陽の章 十


「さあ! きっちり説明しろ!」
 馬鹿でかい声が居間を震わせ、初音ちゃんが耳を両手で塞ぎ。俺は真っ赤に染まった梓の顔を、耳を塞ぎながら睨み付けた。
「梓、声がでかい」
 梓に言いながら、俺は初音ちゃんに耳を押さえたままにじり寄られ、愛想笑いを浮かべた。
「耕一お兄ちゃん、千鶴お姉ちゃんは?」
 顔一杯に不安を浮かべた掠れた声に腰が引ける。

 千鶴さんが何とか判ってくれ。俺は食事を運んで来た楓ちゃんと、二人だけの方がいいだろうと席を外した。
 その俺を居間で待っていたのは、梓の怒鳴り声と、初音ちゃんの今にも泣き出しそうな暗い顔だった。

「初音ちゃん、千鶴さんなら大丈夫だから。梓、説明って何のだ?」
「耕一ぃ〜。惚けかますんじゃない! 千鶴姉だろ!!」
「だから、声を押さえろ」
 初音ちゃんと、顔を突き出しつばきを飛ばす梓から身を引き、俺はいつの間にか壁際に追い詰められていた。
「地声だ!」
「梓お姉ちゃん。それじゃ耕一お兄ちゃん、話せないよ」
 初音ちゃんが困った顔で眉を潜め、今にも掴み掛かりそうな梓の腕を押さえてくれた。
「うぅ〜、判ったよ。耕一、きっちり説明しろよ」
 音がしそうな程歯を噛み締め、梓はしぶしぶ座り直す。
「耕一お兄ちゃん。千鶴お姉ちゃん、どうしたの?」
 俺は梓の怒鳴り声より数倍効く、初音ちゃんの心配そうな声に手を伸ばし、頭を優しく撫でた。
「部屋に篭もってたから、少し体調を崩したみたいだけど。千鶴さんなら大丈夫だよ」
「でも客間で寝てるなんて。お姉ちゃん、起きられ無いぐらい、具合悪いじゃないの?」
「そうだよ! なんだって、あたしや初音が部屋に行っちゃ行けないんだよ!」
 初音ちゃんの今にも泣き出しそうな声に、梓の怒声が重なる。
「楓ちゃんが戻って来たら、行ってもいいけど」
 初音ちゃんの頭を撫でながら、睨み付ける梓に向けた視線に一瞬殺気を込める。

 梓の奴、初音ちゃんの前で話せるかどうか考えろ。

「楓お姉ちゃんが、戻って来たら?」
「千鶴さん良く眠ってたから、起こすなって梓に言ったんだけど。梓が大袈裟なんだよ。なあ。あ、ず、さ」
「えっ! …うっ、うん。そう、…だったっけ?」
 赤い顔を引きつらせ、梓はこくこく頷く。

