陽の章 十四


 梓がぼりぼり頭を掻くと顔を突き出し、楓ちゃんと顔を見合わせ可笑しそうに微笑み合った。
 俺は顔が熱くなるのを感じ、左手で顔を拭った。
 右手の指には細い指に絡み、柔らかな温かみを伝えている。
「なあ、いつまで寝てるのかな?」
「とっくに起きてもいいんだけどな」
 梓の囁きに、俺も首を捻り囁き返した。
「たっくう。こうしてると、ホント子供だね」
 梓が可笑しそうに頬を指で突くと、俺に寄り掛り微かな寝息を立てていた千鶴さんが、梓の指から逃れる様に胸に頬を擦り寄せてくる。
 俺は梓の悪戯を目を細めて咎め、腕で細い肩を抱き寄せた。

 寺まで降りて来ると、千鶴さんは半分夢現の状態だった。俺は何処にも行かないと約束し、寺の離れで眠る様に言ったが、やはり簡単には信じてくれなかった。
 妥協案がこれだ。何処にも行けない様に俺に寄り掛り、肩に回した右手を握られていると言う訳だ。
 俺の後を追い寺まで下りて来た梓と楓ちゃんは、壁を背にした俺に抱き抱えられ、毛布にくるまった安らかな寝顔を見て溜息を吐き。細い指を絡めた手に気が付き、二人は顔を見合わせ呆れ顔で額を押え首を振った。
 静かな寝息を立てる千鶴さんに安心した梓は、初音ちゃんを心配し、一時家へ帰り夕食後再び寺へと戻って来た。
 楓ちゃんはと言うと、宣言通り、静かにお茶を飲みながら、俺をずっと監視している。

「初音ちゃんは、どうした?」
 悪戯を咎められ、顔をしかめ舌を出した梓に、俺は視線を移した。
「うん。昼間は出掛けてたからね。面倒な説明はしなくて済んだよ。借りた部屋の後始末って事にしといた。遅くなるから、先に寝ろって言っといたから」
 梓の返事にほっと息を吐き、俺は梓が差し出した握り飯に手を伸ばした。
「なんか初音の奴、凄く機嫌が良くってさ。楓まで居ないの不思議がってたけど、わりと簡単に納得してくれたよ」
「梓が部屋で暴れたの見てるからだろ」
 握り飯を頬張りながら返すと、梓はムッとした顔になった。
「耕一。まだ許してないんだからな。きっちり、あたしを納得させろよ」
 眠っている千鶴さんを気にしたのだろう。
 梓は怒鳴り付けず、地の底から湧き出る様な低い声で脅しをかけてくる。
「ああ。千鶴さんが起きたらな」
 俺は視線を千鶴さんの寝顔に移しながら応えた。

 戻る時も列車に揺られ、こうして穏やかな寝顔を眺めていた。
 断ち切った筈の未練が、こんな形で繋がるとは思いもしなかった。
 俺は息を一つ吐き、お茶を飲みながら考えをまとめ始めた。

