陽の章 十一


「そんなに強い衝動なんですか?」
 向い合うソファに座った俺に真剣な目差しを向け、千鶴さんは確認する様に身を乗り出した。
「俺のは強いな。大晦日に足の傷、見ただろ?」
「はい。爪が足に食い込んでいましたね」
「怒らないで欲しいんだけど」
 俺は苦笑を浮かべ念を押す。
「いいですよ。何ですか?」
 にこやかに答える千鶴さん。
「ああしてないと、楓ちゃんを押し倒してた」
「耕一さん!」
 俺は顔を背けぼそっと口にし、間髪入れず返って来た冷たい声に額を押さえた。
「怒らないって、言ったよね?」
「例えが悪過ぎます。判りましたよ、それだけ強い衝動だって言いたかったんでしょ」
 不貞腐れた千鶴さんの声が響き、俺は笑いを堪え切れず口を押さえた。

 扉をノックする音で、俺は千鶴さんに顔を向け、彼女が小さく頷くのに頷き返し扉に向った。
 扉を開けると、廊下に立っていた梓が、神妙な顔で部屋の中を覗き込もうとする。
 俺は小さく頷き掛け、中に入れと手で促してやる。
 絨毯に残る自分の足型と身体の痕を横目に見て、梓は緊張した面持ちで険しい表情で待つ千鶴さんの向い側。俺が座っていたソファに腰を下ろした。
 扉を閉めた俺は、冷蔵庫からビールとジュースを二本づつ取り出し、二人の元に戻ると千鶴さんの隣に腰を下ろした。
 俺は二人を当分に見てテーブルに缶を置き、千鶴さんが口を開くのを待った。

 千鶴さんは今朝の話の後、梓の精神的成長と鬼の血の重さの自覚を促す為、両親と親父の死の真相を梓に告げる決心をしてくれた。
 自分が話すと言い張る彼女を説得し、何とか俺が話す事を了承して貰った。
 俺も過去の記憶が無ければ、千鶴さんの意思を曲げ、俺が話す様な真似はしなかっただろう。
 だが、これは俺が負うべきものだ。
 千鶴さんに話をさせる気はなかった。
 親父から聞かされているのは、千鶴さんには教えていないと梓に告げ。不徳要領な顔をした梓を、千鶴さんが自分から話す気になったからだと納得させた上。梓を夕食後、鶴来屋の部屋に呼び出した。
 部屋の状態を確認したいと言う千鶴さんと、家では初音ちゃんに気付かれる不安を、俺が持っていた為だ。
 借りたままにした部屋が役に立った。

「梓。これを説明なさい」
 チラッと絨毯に視線を走らせ、千鶴さんの凛とした冷たい声が静かに響いた。
「ええと、その、ちょとした誤解で」
 何処かで聞いた台詞を頭を掻き掻き言った梓は、千鶴さんの冷たい視線に押され、決まり悪げに小さく肩を竦め黙り込んだ。

 千鶴さんが普段の惚けた表情を消すと、恐ろしい。
 普段家では見られない二人の力関係を、改めて俺は見せつけられた気がした。

「耕一さんが力を使えなかったら、どうする気だったの?」
 更に身を小さくした梓が、話が違うじゃないかと恨めしそうに俺を覗き見る。
「ごめん」
 梓は一言謝ると、ぺこんと頭を下げた。
「俺からも叱ったから。千鶴さん、この件はもういいだろ」
 本題に入る前に梓が疲れきると困ると思い、俺は口を挟んだ。
「でも、一歩間違えば殺人です」
「ここで疲れると、後がね」
 俺の横槍に緊張を緩めた梓が、俺達の会話に顔を引きつらせた。
「梓。ところで、どうして力を使ったんだ?」
 ふと思い付き、俺は尋ねた。

 俺が力を使えないと思っているなら、普段と同じで良かった筈だ。
 扉を開けた時は、もう力を解放しかかっていた。
 梓は制御が完全ではないのか?

「…扉に。その、鍵が掛かっててさ……」
 梓は肩を竦め、また小さくなった。
「鍵? 初音ちゃんも、ノックに気付かなかったけど」
 オートロックだ、鍵が掛かるのは当然だ。
 だが俺が洩らすと、梓は照れ笑いを浮かべ、えへへと頭に手を置いた。
「…梓? まさかいきなり扉を破る気、だったの? ……何を考えているの!」
 一瞬言葉を失った千鶴さんの良く通る声が響き、梓は身を振るわせ、首を竦め両手を膝に置き反省ポーズを作った。

 力の制御は出来る様だが、俺もここまで考えなしだと話を続けるしかなくなった。

「止め様と思ったが仕方ない。扉を破った後、どうするつもりだった?」
「そりゃ、怒鳴り付けて……」
「違う。そうじゃない」
「違う?」
「いいか、この場合二つ在る。部屋を間違えていた場合と、破った扉の処理だ」
 途中で遮った俺を見て、口を尖らせ不服げに聞き返した梓に向い、俺は説明した。
 きょとんと聞いている梓の様子で、考えていなかったのが判った。

 一から説明しないとだめだな。

「部屋を間違ってて、人が居たらどうする? 頑丈な扉を素手で破ったって言う気か? それと、破った扉をそのままにしとくのか?」
「そんなの弁償すりゃ」
「ばぁ〜か」
 不満に口を尖らす梓を半眼にした目で睨み、俺は目一杯呆れた声で言ってやった。
 顔を真っ赤にして言い返そうとした梓は、千鶴さんの一睨見で黙り込んだ。
「どうして貴方は、頭を使わないの。普通の人に扉を破れる? わざわざ素手で扉を破るなんて、目立つ事をするんじゃ、ありません」
 固く目を瞑り平静を装う千鶴さんの膝で握った拳は、怒りに震えていた。
 額を押えほぉ〜と長く息を吐くと、千鶴さんは薄く目を開きチラッと俺に視線を送り、長い髪を軽く揺らした。