 まったく、睨みを効かさないと黙らせるのにも苦労するとは、千鶴さんの苦労が身に染みるな。

「そう…なの? じゃあ本当に千鶴お姉ちゃん、そんなに具合悪くないの?」
 頷く梓から俺に目を戻した初音ちゃんに頷き掛けると、初音ちゃんは、少し安心した様に胸に手を置きほっと息を吐いた。
「うん。それに、ちゃんと昨夜話し合ったからね。もう初音ちゃんが心配する事ないからさ」
「あっ。じゃあ、お兄ちゃんとお姉ちゃん、仲直りしたんだね?」
 嬉そうに笑った初音ちゃんは、考える様に唇を人指し指で押さえ少し表情を曇らせた。
「初音ちゃん、どうかしたの?」
 何か迷う様に上目遣いになった初音ちゃんを不信に思い、俺は尋ねてみた。
「う、うん。…あのね、どうして千鶴お姉ちゃん、部屋に帰らなかったのかな?」
 微かに頬を染めて聞く初音ちゃん。
「ああ、それ。話してる最中に具合悪くなったから、そのまま休んで貰ったんだけど」
 俺が説明すると、初音ちゃんは照れた笑いを浮かべ。梓は横を向いて口を尖らせた。
「なあ、梓」
「…何だよ?」
 膨れっ面で応えた梓を拝んで、俺は頭を掻いた。
「俺も、なにか喰いたいんだけどさ」
 身構えていた梓は、気が抜けた様に溜息を吐く。
「ごめんね。お兄ちゃんもご飯まだだったよね」
「いいよ、初音。あたしがやるから」
 慌てて腰を上げ掛けた初音ちゃんを制止し、梓はさっさと台所に向かう。
「耕一、餅幾ついる?」
「二つかな」
 梓は意外そうに眉を潜める。
「二つって、少なくないか?」
「じゃ、三つにするか」
「三つだな?」
 頷き返すと、梓は台所に入って行く。
「ごめん、初音ちゃんにも心配掛けたね。新年の挨拶処じゃなくなちゃたね」
「ううん。千鶴お姉ちゃんの具合が良くなったら、改めてちゃんと挨拶しようね」
 少しぎこちない笑みを作った初音ちゃんは、でもちょと変かな? と、首を捻った。
「そんな事無いよ。みんな揃ったら、挨拶からやり直そうか?」
「うん、そうだよね」
 こくんと頷く初音ちゃんが、元気を取り戻してくれた様で、俺は少し安心した。

 初音ちゃんにも、心配の掛け通しだ。

「良く言うな。耕一が引っ掻き回してるくせに」
 台所から雑煮の椀をお盆に乗せ戻って来た梓の一言で、初音ちゃんの笑みが多少引きつった。
「スマン。迷惑掛けて悪いな」
「な、なんだよ、しおらしいな。耕一、やっぱりどっか変だぞ」
 軽く頭を下げて謝ると、梓は反撃を期待していたんだろう。吃りながら椀を差し出した。
 俺は曖昧に笑って見せ、椀を受け取り食べ始めた。
 実際には、徹夜といまだ残る不安で食欲は殆どなかった。
 だが食べ始めると、食欲の無さを上回る雑煮の旨さに、あっさり三つの餅を平らげた頃。楓ちゃんが居間へ顔を覗かせた。
「楓、千鶴姉ちゃんと食べたか?」
 梓が尋ねると、楓ちゃんは視線を落としふるふると首を横に振った。
「……あまり…欲しくないって」

 あれだけ言って置いたのに。

 俺は溜息も出ない。
「ったく、これ以上胸が痩せたらどうする気だよ。陥没しちまうぞ」
「梓お姉ちゃん、言いすぎだよ」
 心配して愚痴っているのは判っていても、梓のあまりの言い草に、初音ちゃんが苦笑いを引きつらせ注意する。
「やっぱり、こういう時は初音だよな。食べ易い物作るから、初音持って行ってやりな」
「うん」
 ぽけっと見ている間に、梓と初音ちゃんは台所に入って行く。
 残された俺はスッと腰を上げ、廊下から居間に入って来ない楓ちゃんに近寄った。
「…ごめんなさい」
 俯き身体の前で組んだ手をきゅと握った楓ちゃんが、小さな声で謝った。
「千鶴さんは大丈夫だから、楓ちゃんも休んだ方がいいよ」
 俺は台所に届かない小さな声で、楓ちゃんに話し掛けた。

 先程客間に来た時に気が付いたが、楓ちゃんも昨夜眠れなかったのだろう。
 赤く充血した目と青白い顔に色濃く疲れが現れていた。

「…耕一さん」
 伏目がちにゆっくり顔を上げた楓ちゃんは、瞳を潤ませていた。
「楓ちゃんは何も悪くない。食事してゆっくり休まないと。疲れてると、どんどん悪い方に考えが向いちゃうからね」
「…はい」
 小さく頷くと、楓ちゃんは廊下をゆっくり歩き出した。
 俺は居間に戻ろうと踵を返し、微かに楓ちゃんのありがとうございます。と言う声を聞いた気がした。

