陽の章 十三


 細く長い睫毛が微かな震えと供に動き、開かれた瞼が瞬きを繰り返す。
 瞼の下から現れた澄んだ瞳が光を取り戻し、煌めく瞳の中に俺の姿を映し、穏やかな光を宿した。
「耕一さん。ずっと見ていたんですか?」
 恥ずかしげにシィーツを目の下まで引き上げ、怒った声を出しながら、瞳に浮かんだ光が声音を裏切っていた。
 俺は断ち切れない未練に、僅かに頬に浮かんだ自嘲の笑みを消し。ベッドサイドに移した椅子から立ち上がり、手にしたグラスを彼女に差し出した。
「梓の様子を見てきた。元気そうだったよ」
 少し首を傾げ安堵の息を吐いた彼女は、俺が微笑みかけると、グラスを受け取り形に良い唇に運んだ。
「私も、ちゃんと梓と話さないといけませんね」
「もう少し休んでからね。梓も疲れてるだろう」
 俺は身体が起こそうとした彼女を押し止め、大人しく再び横たわった彼女にシィーツを掛け直し、グラスの中身を空ける様に促す。
「もう少し眠った方がいいな。まだ顔色が悪い」
 頬に残った涙の名残に掌を添えた俺に、彼女は頬を仄かに染め静かな微笑みを向けた。
「耕一さん。そんなに私の寝顔って、面白いんですか?」
 半分ほど中身の減ったグラスをサイドテーブルに置きながら、彼女は俺を上目遣いに睨んで見せた。
 俺はベッドサイドに腰を下ろし彼女の瞳を覗き込む。
「面白くはないよ。見飽きないけどね」
「必ず、先に起きてますよね?」
「今は綺麗に澄んだ瞳が無くなってたら、どうしたらいいかなって。考えてた」
「瞳?」
「ずっと泣かせてるから、溶けて流れてないかなって」
「もう、そんなに泣いていません」
 頬を膨らませた顔をシーツで半分隠す彼女の仕草に、俺は笑みが零れた。
「そうかな。シャツが何枚あっても足りない気がするけど」
「そんなに泣きます?」
 不安そうに見上げる瞳に笑いかけ、俺は彼女の額に掛かる髪を指で直し、頬に残る涙の名残を拭った。
「涙が枯れるなんて、ないから。泣く時は涙を流して。涙を流さず泣かなくてもいい。今まで流さず泣いた分。これから流せばいいんだから」
 瞳に滲んだ雫を指で拭い、俺は唇を重ねた。
「耕一さん。どうして私が涙を流さないで泣く。なんて、思うんです?」
 俺は微笑んだ彼女の問いに微笑み返した。
「どうしてですか? 意地悪しないで、教えて下さい」
 微笑むだけの俺に焦れた彼女は、俺の腕を掴み瞳を覗き込む。
「愛してる。からかな」
 細い睫毛を瞬かせ、頬を染めた彼女の艶やかな髪に手を伸ばし、俺はゆっくり梳いた。
「もう耕一さんったら。顔色一つ変えずに、そんな事を言える様になったんですね」
 頬を桜色に染め怒った様に身を離し、ぷんと横を向いた彼女の髪が、さらさらと俺の指の間から逃げて行く。
 逃げる髪を目で追い。
 心を凍えさす鋭利な冷たさに、俺は痛みのままに問いかける。
「……変わった?」
「ええ。変わりました」
「そうだな……前とは…違う…」
「耕一さん?」
 哀しい心で呟いた俺に、彼女のいたわる瞳が向けられた。
「どうしたんですか? 私、なにか悪い事でも?」
 俺は彼女の気遣う瞳に寂しい心で微笑みを返した。
「…千鶴さんは、悪くないよ。本当の事だから」
「…耕一さん?」
 俺は両頬に添えられた彼女の手を握り、言葉を絞り出した。
「二月程前からかな、知り合いと話してると聞く。柏木だよなって。全然知らない人を見る目で見て。俺だって確認するのに名前呼んで。鋭い奴もいたな。見た目は俺だけど、中身が違うって」
「どうして、そんな」
 彼女の不安に揺れる瞳が、俺の顔を映し出す。
 繋いだ彼女の手を頬に当て、俺は小さく息を吐いた。
「千鶴さん、そんな顔しないで。暫くすれば、また友達位出来るから。仕方ないんだ。あいつらの言う通りなんだから」
「それじゃ。どうして泣きそうな顔をして、震えているんです?」
 俺の頭を胸に抱き寄せ、素肌と同じ柔らかく温かい彼女の声音が俺を震わせる。
 凍った心を暖める、声音と柔らかな温かさに助けられ。
 俺は言葉を紡いだ。
「元は耕一のままでも、鬼と次郎衛門が居る。同じでは、いられない。梓や楓ちゃんが辛いのが判かってて、冷たく出来る。梓に言ったのも脅しじゃない。いざとなったら殺る。千鶴さんの知ってる、鬼の目覚める前の耕一は、もう居ない。だから……」
「……耕一…さん?」
 俺は彼女の胸から顔を上げ、残った心を砕く、失う者の大きさに震える唇を開いた。
「梓と楓ちゃんが、助けてくれる。もう一人じゃないだろ? 千鶴さんは、幸せになれる」
「…なに…を…いって…るんです…?」
 震える手を俺の頬に当て見詰める彼女に向い。
 微笑みを作り、俺は別れの言葉を告げる。
「俺と居ても幸せになれない。千鶴さんが愛した耕一は、もういない。千鶴さんの愛した耕一は、俺じゃないんだよ」
 彼女の瞳が束の間揺れ、瞼に下に隠され。
 刹那、俺は柔らかな温もりに包まれた。
「耕一さんは、耕一さんです。また一人で泣かせるんですか? また涙も流さず泣かせるんですか? 私を泣かせてくれる耕一さんは、貴方だけです」
 肌理細かな素肌の柔らかい温もりと、仄かな香りに包まれ、凍った心に温かく染みいる様に流れこむ、彼女の心に包まれながら。
 温かな胸の中、俺は頬を伝う涙も忘れ強く頬を擦り寄せた。