 俺も同じ気持ちだ。

「考えて使うってのは、そう言う事だ。出来るなら使うな。使うなら見つかるな。痕跡も残すな。頭に来て後先考えず、動くな」
「判かったよ。悪かった」
 口を尖らせ上目遣いに答えた梓の反抗的な態度を見て、千鶴さんは、またも額を押さえた。
「判かってない。梓、俺にお前を殺させる気か?」
 俺は梓を睨み、声に冷たさを乗せた。
「こ、殺す?」
「耕一さん!」
 梓は引きつった顔で縮こまり、千鶴さんは驚きの声を上げ、俺の腕に手を掛け身を乗り出した。
「お前が万ヶ一にも、力で人に重傷を負わせたり、死なせれば。警察に捕まる前に、俺が殺す」
 睨んだままの俺の言葉に、梓の顔色が蒼白くなる。
 視界の隅に強ばった不安そうな顔が映り、俺は腕に掛かった千鶴さんの手を上から握り。梓に視線を据えたまま、安心させようと軽く力を込めた。
「こ、耕一。お、脅かすなよな。冗談だよな?」
「本気だ。考えろと何度も言った。まだ判ってないのか? 必要なら、殺す」
 俺を止め様と懇願する様に見詰める千鶴さんを無視し、俺は冷徹に言い放った。
「こないだから、判かってない。判かってないって。何だよ?」
 泣きそうな顔で梓は聞き返した。
「梓、ここにはVIPも泊まるのよ。扉を素手で破られ、何の調査もなしで、弁償だけで済むと思うの? 人が居て、VIPだったらどうする気なの? まして怪我人や死人が出れば、警察が捜査するわ。どう弁明するの?」
 俺が止める気が無いのを悟ったのだろう。覗き込んでいた顔を梓に向け、千鶴さんは小さく息を吐き力ない声で尋ねた。
「そ、それは。その」
 梓は千鶴さんが質問すると、また肩を竦め小さくなる。

 少し薬が効き過ぎたか。

「力を見せなきゃ説明出来ないよな。見せれば、どうなる?」
 俺は口調を和らげ梓に尋ねた。
「…どうって言われてもさ。見せられない…かな、やっぱり」
「だがな。人間業でない力による事件。夏に同様の事件が在ったばかりだ。警察は、徹底的に調べる」
 チラリと千鶴さんを見た梓の視線で、千鶴さんの俺の腕に掛かった手に力がこもった。
 俺は唇を噛み締め、小さく舌打ちした。
「梓。夏の事件の犯人が制御出来なくなった鬼で、千鶴さんと出掛けた夜。俺が始末したのは話したよな」
 俺は警告を込めて声を強め、腕に置かれた手を握る力を少し強めた。
「う、うん」
「あいつが残した体毛や痕跡が警察に在る。警察も馬鹿じゃない。一応犯人は捕まえたが、表面を取る繕っただけだ。関連に気付かれたらどうする。万ヶ一、柏木が鬼の力を持ってる。制御出来なきゃ、虫けらの様に人を殺すなんて知られたら、まともに生きて行けなくなる。下手すりゃ、身体調べるのにモルモット扱いだ。良くても、週刊誌やテレビが押しかける。楓ちゃんや初音ちゃんまで、普通の生活が出来なくなる」
「だからそうならないよう。貴方が警察に捕まる前に、誰かが闇に葬るしかなくなるわ」
 俺の後を引き取り、顔を伏せた千鶴さんから血を吐くような悲哀に満ちた震える声が流れ、梓は蒼褪めた顔で視線を下げ考え込んだ。
「頼むから、俺にそんなまねさせるなよ」
「う、うん。ごめん」
 俯いたまま神妙な声で返した梓の隣に席を移し、千鶴さんは梓を固く抱き締めた。
「鬼の血は、それ程重いのよ」
「ごめん、千鶴姉」
 千鶴さんの胸に蒼白い顔を埋めた梓に、俺はビールを差し出した。
 何も言わずビールを受け取り、梓は飲み始めた。
「まあ、多少の事なら鶴来屋の力で何とかなる。そんなに深刻になるなよ」
「耕一さん?」
 少し脅かし過ぎた梓を慰めようと話し掛けると、千鶴さんが驚き顔を上げた。
「その為の鶴来屋だろ? 政治家や弁護士。この街なら、いくらも揉み消す手はある。気を付けるのは、警察かな?」

 親父の死の処理が鮮やか過ぎた。
 日本の警察は組織で動く。
 県議会にも影響力の在るトップ企業の社長が、他殺の疑いが在るのに捜査していたのは長瀬だけだ。鬼の起こした事件で手が足りないなど、長瀬に手を引かせる口実だろう。
 警察にも影響力が在ると言う事だ。

「…ええ」
 梓を殺すと言い、今また鶴来屋を手放せない理由の一端に触れた俺を、千鶴さんは探る様に窺い、微かな仕草で頷くと、ビールを飲みながら小さく頷いた梓に視線を戻した。
 梓が気を取り直すのを待ち、何事か考える様に顔を伏せた千鶴さんと梓を見ていると。アルコールのお蔭で顔色が良くなった梓が、考え深げに首を捻り。
「あのさ。どうして耕一がするの? 耕一だって、警察に捕まったら不味いんじゃない?」
 俺をジッと見て口を開いた。
「ああ、簡単だ。俺はその時、俺じゃない」

