陽の章 七


 翌日の昼。約束道理、昼食を奢れと由美子さんに叩き起こされ。俺は雪景色の街中で頭を抱え呻いていた。
「…頭が、重い」
 唸り声を上げた俺に、じとっと由美子さんの冷たい視線が突き刺さった。
「よく死ななかったわね。普通、あんな飲み方したら、急性アルコール中毒よ」
 同情のひとかけらも感じられない冷たい声が、重い頭に響く。
「俺殺すんなら。ああ、鬼殺しって酒あったっけ? 今度、あれ試してみるか。酒が無くても死ねるかなっと」
「まだ残ってるな。酔ってても、お昼はしっかり奢って貰うわよ」
 由美子さんは片手を腰に当て、ビシッと指を俺の顔に突き付ける。
「判ってるよ。だから、ここに居るんでしょうが」
 言いながら俺は、由美子さんの差し出した指を一件の店に向けた。
「まさか、どんぶり飯……」
 由美子さんは店の看板を見て溜息を吐く。
「どこで奢るって約束は、してないよな。それに定食もある」
「頼むから柏木君、正気になってよ」
 いやがらせのツケが回って来ただけだと、俺は内心ほくそ笑んだ。
「謝る。ごめんなさい。昨日は、私が悪うございました。だから、お願い」
 由美子さんが両手を合わせ、拝んで腰を折るのを見下ろし。俺も少しは気が晴れ、もういいと手をひらひら振って見せた。
「由美子さんの責任じゃないよ。何がいい? あんまり高いのは、だめだけど」
「何よ。全然平気じゃない」
 笑いながら由美子さんの手にしたガイドブックを指刺すと、由美子さんはぷっと膨れ肩を怒らせた。
「頭は重いけどね。俺に期待してもだめだよ。俺、こっちで外食した事ないから」

 夕食無駄にしたな。
 梓、怒ってるだろうな。

「あんな高そうな部屋泊って、よく言うわよ。食事も豪華にしてよ」
「部屋は仕方ないの。あれしか空きが無いんだから」
 一人で和室に泊まってる由美子さんに、言われたくない。
「そう言えば、どうして俺が泊まってるの判ったの?」
 昨日は気にする余裕も無かったが、いきなり部屋に尋ねて来たな。
「うん? ああ。電話しようと思って、フロントに会長さん家の番号聞こうと思ったの。そしたら柏木って言ったら、部屋に繋ぎますかって。会長さんの事かと思ったら、泊まってるって言うから」

 フロントか?
 鶴来屋では、客のプライバシーはどうなってる?

「柏木君。でも戻るしかないんじゃない。ガイドブックには、鶴来屋ん中の方が美味しいお店多いって」
 う〜んとガイドブックを調べ、思案した由美子さんは呆れた声を出した。
「鶴来屋に頼ってるな。この街は」
 俺も呆れた。
 土産物屋以外、ろくなレストランもないのか?
「仕方ないな。戻ろうか?」
 とぼとぼと引き返し始めた俺と由美子さんは、途中の店を覗きながら、ぶらぶらと鶴来屋へ戻って行った。

「お兄ちゃん!」
 ロビーに入った途端、聞き慣れた声に呼ばれ目を向けると、初音ちゃんがロビーを横切り一目散に駆け寄って来る。
「初音ちゃん?」
 俺は頬を紅葉させ、今にも泣き出しそうな初音ちゃんの様子に戸惑い足が止まった。
「耕一お兄ちゃん! 千鶴お姉ちゃんが変なの!」
 俺の腕にしがみ付き、初音ちゃんは勢い込んで言う。
 横から由美子さんが驚いた様に覗き込むと、初音ちゃんは俺から身体を少し離し、きょとんとした顔になった。
「ああ、こちら小出由美子さん、大学の友達。この娘、従妹の柏木初音ちゃん」
 俺は急いで紹介した。
 初音ちゃんは焦っていたのに、それでも日頃の礼儀正しさから、きちんと頭を下げる。
 由美子さんも、初音ちゃんにつられ慌てて頭を下げた。
「千鶴さんが、どうしたの?」
 取り合えず二人の紹介が終った所で聞き返すと。初音ちゃんは俺に応えず、ジッと上目遣いに責める瞳を俺に向けた。
 俺は由美子さんとの仲を、初音ちゃんにまで誤解されている事に気が付いた。