 問題は、何処まで話すかだ。
 楓ちゃんには全てを話したが、過去の記憶のない梓には、子供の話だけで十分だろう。

 だが、千鶴さんには何処まで話す。

 梓の居ない間に楓ちゃんと話し、次郎衛門の知らないエルクゥの情報のいくつかを楓ちゃんから聞き、俺は考え違いをしていた事を知った。
 それによれば、本来のエルクゥは人と鬼の様に二つの意識を持つ事は無いそうだ。
 人と鬼の中間に位置する柏木は、人の意識が、鬼の意識を深層に押し込め、徐々に融合して行くのだろう。
 その為か俺も楓ちゃんも、完全な過去の記憶が在る訳ではない。
 死や憎悪、深い想い。
 そう言った主に強い感情が付随する記憶だ。
 おそらくエルクゥの感情を伝え合う力が、強い感情の動きに呼応して、記憶を深層から引き出すのだろう。
 楓ちゃんによれば、楓ちゃんと初音ちゃんは、エルクゥの中でも感覚的に特に優れ。それ故、完全に力の戻らない状態でも記憶が戻ったらしい。
 梓の感覚程度では、記憶の戻る危険は少ないそうだ。
 初音ちゃんは、力が発現すれば戻る可能性は在るが、それ程大きな可能性ではないらしい。
 楓ちゃんの記憶が戻ったのは、俺が子供の頃発現した時の鬼の気。次郎衛門の鬼がきっかけになったと、俺自身も推測はしていた。
 楓ちゃんも、多分そうだという曖昧な答えだったが、俺の推測を肯定してくれた。
 何かきっかけが無ければ、初音ちゃんの記憶は発現しても戻らない。深くリネットと繋がっていた、次郎衛門の想いと触れ合わなければだ。
 千鶴さんの記憶の話をした時、楓ちゃんの答えが曖昧になった訳を尋ね。俺は、初音ちゃんの記憶は戻らないと確信した。
 俺と千鶴さんが、深く想いを通わす程。千鶴さんの中に眠る記憶は揺り動かされ、思い出す可能性が増える。それが、楓ちゃんの答えを曖昧にした理由だったからだ。
 俺が、梓や初音ちゃんと愛し合わなければ、二人の記憶は戻らないと言う事だ。
 今更ながら、幼く無防備な心だったとは言え、記憶を蘇らせたエディフェルと次郎衛門の想いの深さには、驚かされる。

 考えながら横顔を眺めていると、睫毛を細かく震わし、焦点を定めない瞳が俺を映し出した。
 ぼんやりしていた瞳が焦点を定め、頬が緩やかな笑みを作る。
 手を絡めた指の力が増し、ぎゅっと握られ。
 瞬きを繰り返し、はっと目を見開いた瞬間。
 笑みが強ばったかと思うと瞳がスッと細くなり。
 俺を強い瞳の光が射ぬいた。
「どうして!」
 千鶴さんは俺を睨み付け一言発すると、そのまま胸に額を押しつけ、細い肩を震わせた。
「ごめん」
 他に口に出来る言葉もなく。
 俺は、弱々しく震える肩を抱き締めた。



