陽の章 十五


 狭い茶室の中に異様な緊張感が高まっていた。
 柏木の名を持つ五人が火鉢を囲み、それぞれが普段とは違った表情を見せている。

 千鶴さんは、頬の引きつれた笑顔を。
 梓は、真摯な瞳で真剣な顔を。
 楓ちゃんは、そっぽを向いたまま素知らぬ顔を。
 俺はと言うと緊張感の所為か、額に浮かぶ汗を拭い顔に張りついた笑顔を維持するのがやっとだ。
 そして俺が想像した事もない顔を見せているのが、初音ちゃんだった。

 頬を膨らませ、ぷんと尖らした唇。
 ぴんと跳ねた癖毛が、鬼を解放した様に意思在るごとく揺れている。
 火鉢を囲み座った俺達を、先程から半眼に閉じた目で俯き加減に下から睨み。視線を受けた者は、身体をぴくんと跳ねさせ引きつった愛想笑いを浮べた。
 楓ちゃんを除けばだが。

「あ、あの。初音、そんなに怒らなくても」
「千鶴お姉ちゃん」
「はっ、はい」
 意を決し長女の責任と話しかけた千鶴さんは、初音ちゃんの硬い声に背筋を伸ばし、反射的に返事を返した。
「部屋に篭もって、寝込んだ上。泊まり込むなんて。また具合悪くしたらどうするの? 家に帰って来ないで、どうしてお寺に居るの?」
「…ごめん…なさい」
 あっさり撃沈された千鶴さんは、身を縮め視線を下げると小さな声で謝った。
「だからさ、初音」
「梓お姉ちゃん」
「おっ、おう」
 千鶴さんに助け船を出そうとした梓も、初音ちゃんに上目遣いに睨まれ、頬を引きつらせ腰を引いた。
「昨夜、部屋の後始末って言ったよね。あれ、嘘だったの?」
「うっ、嘘って訳じゃないけどさ」
「じゃあ。どうしてお寺に居るの?」
「そっ、それは」
 相変わらず嘘の付けない梓は、後ろ頭を押さえ鼻の頭を掻くと、視線を宙にさ迷わせ出した。
 さ迷っていた視線が俺で止まり、梓だけでない視線の圧迫が俺を包囲した。
 首を巡らすと、身を縮めた千鶴さんの上目遣いに助けを求める瞳。楓ちゃんの無言の圧力がこもった澄んだ瞳が、俺に注がれている。
 梓の視線につられ、初音ちゃんの瞳までが俺に注がれる。

 普段怒らない人間程、怒らすと怖いと言うが。初音ちゃんは典型的なそのタイプだった。
 初音ちゃんに上目遣いに睨まれた途端、背筋を悪寒が這い上がった。

 俺は、由美子さんをまた呪いたくなった。
 初音ちゃんは、この間昼食を供にしてから由美子さんと仲良くなったらしく。昨日出掛けていたのも、由美子さんに街を案内していたそうだ。
 そこまでは良かった。
 問題は今日だ。
 泊まり込んだ俺達の様子を見に来た梓達が、初音ちゃん達と出くわしたのが不味かった。
 帰る前にもう一度、由美子さんが住職に角を見せくれる様に頼みに来たそうだが、俺達を見て初音ちゃんの機嫌は一気に悪くなった。

 それはそうだろう。
 暮れから心配を掛け通しだ。
 千鶴さん、楓ちゃんは部屋に篭もる。
 俺は帰らない、梓は部屋に殴り込む。
 年が明けた途端、千鶴さんが寝込み。
 初詣の約束は半ば破棄。
 その上自分一人を置いて、俺達が寺で顔を揃えていれば、どんなに穏健な人間だって腹が立つ。
 まして昨夜は、夕食時に梓しか帰らないと来た。
 いかに初音ちゃんと言えど、怒らない訳がない。
 それでも由美子さんの前では、あまり怒った表情を見せなかった初音ちゃんは、たいした者だ。
 由美子さんが住職と離れで話す間。
 千鶴さんが以前した約束を思い出し、茶室に初音ちゃんを案内したのだが、それから現在の状態が続いている。