 姉妹だな。
 こんな所まで、千鶴さんに似なくていいのに。

「部屋は、別だよ」
 俺は苦笑いで言い、由美子さんも慌てて頭をかくかく縦に振った。
 初音ちゃんは両手を身体の前で組み、恥ずかしそうに真っ赤な顔になって俯いてしまう。
「心配しなくても、ただのお友達だからね」
 初音ちゃんのもじもじ身をよじる仕草が可愛かったのか、お姉さん口調になった由美子さんは、身体を屈め初音ちゃんに視線を合わせると、首を傾げクフッと笑った。
「そうだ、耕一お兄ちゃん。千鶴お姉ちゃんと、何か在ったの?」
 由美子さんの声でハッと顔を上げ、慌てて俺の腕を掴み直す初音ちゃん。

 俺としては、そう聞かれても答えられない。

「初音ちゃん、落ち着いて。千鶴さんが、どうしたの?」
 もう一度、腰を屈め目線を合わせ聞き返すと、初音ちゃんは、うっすらと瞳に涙を滲ませた。
「昨夜遅くに帰って来て。ご飯も食べないで、お部屋から出て来ないの」
 初音ちゃんの涙声を聞いた由美子さんは、ロビーのシャンデリアを見上げ、ぽりぽり頭を掻き出した。
「…叔父ちゃんが死んだ時も…こんな事…無かったのに……」
 俺に会えて気が緩んだのか、初音ちゃんはだんだんとしゃくり上げ、語尾が震えて消えた。
 初音ちゃんを落ち着かせ様と、俺は肩を抱き頭を撫でながら部屋までの道を急いだ。

 ロビーでは誰に聞かれる判らない。
 自社の会長が家に篭もったなんて、いい噂話の種だ。


「初音ちゃん、俺がここに居るの千鶴さんから聞いたの?」
 部屋に着くと、しゃくり上げる初音ちゃんをソファに座らせ、初音ちゃんが落ち着くのを待って、俺は頭を撫で軽く肩を抱き寄せながら尋ねた。
「千鶴お姉ちゃん、お休みさせて欲しいって電話したらしいの。足立の叔父ちゃんが様子を見に来て、お兄ちゃんが泊まってるの、教えてくれたの」
 昨日の今日で、足立さんどう思った事やら。
「そうか。それで待ってたの?」
 目元を拭いこくんと頷くと、初音ちゃんはヒタッと俺に潤んだ瞳を向けた。
「…足立さん、何か言ってた?」
 俺は初音ちゃんの視線から、足立さんが俺達の事を話して無いか不安になり尋ねた。
「叔父ちゃん、若い内は良くある事だから心配ないって言うんだけど。楓お姉ちゃんは朝から出掛けちゃうし。梓お姉ちゃんは、その……」
「怒り狂ってるんだろうな」
 初音ちゃんの目を伏せ言い淀んだ様子だけで、俺が千鶴さんに何かしたと思って、梓が怒り狂っている姿が目に浮かぶ。

 まんざら外れでもないか。
 少なくとも足立さんは話していない。

 俺は小さく息を吐いた。
「…あのぉ〜……」
 何故か部屋まで着いて来た由美子さんの、遠慮がちな声が肩ごしに聞こえた。
「悪いけど由美子さん。奢るのは、また今度にしてくれないかな」
「あのさ。もしかして、昨日の事と関係あり?」
 俺は気にする位なら最初からやるな。と怒鳴りたいのを、初音ちゃんの手前なんとか我慢した。
「ほとんど関係ないから。気にしなくていいよ」
 関係ないと言い切れる程、俺は人間が出来てない。
「少し…関係あるのか」
 由美子さんは言葉の前半分だけ捕らえ、ポツリと悪そうに呟く。
「本当に悪いんだけど。俺、いま余裕ないから。あっさり信じて、気にしないって言ってくれないかな」