「柏木の女性は、一代雑種だと思う」
 落ち着きを取り戻し、硬い表情で座り直した千鶴さんを真っ直ぐ見て、俺は口を開いた。
 向かい合い座った千鶴さんは眉を寄せ、千鶴さんの後ろで、隣り合い座った楓ちゃんと梓は顔を見合わせた。
「それが?」
 千鶴さんの硬く冷たい声が、それが俺が居なくなる理由と、どう関係するのかと返って来る。
「千鶴さん達の子供は、鬼じゃないんだよ」
「耕一。一代雑種って、なんだよ?」
「劣性遺伝よ」
 身を乗り出した梓の問いに、千鶴さんの不機嫌極まりない声がぴしっと応えた。
 梓は首を竦め、隣に座る楓ちゃんに聞き直している。
「梓には話しただろ?」
 まだ気付いていなかった梓の鈍さに、俺は頭が痛くなった。
「話した? あたしに?」
「ああ。男子直系は鬼だ。だが梓の子供は、多分大丈夫だって」
「うん」
「男の子供は鬼で、女の梓の子は、鬼じゃ無い」
 梓もやっと判ったのか、顔を強ばらせた。
「…耕一、それって?」
「そうだ。俺の子供だけが、鬼だ」
 梓は目を落とし畳を睨み唇を噛み締め、楓ちゃんは哀しそうに目を伏せた。
 千鶴さんは唇をほんの少し噛んだだけで、俺から視線を逸らそうとはしなかった。
「鬼なのは、知っています」
 千鶴さんの低い声で、梓ははっと顔を上げ千鶴さんの背中を見詰めた。
 三たび同じ苦しみを味わうかも知れない姉の苦悩を思い、唇を噛み締めた梓の顔と瞳には、不安と痛みが色濃く宿っていた。
「俺以外なら、普通の子供しか出来ない」
「確実じゃ在りません。それに隔世遺伝も在ります!」
「なら、もっと鬼が残っている!」
「どうして、そんな事が判るんです!」
「街には、薄まった血の者が居る!」
「世代変遷の結果です!」
「なっ! ちょ、ちょ、ちょと。千鶴姉も耕一も、二人だけで話し進めんなよな」
 硬い声で言い合い始めた俺と千鶴さんの間に、身を乗り出した梓の慌てた声が割り込んで来る。
 梓は俺と千鶴さんの視線を受け、顔色を変えスゴスゴと後退った。
「千鶴姉さんも耕一さんも、私達にも関係ある話です。止めて下さい」
 緊張した空気を裂き、楓ちゃんの凛と響く透明な声が俺達を叱責した。
 千鶴さんは、背筋を伸ばし正座した楓ちゃんを振り返り。普段と違う強い意志の篭もった瞳に見詰められ、戸惑った様に楓ちゃんを見返し小さく嘆息した。
「ごめんなさい、梓。楓の言う通りね」
「梓、スマン」
 俺と千鶴さんに謝られ、梓は鼻の頭を掻き、楓ちゃんを感心した様に首を捻って覗き込んだ。
「耕一さんの考え通りなら、私達の子供は鬼の力を継がないわ」
「でもさ。あたし達力使えるよ。なんで子供は大丈夫なの?」
 視線を俺に据えたままの千鶴さんの説明で、梓は首を捻って眉を寄せた。
「劣性遺伝なら、優性遺伝形質の前では表面化しないわ。潜在的には形質が受け継がれても、子孫に力が現れる事はないの。まれに隔世遺伝として、何代か後に現れる事は在るけど。簡単に言えば、子供には、人の血が濃くなって鬼が発現しないって事よ」
 千鶴さんに説明された梓は、ますます難しい顔になって考え込んだ。
「梓達の力は完全じゃない。身体が変化しないだろ?」
 梓の困惑顔に苦笑しつつ俺は説明をした。
「うん」
「同族なのに、男だけ身体が変化する。おかしいよな?」
「生物って苦手だよ」
 俺が尋ねると、梓は頭を抱え唸り出した。
「そういう種も在ります」
「違うな。爪と瞳は変化する。女性は人と鬼の中間で、鬼としては不完全体だからだ」
 表情を変えず一言で返した千鶴さんに、俺は目を眇めて見せた。

 俺の推論を認めれば、柏木の血の呪縛は終りに出来る。だが同時に、俺が居なくなるのが最善だと認める事にもなる。
 どうあっても千鶴さんは、梓達の前で、俺の子供だけが鬼だと認めない気だ。

「性差です!」
「覚醒が不十分だから、殺戮衝動にも侵されない!」
「性別による攻撃本能の差です!」
「家系図を見れば、継いでいるのは直系男子だ!」
「男系社会のしきたりです!」
「女性当主に男子が居ても、分家の直系男子が継いでる!」
「千鶴姉さん、耕一さんも。落ち着いて下さい」
 また言い合い始めた俺達の間に、楓ちゃんの何処か呆れた様な声が静かに割って入った。
 俺と千鶴さんは顔を見合わせ、同時に一つ息を吐いた。
「じゃあさ。耕一が居なくなるのも、子供作る気無いって言ったのも。鬼だからか?」
 腕を組んで考え込んでいた梓が顔を上げ言った言葉で、千鶴さんの唇が噛み締められ、表情がまた強ばりを増した。
 俺は唇を噛み締め、梓を睨み付けた。
「…なんだよ? …いいじゃんか」
 俺の視線に腰の引けた梓は、えへへと奇妙な愛想笑いを返した。
「でも耕一。千鶴姉ならって?」