 少しは考える気になったな。
 ほっとして俺は軽く答えた。

「はあぁ。耕一が、耕一でない?」
 顔をしかめ首を捻る梓に俺は続けた。
「鬼が目覚めた男はな。力を開放すると、姿が変わるんだ。伝説の鬼の姿だな。もっとえぐいか。だから見られても、俺だと判らん。化け物見たって言っても、誰も信じないだろう」
 梓は、明らかな疑いの目差しを向ける。
「かおりちゃんって言ったっけ。何か言ってなかったか?」
「……怪物に襲われたって。…でも医者は、錯乱してそう思い込んでるだけだって」
「普通はそうだ。だから、俺の方がいい」
 梓はまだ信じられないと千鶴さんを問い掛ける様に見る。
 小さく千鶴さんが頷くと、梓は俺に視線を戻した。
「耕一ぃ〜。見たいなぁ〜」
「梓は、気絶するのが趣味だったのか?」
 猫なで声に返すと、梓は口を尖らす。
「なんであたしが、気絶すんだよ!」
「お前には半分も力使ってない。あれ以上力出すと、姿が変って鬼気が更に膨れ上がる」
「うそ! あれで半分も?」
 噛付いた梓に眉を潜め返すと、唖然とした顔で梓は声を上げた。

 自分も力を使った状態で、俺の鬼気を受け硬直した梓としては、信じられないだろう。

「梓、いい加減にしなさい。見せ物じゃありません」
 静かに聴いていた千鶴さんも、流石に口を挟む。

 だが、梓の知っている鬼は千鶴さんと自分だけだ。
 見せないと、本質は理解出来ないか。

「梓、少し待ってろよ」
「耕一さん?」
 スッと腰を上げた俺を訝しげに見上げ、千鶴さんが後を追い腰を上げた。
「一張羅なんでな」
 腰を上げた千鶴さんと俺を交互に見比べる梓にジャケットを摘んで見せ、一言残し俺はベットルームへ向った。
「まさか、梓に見せる気なんですか?」
「見せる」
 ベッドルームで上着を脱いでいた俺は、後を追い扉を閉めた千鶴さんの声に短く答えた。
「そんな。力の干渉が記憶を呼び起こすと言ったのは、耕一さんなんですよ」
「流石に高級旅館は伊達じゃないよね。この部屋、防音は完璧みたいだ」
「耕一さん!」
 悲痛な声に手を止めず、俺は振り返った。
「話だけで、鬼の本性を理解出来るとは思えない」
「でも、危険です。もし記憶が戻ったら……」
「すぐに完全に覚醒する訳じゃない。今なら何とか抑えられる。万一の時でも、怪我をさせない様に気をつけるから」
 シャツを脱ぎ捨て、俺は蒼白な面にそっと手を伸ばし。伸ばした手が頬に触れる前に、胸元を握り締めていた手が俺の手を捕らえた。
「…梓が心配なんじゃないんです。梓を傷付けられないのに、抑えられなかったらどうするんですか」
 取った手に頬を擦り寄せた千鶴さんの手を握り、俺はもう片方の手を首の後ろに回し、頭を裸に胸に引き寄せた。
「心配してても始まらない。遣って見るさ」
 豊かな髪を掻き上げ、首筋の後れ毛を撫でる様に手を動かし言うと、迷った潤みがちの瞳が俺を見上げた。
「耕一さん。私の言う事、全然聞いてくれないんですね」
「ごめん」
 そっと手を放し、俺は千鶴さんに背を向けた。
「千鶴さんも梓も血が騒ぐ筈だ。梓にも、抑える様に注意しておいて貰えるかな」
「……判りました。耕一さんに全て御任せします。…でも、殺されるなんて考えないで下さい」
 背の癒えかけた痕に、そっと触れた指が温かい感触を伝え、静かな諦めを含んだ声音が応えた。
「うん。ありがとう」
 束の間温かな滑らかさが背中に広がり、不意に離れ扉が微かな音を立てた。



 俺がベッドルームから戻り、湯気の出そうなほど顔を赤くした梓が顔を俯かせたのは、それからすぐだった。
「こ、耕一。なんだよその格好?」
「お前が見たがったんだろ?」
 軽く返すとチラッと顔を上げ、梓はまた顔を伏せた。
「誰が、あんたのセミヌード見たいって言ったんだよ」
 バスタオル一枚を腰に巻いただけというのは、梓には少し刺激が強かった様だ。
「耕一さん。今、周りの部屋は無人です。ですが、御出掛けの方が、いつ戻られるか判りませんから」
 フロントにでも確認を取ったのか、梓に構わず千鶴さんは冷静そのものの声で告げた。
 だが声音とは裏腹に、千鶴さんの表情は強ばり、不安を色濃く表していた。

「梓、良く見ておけ。柏木の血の、真の姿をな」

 掛けた声に梓が顔を上げる前に、俺は息を一つ吸い、鬼を心の檻から解き放った。

 心臓が激しい鼓動に耐え血流を送り出し、血が逆流する様な轟音が頭の中に響き渡る。
 燃える様な熱さが全身を襲い、血管を灼熱のマグマが駆け巡った。
 全身を流れ落ちる汗に目を軽く閉じ、目を開け。
 瞳孔が縦に裂け、赤く染まった。
 一気に膨れ上がった鬼気が、テーブルを震わし窓に掛かったカーテンを旗めかせる。