 温かく包む腕から力が抜け、しなやかな軽い身体が俺に覆い被さり。俺は軽い寝息を立てる彼女をベッドに横たえ、シーツを掛け直し頬に口づけして部屋を後にした。


  § § §  


 火鉢に掛かった茶瓶がシュンシュンと湯気を上げる音が、静かな部屋で瞑目する俺の耳に響く。
 家では使った事が無い筈だが、炭火の独特な臭いに懐かしさを感じる。

 次郎衛門の記憶だろうか。

 潜り戸を開ける音に目を開く。
 住職の半纏を着込んだずんぐりした着膨れ姿が、外の寒風を纏(まと)い茶室へと共に入って来る。
 会釈した俺に黙礼を返し、住職は静かに下座に着いた。
「御住職にはたびたびご造作をお掛けし、申し訳在りません」
「御爺様達に受けた御恩を思えば、これしきの事、造作などとは、とんでもない」
 深く頭を下げた俺に、住職はゆっくり首を横に振った。
「そう言って頂けると、気が楽になります」
「若い方が、年寄りに気遣いなど無用ですな。年寄りには、若い方に頼られるわ、嬉しい物ですでな」
 楽しそうに笑い、住職は小箱を俺の前に差し出した。
「刀は、どうなされます?」
「いえ。これだけで結構です」
 尋ねる住職に答えながら、俺は小箱を傍に置いたバッグに仕舞った。
「そうでした。暮れでしたが、御友人が訪ねて参られましてな」
「はい? 鶴来屋の方で会いましたが。こちらにも?」

 由美子さんの事だろう。
 本当に調べてるのか?

「ええ。角が見たいと申されましてな。刀を御見せしたのが、不味かったですかな」
 正月とは言え、寺は閑散としていた。雪が深くなれば、高台に在る寂れた寺に来る人も減るのだろう。
 由美子さんと話すのが、住職にもいい息抜きになったのか。住職は言葉とは裏腹に首を傾げ、困ったと言うより楽しそうに顔を綻ばせた。
「角が見たい。ですか?」

 夏に見せて貰えなくて、興味が湧いたのか?

「はい。お断りいたしますと、口を尖らせておられました。可愛らしいお嬢さんですな」
 住職はそう言うと、穏やかに微笑み表情を僅かに引き締めた。
「あの方は、どうですかな。穏やかに、なられましたか?」
「申し訳在りません。未だに」
 ふっと表情を陰らせ、住職は息を吐いた。
「焦らず気長になさる事です。まだお若い。時間は十分御座いましょう」
「はい。申し訳在りませんが、少し急ぎますので。これで、お暇(いとま)させて頂きます」
 俺は深く頭を下げ、住職の小さい頷きで立ち上がった。
「また、何時なりといらして下さい」
「有難うございます」
 俺は深い笑みを浮かべた住職の言葉に感謝しつつ、もう来る事もない茶室を見回し潜り戸を抜けた。
 雪深い庭園を横目に進み、本堂から出ると足を墓地に向ける。
 正月に帰省した人が墓参に来る為、雪を分けた泥濘るんだ山道を歩きながら、凍える寒さにコートの衿を合わせ、頬が自嘲に緩んだ。