「あのさ、初音ちゃん」
 みんなの視線を一身に受け、俺は意を決し引きつりそうな口を開いた。
「耕一お兄ちゃんも酷いよ。せっかくの御正月なのに、家にやっと帰って来たと思ったら、また帰って来ないんだもん」
「あの、…初音ちゃん」
「お姉ちゃん達と、お参りに来てるなんて酷いよ。あんまりだよ」
「……ごめん」
 初音ちゃんの哀しそうな呟きでの非難に、項垂れ頭を下げて謝った俺は、千鶴さん達の溜息を聞いた気がした。
「…耕一、何とかしろよ」
 ぼそぼそと俯いた梓が呟き、肘で俺を突いて来る。
「…何とかったって。なぁ」
「楓お姉ちゃん?」
 ぼそぼそと梓に返した俺は、初音ちゃんの声で視線を上げ。見ると楓ちゃんはスッと腰を上げ、潜り戸へと足を進めていた。
「ここ、狭いから」
 静かに微笑み、初音ちゃんに一言残した楓ちゃんは、潜り戸を抜け姿を消した。

 考えてみれば楓ちゃんは、部屋に篭もったとは言え初音ちゃんに対して後ろ暗いところはない。
 実に見事な引き際だ。
 昨日と言い今日と言い。
 俺は柏木四姉妹の事を、殆ど理解出来ていないのかも知れない。

「…そうだ。耕一、痴話喧嘩にしろ」
「なっ。お前な」
 初音ちゃんが、楓ちゃんの後ろ姿を見送る間に、梓が飛んでもない事を言いだす。
 俺を挟んで座る千鶴さんにも聞こえたのだろう。小さく息を飲み俯いていた顔を上げ、梓に細めた目を向ける。
「半分ホントだろ。もういいじゃんか」
 千鶴さんに睨まれ、梓は口を尖らしぶつぶつと洩らした。
「何がいいの? 梓お姉ちゃん」
 梓の声で初音ちゃんが俺達に目を戻し、ムッとした声を出す。

 千鶴さんに良く似て、非常に怖い。

「まあ、いいか」
「耕一さん?」
 腕を掴み困った顔で覗き込む千鶴さんに笑い掛け、俺は初音ちゃんに視線を戻し背筋を伸ばした。
「初音ちゃん、大事な話が在るんだけど」
「大事な?」
 俺の真剣な態度に眉を寄せる初音ちゃん
「実は、こっちに住もうと思うんだけど。どうかな?」
「えっ! 耕一お兄ちゃん、家に住むの?」
 俯き加減だった顔を上げ、初音ちゃんの表情がぱっと明るくなった。

 俺って初音ちゃんに愛されてるな。

 軽い感動を覚えながら、俺は頬を緩め頷き返した。
「うん。すぐじゃないけどね。どうかな?」
「うん、賛成だよ。大賛成」
 何度も頷き一気に明るい笑顔になった初音ちゃんと対照的に、何故か千鶴さんは不機嫌に頬を膨らませた。
「耕一! てめえ。何であたしん時と違うんだよ! あたしには、あんだけ恥ずかしい台詞言っといて。初音だと何なんだ、そのにやけた顔は!」
 梓は梓で、真っ赤な顔で俺に掴み掛かってくる。
「あたしの時?」
 と千鶴さん
「恥ずかしい台詞?」
 と初音ちゃんの二人は、掴み掛かる梓と俺にジッと視線を注いでいた。
「梓、止めろって。これからだろ」
 掴み掛かる梓の両腕を押え、俺は目を眇め睨み付けた。
「本当だな? 初音に、きっちり話せよ」
「ああ、判ってるって」
 梓に頷き返し、俺は居住いを正した。