 怯えにも似た驚愕を浮かべる梓の表情を見ながら、俺は床の軋みを聞いた。
 まだ、実際に重量が増えた訳ではない。
 中国拳法や気功で言う、気という奴だ。
 鍛え抜かれた者の気は、素手で岩を砕くと言うが。鬼の気は、人のレベルを遥かに超え物理現象さえ引き起こす。
 圧倒的な鬼気が、圧力となって重量を増加させた様な現象を引き起こす。
 千鶴さんや梓が鬼を開放したさい気温が下がるのも、恐怖心から来る生理反応だけでなく、空間を圧迫する鬼気の為だろう。

 一度身体が変化を起こす直前で力を抑え、俺は梓の様子を窺った。
 まだ身体が変化を起こす前でさえ、顔を引きつらせた梓は、騒ぐ鬼を抑えながら微かに震えてさえいた。

 俺は、一気に力の最後の抑制を取り払った。
 膨れ上がった鬼気に身体が軋みを上げ、鬼の遺伝子が身体を組み替え、爪が伸び骨が軋み、筋肉が音を立て膨れ上がった。
 強靭な鬼の肉体が力に溢れ、解き放たれた力に歓喜の叫びを上げる。
 遺伝子レベルで組み替えられた細胞が、今度は物理的な重量の増加と、膨れ上がった鬼気の双方で床に悲鳴を上げさせた。
 一歩でも踏み出せば、床が抜け落ちるかも知れない。
 咆哮を上げたい高揚を何とか抑え、俺は抱き合う姉妹を見詰めた。
 テーブルに置かれた缶が、膨れ上がった鬼気に倒され、零れたビールが流れるのにも気付かず。姉妹の面は俺に向けられていた。
 梓はもちろん、千鶴さんも俺の全開の鬼気を見るのは初めてだ。
 千鶴さんは騒ぐ鬼を意識で抑え、梓を不安そうに抱き締めていた。しかし千鶴さんが俺に向けた瞳には、恐怖の色はなかった。
 一方梓は、千鶴さんの肩をガタガタ震えながら握り締め、握り合った手も色が変わる程に力がこもり、俺から恐怖を浮かべた瞳を背ける事も出来ずにいる。
 初めて感じる真の恐怖の前に、梓は只の怯えた獲物だった。
 梓の鬼が、恐怖に怯えすくんでいるのが、俺にも感じられる。
 俺は梓の鬼が、恐怖から本能的な反撃に転じる前に鬼を抑えに掛かった。

 細胞が組み替えられ、老廃物が剥がれ落ちる。
 徐々に収まる鼓動が耳鳴りを起こさせ、流れ落ちる汗が全身を濡らす。
 軽い疲労に息を吐いた時、そこには千切れ落ちたバスタオルとテーブルから落ちた缶。
 そして新たに絨毯にプレスされた俺の足形だけが、暴風の名残を止めていた。

 半ば放心状態で震えている梓を千鶴さんに任せ、俺はシャワールームに向った。
 軽く汗を流し着替えて戻ると、何とか気を取り直したらしい梓は、頭を押さえ喉にビールを流し込んでいた。
 俺はもう一本ビールを取り出し、椅子に腰を下ろした。


「……アレが、あたし達と同じなの?」
 俺が座ると梓は顔を上げ、喉を鳴らし蒼白い真剣な顔で聞いた。
「そうだ。制御出来ないと、アレが暴走する」
「…あんなのが、暴走」
 自分の肩を抱き身震いした梓は、呆然と呟いた。
「お前な、あんなのって。アレ、俺なんだぞ」
「あっ、ああ。そうだったよね。ごめん」
 苦笑混じりに俺が言うと、梓は大人しく謝った。
「俺は制御出来たからアレだけ引き出せた。制御出来なきゃ、あそこまでは行かない」
「そうなの?」
 幾分ほっとした様に覗き込む梓に頷いて見せると、梓は肩で大きく息を吐き、ビールを一気に開けた。
「だが殺気は、もっと強烈だろうな」
「アレより?」
「俺が梓や千鶴さんに、殺気を向けるか? 何ならやって見るか、今度は気を失うかな?」
「判ったよ。もう見たくないよ」
 嫌味っぽくからかうと、梓は頭を掻きながら嫌そうに顔をしかめ、口を尖らした。
「千鶴さんは、大丈夫だった?」
「ええ。驚きましたけど、大丈夫です」
 梓の記憶が戻らず安心したのだろう。千鶴さんは微笑んで首を傾げた。
「千鶴姉、見た事なかったの?」
 驚いた様に、梓は千鶴さんを覗き込んだ。
「いいえ。でも前は、あそこまでの力はなかったわ」
「覚醒したばっかりだったからな。千鶴さんが見たのは、半分ぐらいか」
「ハ、ハ、…アレの半分、…ね」
 乾いた笑いを洩らすと、溜息混じりに梓は首を振った。

 立ち直りが早いのが梓のいい所だ。

 少しは元気が出て来た梓の様子に、俺は話を戻す事にした。
「さてと、本題に入っていいか?」
「本題? ああ、うん」
 梓は、思い出した様に神妙な顔で頷く。
「ビール飲むか?」
「もう、いいよ」
「飲んどいた方がいいぞ。聴きながらでも、いいがな」
 俺は言いつつ梓の前に缶ビールを置き、ジュースを千鶴さんに渡すと、自分のジュースを口にした。
「耕一は飲まないの?」
「今日はいい」
 梓がいつも飲む俺に不思議そうに尋ね。
 千鶴さんは気遣わしげに俺を見ていた。