 コートが在っても、この寒さが消える事はない。
 内から凍える寒さ。
 もう俺から、この寒さが緩む事は無い。
 俺自身が選んで決めた。

 足を動かし、雪に覆われた途中の脇道から次郎衛門の墓碑に向う。

 通る人もない小道は、雪に覆われ歩きづらい。
 だが東屋や柏木の墓には寄りたくない。
 みんなと夏に来た時を思い出す。

 雪に足を取られながら暫く進むと、数日前には払われていた雪が、墓碑を白く染めていた。
 俺は墓碑の後ろに回り、雪に埋もれた四つの岩から雪を手で除け始めた。
 初め温かく感じた雪は、徐々に手を痺れされる。
 手の感覚がなくなり、真っ赤に染まった頃。やっと四つの岩全てから雪が取り除けた。
 俺はバックから小箱を取り出し、左端の岩の前に置いた。

「……こう…い…ち…さん」
 突然切れ切れの荒い息で呼ばれ、俺はギョッとして背後を振り返った。
 紺の通学用と思えるコートを来た少女が、頬を赤く紅葉させ白く濁った荒い息を吐き、半ば腰を折り苦しそうに片手を胸に置き、もう片手で膝を押さえていた。
 コートの腰の辺りまで跳ねた泥が、雪道を走って来たのを物語っていた。
「……どう…し…て?」
 荒い息で苦しそうに瞳を細め、少女は声を絞り出した。
「楓ちゃん、落ち着いてからでいいよ。逃げたりしない」
 俺が微笑んで首を傾げて見せると、楓ちゃんは両手を膝に置き、顔を伏せ息を整え様と大きく息を吐いた。
 雪に覆われた凍える寒さの中、汗を滴らせる楓ちゃんに、俺はバッグからスポーツタオルを出し手渡した。
「ここだって、良く判ったね?」
 汗を拭う楓ちゃんの息が調うのを待って、俺は話し掛けた。
「駅には梓姉さんが。他に在りませんから」
 楓ちゃんの答は簡潔だった。
「荷物を持って出たのが、失敗かな?」
 髪を揺らし小さく頷いた楓ちゃんから、目を岩に移す。
「左から、エディフェル、リズエル、アズエル、リネットだよ。エディフェルとリネット以外は空だけどね」
 息を一つ吐く間を置いて、俺は視線を楓ちゃんに戻した。
「そうだな。これは埋めるより、楓ちゃんに返そう」
 俺は腰を屈め小箱を取ると、楓ちゃんに歩み寄り手にした小箱を差し出した。
 楓ちゃんは訝しげに箱を見ると、そっと箱を受け取り俺に視線を送った。
 俺が小さく頷き掛けると、楓ちゃんは小箱の朱房の付いた紐を解き、箱を開くと小さく目を開き、手にしたタオルを落した。
「エディフェルの角だよ。リネットの角は持ち主に返ったからね。もう飾りだろうけど」
「…どうして…?」
 切ない瞳で問い掛ける声に、俺は視線を下げた。
「楓ちゃん。柏木の家系図、見た事ある?」
「…いいえ」
 去年の墓での事を思い出したのだろう。
 楓ちゃんの苦しそうな呟きが短く答えた。
「柏木当主は女性が多いんだよ。でも女性当主の子供は、夫が柏木で無いと跡を継いでいない。養子。おそらく外に作った子供か、分家でも男子直系の子供が継いでるんだ。判るかな?」
 視線を楓ちゃんに向けると、髪を揺らし首を横に振った。
「柏木でも男の子供にしか、鬼の力は伝わらないんだ。限性遺伝だっけ?」
「…耕一さん? …まさか」
 俺の考えに気付いた楓ちゃんの声は、震えていた。
「鬼の血は俺で絶える。みんなは、何も心配しなくていい。結婚して子供を産んで、幸せになれる」