 まったく困った奴だ。

「初音ちゃん」
「うん、なに? 耕一お兄ちゃん」
 首を傾げる初音ちゃんの天使の微笑みで、また引き締めた頬が緩む。
「初音ちゃんの、本当のお兄ちゃんになりたいんだけど。どうかな?」
「えっと。それって?」
 赤い顔で鼻をぼりぼり掻く梓と、膨らましていた頬を赤く染め、俯いた千鶴さんを伺い。初音ちゃんは俺を覗き込んだ。
 俺は頷き一つで初音ちゃんに応えた。
「うん、おめでとう。耕一お兄ちゃん」
 初音ちゃんが嬉そうに微笑んでくれ、ほっと息を吐き、俺は千鶴さんを横目で窺った。
 千鶴さんも俺を上目遣いで覗き、目が合うと赤い頬に、はにかんだ笑みを浮かべた。
「おめでとう、梓お姉ちゃん」
 見詰めながら微笑み合っていた俺と千鶴さんは、凍り付いた。
「へっ。あたし?」
「ね、ねっ。恥ずかしい台詞って、プロポーズでしょ? お兄ちゃん何て言ったの?」
「色々だけど?」
 俺達が凍り付いている間にも、顔を真っ赤に染めた梓と初音ちゃんの会話は進んでいた。
「たとえば?」
「ええと、他の相手に子供作る気無いとかさ」
「ばっ!」
 凍り付いていた俺は梓の台詞で、やっと正気に戻った。
「凄ぉい、耕一お兄ちゃん」
 初音ちゃんは目を見開き、赤く色付いた頬で俺の方を恥ずかしそうに覗き見る。
「真顔で愛してるとか」
「喧嘩するほど仲がいいって言うもんね」
「梓! 待てって!」
 俺は興味津々の初音ちゃんに、得意そうに話す梓の台詞に汗が滴り落ちた。
「なんだよ? 言っただろ」
「千鶴お姉ちゃん、反対なの?」
 梓を怒鳴り付け様とした俺は、初音ちゃんの声で千鶴さんを振り返った。
 千鶴さんは顔を両手で隠し、梓の台詞で耳処か顔を覆う両手まで真っ赤に染め、長い髪を揺らし身を捩っている。
「初音ちゃん、違うんだよ」
 何とか誤解を解こうと俺は、初音ちゃんに話しかけた。
「お兄ちゃん。もしかして、喧嘩してたの結婚に反対されて?」
「いや、そうじゃないって。初音ちゃん誤解だって」
「そうだよね。梓お姉ちゃん、御料理も上手いし。二つ違いだから、ちょうどいいよね」

 いつもの初音ちゃんと違う。
 俺の話しを聞いてくれない。

 夢見る瞳でぽーっと上気した頬をして、宙を見詰めほっーと息など吐いている。
「いいな。あたしもいつか素敵な旦那さんと」

 完全に自分の世界に入ってる。

「梓、何とか言え!」

 だめだ、女の子の事は女の子だ。
 梓だって一応女だ。

「何とかたって、後は。……あっ! 最愛の女(ひと)って言い切ったよな?」
「違うだろ!」

 どうしてこいつは、俺の台詞を連呼する。
 梓に後を託そうとしたのは、俺の人生で最大の失敗だ。

「…違うって?…耕一さん」
 掠れた声に振り返ると、千鶴さんがこれ以上無い赤い顔で頬を膨らませ、瞳を潤ませ俺を伏目がちに覗いていた。
「千鶴さん?」
「信じて、くれてないんですか?」

 千鶴さんも、何処か様子がおかしい?

 潤んだ瞳で俺を見詰め、膝で握った両手を震わしている。
「梓、窓を開けろ。潜り戸も」
「なんで? 寒いじゃない」
「中毒だよ。炭火焚いて、狭い部屋に大勢で入ったから」

 二人で入る茶室に五人も入って炭火を焚いていれば、空気だって汚れる。
 それ程酷くはないが。
 さっきから熱く感じてたのは、その所為か?
 軽く酔った様な状態だな。

 俺は潜り戸を開け、千鶴さんの横に座り直した。
「千鶴さん?」
「…年上だし、…御料理上手くないし。…初音まで……」
 千鶴さんは頬を膨らませ、さっきの初音ちゃんの言葉にぶつぶつと不平を呟いている。
「千鶴さん、何言ってるの?」

 それ程、空気は汚れていない筈だが?
 千鶴さん、興奮してうっ積した不平不満が出てるのか?