 楓ちゃんが歩みさって少しして、梓と初音ちゃんは小さめの土鍋をお盆に乗せ台所から出て来た。と思うと、初音ちゃんはそのまま居間を後にした。
「梓、こんな時は初音って?」
「ああ? 千鶴姉も初音に弱いからね。初音が心配そうに顔覗き込んで、食べないと身体に良くないよ。って言ったら、無理しても食べるさ」

 適材適所とは良く言った。
 初音ちゃんに心配されたら、俺も無理にでも食べるだろうな。

「それより耕一。あたしは納得してないからな。ちゃんと話せよな」
 初音ちゃんに頼んだのは、俺を問い詰める為も在ったのか、俺の前に座ると梓は真剣な顔を向けた。
「楓も知ってる事……? 耕一、楓は?」
「部屋じゃないか? お前らが台所に入ってすぐ居なくなった」
 楓ちゃんに強い存在感が在るとは言わないが。梓の奴、台所から出て来て気付いてなかったのか?
「まったく。普段は、ぼーっとしてるクセに。楓の奴、こんな時だけ素早いんだから」

 梓が抜けてるだけだろ。

「耕一は、逃がさないからな」
 楓ちゃんに逃げられ、梓はムッとした顔を俺に向けた。
「もう、話しただろ?」
 俺は一言で返した。
「じゃあ、どうして千鶴姉が寝込むんだ? 誤解が解けたなら、寝込まないだろ? 楓だって、顔色は悪いし様子だっておかしい。まだ何かあるんだろ?」
「だから、部屋に篭もって……」
「耕一!」
 俺が先程と同じ説明を繰り変えそうとすると、梓は泣きそうに表情を崩した。
「何でだよ? 何を隠してるんだよ?」
「全部話した」
 後ろめたさに視線を逸らした俺を、梓はジッと見詰めていた。
「千鶴姉も楓も、どうしてあたしには、何も話してくれないんだ? 耕一だって、まだ何か隠してるんだろ?」
 弱々しい声に視線を戻すと、握った拳を膝に押し付け、梓は畳を睨む様に視線を落としていた。
「俺はいい。だけど千鶴さん達、責めるなよ」
「判ってるよ。あたしや初音に、辛い思いさせたく無いって言うんだろ? でも家族なんだよ。四人だけの姉妹じゃない。黙ってて貰ったって嬉しくなんてないよ。どうして自分達だけで背負い込むんだ? 話して貰えない方が情けないだろ。あたし、そんなに頼りないのか? 当てにならないのかよ? 悔しいよ。…惨めだよ」
 唇を噛み締め畳みに雫を滴らせる梓は、普段の虚勢が微塵もなく、頼りなく弱々しい子供の様だった。
「梓、言ったよな。考えろって」
 小さく息を吐き、俺は出来る限りの優しさを込めた。
「…耕一?」
 ふっと顔を上げ、梓は瞼をしばたたかせた。
「俺が話した中に全部在る。お前が気づけるかどうかだ」
「……自分で、…考えろって言うのか?」
 涙に濡れた顔を向ける梓に頷き返し、俺は梓の頭をぐりぐりと撫でた。
「すまん、少し時間をくれ。少しでいい。それまではな」
「…判った。…考えてみる」
 呟きを洩らし涙を拭くと、梓は壁にもたれ掛かり膝を抱え、それっきり口を開こうとしなかった。


  § § §  


 明けて二日。
 凍て付いた雪が、庭樹の梢から弱い陽光を受け軽い音をたてて滑り落ち、廊下から望む庭の汚れない白が、輝く煌めきを跳ね返す。吐く息を白く濁らす寒気も、陽の光の僅な温もりに緩もうとしている。
 しかし屋敷の中は、いまも寒さが緩む気配はない。