 飲まない千鶴さんに合わせたのを、気付かれている様だった。
 だが、俺だけアルコールで気を紛らわす気にはなれなかった。

「そう言えば耕一、今度来てから、あんまり飲まないね」
「まあな。じゃあ、こないだの続きだ。取り合えず飲みたくなったら飲めよ」
「うん」
 俺が言いつつ缶ビールを差し出すと、今度は梓も素直に受け取った。
「今度の事で、千鶴さんと相談して話す事に決めた」
 先に俺が話していても、千鶴さんの合意の上だと再確認しておく。
「梓、これから耕一さんが話されるのは、全て事実です。よく聴いて、貴方にも関係の在る話しだから。そして……話さなかった姉さんを…許して……」
 顔を伏せた千鶴さんの言葉を聞いた梓は、真剣な顔で千鶴さんを見、俺に顔を戻した。
「親父が、俺や母さんを連れて来なかった理由。梓、知ってるか?」
「いいや。叔父さんは何も言わなかったし。千鶴姉が、夫婦の問題だから聴くなって」
 梓は横目で俯いたままの千鶴さんを気にしながら、答え難そうに俺から目を逸らした。
「親父は、母さんと俺を愛してくれていた。だからだ」
「愛してた…から? それなら一緒……」
 夫婦仲が悪く別居したと思っていたのだろう。梓は一瞬目を俺に向け、言い掛けた声を途絶えさせ、また目を逸らした。
 俺自身少し前まで、親父を恨んでいた。
「愛していた。だから一緒に暮らせなかった。それが理由だ」
「…でも、おかしいよ」
 目を合わそうとしない梓の小さな呟きが、親父の話を止めたがっているのを俺に伝える。
 親父と長く別居していた俺を気遣っているは、良く知っていた。
 俺は改めて梓に親父の死から語り始めた。
「親父は、事故じゃない、自殺だ」
「耕一?」
 どうして今更と怪訝な表情を浮べた梓に、俺は横目で千鶴さんに視線を走らせた。
「あっ。ああ、自殺って、なんで? 酔っぱらい運転なんて信じてなかったけど」
 視線の意味に気付いた梓が、わざとらしく聞き返す。
 千鶴さんは、梓のわざとらしさに気付く余裕も無いのか、俯きジッと話を聞いていた。
「親父も鬼が制御出来なかった。俺や母さんを殺さない為の別居だった」
「…叔父さんが? 叔母さんや耕一を?」
 信じられないと眉を潜め、梓は呟きを洩らした。
「鬼に飲まれれば、一緒に住んで居る俺達を殺す。親父は八年前から、鬼の発現の兆候が在ったそうだ」
「一緒住んでると……八年前って?」
 梓ははっと顔を上げると、俺を見詰め唇を噛み締めた。
「そんな!…でも………だって…」
 何か言い掛けた梓は声を途絶えさせ俯き、顔を上げると俺に向かい震える唇を開いた。
「…そんなの…おかしいよ。…だったら何で…あたし達と…暮らせたの? …あたし達は、…大事じゃなかったの?」
 目に涙を溜め震えながら言う梓の声は、俺には悲鳴に聞こえた。

 俺と同じ疑問が、梓には親父にとって俺や母さん程、自分達が大事ではなかったと。
 父親同然の親父に裏切られた様に映った様だ。

「梓! なんて事を言うの! 叔父様は、私達の為にギリギリまで戦って下さったわ!」
 梓の言葉に弾かれ、冷静さをなくし伏せた顔を上げた千鶴さんの叱責を手で止め、俺は静かに言を継いだ。
「俺は、親父が俺と母さんを捨てたと思っていた。千鶴さんに頼まれなければ、四十九日も旅行でもしてた。梓の気持ちは判かる」
「…ごめん……」
 千鶴さんの叱責と俺の言葉で、梓は肩を落とし項垂れた頭を抱え、力ない小さな声で詫びた。
「梓、気にするなよ。だが俺は、千鶴さんに謝らないとな」
「…耕一さん?」
 俺は白く血の気を無くした顔に、怪訝な表情を浮かべた千鶴さんに目を向けた。
「親父が一緒に住めたのは、千鶴さんの鬼が目覚めていたからだ。万ヶ一、みんなを襲っても取り押さえられる。ずっと親父の湧き出る殺戮衝動と、理性の戦いを見守ってくれた。そうだろ?」

 夏に持った梓と同じ、俺の疑問。
 何故、危険を冒してまで従姉妹達と住んだ。

「…ええ」
 小さな千鶴さんの声が、俺に答えをくれた。
「親父は、止めてくれる女が居たのが救いになった。千鶴さん、ありがとう」
 潤んだ瞳で髪を揺らす千鶴さんに軽く頭を下げ、俺は梓に目を戻した。
「それに、俺を連れて来なかったのは、親父の鬼の影響を受け俺が目覚め制御出来なければ、みんなを襲う危険もあった。だから親父は、みんなを大事に思ってなかった訳じゃない。親父を信じてやってくれ。頼む」
「ごめん、耕一。叔父さんには、本当の父さんみたいに良くして貰ったのに。どうかしてた。ごめんね、耕一」
「いいって。ここの所、いきなりハードな話し続きだ、混乱するさ」
 項垂れ涙声で謝る梓に笑い掛け、俺は少し間を置く事にした。