「だって、耕一さん。梓に違うって」
 上目遣いに睨むと、千鶴さんはぼろぼろと涙を零し始めた。
「…千鶴…お姉ちゃん?」
「ちょ、ちょと千鶴姉。なにも泣かなくてもいいだろ」
 開け放した戸口からの冷たい空気にさらされ、自分の世界から帰って来た初音ちゃんの戸惑った声と、梓の慌てた声が背中から聞こえて来た。
「あれは、梓に初音ちゃんの誤解を解けって言ったんだ」
 言いながら俺は千鶴さんの肩を抱き寄せ、熱い頬に手を添わせ指で涙を拭った。
「だって、酷いですよ。初音まで梓だなんて」
 俺は添えた手で千鶴さんの顔を上げさせ、瞳を見詰めた。
「間違っただけだよ。ちゃんと話すから」
 俺は、こくりと頷いた千鶴さんの肌理細かな熱い頬から、手を首の後ろに滑らし胸に引き寄せ、ぽぉーと見ている初音ちゃんに目を向けた。
「初音ちゃん、梓じゃないよ。千鶴さんだからね」
 初音ちゃんは慌ててこくこく頷き、赤く上気した頬でほっと一つ息を吐いた。
「ごめんね。おめでとう、千鶴お姉ちゃん」
 首を捻る様に千鶴さんを覗き込んだ初音ちゃんの、微笑みを浮べた祝福で、千鶴さんは優しい笑みを浮かべた。
「ありがとう、初音」
「しかし恥ずかしい奴。毎度あんな事、やってるのか?」
 梓のぶすっとした声に目をやる。
 梓は俺と目が合うと、赤い顔を天上に向け鼻を掻きながら静かな笑みを浮かべた。


  § § §  


「でも、残念だな」
「そんなに見たかったの?」
 山門前で膨れた由美子さんの頬を見て、俺は笑いを噛み殺し尋ねた。
「まあね。ここいらって他に何もないし」
「温泉に入りに来たんじゃ、無かった?」
「耕一お兄ちゃんは、これからどうするの?」
 俺が由美子さんにからかい半分嫌味半分に尋ねると、初音ちゃんがクイッと腕を引いた。
「御墓に寄ってから、ちゃんと帰るよ」
「御墓? 千鶴お姉ちゃんと、お父さん達と叔父ちゃんに?」
 後ろ手を組んで覗き込んだ初音ちゃんに頷き掛けると、初音ちゃんは小首を傾げ、くふっと笑いを洩らした。
「初音ちゃん、あの件はまだ内緒だよ」
「うん。でも、お姉ちゃん喜ぶのにな」
 少し困った顔で、初音ちゃんは唇を押さえた。
「だめになったら、がっかりさせるからさ」
「柏木君、多分大丈夫よ。レポートが気に入ったみたいだから。教授が根回ししてくれるって。でも、寂しくなるな」
 陰った表情で首を傾げた由美子さんは、視線を白く染まった街に落とし、ふっと濁った息を吐いた。
「ありがとう由美子さん。ごめん、いろいろ迷惑掛けて」
「ううん。その内、鶴来屋に招待してよね。楽しみにしてるから」
 クルリと振り返った由美子さんは、少し目を細め顔を突き出し小さく笑いを洩らした。
「ゆっくり待ってよ。かなり先になるだろうけどさ」
「うん。じゃあ、学校でね」
 片手を挙げると、由美子さんは雪の残る石段を慎重に下り始めた。
「耕一お兄ちゃん。あたし、由美子お姉ちゃん送ってくるね」
「うん。初音ちゃん、後でね」
 由美子さんの後を追い、石段を降り出した初音ちゃんを見送り、俺は踵を返した。

 昨夜の雪が辺りを白く染め、参道の石畳だけが覗く道を歩き、俺は不思議な気がした。
 昨日は、同じ道を歩きながら寒さに凍え。
 今日は、温かくさえ感じる。

 俺は参道の途中で、本堂入り口の段に赤い人影が腰掛けているのに気付いた。
 歩み寄る俺に顔を向けたまま、俺に気付いていない様に身動ぎもせず、背を丸め膝に頬杖を突き顔を上げていた。