 梓は昨日から初音ちゃんには受験勉強と言い、自室に半ば篭もっている。楓ちゃんも疲れが出たのだろう、食事以外は自室で休んでいる様だ。
 一方俺は、空き部屋が多いのを幸い部屋を移し、千鶴さんに客間でそのまま休んで貰った。
 俺が私室に帰さなかったのは、主に俺が部屋に行きやすいのと、梓と千鶴さんをあまり会わせたくなかった為だが。不信がると思った初音ちゃんも、昨日食事を運んださいの千鶴さんの顔色の悪さに、無理に起きない方がいい。と、俺の意見に賛成し、かいがいしく千鶴さんの看病をしていた。
 肝心の千鶴さんだが、主に精神的な疲労だっただけに、一日で顔色も良くなり元気を取り戻した。
 忌まわしい鬼の力も、こういう時にはありがたい。

 障子戸を開け足を進め、部屋の中の温もりに俺は息を吐いた。
「耕一さん。初音、出掛けました?」
 穏やかな温かさを取り戻した声音に頬を緩め、俺は腰を下ろした。
「うん。やっと出掛けてくれた」
「ごめんなさい。みんなに心配を掛けてしまって」
 苦笑混じりに返すと、千鶴さんは申し訳なさそうに表情を曇らせ視線を落とした。
「千鶴さん、そう思ったら朝食抜くの止めない?」
 目を細め、俺は軽く睨んで見せた。

 俺が食べさせると約束して送り出したが。今日も朝食を取らない千鶴さんを心配し、初音ちゃんは友達との初詣の約束を断ろうとしていた。
 そうでなくとも、二日も絶食状態で部屋に篭もって居たのだから、食欲がないのは判るが、何とか少しでも食べないと今度は身体が持たない。

「本当に大丈夫です。身体を動かしていませんから、欲しくなくて」
 千鶴さんは頬を染めぎこちなく微笑む。
「三日もろくに食べないで? 食べられないの?」
「えっ。いえ、そんな事は……」
「それ以上痩せなくても、いいと思うけど?」
 一瞬きょとんと俺を見ると、千鶴さんは視線を下げ、微かに首を傾げ目を細めた。
「耕一さん。そんなに太らせたいんですか?」
「えっ? そんなんじゃないけどさ」
 上目遣いに睨んだ千鶴さんの逆襲で、俺は少し腰が引けた。

 なんだか視線が怖いぞ?

「そうですか? 由美子さんって方、ふっくらしてましたよね」
 小さく息を吐きながら、千鶴さんの視線は俺を睨んだままだ。
「由美子さん? 関係ないだろ?」
「耕一さんの部屋から、夜遅く出て来たのに?」
 地の底から響く様な冷たい声に、俺の背筋に冷たい物が這い上がる。
「な、なに言ってるの? 千鶴さん」
 廊下に逃げ出したいのをグッと堪え、笑いながらも俺の額を冷や汗が伝い落ちた。
「惚ける気ですか? あの女が夜遅く部屋から出て来たの、ちゃんと見たんですからね」
 睨み付けた目を更に細め、千鶴さんは身を乗り出す。
「…千鶴さん?…まさか、…部屋篭もったの?」

 由美子さんが夜来たのって、言い争った日じゃないか。

「そ、それは。その」
「千鶴さぁん、勘弁してよ。友達なんだから、部屋に遊びにだって来るよ」
 答えに詰まって身を引いた千鶴さんの反応で、俺は大きく息を吐き頭を抱えた。

 嫉妬が原因で部屋に篭もったのか?
 俺が悩んだのは、何だったんだ?