 鬼の制御方法がない以上、これが最善だ。

「…千鶴…姉さんは?」
「梓に全部話した。一緒に支えて欲しい」
「私達と耕一さんは、違います」
「俺よりいい男は、いくらでも居る」
 自分の言葉に、凍った心にひびが入った様な痛みが走った。
「どうして? 男の子が生まれるなんて決まってない!」
 楓ちゃんの初めて感情をあらわにした声が、悲痛な物だったのが。場違いと判っていながら、俺は残念な気がした。
「男だったら? 制御出来なかったら自分の子供を殺す? 今度こそ、千鶴さんは壊れる」
 ひび割れた心の痛みに固く目を閉じ、俺は静かに返した。
「…耕…いち…さん」
 噛み締めた唇から洩れた響きが、俺に楓ちゃんの哀しく沈んだ瞳を見詰めさせた。
 凍て付き、ひび割れた心に温もりが湧くかと思った微かな想いは、より哀しく感じた心に裏切られた。
「…子供。…いなければ…」
「せめて娘達に、人並みの幸せを」
 僅かな可能性でも俺の意思を変えようと、噛み締めた唇を開いた楓ちゃんに、俺は伯父の手紙の一節を返した。
「えっ?」
「伯父さん。楓ちゃんのお父さんが残された手紙に在った、願いだ。産めないなら兎も角、俺の勝手で産むなと言うのが、人並みな幸せとは思わない」
 不思議そうに俺を見返した楓ちゃんは、俺の説明に視線を雪の積もる地面に落とした。
「楓ちゃん、行かせてよ。一緒に居る時間が長い程、居なくなった時のショックは大きいだろ? 今の内の方がいい」
 逃げる事も出来るが、力を使えるなら追う事は可能だろう。

 説得するしか無いか。

「耕一さんは? …一人? ずっと一人で?」
「俺の事は心配しないで。俺はずっと一人だよ。母さんが死んで、帰る家も無くなった。一人で何とか出来る」
「叔父さんも私達も居ました」
 俺の言葉を信じられないと、髪を揺らす楓ちゃんに向い微笑んで俺は言を継いだ。
「絆を絶ったのは、俺だよ。俺の中で、親父はとっくに死んでた。だから葬儀にも来なかった。そう、楓ちゃん達の事だって、ここに来るまでは、昔の思い出でしかなかった」
「…こう…い…ちさん」
 哀しそうに名を呟き、楓ちゃんは俺の言葉を否定し様とふるふると髪を揺らし首を振った。
「今は、親父やみんなの気持ちを知ってる。あの頃よりはマシだよ。一人でもね」
 冷たくし切れない自分を寂しく笑い、俺は楓ちゃんの否定を受け入れた。
「…だったら居て下さい。耕一さんが、一人になる事ない」
 ほっと安堵の息を吐いた楓ちゃんは、ゆるゆる髪を揺らしながら、潤んだ澄んだ瞳を俺に据えた。
「ごめん。今更、ただの従弟には戻れない」
「姉さんも、もう戻れません」
 意を決した強い口調で、楓ちゃんは表情を強ばらせた。
「姉さんは、私達の前では泣きません。叔父さんの前でも泣かなかった。でも御墓の前で、耕一さんの前では泣いてた」
 哀しそうに話しながら、楓ちゃんは身体の前で両手で小箱を握り締めた。
「ごめんなさい」
「? ……楓ちゃん?」
 目を伏せた楓ちゃんの謝罪の意味が判らず、俺は名を呼んだ。
「耕一さんが力を必要以上に抑えているのを。あの時、姉さんに話しました。姉さんを不安がらせるのは、判っていたのに」

 夏の墓参りの事か?

「ごめん、楓ちゃん。意味が良く判らないんだけど?」

 確かに俺は心を閉ざしたが、楓ちゃんが謝る事じゃない。

「耕一さんが完全に心を閉ざしていたのは、千鶴姉さんが居る時だけでした」
「…どうして?」

 そんな事まで教えたのか?
 自分にだけ心を閉ざしたと知ったら、千鶴さんが不安がる筈だ。

「ごめんなさい。耕一さんが制御出来たら。私、想いを伝えたかった。でも耕一さん、あれから姉さんしか……」
 再び謝罪を口にした楓ちゃんは、一度言葉を途絶えさせ、伏せた目を上げ感情を抑えた声で話し始めた。
「耕一さんが心を閉ざした理由を知りたかった。あの夜、姉さんと何があったのか。心は閉ざしているのに。耕一さん、姉さんの心配ばかりしてた。だから……」
「気にしなくていいよ。楓ちゃん」