「なあ、ずっと居なくなるつもりだったのか?」
 隣に腰を下ろすと、梓は正面を向いたままそう尋ねた。
「考えたのか?」
「…うん。昨日あたしが話した途端、千鶴姉の様子がおかしくなったし。耕一、凄い目で睨むしさ」
「千鶴さんと楓ちゃんは、どうした?」
 俺が尋ねると、梓は頬杖を突いたままふっと白い息を吐き出した。
「千鶴姉は風呂。上がってから話そうって。楓は御墓の方に上がって行ったって、和尚さんが」
「風呂? 昨夜も借りたけど」
 俺が不思議そうに洩らすと、梓はくくっと笑いを洩らした。
「バァ〜カ。着替えなんかも一緒に持って来たんだよ。男と違って、女には身だしなみってもんが在るんだ」
「ああ、そうか」
 そういや一昨日から、家に帰ってないか。
「で、耕一どうするんだ?」
「うん。運を天に任せる」
「じゃあ、いいや」
 時折吹く風が音を立てるだけの静寂の中、ぽつぽつと梓は静かに言った。
「耕一さ、やっぱり間違ってるよ」
「うん?」
「あたし信用してくれるの嬉しいけど。千鶴姉、耕一じゃないとだめだよ」
 寂しそうに溜息を吐き、梓は背を伸ばすとゆっくり首を傾げ、俺に顔を向けた。
「昨日だって、どうしても行くって子供みたいに泣くんだもん。石段上がって来る間、支えてたけど。千鶴姉って、あんなに小さくて軽かったんだ」
「梓?」
 優しく薄い笑いを浮かべた梓の頬を、一筋の涙が伝い落ちていた。
「結局さ、あたし達って妹なんだよな。千鶴姉にしたらさ、守んなきゃいけない者で、いつまで経っても対等じゃないよ」
「梓にしちゃ、えらく弱気じゃないか」
 ふっと息を吐くと目を落とし、梓は顔を俺から逸らした。
「必死な顔して、耕一と言い合ってるの見てたら何と無くね。あんな千鶴姉見たの初めてかな。千鶴姉が対等に見てるのって、耕一だけなんじゃないかってさ」
 顔を上げ、梓は俺の顔をジッと見て言葉を切った。
「だからさ、耕一が居なくなったら、あたし達が居ても千鶴姉一人だよ。馬鹿だからね、きっといつまででも探し回るんだろうな」
「悪かった。もう二度としない」
 頬を伝う涙を拭いながら言うと、梓はこくんと頷いた。
「あたしらしくないな。妙にしんみりしちゃて」
 ごしごし顔を擦ると、梓は静かに微笑んだ。

 年相応の女の子らしい優しい微笑み。

「なんだよ」
 梓を見ながら小さな笑いを洩らすと、ムッとした顔で梓は上目遣いに俺を睨んだ。
「俺が夏に来た時の事、憶えてるか?」
「どれの事?」
「最初に来た日さ。お前、いきなり俺の背中殴っただろ」

 あれで俺は、梓が子供の頃と変わってないと思い込んだのかも知れない。

「大袈裟な。挨拶代わりにポンと叩いただけだろ」
「お前のポンは、相手咳き込ませるのか? まあ、あれで緊張が解けたんだけどな」
「へっ? 耕一でも緊張するの?」
「そりゃ、葬式にも顔出さなかったからさ。親父が不憫で呼ばれたけど、歓迎されてるかどうか不安だったんだぜ」
 苦く笑い言うと、梓はハハッと小さな乾いた笑いを洩らした。
「なんせ、みんなに会うの八年振りだろ。千鶴さんとは母さんの葬式とか、その前も親父の用事でたまには家に来たけど。それも一年も前だ。梓や楓ちゃん、初音ちゃんとは、全然在ってなかったしな」

 今にして思えば、千鶴さん、俺に発現の兆候が無いか見に来てたのかな。

「そのわりに、グータラ寝てばっかりいたけどな」
「梓が全然成長してないから。昔と変わってないんだって、安心したんだ」
「ちゃんと成長してるだろうが、どこ見てんだよ」
 胸わな。と言いかけ俺は止めた。またドタバタになる。
「そうみたいだ。立派な女性だ」
 真面目な顔で言うと、顔を赤くした梓は鼻を掻き、薄く微笑んだ俺をふと見詰めた。
「耕一、やっぱり変わったよ。昔は、そんな寂しそうな笑い方しなかった」
 自分も寂しそうに言い、梓は首を傾げた。
「それとも、耕一も千鶴姉と一緒で、昔の耕一の役やってたのかな?」
「どうかな? 千鶴さんは極端なだけだ。みんなそれなりに、仮面被って役やってるだろ。梓はやってないのか?」
 一瞬きょとんと俺を見ると、梓はふっと口の端で笑い視線を落とし、俺に目を戻した。
「あたしは、それ程器用じゃないからね」
「そうか」

