陽の章 十六


 一人離れの縁側に座り庭を眺めていた俺は、住職の不思議そうな視線に顔を上げた。
「これは、ご住職。ご迷惑ばかり御掛けして」
「いやいや。御気遣いは、御無用に。御預け頂いた品は元道理、保管させて頂きました」
 俺が頭を下げると、にこにこ笑い住職は隣に腰を下ろした。
「勝手な御願いばかりを、申し訳在りません」
「いいえ。それより御寒くは、在りませんかな?」
「いえ、温かいです」

 温かい。
 吹き抜ける寒風にさらされながら、凍りひび割れた心の冷たさを改めて感じる程、今は温かい。

「ふむ。御二方とも、穏やかになられた様ですな」
「はい。ご心配をお掛けしました」
「いやいや。子のない私には、お嬢さん方がほんに孫の様に思えましてな。迷われた方をお手伝いするが役目で在りますに。腑甲斐ない事この上ない」
 無力を詫びる様に息を吐き、住職は頭を下げた。
「いいえ。ご住職には大変助けて頂きました。お礼の言い様もない程です」
 慌てて俺が頭を下げると、住職は深い笑みを浮かべた。
「そう仰って頂けると有難い。御爺様方にお会いした折にも、お叱りを受けずに済みますな」
「ご住職」
「そんな御顔をなさいますな。先に生まれた者が先に逝くは、理(ことわり)で御座いましょうに。どう生き、どう死ぬるか。限られた時の中、後悔さえ無ければ宜しいでしょう」
 俺の顔が余程情けなかったのか、住職は穏やかに微笑み目を細めた。
「私の時は終っておりますな。連れ合いを亡くした時に、終ったのやも知れません。一人生きるには、少々年を取り過ぎました。今は穏やかにお迎えを待つ身。悔いを残してはおりませんよ」

 穏やかに話す住職に、俺には掛ける言葉がなかった。
 以前の俺なら掛ける言葉が在ったのかも知れない。
 だが、エディフェルを無くした次郎衛門の慟哭と。昨日失う覚悟を決め、寒さに震えた俺には、支え慈しんだ者を亡くした住職の生きる辛さが、我が事の様に判る。
 一人寒さに震え過ごすには、人の心は弱く寂しい。
 人生の黄昏を語る住職の言葉に、俺は抗弁する術を持たなかった。

「御爺様も、そうでしたな」
「はっ?」
 黙りこくった俺に、住職は笑みを向けた。
「奥様を亡くされ、お寂しかったのでしょうな。今にして思えば、良くぞ意見出来た者ですが。私も、まだ若かった」
 懐かしむ瞳でゆっくり語る住職の言葉が、俺を混乱させた。
「あの、ご住職」
「はい?」
「祖父は、女遊びが酷かったと聞いたのですが」
 訝しげに頷いた住職は、可笑しそうに声を殺し笑いを洩らした。
「ええ、左様です。それゆえ愚心させて頂きましたが。亡くされた奥様に代わり、温めて下さる方を、御探しでおいでの様でしたな。ですが、いかんせん御二人は深く愛し合っておられた。再婚までお考えになられた方は、おられなかった様ですな」

 婆さんの代わり?

「どうか、なさいましたか?」
 唖然とした俺は、住職の苦笑気味の声に我に返った。
「あっ、あの。じゃあ。祖父と祖母は、愛し合っていたと?」
「はい、左様ですが? 御爺様達だけでは御座いませんな。柏木の方は、みな情が御深い。御父様も、伯父様もそうでしたな」
 言葉を切った住職のジッと見る視線に揶揄を感じ、俺は座り直した。
「御自分達をご覧なされませば。良く御判りになられる、と存じますが。御爺様ご夫妻を思い出しますな。いや、ほんに仲が御宜しい」

 俺と千鶴さん?

「さて、少々年寄りには寒さが応えますな。そろそろ昼餉など、御用意させて頂きますで。何もございませんが、宜しければ如何でしょうな?」
「御心遣い、痛み入ります」
「では。御用意出来ますまで、御ゆるりとお休み下さい」
 寒さに身を震わすと、住職は会釈で腰を上げ廊下を歩み去った。
 俺は深く頭を下げ、一人縁側で考え込んだ。

 可能性は増した。
 鬼に関しては、爺さんの問題が一番大きかった。
 祖母は柏木の血を引いていても、柏木の女性から生まれた子供だったからだ。
 俺の仮設が正しければ、梓や楓ちゃん、初音ちゃんの子供が女の子なら、俺に男の子が出来ても鬼は抑えられる。
 子供達を親しくしておけば、愛し合うのは間違いない。
 鬼の血は呼び会う。
 より心を通わせ会う異性に引かれるのは、当然だろう。
 気休め程度にはなる。
 後は……