「耕一さんが悪いんです。鶴来屋に泊まるって言って、さっさと出て行くし。あの女、あんな夜遅くに部屋から出て来るなんて」
 頬を染め横を向いた千鶴さんは口を尖らす。
「千鶴さんが、変に誤解したからだろ?」
「誤解って?」
 ムッとした顔を向けた千鶴さんを、俺も負けじと睨み返す。
「俺は、梓達だけじゃなく。千鶴さんにも柏木の家とか、鶴来屋への責任や義務なんか考えず、自由になって欲しいの。俺の考えと違うからって、千鶴さんを責める気なんか無いんだから」
「ええっと。それって?」
 視線を逸らし俯いた千鶴さんは、俺に上目遣いの視線を向けた。
「だから。もう保護者は止めて、梓にも全部話した方がいいって言ってるの」
「あっ。その、…ごめん…なさい」
 恥ずかしそうに頬を赤く染めた千鶴さんが、やっと判ってくれて、俺はほっと息を吐いた。
「家だと、夜中しか時間がないから部屋取ったのに。そんな理由で来なかったの?」
「そんな理由って! でも耕一さん、ぷいっと出ていっちゃうなんて冷たいですよ。それなのに友達と遊んでるなんて、酷いのは耕一さんです。あの女だって、耕一さんの部屋から出て来たり。追い駆けるみたいに鶴来屋に来てるし…その上夜中に……」
 頬を膨らませ拳を握り締め、ぶちぶちと言い出した千鶴さんを睨み直し、俺は大きくわざとらしく息を吐いた。
「千鶴さん。俺があれだけ言ってだめなら。千鶴さんが、自分で気持ちの整理するしか無いんじゃない?」
「…ええっと。…じゃ…楓に話してたの…?」
 俺が楓ちゃんとした話を思い出したのか、千鶴さんは、小首を傾げ顔に苦い笑みを貼り付け。
 俺は頷きだけで応えた。
「…耕一さん」
 潤んだ瞳で小さく呼ばれ、俺は千鶴さんの肩を引き寄せ、髪を撫でた。
「千鶴さん、何も気にしなくていいんだから」
「ごめんなさい」
 胸に掛かった柔らかい重みを確かめる様に抱き締め、俺は頭を働かせていた。

 今の千鶴さんの状態は心配だが。
 急ぎすぎた、もう引きかえせない。

「ごめん、千鶴さん」
 俺が謝ると、千鶴さんは胸から俺を見上げ髪を揺らした。
「耕一さんが謝る事なんか在りません。ごめんなさい、私、その…拗ねてたんです。何だか、耕一さんが遠くなった気がして」
 千鶴さんの言葉に俺の鼓動が一つ跳ねた。

 ―俺が遠くなった。

 俺は、千鶴さんの前で完全に鬼を抑え込んでいる。
 今の力の差なら、千鶴さんには俺が望まない限り、俺の力を感じ取る事は出来ないだろう。

 俺は心を開く代わりに、抱き寄せる腕に力を込めた。
「ごめん。謝ったのは、それじゃないんだ。鶴来屋の部屋と梓の事なんだ」
「部屋と梓?」
 不思議そうに問い返す声に、俺は頷き返す。
「部屋を借りたまま、千鶴さんの名で出入りを禁じた」
「出入りを? 耕一さん、どういう事ですか?」
 戸惑った顔を上げ、胸から千鶴さんは俺を見詰めた。
「梓の足形と身体の痕が、絨毯にプレスした見たいにくっきり残ってる。取り替えないと不味い」
 見上げていた千鶴さんの顔から血の気が引き、唇が固く引き結ばれた。
「なにが…在ったんですか?」
「俺に殴り掛かった」
「梓が耕一さんに?」
 訝しげに細まった瞳に、一瞬冷たい光が過った。
「千鶴さんと楓ちゃんの事で、誤解してて」
「…力を使ったんですね」
 唇を噛んだ千鶴さんの身体は、細かく震えた。
「……あの子、…あれだけ言い聞かせて在るのに」
 呟いた声の冷たさが、俺の身体までを戦慄かせる。
「梓は、部屋ですか?」
「千鶴さん、ちょと待って」
 腕の中から立ち上がろうとする千鶴さんを、俺は肩を押さえ抱き止めた。
「普通なら、怪我じゃ済まないんです!」
「話は済んでない!」
 俺の一喝で、驚いた様に千鶴さんは顔を向けた。
「親父と御両親の話を省いて、梓に俺が見た夢と、子供の話をした」
「…どうして?」
「部屋に篭もった理由を問い詰められて、いい機会だと思った」
 俺は責める瞳を見詰め返し答えた。
「梓は、もうすぐ受験なんです。急がなくても……」
 言葉を切ると千鶴さんは項垂れ、落ち着こうと小さく息を吐き。
「いいえ、私が悪っかったんです」
 額を押え緩く髪を揺らし、自分の言葉を打ち消した。
「いつかは話さなきゃならない。親父達の事も、全部話した方がいい。今の方がいいかも知れない」
「…今の方が? 耕一さん、どういう意味ですか? 大学に入ってから。いえ、梓に好きな人が出来てからでも、遅くはないんじゃないんですか」
 受験前の大事な時期に話せと言うのが、不信を買ったのだろう。千鶴さんは眉を潜め俺を見詰めた。
「梓は、今のままだと不味い」