 また余計な事を。

「…梓、楓も。…もう遅いわ…初音が心配だから……」
 項垂れ長い髪が表情を隠した千鶴さんから、低い呟きが洩れた。
「…先に…帰って……御願い」
 楓ちゃんは千鶴さんの背中に心配そうに陰った瞳を向け、小さく頷き。梓は千鶴さんを見返し、楓ちゃんに促され渋々立ち上がった。
「…梓…ごめんね。…明日でも…ゆっくり、話をしましょ……」
「…うん」
 項垂れたままの千鶴さんの力ない声に、梓は心配そうに頷き俺を覗き見た。
 俺は梓に頷き掛け、障子戸の方を示した。
 梓は小さく頷き返し、楓ちゃんと振り返りながら部屋を後に障子戸を締めた。



 梓達の影を映した障子から、躊躇いがちに影が歩み去り。静寂に包まれた部屋に、胸を打つ鼓動だけが時の流れを感じさせる。
「…最初…から……?」
 不意に顔を伏せた千鶴さんから、掠れた呟きが洩れ聞こえた。
「いいや。考えの一つだった」

 もう一つ、考えは在った。
 だが、今は無い。

「…平気……なん…ですか……?」
 掠れ震える声音と共に畳みに雫が煌めき落ち、細い肩が微かに震えていた。
「……他の人……と………」
 俺は視線を下げ、畳を睨み歯を食い縛った。

 平気な筈がない。
 考えただけで、胸に心を砕く様な重い痛みと、頭が割れる様な暗い怒りで目が眩む。

「…耕一さん」
 答えない俺を、悲鳴の様に胸に響く掠れ震える声が呼んだ。
「…俺は……」

 平気だと言おうとした声は、噛み締めた唇から声になる事は無かった。

「…いや……」
 押し殺した声が、短く告げた。
「…判って…よ。…伯父さんの手紙にも…在っただろ? …人並みの幸せって。…子供…殺すかもしれないで……人並み…なんて…言えないだろ」
 何とか言葉を絞り出し、俺は頭に響く鼓動を抑え息苦しさに息を吐いた。
「……しあわせ…ひとり…で……?」
 今までと違う呟きに顔を上げると、千鶴さんは顔を上げ、俺をジッと見詰めていた。
 頬に雫をしたたたらせたまま、蒼白い面に頬だけを赤く染め、固く引き結んだ唇を戦慄かせ。膝に置いた拳を間接が白く色を変えるほどに握り締め、細い体を小刻みに震わせ。
「…しあわせなわけ…ありません……」
 顔を上げた俺に告げ、両手で顔を覆った。
 俺は何も言えず、ただ項垂れ肩を落とした。
「…わかって……あのとき…から……」
 千鶴さんの切れ切れの掠れた声を最後まで聞かず、俺は千鶴さんを引き寄せ、震える身体を包み込んだ。

 子供を理由に離れようとすれば、千鶴さんが納得しないのは、俺にも判っていた。
 あの時。
 初めての夜。子供が出来、男ならどうなるか、千鶴さんに判らない筈がない。
 あの時から、苦しみを繰り返す覚悟をしていたのは、俺も理解している。
 理解し信じたから俺は戻って来た。
 子供が出来ていないか確かめず姿を消す事も、今のまま彼女を放って置く事も出来なかった。
 梓と楓ちゃんに託せば、鶴来屋と家だけなら大丈夫だと考えていた。
 だが、もうだめだ。
 俺自身が去れなくなった。

 俺は震える身体を抱き締め、凍りひび割れた心が溶かされてゆくのを感じた。
 震える細い肩を抱き。
 胸に伝わる温かさが、緩む事は無いと覚悟した寒さを温める。
 俺は頬を艶やかな髪に顔を埋め、髪に落ちた熱い雫に頬を擦り寄せた。