 梓が座り直しビールを飲むのを見ながら、俺もジュースで乾いた喉を潤し、少し寂しい気がした。

 梓との関係も変わって来た。
 この間の話の後から、弟の様な軽口を叩き合って来た梓が。表面上の態度は変わらないが、俺の前でも畏縮する様になった。
 千鶴さんの寂しい気持ちが良く判る。

 感傷に耽りそうな気持ちを引き締め、梓がビールを飲み終わるのを待って、俺は再び口を開いた。
「親父はまだマシだった。湧き出る殺戮衝動と理性の狭間で、人を殺し、歓喜する自分の中の鬼が、肉を裂き、血を浴び、人の命を散らせと叫び、狂った様に殺戮を求め続ける中。夜毎、狂気と恐怖に怯え、震える身体から汗を滴らせながら、膝を抱え夜明けを待ちわびる夜を過ごしていてもだ」
 性衝動だけを除き、俺は事実を事務的に淡々と話した。
「…それ…マシ…なの?」
 俺が頷き返すと、梓は喉を鳴らし息を飲んだ。
「…じゃあ。…この間、言ったの?」
 梓の問い掛けには、元気のかけらも感じられなかった。
「比喩じゃない。鬼の本能には、親兄弟も関係ない」
 楓ちゃんや初音ちゃんを例えに持ち出したのを、梓は、千鶴さんを庇う為に大袈裟に話したと思っていたのだろう。
 唇を戦慄かせ、梓は身体の前で組んだ両手を色が変わるほど握り締めた。

 俺の鬼に恐怖を感じた後だ。
 その力に振り回された親父が言った、自分が自分でいられなくなると言う言葉の意味が、初めてどういう物か判ったという顔だった。

 俺は立ち上がると残っていたバーボンの封を切り、グラスに注ぎ、ボトルと一緒に梓の前に置いた。
 千鶴さんは不安げに見ていたが、俺を止め様とはしなかった。
 梓が力なく両手をグラスに添え、一気に煽り強いアルコールに咳き込んだ。
 背中を千鶴さんに摩られる梓の咳が治まるのを待って、俺は重い口を開いた。

「もう一人が重要だ。梓、よく聞いてくれ、これで最後だ。その人は、親父より更に酷い。急激に鬼の殺戮衝動に蝕まれ。日夜、理性のギリギリまで戦った。理性が侵され人と鬼の姿に幾度も変化を繰り返し。家の中の物を手当たり次第破壊し。苦しみに自分の身体にさえ無数の痕を刻みつけた。自分の幼い娘達を、いつか手にかける恐怖と苦悩に苛まれ。自分の中の鬼が、血と殺戮を求め叫び続ける中。麻薬中毒末期症状の様な状態で、苦しみ抜いた」

 俺は一旦言葉を切り、ジッと青白い顔で見詰める梓の隣。項垂れ顔を隠す千鶴さんを瞳に捕らえ、固く目を瞑り。
 再び語り始めた。

「だか、もっと辛く苦しかったのは、その人の苦しみを、成す術なく見守る事しか出来なかった妻と、まだ少女だった長女だ。妻は、怯え、もがき苦しむ夫の姿を見続ける事に、遂に耐え切れなくなり。只一人、父の苦しみを供に見ていた長女に、長い詫びる手紙を書き残し、幼い娘達を残したまま、薬で眠らせた夫と心中した」

 俺は目を開き姿勢を正し、顔色を無くし凍った様に凝視する梓の瞳に視線を合わせ、深く息を吸い。
 最後の言葉を告げた。

「梓…お前の、御両親だ」

 告げた言葉を拒否する様に瞳が光を無くし、僅かに光を取り戻した刹那、ビクッと身体が震え。
 ゆっくり首を巡らし、視線が止まった。
 小さく頷いた千鶴さんの頬を、涙が流れ落ちていた。
 唇を戦慄かせ声もない梓に、千鶴さんは小刻みに震える手で封筒を差し出し。梓は戦慄く身体でゆっくり封筒に目を落とすと、ぼろぼろと涙を零し抱き寄せ力を込める千鶴さんの胸に縋り付き、顔を埋め声を上げ泣き始めた。
 その二人を、俺にはひび割れる心の痛みに耐え、ただ見守る事しか出来なかった。


  § § §  


 俺は会長室のソファに腰掛け、テーブルの上に置かれたグラスの跳ね返す光を見詰めていた。
 不意に聞こえた扉の音に目を上げ、重厚な扉から歩み寄る彼女を、静かな穏やかさを胸に目で追う。
 黒く艶やかな背中に届く髪が、僅かにほつれ乱れているのが、表情に浮かぶ憂いと供に、彼女の常に見せない疲れと悲哀を俺に伝え、胸に痛みが走った。
 隣に静かに腰を下ろした彼女の前にグラスを差し出し、肩に掛かった温かい重みと、さらさらとした髪の仄かな香りを包む様に腕を回し、彼女の肩に手を置き抱き寄せた。