 まあ、認めるとは思ってなかったけどな。

「そんなの寂しいだろ。本音出さないで、いいトコだけ見せたってさ」
「全部さらけ出せる相手は、一人でもいりゃいいさ」
 首を捻るように梓は俺を見ると、眉をしかめた。
「全部出せる相手は一人ってか? でもさ。それなら千鶴姉には、耕一しか居ないって事にならないか?」
「姉妹だろ? 理解し、支える事は出来るだろ?」
 ムスッと額に皺を寄せると梓は俺を睨んだ。
「じゃあ、あたしは誰が支えてくれんだ」
「今までは千鶴さんと親父だっただろ? その時によって、支える側と支えられる側が入れ替わるだけだ。まぁ、その内、梓を好きになった男が支えてくれるな」
 ますます梓は目を細め額に皺を寄せた。
「なんか、やだな」
「なにが?」
 頭を掻きながら梓は首をかくんと傾げ、俺も首を捻った。
「耕一さ、千鶴姉を楽にしたいのは判るけど。じゃあ耕一は、誰を支えにしてるの? 黙って居なくなるって、千鶴姉を支えにして無いって事だろ? あたしは、支えられるだけってやだよ。やっぱりさ、あたしだって支えたいって思うな」
「俺を?」
「バァ〜カ。好きになった相手だよ。耕一の考えって、千鶴姉とかわんないよ。傷つけたくない、苦しめたくないって言って、何も話さないで勝手に心配して。新しい傷作るの怖がってるだけだろ? あたしはそんなの嬉しくないよ。過保護なんだよ。昔の痕なんて、癒してくれる人が居れば、その内癒えるよ。昔の痕にこだわり過ぎてるんじゃないか?」
 俺を睨む様に見る梓が、俺には酷く大人びて見えた。

 楓ちゃんは時間に例えたな。
 次郎衛門は、リネットが痕を癒そうとしても、止めた時から抜け出せなかった。エディフェルを亡くした時、凍り付いた時間に次郎衛門がこだわり続けたから。
 リネットを支えにしながら、次郎衛門はエディフェルの様には、リネットに心をさらけ出せなかった。
 リネットにエディフェルへの想いを知られながら、少しでもリネットの負担を減らそうとして。
 だがそれは正しいのか?
 次郎衛門が心の全てをリネットにさらしていれば、時は溶けていたのか?
 前に踏み出せたのか?

「耕一。あんたね、考え過ぎなんだよ」
 考え込んだ俺を梓の苛立った声が打った。
「言いたい事言い合ってさ、気に入らなかったら、がんと一発食らわしてやりゃいいんだよ」
「過激な奴だな」
「だってさ。言いたい事我慢してたって、判り合うなんて出来ないだろ? 耕一が、一人で悩んで話してくれなかったら、千鶴姉だって寂しいし、余計傷付くだろ? 千鶴姉だって耕一支えたい筈だよ。好きってそう言う事じゃない?」

 梓の言う通りか。

「俺の独り善がりで、傷付けただけかな」
「ったく、二人とも馬鹿なんだから。好きに言い合えないで、何が愛してるだよ」
「そう…だな。一人ぐらい、何も隠さなくていい相手が欲しいな」
 ふんと鼻を鳴らすと、梓は半眼に閉じたいやらしい目を俺に向けた。
「でっ、千鶴姉は耕一、耕一は千鶴姉か? お熱いこって」
「…そうか、そうだよな」
 曖昧に笑って返した俺の返事をどう取ったのか、梓はムッとした顔で口を尖らせた。
「そろそろ風呂から上がるだろうから、あたし行くよ」
「ああ、後でな」
 勢い良く立ち上がると、梓は足音高く廊下を歩き出した。