 何でこう誰も彼も、俺の言う事信じない。
 八つ当たりだと判っていても、むかむかして来る。

「わ、判った気にしない。だから睨まないでよ」
 滲み出る怒気が伝わったのか、由美子さんは慌てて手を振り、こくこく首を縦に振る。
「耕一お兄ちゃん…昨日って? お兄ちゃん、どうして帰って来なかったの? やっぱりお姉ちゃんと、何か在ったの?」
 初音ちゃんが下から俺を覗き込み、不安そうに揺れる瞳で聞いてくる。
 初音ちゃんに不安そうに見詰められ、俺は一気に怒りがなえた。
「初音ちゃん、心配しなくていいよ。ちょとした意見の食い違いだから」
「本当に?」
「本当。初音ちゃんは、俺の言う事信じてくれるよね?」
「うん」
 こくんと頷く初音ちゃんを軽く抱き寄せ、千鶴さんも無邪気に信用してくれないかな。と、溜息が出そうになる。
「そうだ、初音ちゃん。お昼は食べた?」
「ううん。まだだけど」
 ぷるぷる首を横に振る初音ちゃんから、俺は部屋の隅でいじけている由美子さんに目を向けた。
「由美子さん、支払いは俺の部屋に回していいから。初音ちゃんとの昼食で、どうかな?」
「あたしは、いいけど。柏木君は?」
「俺、ちょと様子見て来るわ。ね、すぐ戻るから。頼むよ、初音ちゃん」
 一緒に来たい素振りを見せた初音ちゃんが何か言う前に、俺は初音ちゃんに手を合わせ拝んだ。
「でも、耕一お兄ちゃん」
「由美子さんに昼食奢るって約束しててさ。俺が様子見てくる間だけ。御願い、初音ちゃん。」
「…う…ん。じゃあ、お兄ちゃん、お姉ちゃんと仲直りしてね」
 しぶしぶにだが初音ちゃんは、それでも頷いてくれた。
「うん。じゃ、すぐだから」
 俺は言い置いて、鶴来屋を後にした。

 だが俺は、屋敷に向わず雨月寺に足を向けた。
 会ってどうするか決めかねた。
 以前の千鶴さんなら、初音ちゃん達を不安がらせる事は、しなかった筈だ。
 俺が千鶴さんを不安にさせ、弱くしたのか、無理を重ねていた反動が出たのか。
 どちらにせよ。
 俺には千鶴さんの不安をどうすれば取り除けるのか、もう判らない。
 言葉を尽くし抱き締め、それでも千鶴さんは未だに俺に手を掛けた負い目を感じ、俺の言葉をその事に結び付けてしまう。
 あの事があったから、俺は戻って来た。
 信じ理解し合えると思っていた。
 だが、違うなら………
 屋敷以外、この町で俺が行けるのは、親父の眠る墓の前しかなかった。

 墓の前に立ち、俺は親父に話し掛けた。
「親父、許してくれ。俺は彼女達の支えどころか、重荷にしかならない。親父ならどうする? 想いに従うのが、正しいと思うか? 戻って来たのが間違いか? 業って奴かな…それとも……」

 俺の中の親父は、子供の頃別れたままの姿で何も答えてはくれない。
 何を思って生きていたのか。鬼の力に侵されながら何を考え生きて来たのか。もう俺には聞く事も、想像する事も出来ない。
 あまりに親父は、俺から遠い所に居た。
 俺は親父の墓を離れ、何かに引かれる様に足を墓地の外れに向けた。

 外れにある半ば雪に埋もれた墓碑の前に、一人の人影が佇んでいた。
 違和感なく俺は、それを受け入れた。
 そこにいるのが初めから判っていた。
 足を向ける前から。
 いや俺は、ここに来る言い訳に親父を使っただけかも知れない。

