、殺し合っている。

 

 

 

§

 

 

 

 視界が紅く染まっていた。

 

 紅く染まった林。

 紅く染まった太陽。

 紅く染まった、秋葉。

 

 アタマガイタイ

 キモチガワルイ

 

 相変わらず頭の中では『魔を狩れ、殺せ』と声が響いている。

 自分が自分でないような感覚。

 

 

 ふらふらと足元すらおぼつかない今の俺であれば、葦を凪ぐよりも簡単に打ち倒すことができただろう。

 だが秋葉はそうせず、ぼんやりと立ち尽くしているように見えた。

 

 ほとんど葉の落ちてしまった林の中、ぼんやりと何かを見上げるように立ち尽くすその姿。

 

 かげろう。

 

 既視感。

 シキにより遠野の血を覚醒させられ、離れの部屋から飛び出していった秋葉。

 後を追った俺は、今のようにぼんやりと立ち尽くす姿を見た。

 そうだ、あの時もこの場所だった。

 

 そしてその姿は、幸せだった頃の秋葉にも重なる。

 あの頃は紅葉の最中だった。

 夜、部屋の窓から妹の姿を見つけた俺は、夜だったにも関わらずふらりと外に出て。

 そしてこの場所で話をした。

 

 もう遠い昔のことのよう。

 遠い昔の、幸せだった頃の記憶。

 

 俺も、秋葉も。

 血の縛めなどからは自由で。

 ずっとずっとこうやって毎日が続いていくのだと信じてた。

 遠い、記憶。

 

 もう取り戻す事のできない、かけがえのない。

 

 遠い、記憶。

 

 

「あきは」

 

 口から発せられたのは、最愛の女性の名前。

 

「次で、終わりだ」

 

 ああ、もうたくさんだ。

 殺し合いにも飽いた。終わりにしよう、次の、一撃で。

 

 俺の声など聞こえぬ風で。

 秋葉はただ立ち尽くしている。

 

 俺は意に介さず、背を向けて林を走り出す。

 

 走りから疾走へ。

 疾走から疾躯へ。

 

 それが、最後の殺し合いの合図だった。

 

 

 

§

 

 

 

 体に与えた勢いそのままに、大地を蹴る。

 空中で思い切り体を縮める。弓をいっぱいに引き絞るように。

 木の幹に足が触れた瞬間、引き絞った弓を解き放つ。

 そしてまた空中で弓を絞る。

 あとはその繰り返し。徐々に高度を上げていく。

 目標に達する頃には、遥か上空からの奇襲となる。

 

 びゅうびゅうと風を切る音。ときおり身体をかすめる木の枝。

 我ながら、なんとも非常識な動きだ。

 

 

 

 

人間離れしたその動き。

七夜の血。

 

 

 

 

『まるで、猿だな』

 

 頭の中の、奇妙に冷めた部分が苦笑と共にこぼす。

 そう、思考は冷めていた。

 限界を超えた動きと、その行為。身体はこんなにも熱く、心臓は早鐘のようであるのに。

 俺は、冷めていた。

 

 最後の跳躍。

 自然落下に加え、真下に向けて木を蹴って、更なる速度を得る。

 死角からの、理想的な奇襲。

 “あいつ”は相変わらず立ち尽くしている。

 

「これで、終わり」

 

 

 

 

そう、これで終わり。

 

秋葉の能力は結界による奪取。

であるのであれば、いかに高速といえど奇襲などは無意味。わかっていたことだ。

恐らく、秋葉の攻撃圏内に入ったとたん、俺は跡形もなく消されるだろう。

赤い髪に絡めとられ、体中の熱を瞬時にして奪われ。

 

間違いなく、俺は死ぬだろう。

 

 

 

 

 風切り音にかき消され、自身の耳にさえ届かぬ、呟き。

 しかし、“あいつ”はまるでその呟きに応えるかのように、ゆっくりとこちらを振り向く。

 

 

 

 

だが、理想に近い加速とタイミングは得られた。

熱を奪い尽くされ消される前に、このナイフは秋葉の“死”を貫くだろう。

 

だから、終わり

これで、終わり

 

俺も

秋葉も

 

これで終わり

 

 

 

 

 真っ赤に染まった躯。

 

 

 

 

『死は救いにならない』

 

 

 

 

 真っ赤に染まった髪。

 

 

 

 

わかってる。

そんなことはわかってる。

 

 

 

 

 真っ赤に染まった唇。

 

 

 

 

だけど、もうたくさんだ。

 

 

 

 

 真っ赤に染まった瞳。

 

 

 

 

戻る事ができないのなら。

取り戻す事ができないのなら。

 

 

 

 

 真っ赤に染まった――微笑み。

 

 

 

 

全てを終わりにするしかないじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さよなら、秋葉」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 僅かな、手応え。

 

 

 

 

秋葉からの攻撃は

 

 

 

 

 右手のナイフが

 

 

 

 

無かった

 

 

 

 

 真っ赤に染まった胸の“点”を外れることなく

 

 

 

 

秋葉は微笑んでいた

 

 

 

 

 貫き通した。

 

 

 

 

それは、無邪気な笑みではなく

 

 

 

 

 秋葉の“死”を

 

 

 

 

どこか、儚げな

 

 

 

 

 貫き通した。

 

 

 

 

“かげろう”のような、笑みだった

 

 

 

 

 

§

 

 

 

 

 

 

「おはよう、秋葉。今日も早いな」

 

「うっ、いや、それは違うぞ秋葉。今日はたまたま起きられなかったのであって……」

 

「あう、そりゃ確かにそうなんだけど」

 

「ひ、翡翠までそんなこと言わなくたって……」

 

「わかった、わかりました。明日はちゃんと起きるから。まったく秋葉は口うるさい…… あっ、いや、なんでもありません」

 

「琥珀さん、そんなに笑わないでよ……」

 

 

 繰り返される、遠野家の朝の風景。

 

 いつもと同じ朝。

 いつもと同じ会話。

 

 

「じゃあ秋葉、そろそろいっしょに学校行こうか」

 

 

 でも、何かおかしい。

 違和感がある。

 

 

「翡翠、今日も出迎えはいいから。じゃあ行ってきます」

 

 

 何か大切なことを、忘れているような気がする。

 

 

「なあ秋葉、うちの学校は慣れたか?」

 

 

 そういえば。

 

 

「そっか、まあそのうちに嫌でも慣れるさ」

 

 

 秋葉の声は、どんなだったのか

 思い出すことができない。

 

 

「ああそうそう、有彦が今度みんなで遊びに行こうって言ってたぞ」

 

 

 カンガエルナ

 ナニモカンガエテハイケナイ

 

 

「まあいいじゃないか、みんなで騒ぐのも、たまにはいいさ」

 

 

 カンガエテシマッタラ

 コワレテシマウ

 

 

「じゃあ今週の日曜日、予定空けておいてくれ」

 

 

 繰り返される日常。

 それは退屈で、でもとても幸せで。

 

 そう。

 俺は今、幸せだった。

 

 

 ココロの底から、幸せだった。

 

 

 

 

「まあ何にせよ、これからもお前とは長い付き合いになりそうだな」

 

「これからもよろしくな、秋葉……」

 

 

 

 

 

 

<END>
 
 

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