  § § §  


 二の腕に掛かる重みが、さらさらと心地好いくすぐったさを伝えながら微かに動いた。
「梓の気持ちが、良く判りました」
 腕に目を移すと、見詰める瞳が陰りに沈んでいた。
「話して貰えないって、情けないですね」

 夜も深け、俺達は住職の勧めで離れに泊まる事にした。
 住職は静かな笑みで、隠し事は誤解の元、と一言俺に呟き離れを後にした。
 俺達は一つ夜具の中、身を寄せ合い。
 血を残した理由も、次郎衛門のリズエルに対する仕打ちも、俺は全てを語った。
 彼女は静かに耳を傾け、優しく受け入れてくれた。

「ごめん」
 俺が短く謝ると横たわった身体を擦り寄せ、頭が腕の中で横に動いた。
「私が、何も話さなかったから」
 細くしなやかな指が、俺の頬をなぞる様に動き、胸に柔らかい髪が広がる。
「俺も話さなかった。お互い様って事で、いいかな?」
 胸に伝わる微かな動きが、同意を伝えた。
「御父様の手紙に在った、何者にもって。次郎衛門の事だったんですか?」
「伯父さん、知ってたんだろうな」
 静かな問いに頷き返す。
「知って?」
「歴代の柏木が守って来た意志を、どんなに無意味に思えても。千鶴さんには無為に扱えないって」
「…じゃあ」
「うん。責任や義務に縛られず、自分の幸せだけを考えてくれって、伝えたかったんだと思う」
 胸から顔を上げた潤んだ瞳が新たな雫を落とし、胸に顔を埋め、俺は両腕で掻き抱いた。
「……御父様、…苦しんで……らした…のに……」
 苦しみ抜いた父の、自分への想いに震える肩を抱き、俺は髪を優しくなで。
 あの時、隠さず伝えなかった事を後悔した。
 静かな部屋に髪を梳く音が、微かなさざ波を思わせる。
「ごめん、隠したりして」
「いいえ。私が内に篭もっていたから。妹達を支えてるつもりで。いつのまにか、自分だけが辛いつもりになっていました」
 顔を上げ緩く髪を揺らした彼女は、自嘲する様に寂しい微笑みを浮かべた。
「耕一さんは、何も話さないのに判ってくれた。私は何も気付けなかったのに。耕一さんの方が、辛かったでしょう?」
 俺は頬を温かく包んだ掌に頬を擦り寄せ、微笑みを返した。
「僅かだよ。何でもない」