 奴の知る姿とは違う少女。
 奴の知る瞳と同じ瞳の少女。

 少女がゆっくり振り返る。
 俺が居るのを驚く様子もなく、俺と同じに自然に受け入れ、寂しげな微かな笑みと、切なさと哀しみに彩られた澄んだ瞳が、真っ直ぐ俺に向けられた。
 着ていた親父のコートポケットに両手を突っ込み、俺は歩みを進めた。
 俺の歩み寄る一歩ごとに、少女の作る無表情を裏切り瞳が揺れ動く。
 少女は視線を落とし、僅かに頭を下げた。
「……姉さんと。…なにか?」
 俺が少女の数歩前で立ち止まると、目を伏せた少女の声が静かに流れた。
「どう感じる?」
 逆に尋ねた俺は、顔を上げ伏目がちに向けられた瞳に捕らえられ。突き上げる衝動に抱き寄せそうになり、グッとコートの中の手を握り締めた。
「……姉さん…何かを怖がって…それに悲しんでいます」
 細い指で口元を押さえ、少女は不安と哀しみの混ざった、細く途切れがちな声で応えた。
「自分で、乗り越えるしかない」
「…耕一…さん?」
 俺の突き放した言葉を、聞き違いかと言う様に顔を上げた少女の、僅かに寄った眉と瞳の色を認め。
 ああ又か。と、俺の冷めた意識の部分が考えていた。

 幾度目だろう、俺が俺である事を確かめる為に名前を呼ばれ、知らない誰かを見る目で見られるのは。

「誰だと思う?」
 微かに身体を震わせ、少女は幾分赤くなった顔を伏せ、ゆっくり首を横に振った。
「千鶴さんがね、親父と爺さんに似てるってさ。多分今度は、次郎衛門?」
 顔を上げた少女の感情の乏しい表情に、僅かに驚きと畏怖が過った。
 俺に向けられた瞳に浮かんだ、遠い日の愛しい光を認め。俺の心の半分が狂った様に騒ぎ出す。
「俺は居ない方がいい。千鶴さんも、みんなも、いずれは苦しむ」

 少女の態度から確信はしていた。
 やはり戻るんじゃなかった。

「…どうして……?」
「知ってるよね? だけど過去だ。今じゃない。俺は柏木耕一で、他の誰になるつもりもない」
 少女は俺の言葉を噛み締める様に唇を噛み締め、項垂れると肩を震わせた。
 騒ぎ狂う俺でない俺を抑え込み。
 俺は立ち去ろうと震える膝で踵を返した。
「…千鶴…姉さん…は……?」
 零れ落ちる涙にも気付かない様に立ちつくす少女から、絞り出した様な掠れた震えが洩れた。
「俺が居れば、思い出すかも知れない。思い出にしても辛過ぎる」
「耕一さん………?」
 俺は振り返らず、歩みを進めた。


  § § §  


「耕一…お兄…ちゃん?」
 鶴来屋に戻りベッドに倒れ込んだ俺の耳に、気遣う初音ちゃんの透明な声が届いた。
「ごめん、初音ちゃん。途中で気分が悪くなって」
「お兄ちゃん、苦しそうだよ。大丈夫なの?」
 心配そうに覗き込む潤んだ瞳に何とか微笑みを作り、俺は手を伸ばし頭を撫でた。
「少し休めば、平気だから」

 ものを考えるのも億劫な程、俺は疲れ切っていた。
 身体ではなく、二つに裂けた自分の心に疲れ切っていた。
 同時に二人の女性に焦がれる想い。
 俺自身の想いと。もう一人の俺の想いとが攻めぎ合い。
 もう一人の俺が、俺自身と同じに狂った様に他の女を求めていた。

 しょせん儚い望だった。
 俺を信じてくれなければ、彼女は押し潰される。
 希望が消えながら、望を繋ぎ苦しめる事も無い。
 失うまいと足掻いた、俺の身勝手だろう。
 それも、俺自らが生み出した業だ。

「本当、顔色悪いわ。初音ちゃん、これは呑み過ぎよ」
「呑み過ぎ?」
「昨夜ね、お酒」
「由美子お姉ちゃん、お医者さん呼んだ方がいいかな?」
 心配そうな二人の声に、何とか首を横に振る。
「…初音ちゃん、…大丈夫だから。少し、眠れば、平気。由美子…さん…今日は…ごめん……」
 言いながら、俺は深い闇に落ちて行った。