「すまない。ショックが大き過ぎた」
 俺が話した内容は、千鶴さんにすれば、本来聞かせなくていい話が殆どだ。
 責められるのは覚悟していた。
「心の強い子ですから大丈夫です。よく眠っています」
 だが、彼女は責め様とはしなかった。
 俺の胸に彼女の微かに微笑んだ気配が、温かく染み入る。
「借りた部屋も無駄にはならなかった。飲ませて良かったかな」
 泣き疲れ涙でクシャクシャになった梓の寝顔を思い出し、俺の良心が疼いた。
「ええ。部屋に母の手紙を置いて来ました。きっと目が覚めたら、黙っていたのを怒るでしょうね」
 小さく息を吐き寂しく呟く彼女の肩に置いた手に、俺はゆっくり力を込めた。
「梓は判かってくれる。それより、千鶴さんも少し飲んだ方がいい」
「お酒は、あまり」
「ワインだから。子供でも、飲めるよ」
 声に揶揄を含ませ、俺は顔を覗き込んだ。
「子供ですか?」
 彼女は手を口に当て、小さく笑った。
「大きなね。憶えてる?」

 夏だったな。
 随分懐かしい気がする。

「もう言えませんね。すっかり私が、耕一さんに頼る様になってしまって」
 彼女は少し寂しそうに微笑み、グラスを口に運んだ。
「そうでもない。これからは、梓も助けてくれる。もう、一人で背負い込まなくていい」
「梓に話して少し楽になりました。知らないで済むならと思っていましたけど。間違っていたんでしょうか」
「親父の事も在った。どちらがいいとは言えないな。聞いた梓が決める事だよ」

 話した俺を恨んで気が済むなら、幾らでも恨まれよう。
 俺は、梓に恨まれて当然だから。

 梓の事を考えていると、不意に彼女は俺を見上げた。
「私が叔父様を抑えると。どうして?」
 彼女の僅かに緊張した身体の強ばりを感じ、俺は微笑みを作った。
「うん。みんなと一緒に住んでいたのが気になっててね」
 無難に返すと、俺を見る彼女の瞳は複雑な色を宿した。
「叔父様には、私達みんなが助けて頂きました。耕一さんが救いになっていたって言って下さって。とても嬉しかった」
 息を吐き緊張を解いた彼女の様子から、俺は自分の想像が正しい自信を深めた。
「本当なら俺がやる事だ。お礼を言うのは当り前だよ。親父も感謝してる」

 俺が親父をどう思うか、心配なのか。

 親父が俺を呼ぼうとした理由がそれだろう。
 伯父の抑えは、多分爺さんが。
 俺が制御出来なければ一緒に死に。
 俺が出来れば……
 子供の頃、俺が制御していれば、彼女が苦しむ事もなかった。

「ありがとう、耕一さん」
 微笑みを浮かべた彼女の肩に置いた手に力を込め、目を上げると最上階の窓から望む朝靄が、明るさを増しているのが見えた。
「もうすぐ朝か」
 夜明けか。
「耕一さんも、お疲れでしょう? 隣で休めますから。少し休んで下さい」
 声音にこもった彼女の穏やかな温かさが、俺を心地好く包む。
「会長室って、ここだけじゃないの?」
「私室と応接室が隣接しています」
 俺のマンションとは、比べるだけ無駄だな。
「俺より千鶴さんの方が疲れただろう。休んだ方がいい。梓なら、俺が後で様子を見てくる」
 俺は彼女の肩に掛かる髪に指を絡め、その滑らかな感触を楽しみながら話していた。
「いえ、私は………」
「だめだ。すぐ無理をする」
 彼女を遮り、俺は腕と声の力を強めた。
 小さく息を吐いた彼女は、グラスを口に運んだ。
「もう耕一さんは、叔父様以上に私を支えて下さっています」
 彼女はゆっくり一口飲み、懐かしそうに目を細め、俺を見てそう言った。
「眠れないなら、横になるだけでもいい。休んで」

 僅か一週間足らず。
 あまりにも急に進み過ぎた事態に、俺は後悔していた。
 もっと時間を掛けるつもりだった。

 静かに唇にグラスを運ぶ疲労を宿す横顔を見ながら、俺はこの静かな穏やかな時間。
 これから、より苦しめる事になるかも知れない自分の決断を、僅かでも伸ばす事にした。

 少しずつグラスを傾け、アルコールと疲労に頬を朱に染め、力の抜けた彼女を俺は私室へと誘(いざな)った。
 質素だが、くつろげる空間を作る私室のベッドに彼女を横たえ。梓の眠る部屋に様子を見に行こうと、俺は身体を起こし掛け、弱い力で掴まれた腕の感触で、起こし掛けた身体を止め腰を下ろし直した。

「…ごめんなさい」
 小さく呟く彼女の瞳の光を見詰め、ヘッドレストに持たれかかり、彼女の額にかかる髪を指で優しく直す。
「眠れるまで、ここに居る」
 心細いのかと思い俺が言うと、彼女は弱々しく首を横に振った。
「…知って…いるんですね…?」
 朱に染まった頬で潤む瞳で問う彼女に、微かな頷きで俺は応えた。
「……ごめん…なさい……話さなくて」
 震える声で謝る彼女の唇を、俺は唇で塞ぎ頬に掌を当てそっと離した。
「血を残す理由は、知らなかった筈だ。他は全部話してくれた」
 彼女は、僅かに目を見張った。
「過去の記憶が教えた。もう残さなくてもいい」

 苦しみながら柏木が鬼の血を残す理由。
 次郎衛門も、鬼に凌辱された女性までは殺せなかった。
 もう絶えたと思える彼女らの残した子孫が、鬼の血に目覚め制御出来なかった時、柏木が始末する為。
 そしてもう一つ。
 再びエルクゥが降り立った時。同じ力を有する者として対抗し、人とエルクゥの間で融和を謀る。
 次郎衛門は遺書の中で、エルクゥの再来を予言し、星の海を渡る真の鬼の素性を伝えた。
 そして融和と共存しか、人の生き延びる手段はないと告げた。
 鬼の力を知る歴代の柏木には、真実そう思えただろう。
 だが室町時代の考えならともかく、一体や二体の鬼が居ても、大挙してエルクゥが押し寄せれば組織戦しか抗う術はない。
 少数なら、今の人の武器でも役に立つ。
 いや。どんな理由も、一人の女性の人生を犠牲にしていい筈がない。
 しかも表向きの理由だけの為に………