 彼女は八年以上苦しみ抜いた。
 俺の悩みなど、取るに足りない。

「ごめんなさい」
 再び謝罪を口にした彼女の指に指を絡め、俺は手を頬に寄せた。
「前にも言ったよね? 千鶴さんが謝る事は、何もないんだよ」
「でも……」
 開いた艶やかな唇を唇で塞ぎ、俺は言葉を継いだ。
「これからだろ? もう何処にも行かない。判り合う時間は十分在るよ」
 ゆっくり頷いた彼女の髪に指を埋め、胸に引き寄せる。
「耕一さん」
「うん?」
 優しい声に呼ばれ、俺は視線を胸に移した。
「一つだけ、いいですか?」
「うん」
「考えの一つって、言われましたよね?」
「もう一つは…戻った途端……だめになった」
 俺は胸に走った痛みを押さえ、歪んだ頬に彼女の瞳が向けらていないのに安堵の息を吐いた。
「戻った途端、だめに?」
 彼女は不可解そうに顔を上げ、俺は歪んだ頬を慌てて笑みに変えた。
「うん。爺さんだよ」
「御爺様?」
 余計判らないと眉を潜めた彼女に、俺はもう一つの考えを話し出した。
「次郎衛門は、殺戮本能に悩んだりしなかった。そして俺と爺さんは、制御してる」
「次郎衛門は、鬼の本能を知らなかったんですか?」
 彼女は意外そうに瞳を開いた。
「知らなかった。それと、俺は子供の頃、記憶ごと鬼を封じた。で、それらの共通点を探した」
「それは、鬼の力が弱かったからじゃ?」
「俺は、楓ちゃんが居たからだと考えた」
「楓が居たから?」
 眉を寄せ、彼女は首を傾げた。
「鬼と一緒に蘇った次郎衛門が、封じたんじゃないかと思って」
「あの時、次郎衛門の記憶も蘇ったと?」
「仮定だけど。楓ちゃんの中のエディフェルを感じた次郎衛門の想いが、殺すのを拒否して封じた。そう考えたんだけど」
「…鬼の本能より強い…想い…ですか?」
 寂しそうに呟いた彼女を、俺は両の腕で抱き寄せる。
「俺もね」
「えっ?」
 エディフェルへの想いだと思ったのだろう。
 彼女の表情が哀しそうに暗くなる。
「俺が制御した時は、千鶴さんを助ける事しか考えてなかった」
 首を横に振り返すと彼女の頬が赤く色付き、嬉しい様な困った様な、はにかんだ笑みに変わった。
「次郎衛門にはエディフェル。俺には千鶴さん。だから爺さんにもって思ったんだけど」
「でも耕一さん。それって、想いが本能を押さえるって事ですよね?」
 少し考え俺を覗き込んだ顔は、不満そうに頬が膨らんでいた。
「そうだけど?」
「御父様には、御母様が居ました!」
 何を怒っているのか戸惑いながら頷くと、頬を膨らました彼女の瞳が細くなりムッとした声が俺を撃った。
「親父には、母さんが居たしね」
 苦笑しながら返すと、ぱっと瞳を開き、しおしおと彼女は小さくなった。
「ごめんなさい」
「いいよ。判ってる」
 俺は彼女の項垂れた頭を引き寄せ、髪を撫でた。

 彼女には、共に伯父の苦しみを見て来た伯母の想いを、軽く考える様な発想が許せなかったのだろう。

「お婆さんも柏木の血を引いてるんだ。爺さんの従妹で、一人っ子だったから家は絶えたけど」
「柏木同士だから?」
「そう思ったんだけど」
 柳川の事は家訓のせいで、血統を残す為だと思っていたんだが。親父と伯父が居て、他にも方々に囲ってる様じゃ違うだろう。
「だから本能を抑えるには、一人の意識だけじゃ不完全でも。同族の女性の想いに支えられ、抑えられる。梓達に子供が居ればいいし。もしくは、訓練次第で抑えられると考えていた」
「鬼同士の意識を伝え合う力ですね?」
「うん」
 頷き返すと、彼女は考える様に首を傾げた。
「じゃあ御爺様の話を聞くまでは、居なくなるつもりは無かったんですね?」
「まず爺さんを調べ、制御方がどうしても見付からなかったらだったんだけど」
「どうして諦めたんですか?」
 拗ねた様に上目遣いに睨まれ、俺は頭を掻いた。
「あの後、楓ちゃんの記憶が戻ってたの判ったしね」

 まさか原因が、彼女が俺を信用せず、部屋に篭もったからだとは言えない。

「会長室から出て行った時は、居なくなるつもりは無かったって事ですか?」
 頬を膨らませた彼女の頬に手を添え、俺は苦い笑みを浮かべた。
「半分諦めた。梓が殴り込まなかったら、そのままかな」
「あの子の無茶が心配になった?」
 溜息混じりに尋ねられ、俺は頷きで応えた。
「梓に感謝しないと」
 小さく笑みを洩らし、彼女は身を起こし俺の顔を覗き込み。潤みを帯びた瞳が俺を映し、朱を掃いた唇がゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「耕一さんの子供なら大丈夫です。もし同じ苦しみを味わうにしても、一人じゃありませんから。一人で泣かせたり、しませんよね?」
 俺は掌をそっと彼女の両頬に添えて引き寄せ、想いを刻んだ唇に、想いを長く熱く返した。

陽の章 十三章

陽の章 十五章

陰の章 十四章

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