 受験前に、梓を動揺させたくない千鶴さんの気持ちは判る。
 だが、梓は感情に走りすぎる。
 夏は酒の所為だと思っていた。
 だが今度は違う。
 力が使える事を知らないのに、俺にさえ力を使った。
 もし身近な誰かが傷つけられでもしたら、梓は相手を殺しかねない。

「確かに、梓は感情を抑えられませんけど。でも、ちゃんと言い聞かせれば、両親の話をしなくても判ってくれます」
 出来れば話したくないのだろう。言い募る千鶴さんの瞳は不安に揺れていた。
「子供の話はした。梓もいずれ自分で気が付く。その前に、話した方がいい」
「どうしてそんなに急ぐんです? まだ何か在るんですか?」
「在る」
 抱き止められた腕を掴み、訝しげに問う千鶴さんに、俺は短く返した。
「…在るって? 何が在るんです。耕一さん、一体なんなんですか?」

 梓が親父から聞いていると言えば簡単だ。
 しかし、それでは千鶴さんは、梓達の前で役を続けるだけだ。
 千鶴さん自身が、梓に話すという意思が重要だ。
 形だけでもいい、それで始めて梓と千鶴さんは対等になる。
 守る者と守られる者ではなく、支え合う存在になれる。

「梓にも過去の記憶が在る。アズエルとしての記憶が」

 親父の気持ちが判る、辛いもんだ。

「でも耕一さん。梓はいいって。楓と話していたじゃ在りませんか? 梓にも辛い記憶が在るんですか?」
 梓にも自分達の様な思い出すには辛い過去が在るのを恐れたのだろう。
 楓ちゃんとの話に縋る様に、千鶴さんの俺の腕を掴んだ細い指が、腕をギュッと握り締めた。
「千鶴さん、落ち着いて。千鶴さん達の記憶とは違うから」
 千鶴さんを落ち着かせ様と静かに髪を撫で、俺は微笑んで見せた。
 千鶴さんは視線を下げ大きく肩で息を吐くと、ゆっくり顔を上げた。
「耕一さん、全部話して下さい」
 顔を上げた千鶴さんは、落ち着いた声音で俺の腕から手を離し、布団の上に座り直した。
「うん」
 俺も千鶴さんの肩から手を離し、向き合って座り直した。
「話の続きになるけど。エディフェルの死後、リズエルとアズエルは、人と鬼を融和させ様とした。共存だな」
「鬼と人が?」
 鬼の凄まじい殺戮本能を知る千鶴さんは、信じられない様に呟き眉を潜めた。
「そう、エディフェルの意思を継ごうとしたんだな。だが、結果としては、二人ともエディフェルと同じく、裏切者として処分された」
「…耕一さん、まさか?」
「違うと思う。アズエルも同じ道をたどった」
 リズエルがアズエルに殺されたと思ったのだろう。表情を強ばらせた千鶴さんに、首を振って考えを否定した。
「そうですか。良かった」
 安堵の息を吐く千鶴さんが顔を上げるのを待って、俺は話を戻した。
「アズエルは、どちらかと言えば戦士だ。他の姉妹より、激しく好戦的だった。姉妹を深く愛していたから、獲物である人との共存にも同意した。本人の意思じゃない。狩を楽しんでいた」
 言葉を切り千鶴さんの様子を伺うと、千鶴さんは弱く笑い、小さく髪を揺らし口を開いた。
「でも記憶が戻っても、梓が人を狩る筈は在りません。耕一さんの考えすぎです」