 心を閉ざした事を告げて、千鶴さんから訳を聞こうとしたのか。
 薄々記憶が戻っているのを知りながら、楓ちゃんの気持ちを考えなかった俺には、楓ちゃんを責められない。

「それに、俺が居なくなる理由とは関係ない」
「居なくなれない理由です」
 俺を射た澄んだ瞳の強い光が、束の間千鶴さんと楓ちゃんの姿を重ね合わさせた。
 強い意志を表す瞳の光と、キッと顔を上げ引き結んだ唇が、常に見せない楓ちゃんの強い意志を表していた。
「あの夜、姉さんは耕一さんを殺そうとした」
 楓ちゃんの強い口調に、俺は頷きだけで応えた。
 楓ちゃんが必死に強い姿勢を保とうとしているのは、身体の前で小箱を握った手が、力を込めすぎ白く色を変え、小刻みに震えているのからも判った。
「それでも耕一さんは、姉さんを愛している?」
 再びの問いに同じく頷き返す。
「では、居て下さい。誰にも耕一さんの替わりは、出来ません」
「理由は話した」
 強い視線に俺も正面から視線を向けた。

 いま対峙しているのは、従妹の年下の少女ではない。
 強い意志を宿す一人の人間として、俺は改めて向き合った。

「私もです。耕一さんが去った後。姉さんを代わりに支えられる者は居ません」
「君達が居る」
「いいえ。今は、もうだめ」
 視線を逸らさず、楓ちゃんは髪を揺らした。
「千鶴姉さんは、貴方に頼っている。もう戻れません」
「親父の死からも立ち直った。今は梓も全てを知った。出来る筈だ」
 驚きを隠し平静に俺は返した。

 いつもは大人しく無口な楓ちゃんから、静かに言葉を紡ぎながら、気圧されそうな強い意志が感じられた。

「叔父さんの前でも、姉さんは泣かなかった。でも、貴方は違う。姉さんが泣けるのは、貴方だけ。代われる者は居ません」
 視線を据えたまま、楓ちゃんは一歩も引かず、淀みなく話し続けた。
「私には、知っていても何も出来なかった。叔父さんの死から私達が立ち直れたのも。耕一さん、貴方が来て下さったから」
「俺が親父に似ていたからに過ぎない。千鶴さんの心を温めたのも、エルクゥの意思を信号化する力だ。俺で在る必要は無い」
 自らの言葉を否定しようと、凍った筈の心が疼くのを眉を潜めてやり過ごし、俺は言を継ぐ。
「かってエディフェルが言った。次郎衛門が愛し心を温めたと。千鶴さんが凍らせた心を温めたのも同じだ」
「でも。それは貴方が、姉さんを愛したから」
 そう言った楓ちゃんの視線は、力を無くし瞳が弱く揺れた。
「親父が死に、開いた心の穴に俺が入った。それだけだ」
「…耕一さん? どうして、一人になろうとするんです?」
 ふっと息を吐き、楓ちゃんは普段の寂しい少女の顔に戻った。
 俺が否定した言葉の全てを哀しい瞳で一蹴され、俺は彼女の鋭さに唇を噛んだ。
「楓ちゃん、家訓は知ってる?」

 話したくはなかったが、楓ちゃんは思った以上に心が強い。
 全てを告げよう。

「ええ」
「家訓の他に血を残す理由は、もう一つある。新たなエルクゥの到来に備える為。表向きはね」
 小さく頷いた楓ちゃんに、俺は次郎衛門の遺言の内容を簡単に話した。
「表向き?」
「そう、どれも本当の理由じゃない」
 俺は大きく息を吐き、話を進めた。
「一つは、人々から忌み嫌われた鬼であるリネットを守るには、鬼から人々を守る力の維持と言う大義名分が必要だった。そして、もう一つが次郎衛門の真の意思。五百年掛け叶った、血を残した理由」
 薄く張り付いた自嘲を吹っ切り、俺は楓ちゃんの瞳を見詰めた。

「鬼の血に、蘇るエディフェルと次郎衛門が宿る、器なんだよ。柏木は」

 楓ちゃんの寒さに赤みを帯びた顔から血の気が引き、瞳が大きく開き、唇が固く引き結ばれた。

 エディフェルの記憶を持つ楓ちゃんにも辛い話だ。

 いつの日か、エディフェルと再会し約束を果たす為。次郎衛門は自分の子孫を、自分達の想いを叶える為の宿り木にした。
 次郎衛門の願い道理、再会は果たした。だが皮肉にも、俺は奴が恨み、生在る限り苦しみ抜く事を願ったリズエルを宿した、千鶴さんを愛した。
 身勝手な想いに五百年苦しめられた柏木の、呪いかも知れない。