  § § §  


 柔らかい温かさが額を撫でる感触が、懐かしい穏やかさを思い出させる。
 俺は薄く瞼を開いた。
 慈母の微笑みを浮かべ、額を軽くなぞるくすぐったさに、頬が自然に微笑みに緩んだ。
 俺が愛したのが彼女なら、苦しまなくても済んだのか?
 ふと湧いた考えが、俺の中の俺の、愛しながら愛し切れなかった、後悔と罪の意識に取って変わる。
 穏やかな想いが、暗く重く沈み込む。

「お兄ちゃん…起きたの?」
 記憶と変わらぬ優しい声と微笑みに応え、俺は何とか笑顔を作った。
「うん。だいぶ寝てたかな?」
 初音ちゃんは視線をベッドサイドの時計に走らせ、唇に指を当てにこっと笑った。
「四時間位かな? もう、夕御飯の時間だね」
「そんなに寝てたの? 初音ちゃん、ずっと付いててくれたの?」
 初音ちゃんは照れ笑いを浮かべ、後ろ手に両手を組むとこくんと頷いた。
 俺は上半身を起こし、そっと初音ちゃんを抱き寄せ頭を撫でた。
「初音ちゃんは、昔も今も、変わらず優しいなぁ〜」
「お、お兄ちゃん」
 いきなり抱き寄せられ、吃りながら呼ぶ初音ちゃんを離し、俺は立ち上がった。
「うん、もう大丈夫。ごめん初音ちゃん、心配掛けちゃって」
「ううん。さっきまで由美子お姉ちゃんに、お兄ちゃんの大学の話とか聞いてたから、退屈もしなかったし」
 赤い頬で安心した様に微笑み、初音ちゃんはぷるぷる首を振った。
「うっ! 由美子さん、どんな話したの?」
 俺は頬が引きつるのを感じた。
「えっ? うん。秘密」
 首を傾げ嬉そうにえへへと笑った初音ちゃんの様子から、由美子さんがおもしろ可笑しく脚色したのは間違いないと、俺は確信した。

 由美子さん話し好きだからな。
 どんな話を聞いたのやら。まあ初音ちゃんが楽しかったならいいかな。と、ふっと息を吐き。

「そうだ、初音ちゃん、家には。梓には電話した?」
 俺は、ふと不安になり尋ねた。

 夕食になっても初音ちゃんが帰らないと、千鶴さんだけでも苛々している梓が、どう出るか判らない。
 あの直情な性格じゃ、初音ちゃんを探して街中走り回り兼ねない。

「うん。少し前に電話したんだけど。でも……」
 首を捻り下から見上げた初音ちゃんは、笑顔を曇らせ困った顔で言葉を切った。
「でも?」
「…あのね。梓お姉ちゃん、ガァーッて大きな声出したと思ったら。…がちゃんて、電話切れちゃった」
「…梓の奴。殴り込むつもりか?」
 言い難そうに下から覗き込む初音ちゃんの様子で、俺と居るのを話したのが判った。
 あの単純な奴なら、ここに来るだろう。
「取り合えず。どっか避難しよ」
「そうだね。怒ると怖いしね」
 苦笑いを浮かべる初音ちゃんに笑い返し、迷惑ついでだ、由美子さんの部屋にでも一時非難するか。と、俺は部屋のドアを開けた。
「お出ぇ〜掛けかぁぁ〜〜耕一ぃ〜」
 瞑府の底から湧き出る様な声が響き、開けたドアの前に梓が冷気を漂わせ立っていた。

 いくら何でも早過ぎるぞ。
 車でも三十分以上は掛かる。

 そこまで考え。
 梓も鬼の力を使えるのを思い出した。

 まさかこいつ、街中を力使って走って来たんじゃないだろうな。

「千鶴姉に何した! 楓にまで何かしたな!!」
 珍しく怒鳴らないと思った梓が、切れた様に語尾が上がり、一気に辺りの空気が震え温度が下がった。
 俺は一気に高まった鬼気を受け、梓の瞳が赤く染まり瞳孔が縦に裂けるのを目にした。
 まさに鬼の形相で迫る梓。
 後ろにいた初音ちゃんが、ヒッと息を飲む音が聞こえ、上着の裾がグッと引かれた
「馬鹿! 初音ちゃんもいるんだぞ!」
「馬鹿だと! 言え! 何した!!」
 梓は俺以外目に入っていないのか、ゆっくり足を踏み出し迫る。
 いきなり襲い掛からない当たり、梓の怒りの大きさを表している。
 怒りに震える全身から、眩い炎の様な命の火が立ち昇り、殺気が渦となって逆巻いている。
 暴走しそうな鬼の力を、ギリギリで何とか抑えている感じだ。