「耕一さん?」
 温かな呼び声に顔を上げると。いつの間にか膝を折った千鶴さんが、横から顔を覗き込み心配そうにしていた。
「どうしたんですか? こんな所で考え込んでいたら、風邪を引きますよ」
「ご住職と、ちょっとね」
 曖昧に応えると、千鶴さんの白い頬が仄かに赤らんだ。
「そこでお会いしました。楽しそうにしておられましたね」
 千鶴さんは目を伏せ、困ったはにかんだ笑みを浮かべた。
「楓ちゃんと梓は?」
 俺は苦笑しながら尋ねた。

 あの住職。良い人なんだが、話の終わりで相手をからかう癖がある。
 千鶴さんも、住職にからかわれたんだろう。

「楓が、梓の説得をしています」
「やっぱり梓は、反対か」
「ええ。家から通える大学は、いくらでも在る。一人で住まわすのは心配だって」
 寂しそうに息を吐くと、千鶴さんは顔を上げた。
「やはり、楓は……」
「千鶴さん。楓ちゃんと話したよ」
 千鶴さんの言い掛けた言葉に気付き、俺は彼女を遮った。
「楓ちゃんは、前に進もうとしてる。過去の記憶からも、閉じ篭もっていた殻からも抜け出そうとしてる」
「でも耕一さん。それは家に居ても出来ます」
「家だと、甘えが出るからだろう。楓ちゃん自身が、自分で前に踏み出そうとしてる。誰にも止められない。止めちゃいけない」
 千鶴さんは哀しげに目を伏せ、小さく息を吐いた。
「楓に梓を説得するから、二人にして欲しいって言われました。梓の説得が、踏み出す最初の一歩なんですね」
「俺もね、言われたよ。自分で説得するって」
 俺と千鶴さんは顔を見合わせ、苦笑をかわした。
「まだ一年在るよ。家に居る間に、楓ちゃんもいろいろやって見て、考えるつもりだろう」
「耕一さんが言われた通りでしたね。いつの間にか、梓や楓の方がしっかりしています。もう私の役目は、終っていたんですね」
 寂しく呟くと、千鶴さんは白く柔らかい光を跳ね返す庭に細めた目を向けた。
「いいや。まだまだ終らないな」
「そうでしょうか?」
「帰る家が在るから出て行ける。傷ついても癒せる場所と、癒してくれる人が居る。知っているから出て行けるんだよ。楓ちゃんは、ちゃんと知っていたな」

 俺が一番過去にこだわっていたのか。

「梓には、いくら謝っても足りない。千鶴さんにも楓ちゃんにもだ」
 千鶴さんは庭に向けた目を訝しげに俺に向けた。
「…耕一さん?」
「もう気付いているんだろ?」
「あの子、隠し事が出来ませんから」
 庭に目を落とした俺の耳朶を、優しく温かな声がくすぐった。
「耕一さん、実業家に向いていますよ。あそこまで計算していたなんて」
 苦笑気味のからかう声が、静かな澄んだ鈴を思わせた。
「梓に手助けを頼み。問い詰められた梓が話すのも、知っていた。耕一さんが私を恨んでないって、梓から私に信じさせ。同時に居なくなった理由も気付ける様にした。違いますか?」
「全部失敗だった。変わっただろ? 以前の俺になら出来なかった。でも今は、出来るんだよ」
 俺は顔を上げられず、小さな頷きで応えた。
「その上。子供と両親の話を教えて置けば、いずれは、梓が探すのを諦めさせると考えた。梓が話せば考えに気付かれる。梓に話すよう、急かす訳です」
 千鶴さんの小さく息を吐く音が、俺の間近で聞こえた
「梓は何も知らなくて良かった。俺は梓が苦しむのが判っていて、梓の気持ちを利用したんだ」

 子供に力を受け継がない梓には、何も教えなくて良かった。
 知った上で、俺が居なくなれば梓は苦しむだろう。
 俺を放って置けば、三たび千鶴さんが苦しむ事はない。だが梓は、一人姿を消した俺の身を案じて二人の間で悩む。
 梓の性格を知っていて利用した俺は、次郎衛門と何等代わらない。
 しかも今となっては、千鶴さん、梓、楓ちゃん、みんなに負わなくて良い痕を残しただけだ。

「でも、私も梓も感謝しています」
 温かな声音と共にしなやかな指が俺の頭を優しく撫で、柔らかな胸に引き寄せた。
「どうして、自分一人で背負おうとするんです。耕一さんが、一人で背負う事は無いって言ってくれたんじゃないですか」
「俺の偽善だ。それなのに、みんなを巻き込んで」