「楓ちゃんが気にする事はないよ。次郎衛門がした事だから。でも、そんな事の為に、俺は、もう誰も苦しめたくない。判って欲しい」
「…でも…そんな」
 蒼褪めた顔で、震えながら髪をゆるゆる揺らす楓ちゃんの、首の辺りで揺れる髪に白い物が触れては消えた。
「それに。次郎衛門も約束を果せなかった」
「…約束?」
「リズエルを、恨んだ」
 粉雪が風に乗り吹き流れ、楓ちゃんの細い髪がなびき、さらさらと音を立てた気がした。
「…まさ…か…リズエル…を?」
 掠れた呟きの意味を察し、俺は首を横に振る。
「リズエルは死にたがっていた。だから殺さなかった。記憶が戻るなら、幾度生まれ変わろうと苦しむ。死による一時の安息すら許さなかった」
 楓ちゃんは凍り付いた様に瞳を開き、俺を凝視していた。
 俺はバッグを手に、楓ちゃんの立つ小道に歩みを進めた。
「…だ…め……」
 楓ちゃんの横を通り抜け様とした俺は、消え入りそうな囁きと供に、軽くコートの端を引かれ足を止めた。
「頼むよ。皮肉だろ? 昔の俺が望んだ通りになってる。俺が居なくなれば、全て終わる」
 前を向いたまま、俺は小さく溜息を吐いた。
「…ちがうって…こういちさん……」
「うん。俺は次郎衛門じゃない。楓ちゃんもね」
「…ねえさん…だから。…わたし……」
「ごめん」
 俺が短く謝ると、楓ちゃんは激しく頭を振り、俺の頬を髪がかすめた。
「だめ! 私、もう嫌! 耕一さんは判ってない!」
「楓ちゃん?」
 責める声の激しさに首を捻り、視線を楓ちゃんに向け。俺の中の鬼が激しく騒ぎ鼓動が大きく跳ねた。
 視線の先から見上げる楓ちゃんの瞳は、赤く染まり瞳孔が縦に裂けた。
 舞い落ちる粉雪がつむじを巻き、楓ちゃんの髪が、その意思を体現するようにうねった。
「止めるんだ!」
 俺は激しく打つ鼓動を押さえ、楓ちゃんから後退った。

 力だけなら、千鶴さんや梓より上かも知れない。
 いや。力は強いが、何かが違う。
 いずれにせよ力で俺を止められない事は、楓ちゃんにも判っている筈だ。

「いいえ。そんな理由では、行かせない」
 静かに告げた楓ちゃんの双眸が俺を捕らえ、俺は奇妙な既視感に捕われた。
 既視感の正体が、楓ちゃんの瞳が、千鶴さんの感情を殺した瞳と同じだからだと気付くのに、時間は掛からなかった。
「どうして?」
 感情を殺した瞳と、力を使ってまで止め様とする理由。
 二つの意味で俺は問い掛けた。
「今まで私は、何も出来なかった。お父さんの発現を知ってから、姉さんは一人で泣き続けていたのに。耳を塞いでも、心を閉ざしても、私には聞こえてしまう。耕一さん、判りますか? 知っていて何も出来ない、無力さ、惨めさ。私、もう姉さんの慟哭を聞くのは、嫌」
 静かに話しながら、楓ちゃん自信の慟哭を感じさせる瞳に見詰められ。俺は自分の思慮の浅さに気付き、唇を噛み締めた。

 次郎衛門への想いだけが、楓ちゃんを内に篭もらせた理由じゃなかった。
 判る気がする。
 俺も感じた千鶴さんの哀しみの深さ、寂しさ。見ているだけで辛くなる姿。それを楓ちゃんは、子供の無垢な心のうちから直接感じ取って来た。
 何も出来ない無力さを噛み締めながら、そんな感情が無防備な幼い心に流れ込み続けたら……
 誰より苦しんで来たのは、楓ちゃんだったのかも知れない。

「姉さんの心は、十五の少女のままで止まっています」

 少女で止まってる?
 確かに、千鶴さんは子供の様な所が在るが。

「判りませんか?」
 微かに瞳を細め、胸に痛みを走らす悲哀に満ちた声が、俺に知らず頷きを返させた。
「私達を守るために、姉さんは大人の仮面を被ったんです。少女のままでは、私達を支えられなかった。心だけじゃなく、哀しみも嘆きも、涙さえ少女の時のまま凍らせてしまった」
「でも、親父が……」
 俺は言い掛けた言葉を飲み込んだ。
「叔父さんがどんなに心を砕いても、姉さんが叔父さんに甘えられないのは。耕一さんも知っています」