 一人残された俺は本堂の入り口に座り、白い境内の中を貫く石畳を見るとは無しに眺めた。

 自分をさらけ出すか。
 次郎衛門とエディフェルは、そういう関係だった。
 意志を伝え合う力が、隠す事を許さなかった。
 また隠そうともしなかった。
 鬼と人を超え、過去を捨て前に踏み出した。
 千鶴さんは、自分の全てを出してくれた。
 だが俺は……
 俺が、失うのを恐れていただけなのか。

 考え込んでいた俺は、ふと視線を感じ、腰を上げ石畳を踏んだ。
 本堂から続く石畳を数歩踏み締め、白く染まった風景に、ぽつんと紺の彩りを添える影に目を向けた。

 真っ直ぐ上げた顔。
 消える事のなかった寂しさと哀しさを消し去った瞳を見詰め、俺は歩みを進めた。
 向かい合い足を止めた俺に、彼女はスッと手を差し出した。
「お返しします。私、彼女じゃ在りませんから」
 手にした箱から目を上げると、楓ちゃんは穏やかな声で告げた。
 俺は、彼女の手から小箱を受け取り笑みを向けた。
「梓と千鶴さん、二人で話してるよ。梓とは話した?」
 こくりと頷いた楓ちゃんは、瞳を潤ませ視線を落とした。
「梓姉さん、泣きながら…謝るんです。…何度も…何度も。…姉さん…謝る事なんて……ないのに」
 ぎゅっと身体の前で両手を握り締め、楓ちゃんの声が微かな震えとなって伝わった。
 俺は震える肩に手を伸ばしかけ、拳を握り手を下ろした。

 俺の中には、もう次郎衛門の想いはない。
 だが楓ちゃんの気持ちを考えれば、抱き締めるのは辛くさせるだけだ。
 肩を震わす彼女に、何も出来ない無力さを噛み締め、俺は立ったまま彼女を見守った。


「耕一さん。姉さん達と初音を、お願いします」
 肩の震えが収まり、雫を滴らせたまま顔を上げた楓ちゃんは、俺を真っ直ぐ見て唇を動かした。
「楓ちゃん?」
「いま言って置かないと、言え無くなりそうですから。大学、志望校を変える事にしました」
 濡れた頬に微笑みを浮かべ、楓ちゃんは訝しげな俺に応えた。
「家を離れて、外の世界を見てくるつもりです」
「ごめん」

 予想はしていた。
 俺が柏木の家に住めば、記憶の在る楓ちゃんは、俺達を見ているのが辛いだろう。

「いいえ。違います」
 楓ちゃんは髪を揺らし、温かな声で短い謝罪を否定した。
「時間を止めていたのは、姉さんだけじゃなかった見たいです。私、彼女の記憶に縛られていました。過去で止まっていました」
 温かな微笑みを浮かべ、楓ちゃんは、同意を求める様に小首を傾げた。
「俺もだよ。あのまま出て行ってたら、一生あのままだった。楓ちゃんが助けてくれた」

 楓ちゃんが止めてくれなかったら、俺はひび割れた心を抱えたまま一生寒さに震えて過ごした。

「でも。私と姉さんの時間を動かしてくれたのは、耕一さんです」
 楓ちゃんは照れくさそうに、はにかんだ笑みを浮かべた。
「じゃあ、お互い様って事かな」
 笑いを洩らしながら俺が言うと、楓ちゃんはこくりと頷き頬の涙を拭った。
「知らない人達の中で、一人で何処まで出来るかやって見ようと思います。離れていても、姉さん達、初音。それに耕一さん。みんなが居ます。本当に一人になるんじゃ在りませんから」
 顔を上げジッと俺を見て、楓ちゃんは小さく首を傾げた。
「耕一さんは、帰る場所、見つけましたか?」
「…気付かなかった。だけかな?」
 小さくこくんと頷き、楓ちゃんは静かな笑みを浮べた。
「エディフェルの想いだけじゃなかった。それだけは……」
 昨日梓が見とれた鮮やかな笑みで、楓ちゃんは足を踏み出した。
「…ごめん…なさい。…今だけ……」
「俺にも、大事な妹だよ」
 とんと当たった軽い身体を抱き寄せ、俺は胸に顔を埋めた細い髪を片手で撫ぜ、背中に置いた片手で優しく胸に引き寄せた。

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