「…でも…耕一さん…」
「一つ、嘘が在った」
 俺は目を伏せ呟いた彼女を遮り。
 伏せた目を上げた彼女に笑い掛けた。
「親父が死んで、妹達の事もどうでも良く思えた。って言うのだけ」
 頬に添えた俺の手を、彼女の掌が優しく包んだ。
「……怒ってないん…ですか?」
「俺は、ここに居るよ」
 彼女は俺の手を頬に擦り寄せ、静かに言葉を紡ぎ出した。
「…怖かった…耕一さん…優しいから…何も言わないけど。…気が付いたから…来てくれないん…じゃないかって。…家で…出来ない…話って…聞いた時も。…あの女を見た時は…好きな人が…出来たん…じゃて」
 心の澱を掃き出す様に、苦しげに話す彼女の髪を片手で撫で、
「どうして?」
 俺は彼女の話を止めず尋ねた。

 彼女が胸のつかえを仕舞い込み、また苦しむよりは、いま掃き出す方がいい。

「……義務……じゃ…なかった……でも…軽蔑…されても………」
 彼女の目元に溢れた涙を頬に添えた掌の指で拭い。
 俺は、そっと啄む様に唇を重ねた。

 由美子さんに対して過敏になっていたのが、それで俺にも理解出来た。

「あの時は心がなかった。愛し合った時は、心が在った。それでいい」

 胸の痕を確かめるだけなら、他に方法はいくらも在った。 人形の様な彼女のままだったら、血を残す可能性の為だと。俺はそう思い込んだかも知れない。
 だが、それすらも彼女の悲哀と絶望の深さだろう。

「…でも、私…一人で…辛いみたい…言って…」
「それも本当だ。みんなと俺の為だ」

 鬼の俺が八人も殺した犯人として捕まれば、みんなもどんな目に遭うか。
 柏木の長い歴史の中、自分の子供を手に掛けた者もいただろう。今までの当主も、苦しんで闇に葬って来た。

「……優し…すぎますよ……」
 口元を手で覆い、瞳を潤ます彼女の呟きが微かな震えとなって俺に届いた。
「誰にでもって訳じゃない」
「……ごめん…なさい」
 瞼を閉じ、再び謝罪の言葉を口にした彼女を見詰め、俺は続く言葉をジッと待った。
「……耕一さん…苦しんでいたのに、…私、それより…恨まれて…なかったの……喜んで……」
 彼女の顔を覆った手を、俺は髪を撫でた手でそっと握り、静かに微笑んで返した。
「それだけ好かれてると、俺は嬉しい。まだ謝ること、あるかな?」
 俺の首に回された細い腕が俺を引き寄せ、俺も腕を彼女の背に回し、彼女を固く抱き締めた。
 背に置いた片手を髪に移し、俺は静かに梳き撫で、彼女の髪の仄かな香りに頬を寄せ囁く。
「今度は、俺が謝らないと」
「……耕一…さん…が?」
 耳元で吐息と共に届いた囁きに、俺は囁き返す。
「親父の事」
「…お礼…だったら…さっき」
 身体を少し離し、俺は見上げる潤んだ瞳を見返し口を開いた。
「親父が辛い事をさせて。すまなかった」
 華奢な身体が腕の中で一瞬震え、瞳が複雑な彩りを帯びた。
 その震えと瞳の色が、親父が自殺の余地なく鬼に負けた時、彼女が殺さなければならなかったのを告げる。
「…こ…ういち…さん…うっ…」
 喉を詰まらす嗚咽に俺は髪を撫でる手を止め、瞳を見詰め言葉を継いだ。
「長い間辛かっただろう。ごめん」
 彼女の潤む瞳から、ゆっくり横に振る首の動きに合わせ、零れた雫が頬を伝い落ち。俺は頬にそっと触れた柔らかな手に手を重ね、静かに握り締めた。
 腕に力を込め彼女を抱き寄せ、俺の背に回された細い腕が応える様に力を強め、顔を俺の胸に埋めた。
 小刻みに震え泣きじゃくる細い肩を抱き、細い指に指を絡め胸に伝わる熱い流れを感じ、俺の身体が後悔に震えた。

 彼女の話を聞いた時、気付けなかった思慮の浅さが悔やまれる。
 彼女の言葉でしか考えなかった幼さを、この数カ月繰り変えした様に、俺は心の中で詫び続けた。

 八年もの間、自殺でさえ心を凍らす程慕った叔父を、いつ己が手が殺めるか。
 いつか訪れる瞬間に、夜毎心を引き裂かれ。今日か明日かと怯え暮らした日々の中、心に絶望と痕を抱きながら、流した涙と血はいかばかりか。
 深いと感じた痕が、ほんの表面でしかない事にも気付けなかった。
 そんな幼子の俺が、幸せにすると言った言葉を信じ、慕ってくれる彼女の心が、哀しく、切なく、愛おしい。
 胸の中の温もりを、心に伝わる温もりを、深く心に刻みつけ。
 俺は静かに強く抱き締めた。

陽の章 十章

陽の章 十二章

陰の章 十一章

目次