 確かに判っていた。
 彼女には、鬼に苦しめられている親父に甘えたり出来ない事は。

「叔父さんの前でも姉さんは、泣けなかった。叔父さんも頼ってはくれても、年相応に甘えてはくれない姉さんを、心配なさってました。でも、耕一さんは違う」
 俺の堅く決めた筈の決心が、楓ちゃんが紡ぐ言葉に揺らぎ、俺は固く拳を握り視線を逸らした。
「姉さん、一人になると泣くんです。寂しい哀しいって。心と一緒に凍らせた時を嘆く様に。あの時から、ずっと寒さに震えながら泣き続けてる」
「…俺は……」
 居られないと言い掛けた俺は、粉雪を舞い上がらせ渦を巻いた鬼気の激しさに言葉を途絶えさせた。

 楓ちゃんは本気だ。
 力ずくでも、俺を行かせない気だ。

「姉さんが凍り付かせた心と時間を溶かしたのは、耕一さん、貴方です。大人の仮面を外させ、少女に戻した。もう姉さんは、元には戻れない。貴方が居なくなれば、崩れてしまう」
 心に響く言葉を切り視線を下げると、楓ちゃんの鬼気が僅かに弱まった。
「……姉さんじゃなかったら。…だから」
 楓ちゃんは、キッと顔を上げ。

「行かせません!」

 そう宣言し、俺を射ぬいた瞳と共に決意の強さを表す鬼気が、俺の周りで白い壁となって渦を巻いた。
 何とか踏み留まり、俺は顔を歪ませた。

 どうすればいい。
 居ても苦しめる。
 去っても苦しめるしかないのか。

「御願いです。姉さんと話して下さい」
「だが、」

 会えば、離れられなくなる。

「離れる必要は在りません」
 薄く寂しく微笑んだ楓ちゃんの言葉で、俺は息を飲んだ。

 なぜ、判った?

「私と初音は、姉さん達とは力が少し違います。角は、私の感覚を高めてくれる。今なら貴方の考えも判る。リネットからは何も?」
「感覚を高める?」

 そんな力もあったのか?

「エルクゥを抑える力を? リネットらしい」
 リネットから角を与えられた記憶が脳裏をよぎった途端、楓ちゃんの静かな声が、俺の考えを言葉にした。

 リネットが次郎衛門に与えたのは、正確には武器では無かった。彼女は傷つけ合う武器など、与えたりしなかった。
 鬼の力を抑える装置を与え、人との力の差を無くしただけだ。次郎衛門には自らの角を与え、身に付けていれば装置の効果中でも鬼の力が使えるとだけ説明した。
 鬼の首領ダリエルが同じ物を持っていた為、次郎衛門の身を案じ、リネットが渡した。それを次郎衛門は、鬼を滅ぼす為に使った。

 戦いを好まなかったリネットの優しさに微笑みを浮かべ、楓ちゃんはいつの間に箱から取り出したのか、手にした淡く光る角の滑らかな表面を、白くしなやかな指でなぞった。
「もうすぐ使えなくなる。でも、すぐじゃない。どうやって行きます?」

 エルクゥを抑える装置があれば、俺もここに残れたが。

「ええ、ヨークさえ無事なら。お父さんや叔父さんも、苦しまなくてもすんだのに」
「楓ちゃん、判ったから止めてくれる。考えてる事が筒抜けじゃ、諦めるしかないだろう?」
 俺の考えを読んで応えた楓ちゃんの声で、俺は眉を潜め、溜息混じりに返した。

 考えを読まれては、どう逃げようと逃げきれない。
 楓ちゃんを傷つけられない俺に、選択の余地は無い。

「ごめんなさい」
 決まり悪そうに微笑むと、楓ちゃんは力を押さえた。
 周囲で俺を阻む様に渦を巻いていた粉雪が、再び俺達に舞い降り、楓ちゃんの頬に触れた雪が儚く消え去った。

「楓ちゃん。初音ちゃんの角は、リネットを蘇らせるの?」

 感覚を強めるなら、初音ちゃんの角を何とかしないと。

「いいえ。本来の力は在りません。今は、叔父さんの想いが宿っています」
「親父の?」
「はい。力のない初音を護って下さっています。何よりの、お守りです」
 静かに微笑んだ楓ちゃんの言葉で、俺は果てし無く落ち込みそうになった。