 頭のいい人だ、湧いた考えをはぐらかそうとしたんだろう。

「人は狩らない。だが、鬼は狩るだろう」
 俺が返すと、千鶴さんの顔色が変わった。
「そんな、梓がどうして?」
「深く愛した姉妹を苦しめた。妹を殺したリズエルの苦しみも知っている。あまつさえリネットを裏切り、一族を皆殺しにもした。次郎衛門が、姉妹の苦しみの元凶だ。アズエルには許せない存在だろう」
 震える手を伸ばした千鶴さんの腕に手を添え、俺は平静に告げた。
「記憶が戻り、激情に駆られれば俺を殺そうとする」
 添えた手の二の腕を掴んだ細い指に力がこもり、痛いほどに握り締めた。
「…でも…梓の意思がしっかりしていれば、……記憶に…振り回されるなんて」
 喉を詰まらせる千鶴さんに首を振って返す。
「梓ももう大学だ。俺も大丈夫だと思っていた」

 だが、あれではだめだ。
 今の梓では、記憶が戻れば衝動的な激情に流され、感情を制御出来ない。

「……思って…いた? …今は…違うと?」
 縋り付く様な瞳で見詰める千鶴さんから目を逸らし、俺は不安をそのまま口に乗せた。
「今のままでは、だめだ。俺が力を使える事を知らないのに、力を開放し殴り掛かって来た。普通なら最初の一撃で、死んでる」
「どうしてそんな! どうして梓と耕一さんが、殺し合わなきゃいけないんです!」
 俺は感情を高ぶらせ縋り付く千鶴さんを、力を込め抱き寄せ静かに語り聞かす。
「大丈夫。まだ記憶が戻ると決まった訳じゃない。梓に感情を抑える事を学ばす事も出来る。俺に出来て、梓に出来ない筈がない。多少は、言い聞かせて置いたから」
 抱き締めた身体が微かに震え、顔を上げた千鶴さんの唇は戦慄き、蒼白な面に瞳が恐怖を浮べていた。
「…ちがい…ますね。…ひとり…すむって……?」
 俺は応えられず、視線を逸らした。

 俺には、梓を殺せない。
 力に差があり過ぎる。
 力を解放すれば殺す事になるだろう。
 記憶が戻れば戦い方も思い出す、手加減して戦えるほど甘くはない。

「…ころ…されるつもり…だったんですね」
 応えない俺の胸に顔を埋め、背に回された腕が俺を締めつけ、胸の中の震えと共にか細く震える声が嗚咽に混じり響いてきた。
「……いや。…父も母も叔父様も、…みんないなくなる。…もう…誰も失いたくない……もう失うのは、…いやです。……耕一さんが…言ったんです。…楽していいって。…幸せにするって。…あんな思い、…もう…二度と…」
 目覚めた朝の俺の言葉を繰り返す声に、俺も同じ言葉を繰り返す。
「千鶴さんが一人で背負う事はない。楽していい。千鶴さんは、幸せになれるんだ」
 もう少し。
 後少しだけ耐えて欲しい願いを込めて、俺は腕に力を込め、髪を梳き撫で。そっと身体を離し、頬を伝う雫で濡れた唇に唇を重ね、弱々しく震える温もりを両腕で包み込んだ。

陽の章 九章

陽の章 十一章

陰の章 十章

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