 割り切ったつもりで、俺は次郎衛門の犯した罪の意識から逃げようとしていただけかも知れない。
 俺は逃げ出す理由に、千鶴さんを使っただけなのか。

「自分を責めるのは、止めて下さい。耕一さんは、耕一さんです。何も変わったりしていません。私を温めてくれるのは、耕一さんだけです」
 ぎゅっと抱き締める腕が俺を胸に押し付け、囁きが耳朶に優しく語り掛けた。
「私は、温めて貰うだけなんですか?」
「…千鶴…さん」
 俺は詰まる喉で名を呼び、腕を華奢な身体に回した。
「私には、耕一さんの痕は癒せないんでしょうか?」
 温かな柔らかさが俺を包み込み、哀しい痛みを感じさせる声が問い掛ける。
 俺は頭を振り、柔らかな温もりに顔を埋め、背に回した腕に力を込めた。
 頭を撫でる優しい手から穏やかな安らぎが伝わる。
 心を満たす想いが胸をつまらせる。

 やっと俺は俺で居られる、帰る場所に帰れた。
 俺は子供の様に彼女に縋り、満ち足りた静かな温もりと深い安らぎに包まれた。


  § § §  


 弱い陽の光が樹木に積もった雪と、溶けかけた雪道に乱反射を繰り返し、眩(まばゆ)さに俺は目を細めた。
 細めた目に手を翳そうと挙げかけ、グッと力の掛かった反対の腕に慌てて挙げかけた手を伸ばした。
 手を伸ばし柔らかく細い腕を掴み、思わず苦笑が洩れた。
「大丈夫だった?」
 幾度目になるか忘れた台詞を、ぎこちない笑みで舌を覗かせ首を傾げた彼女に向ける。
「えっ、えぇ。大丈夫です」
 返って来た返事で、俺は堪えきれず笑いを洩らした。
「もう、笑わなくても」
「その返事、何度目か覚えてる?」
 赤い頬を膨らませ、ぷんと口を尖らした彼女に尋ねる。
「えっ? えぇっと……」
 きょとんとした顔をした彼女は、決まり悪そうに視線を泳がせ、俺を上目遣いに見上げにっこり微笑んだ。
「笑ってごまかしても、だめ」
「耕一さぁ〜ん」
 情けない声を出し、腕を掴んだ指に力がこもる。
「だってさ、このままだと御墓に着かないよ」
「道が悪いんです。雪が溶けて滑りやすいんですから」
「俺、滑ってないけど?」
「………あっ!」
 むくれた顔をして押し黙った彼女は、不意に声を上げ上目遣いに細めた目を上げた。
「耕一さん」
「うん?」
「また、むくれた顔が可愛いとか言う気ですね?」
 覗き込む得意そうな顔に微笑み掛け。
「むくれてなくても、可愛い」
 ぱっと瞳を開くと頬が赤く染まった。
「もう」
 口を尖らし怒った声を出しながら、彼女の瞳は楽しそうに煌めいた。
「からかったんじゃないよ。早く着ける様にしようと思って」
「どうするんですか?」
「まず、腕を首に回す」
「はい?」
 俺は彼女の細い腕を手に取り首に回させ、きょとんと見る顔に顔を近づけ腰を屈め。
「そして、こうする」
 俺そのまま彼女の背中に腕を回し、もう片腕で膝をすくい上げる。
「えっ! こ、耕一さん!」
「しっかり掴まらないと危ないよ。千鶴さん」
「で、でも」
「でも、なに?」
 胸に抱き上げられ耳まで赤く染め、落ちない様に首に回した腕で、ぎゅっとしがみついた彼女に俺は聞き返した。
「…恥ずかしいです」
「他には、誰もいない」
 顔を肩に伏せた彼女に軽く返す。
「…重く…ないですか?」
「重いの?」
「耕一さん!」
 からからいを込め目を開いて尋ねると、赤い顔を向け、キッと睨んだ彼女の声が耳に響いた
「軽いよ。軽すぎるな」
 胸に抱いた彼女は、何処に重荷を背負い続けた強さが在るのか、不思議なほど軽かった。
「どうかしましたか?」
 胸の痛みが、俺の声に陰りを落としのに気付いたのか、彼女が少し心配そうな顔で覗き込む。
「精進料理で重くなんてならないから、心配しなくても大丈夫」
 住職の用意してくれた朝昼を断れず、しっかり食べた彼女に、何でもないと首を横に動かし頬を緩め返した。
 彼女は俺の肩に顔を埋めて隠し、艶やかな髪が乱反射を繰り返す陽の光りを受け、輝きながら彼女の表情を隠した。
 首筋に感じた温かさが、隠した顔の火照りを俺に伝えてくれる。
「……意地悪」
 ぽつんと聞こえた拗ねた囁きに、俺は笑い声を洩らした。
「ごめん。そうだな、初音ちゃんは知ってるから。もういいかな」
「初音?」
「由美子さんも、保証してくれたし」
 名前を出した途端、赤く染まった顔を上げ、むくれた彼女の眇めた目が俺を睨み付けた。
「まだ、疑ってるの?」
 眉を潜めると、彼女は眇めた目を上目遣いに変え口を尖らした。
「だって……」
「俺って、信用無いんだ」
 情けなく溜息を吐いて見せる。
「そんなぁ〜」
「苦労して、レポート仕上げたんだけどな」
 泣きそうな顔で首に回した腕に力を込めた彼女に向い、笑いながら言うと。ほっとした表情になった彼女は、眉を寄せ首を傾げた。
「レポートって。暮れの?」
「うん。由美子さんの家が後援してる教授にね。研究室がこっちに在って、紹介して貰ったんだ」
「それって?」
 戸惑った様に俺を見詰め、彼女は問い掛ける瞳を輝かせた。
「来年度には、呼んで貰えるそうだから。こっちに来てる間は、泊めてくれる?」
 細い腕が頭を強く引き寄せ、熱く柔らかな頬が俺の頬に滑らかな感触を伝える。
「もう、耕一さん。なんでも一人で決めて、嫌いです」
 頬を擦り寄せたまま耳に届いた優しい囁きが、熱い吐息となって耳朶をくすぐる。
「嫌い次いでに、鶴来屋でバイト出来ないかな?」
「えっ?」
「バイトでも鶴来屋の中を見とくの、勉強になると思うんだけど」
 頬を離した彼女の熱く潤んだ瞳を覗き、俺は言を継いだ。
「足立さんにも、ちゃんと返事しないとね」
「耕一さん、じゃあ?」
「継ぐって言って、居なくなると困るだろうから」
「耕一さんったら。帰る前から、どちらかに決めてたんですね?」
 微笑み頷き返し、肩に埋まった髪に頬を擦り寄せ、俺は足を動かし出した。