 これだけ激しい殺気だと、力の使えない初音ちゃんでは、鬼気だけで心に痕を残し兼ねない。

「初音ちゃん、ベットルームに行って」
 俺は梓から視線を逸らさず、背中に隠した初音ちゃんに声を掛けた。
 青白くなった顔で俺の上着をしっかり握り締め、微かに震えながら、戸惑い俺と梓を見比べる初音ちゃんを視界の隅に捕らえ。俺は微笑んで小さく頷いて見せた。
 俺に頷き返し、躊躇いながらも初音ちゃんは、おぼつかない足取りでベッドルームに向った。
「…今度は、初音かぁ〜」
 俺の背中から離れ、初音ちゃんがベッドルームに向かうのを目にした梓の鬼気が、更に膨れ上がった。

 完全に冷静さを失い逆上してる。
 元から冷静でない上、鬼の力に引きずられ、闘争本能が判断力を無くさせている。

「梓、ちょと待てって。楓ちゃんがどうしたって?」
 何とか落ち着かせ様と話し掛けながら、俺は少しずつ部屋の中に下がる。

 こんな所、宿泊客にでも見られたら大騒ぎだ。

「泣きながら部屋に閉じ篭もった! お前だろ。お前が何か、したんだ!!」

 否定は出来ないが、多分こいつが思ってるのは、別の事だろうな。

 梓が部屋に一歩踏み込み、絨毯がグッと沈み込む。

 少し不味いか?
 俺は内心舌打ちした。
 梓の力は千鶴さんと同じか、かって屠った鬼程度だ。体組織を変化させなくても充分勝てる。
 だが、力の差があり過ぎる。
 上手く抑えられるか?
 梓は、俺が鬼の力を使える事を知らない筈。
 一気に抑え込めば……

 俺は梓の一撃目を誘い、黙り込み部屋の中央で足を止めた。
 梓がゆっくり一歩踏み込む毎に、絨毯が足形に沈み込む。
 俺の中の狩猟者の本能が危険を騒ぎたて、力の解放を訴えるのを何とか抑え。
 俺は梓の出方をうかがった。

「言う事ないのか! 何とか、言え!!」
 俺まで数歩の所まで近付いた梓の叫びに、俺は口の端に小馬鹿にした笑みを浮かべる事で応えた。
「コォノオオオ〜〜〜ッ!!」
 単純な挑発に乗って赤く染まった瞳をカッと見開いた瞬間、梓は拳を振り上げ、雄叫びと共に俺に向かって大きく踏み込んだ。
 俺は力の一部を解放し、梓の拳が届く寸前体を開きサイドステップで梓の横に回り込んだ。俺の動きを追い、勢いに乗り行き過ぎた梓が踏み留まる。
 勢いと自重を受けた絨毯に足が沈み、一瞬梓の動きが止まった所を、俺は首に腕を引っかけ、両膝を後ろから足でなぎ払った。
 派手な音を立て床に背中から叩きつけられた梓は、何が起こったか判らず動きを止めた。
 そのまま両肩を両手で抑え、馬乗りにした梓を睨み、変化を起こす寸前の鬼気を叩きつける。
 常人では捕らえられない一瞬で、勝負は着いた。

「梓! 力を抑えろ!」

 本能的な恐怖に身体の硬直した梓を怒鳴り付け、驚愕の表情に向い、穏やかに笑って言葉を継いだ。
「お前の誤解だ。説明するから、力を引っ込めてくれ。初音ちゃんが怖がるだろ?」
 硬直していた梓が、かくかく頷き力を抑えるのに合わせ、俺も力を抑え込む。

 絨毯に残った梓の足形と身体の痕だけが攻防の名残を残す中、俺は息を吐き。ベッドルームから蒼褪めた顔を覗かせる初音ちゃんに、穏やかに笑い掛けた。

陽の章 六章

陽の章 八章

陰の章 七章

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