 ……死んでからも護っているのか。
 俺は親父には、いつまで経っても敵いそうにもない。

「姉さんには、叔父さん以上ですけど」
「楓ちゃん、頼むよ」
 小首を傾げた楓ちゃんを軽く睨み、俺は額を押さえた。
「ごめんなさい。これは封じます」

「…お寺まで……」
 小箱に角をしまう楓ちゃんを見ながら、身体から緊張を解き、寺まで下り様と言い掛けた俺は、雪を踏む足音に小道の先に視線を向けた。
 赤いダウンジャケットを着た女の子が、息を弾ませ凄い勢いで走って来る。
 赤い顔は息切れではなく、明らかな怒りに歪み、一直線に俺に向かって来る。
「耕一! どう言うつもりだ!!」
「グッ!」
 弾む息を物ともせず、雪を蹴散らし走り寄った梓の拳が俺の頭に振り下ろされ、俺の噛み締めた歯の間から息が洩れた。
「楓、良くやった。この馬鹿縛りつけるから、何か無いか?」
 勢い込んで言う梓の台詞に、楓ちゃんは困った様に苦笑を浮べ、髪をふるふる揺らし首を横に振った。
「梓、スマン」
「スマンじゃ無いだろ。…なんでだよ? …偉そうな事言ったの、耕一じゃ無いかよ。…どうして、行っちゃうんだよ?」
 殴られた頭をさすりながら謝ると、梓は俺の肩を激しく揺さぶり、泣きそうな情けない声で俺を責めた。
「スマン」
「千鶴姉も、お寺で待って……」
「千鶴さんだ!!」
 俺の怒鳴り声で、梓はビクッと身を強ばらせた。
「あ、ああ」
「馬鹿言え! まだ起きられる筈ないぞ!」
 俺は、頷く梓を再び怒鳴り付けた。

 まだ夕方にもなってない。
 夜まで眠るだけの睡眠薬を使ったんだ、起きられる筈がない。

「馬鹿っ、だとぉ! あたしの苦労だって判れよな!」
 ムッとした顔を突き出し、梓は俺の胸倉を掴み上げた。
「ふらふらしてるクセに、どうしても行くって聞かないんだいぞ! 千鶴姉支えて石段登って来た、あたしの身にもなってみろよ!」
「…あずさ」
 瞳から光る物を零した梓の、怒鳴り付ける声にこもった悲痛さが、俺の頭を冷静にしてくれた。
「お寺で待たせるのだって大変だったんだから。みんな、……耕一の所為じゃないか!」
「スマン梓、悪かった」
 胸倉を掴み上げ、雫を零しながら怒鳴り付ける梓に、俺は謝る事しか出来なかった。
「梓姉さん、耕一さんは何処にも行きません。いいえ。行かせません」
 微笑んで告げた楓ちゃんの静かだが断固とした口調に、梓は俺の胸倉を掴んだまま、濡れた顔を楓ちゃんに向けた。
「…楓? だよね?」
 きょとんとした顔で尋ねた梓に小さく頷き、楓ちゃんは鮮やかに微笑んだ。
 いつもの寂しい微笑みではない深い温かい笑みに、舞い落ちる粉雪が上気した頬に触れ、涙の様に雫を作った。
 楓ちゃんは、舞い落ちる粉雪を見詰める様に視線を空に向け。もう一度、俺と梓に微笑みを向け、雫を煌めかせ踵を返し小道に向った。
 信じられない者を見た顔で、楓ちゃんの後ろ姿を目で追い、梓は俺の胸倉を掴む腕をダランと垂らした。
「楓の奴。あんな顔で笑えたんだ」
 力なく頭を掻きながら、梓は目を細め嬉そうに呟いた。
 俺は梓の呟きを聞き流し、楓ちゃんの後を追って歩き出した。

 千鶴さんが心配だ。
 俺が使った睡眠薬は、効果が早く現れ持続するタイプの物だ。後に影響は残らないが、夢現(ゆめうつつ)で山道を昇ろうとすれば、途中で寝込むか足を滑らせるか。
「あっ! おい、耕一!」
「先に行く、これ頼む」
 取り残された梓の慌てた声に応え、俺はバックを投げ付け力を開放した。

 たぎる力に細胞が悲鳴を上げるのに構わず、一気に地を蹴る。
 風が耳元で轟音を上げ、粉雪が石飛礫の様に頬を打つ。
 粉雪から腕で目を庇い、一度の跳躍で楓ちゃんの頭上を過ぎ去った。
 過ぎ去る刹那、見上げた楓ちゃんの視線と俺の視線が絡み。楓ちゃんは小さく首を傾げ、濡れた頬に満足げな笑みを浮かべた。

 満ち足りた深い笑み。
 哀しい程に優しい笑み。

 俺は顔を上げ一気に山を下った。

陽の章 十二章

陽の章 十四章

陰の章 十三章

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