 胸に抱いた温もりが、心地好い柔らかさと重さを伝え、吹く風が緩やかに髪をなびかせ頬をくすぐる。
 踏み締める一歩ごとに甘い吐息が耳朶をくすぐり、俺を温かな気持ちが包んでくれる。
「千鶴さん」
「はい?」
「大晦日だけど。千鶴さんだって言うまで、楓ちゃんと出て行くと思ってなかった?」
「………」
 無言で強まった腕の力が、俺に応えた。
「苛めてるんじゃないよ」
「…ごめんなさい」
 苦笑を洩らした俺の耳を、小さな囁きが震わす。
「ありがとう」
「えっ?」
「信じてくれて」
 訝しく肩から顔を上げた彼女に微笑みを向け、髪に頬を擦り寄せ、微笑みに応え笑みを浮かべた彼女の唇に、そっと唇を重ねた。
 唇を離し赤い頬で微笑みながら首を傾げた彼女を抱き、俺は街を見下ろす墓に足を向けた。

 墓の前で静かに彼女を下ろし、俺は雪に覆われた街を見下ろした。陽射しが眩く輝かせる白い光りを細めた目で眺め、白い輝きに走る黒い川を目で追う。
「耕一さん」
 温かな声に呼ばれ目を移すと、彼女はスッと腕を上げ街の一点を指し示した。
 黒い川の流れの行き着く先、一際白く輝く場所に指は向けられていた。
「泊めてくれなんて、言わないで下さい。彼処は、耕一さんの家なんですから」
 微笑み首を傾げた彼女の言葉と眼差しが、温かく俺に注がれていた。
 俺は苦笑を浮べ指刺された輝く場所を見詰め、白い息を吐き彼女に目を戻した。
「ありがとう。でも、俺が帰りたかったのは、彼処じゃない」
「耕一さん、そんな……」
 哀しそうに眉を寄せた彼女を抱き寄せ、俺は耳元に唇を寄せる。
「俺が帰りたかったのは。ここだよ」
「耕一さん?」
 不思議そうな声を出した彼女を抱いた腕を緩め、俺は彼女の胸に額を寄せた。
「ここに、必ず帰って来るから。千鶴さん」
 抱き寄せる俺の頭を細い腕が抱き締め、優しい指が髪を撫でる。
「はい。いつでも帰って来て下さい、耕一さん」
 一面白く輝かせる陽射しの中、そっと彼女を抱き締め直す。胸に抱いた小さな温もりが、俺を優しく包み柔らかい春の陽射しの様な心が、俺の心を温める。
 顔を上げ腕を緩め、濡れた頬に掌を添わせ、これから始まる時間、供に温め合う女の仄かな朱に唇を寄せ、長く熱い口づけを。

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  凍った時 陽の章  完

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陰の章 十六章

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